44 同級生交歓 

2013.9.14


 今度の高知行きは、義父の三回忌ではあったが、そのついでに久しぶりに郷里へ行って昔の友だちと会いたいという義母(オバアチャン)の強い希望があり、それを何とかして実現したいとぼくも家内も思っていた。それで、9月5日に三回忌の法要をお寺に依頼し、4日にオバアチャンの郷里へ行き、5日に法要、6日に帰るという予定をたてたのだった。飛行機ではないから、出発は当然3日となったことはいうまでもない。

 オバアチャンの郷里というのは、高知県の越知町というところである。仁淀川を少し遡った山間の町である。ここは、安徳天皇が壇ノ浦の戦いの後に逃れ住み、亡くなった地という伝説がある。平家の落人伝説は、全国至るところにあるが、ここは、ちょっと特別で、全国に五カ所ある陵墓の参考地として宮内庁から指定されている安徳天皇陵墓参考地が、この町の横倉山にある。したがって、この町の平家落人伝説への思い入れは相当なもので、「越知平家会」という組織もあって活発な活動を行っているのである。

 この越知町から更に仁淀川を遡った仁淀川町(旧仁淀村)では、オバアチャンの弟が大きな病院の院長をしていて、その病院へも行って弟と会いたいというのもオバアチャンの切なる願いであった。(ちなみに、あの「酒場放浪記」で有名な吉田類もここの出身である。去年、ホテルでばったり会って一緒に写真に収まったが、今年も、ホテルの朝の朝食の時、ぼくらの隣のテーブルに座っていたので、また挨拶した。この吉田類もぼくと同い年である。)

 そのために、4日にはレンタカーを借りて、ぼくが運転して、越知町と仁淀川町へ行くというのが当初の予定で、1ヶ月も前からレンタカーの予約もしていたのだが、台風のせいで4日は身動きがとれず、レンタカーもタクシーもキャンセルしたということは前回書いたとおりである。

 台風はあっという間に通り過ぎたというか、四国に来たあたりで温帯低気圧になってしまった。4日の昼頃には雨もやみ、5日に予定していた法要も前倒しにして4日の午後に済ませ、夕方ホテルに戻ると、ホテルの窓からはきれいな虹が見えた。久しぶりに見る虹だった。

 5日は一日あいたので、オバアチャンは高知市内に住んでいる兄とゆっくり会うことができた。この兄も、高知市内で長いこと耳鼻科をやっていた人だ。去年、「納豆とプリン」に登場した家内にとっては伯父である。

 さて6日。予約していたタクシーがホテルにやってきた。天気は快晴。仁淀川へむけて出発だ。ふと、タクシーの運転手のプレートをみると、昭和24年生まれと書いてある。なんだ、同級生だねえ、ということで和気藹々のうちに車は走る。高知市内を抜けて、やがて仁淀川沿いに走ると、この大雨で洗われた山の緑はことのほか美しく、夢のようだ。ただ、今では四万十川を抜いて日本一の清流と言われる仁淀川の水は増水していて濁っているのが残念だ。

 まず、越知のバス停で待ち合わせたオバアチャンの同級生の女子に無事再会。無事とはいっても、そんなにスンナリとはいかない。何しろ、電話で「越知駅で11時のバスに乗るからその前に会おう。」と約束したとオバアチャンは言うのだが、そもそも「越知駅」って何なのかが分からない。こんなところに鉄道は走っていないから、「越知のバス停」のことだろうか。しかし、「バス停」のことを「駅」というだろうか。なんて言いながらそれらしきところを探していたら、やっぱり「バス停」だった。というより、バス停が「越知駅」という、道の駅のような売店の前にあった。ぼくらはそこに10時半ごろに着いたのだが、オトモダチはいない。11時近くになっても現れない。これじゃ、会えたとしても、すぐにバスが出てしまうじゃないかと気をもんでいると、ようやく現れたが、バスに乗るのは11時半ごろだという。年寄りの話はとかくこんなものだが、とにかく、ベンチで手を取り合って話す同級生二人の姿は、何ともほほえましい。

 その後、仁淀川町の弟の病院へ行き、そこでも微笑ましい姉と弟の再会があり、ぼくらは、おそろしく旨い仁淀川の鮎の一夜干しやら、ゼンマイの煮物やらに舌鼓を打ったのだった。

 そこから再び越知町へ戻る。今度は、越知町の同級生の男子の家に行くという。旧街道沿いに家があり、名前は「オダ君」だという。タクシーをゆっくりと走らせながら、表札を探すがなかなか見つからない。どういう家なの? って聞くと、何か昔は店をやっていたという。昔といったって、何十年も前だから、今はどうなっているか分からない。すると、あるお店の前にオジイサンが立っているのが目に入った。

 あの人? ってオバアチャンに聞くと、いやあ、あんなオジイサンじゃない、という。いやいやいや(「あまちゃん」ふうに)、だって、87歳でしょ。十分オジイサンのはずだよと言いながら、タクシーを降りて声を掛けてみた。やっぱりその人だった。オジイサンはタクシーの中のオバアチャンを見ると、ああ、ムネちゃん(オバアチャンは宗子というのです。)と言って手をさしのべた。

 「店」の中に入ると、これが「店」というより、展示場だ。どうも昔は金物屋さんだっとかいうことだが、今ではタバコ屋さんのようで、あとは壁一面に「平家落人」関係の展示だ。よく聞きと、この「オダ君」こそ織田義幸さんといい、「越知平家会」の会長であり、平知盛の29代目の子孫なのだそうだ。この展示場のど真ん中に、切り株の台にベニヤ板を乗せて、その上にマットを敷いたベッドのようなものがあり、これはいったい何のためだろうか、ここへ見に来た人が昼寝でもするのだろうかと思っていたら、この「オダ君」が腰が痛いために、ここへ寝て「店番」をしているのだそうだ。

 昔の写真集やら、孫の写真やらを次から次へと持ってきては、オバアチャンに見せ、話は尽きることもなさそうだった。87歳になった小学校の同級生が、こうしてまるで昔に返ったような気分で歓談している。長生きも悪くないものである。

 30分ほどもそこにいただろうか。そろそろ帰ろうかということになり、ワタシはもう二度とよう戻らん、と別れを告げるオバアチャンに、そんなこと言わんでまたおいでと「オダ君」はやさしく笑って言った。その笑顔には、どこか平家の公達のような優雅な趣があった。


 

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