41 しゃべりたりない、しゃべりすぎ  

2013.8.24


 誰かと会って酒かなんか飲んで、いい気になって、肴たべるのもそこそこに、ときによっては酒さえ飲むのを忘れて、しゃべり散らして、別れる。で、ひとり家路を辿るとき、たいていは後悔している。ああ、もっとあのことをしゃべりたかったとか、ああ、自分のことばっかりしゃべりすぎたとか。

 それが高じると、アイツはどうしてもっとオレの話を聞いてくれなかったんだろうとか、アイツはあんまりオレがしゃべりすぎるのでウンザリしてたんじゃないのかとか、恨みがましくなったり、自責の念に駆られたりすることになる。

 相手があんまり自分の話を聞いてくれないとか、自分がしゃべりすぎて相手の気を悪くしたんじゃないのかとか、そんなグチャグチャした思いが渦巻くというのも、考えてみれば、人間は、というか少なくともぼくは、自分のことしか考えてないということになる。

 たとえ、相手の話を、トコトン聞いて、自分のことは一切話さなかったとして、もしそこに満足感しかないとしたら、それは結局、オレは相手の話を丸ごと聴くことができるんだという「得意」な気持ちにすぎないだろう。下手をすれば、オレは「傾聴のプロ」だなんて思い込んで「傾聴ビジネス」なんかに乗り出しかねない。

 「自分のことしか考えてない」という、このどうしようもない現実は、文字通り、どうしようもない。この現実に対して、若い人はものすごく敏感だから、何かというと「偽善感」に苦しめられる。お年寄りに席を譲るという行為に、若い人はいつも、こんなことして「偽善者」だと周りから思われないだろうかと不安になる。それは、「周りの人」が自分に注目しているに違いないという意識にガンジガラメになっているからだ。つまり「自意識過剰」ということだが、それは「自分のことしか考えてない」ということの別の形の表現だ。

 君たちが、「偽善者」かどうかなんて問題じゃないんだ。とにかく、電車の中で、目の前に老人がヨロヨロと歩いてきたら、何も考えずに自動的に席を譲りなさい。年寄りは転ぶんだ。転んだらすぐに骨を折るんだ。骨を折ると、それが元で寝たきりになって、死んでしまうんだ。自分が周りの人にどう思われるだろうかなんて暢気なことを考えているバヤイじゃないんだよ。そう、中1の生徒には話す。けれども、そう話している自分自身が、さすがにヨロヨロ老人には席を譲るが、(こっちも老人だけど、まだヨロヨロじゃないので)、それは、年寄りの現実を若い人よりは知っているからで、「自意識」から自由になれているからではない。

 自分のことしか考えていない人間どうしが、会って、飲んで、自分のことばっかりしゃべる。相手の話なんか全然聞いてない。そんなことなら、会って話なんかしなければよさそうなものだが、まあ、おしゃべりはそれなりに楽しい。そこに酒が入ればなおさらだ。それだけでいいじゃないかということだ。

 人間というものは、結局のところ、お互いのことを心底わかり合うなんてことなどできない動物なのだ。もしあったら、それこそ「めっけもん」なのだ。そういう「諦念」がどうしても必要らしい。

 こうやってエッセイを書いていても、結局は、自分のことしか書いていないことがよく分かる。昔、知人の精神科医から、あなたは自己愛型の人間だという認定を受けたが(「自己愛型人格障害」ですという認定ではない。ぼくはかなり近いと睨んでいるが。)、「自己愛型」の人間じゃなきゃ、こんなブログを続けられるわけはない。そして、エッセイを書いていても、いつまでたっても、「書き足りないなあ」「書きすぎだなあ」という意識から抜け出ることはできない。


 

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