25 梨のつぶて 

2013.5.11


 「梨のつぶて」という言葉は誰でも知っているだろう。もちろん、ぼくも知っている。「手紙を書いてやったのに、あいつときたら、梨のつぶてだ。」ぐらいのセリフなら何度も口にしたことがある。「梨のつぶて」というのは、日本国語大辞典によれば、「音沙汰のないこと。音信のないこと。投げた礫はかえらないところから、『梨』を『無し』にかけて語呂を合わせていう。『なしの礫もない』の形で、意味をさらに強めていう。」ということだ。

 ということだ、なんてエラソウに言っている場合ではないのだ、実は。先日ある原稿を書いていて、この「梨のつぶて」の説明を書かねばならなくなり、まあ知っているけど、いちおう辞書にあたっておこうというわけで、日本国語大辞典を開いたところ、先のごとき説明が載っていたのだ。これを読んだぼくは、一瞬、目からウロコがはらりと落ちた気がした。え? そうだったの? という驚きを隠せなかった。幸い、近くにだれもいなかったから、隠す必要もなかったのだが、さしずめ、近ごろはやりの言葉でいうなら「じぇじぇじぇ!」であった。

 なんでか。「手紙を書いてやったのに、あいつときたら、梨のつぶてだ。」ぐらいのセリフを何度も吐いてきたぼくが、なんでこの説明で目からウロコが落ち、おどろきあきれて「じぇじぇじぇ!」と叫ばねばならぬのか。

 それは、国語の教師の末席をいまだけがしている我が身としては、まことにお恥ずかしいかぎりなのだが、ぼくはこの63年間、いや言葉をしゃべれるようになってからだからおよそ60年間、「梨のつぶて」という表現を、「返事が返ってこない。」という意味では正しく理解していたが、なぜ返事が返ってこないのかというと、それは「梨」を「つぶて」として投げつけたら、投げつけられた方は、「お、梨だ。ラッキー!」と喜んで食べてしまって、その結果、「梨のつぶて」は返ってこないからだ、というふうに理解していたからなのだ。

 だから、ぼくが「じぇじぇじぇ!」と驚いた(しつこいか)のは、件の日本国語大辞典の説明の後半「投げた礫はかえらないところから、『梨』を『無し』にかけて語呂を合わせていう。」というトコロだったのである。

 言われてみればその通りだ。「投げた礫はかえらない」のは自明のことだ。「どうして?」って思うトコロではない。ブーメランならいざ知らず、「礫(つぶて)」は「投げつけるための小石」のことだから、こっちが投げたら行ったっきりで、返ってくるはずがない。そう考えれば「梨」を「つぶて」の代わりにすることには何の意味もないのである。梨だろうと、リンゴだろうと、マンゴーだろうと、ブーメラン状にでも切らない限り、投げたら返ってこないのだ。

 それなのに、ぼくは、梨「だから」返ってこないと考えていたのだ。それで、何でだろうと考え、そうだ、梨はおいしいから、食べられちゃうんだ、とそう思い至ったに違いない。そう思い至ったと言っても、今、ではない。幼稚園生の頃だ。その幼稚園生の頃に、そう思い至ったまま、還暦を過ぎてしまったということが問題といえば問題である。

 しかし、それにしても、60年間も、この言葉を聞く度に、「ドロボー!」と叫んで「梨」を投げ、それにあたったドロボーが「こりゃうまい梨だぜ。」とニコニコしながらジューシーな梨を食べているなんて場面を思い浮かべてきたなんて、なんてマヌケなのだろう。しかし、それにしても、「梨」と「無し」の語呂合わせなんて、なんてツマラナイんだろう。こんなツマラナイ洒落を、何で日本人は後生大事に使ってきたのだろう。なんてブツクサいってみても、負け惜しみにしかならない。

 ちなみに、ぼくは何で「梨のつぶて」というのかという質問を同僚の教師にも、家内にもしてみた。だれかひとりでも、びっくりするかと期待したが、みんなに「ない、から、なし、なんじゃないの。」って言われてしまった。ほんとにツマラナイ世の中である。


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