100 900編

2014.9.20


 突風に吹き飛ばされる木の葉のように過ぎてゆく日々である。

 毎週土曜日か日曜日にアップしようと努力してきたエッセイだが、つい気を抜くと日曜日が過ぎ去ろうとしていたりして、油断も隙もあったものではないが、それでも、なんだかんだで気がつけば第9期も100となってしまった。

 第1期の最初のエッセイをアップしたのが、1998年3月のことで、その時はぼくも48歳だった。それから900編のエッセイを書いているうちにまもなく65歳になろうとしている。書き始めの頃は、まさかこのエッセイが900を超えるとは思いもしなかった。万一続いたとしても、1000編に達するまで生きていられるだろうかと本気で思った。その思いは、あながち当たっていなくもなくて、この前危うく死にかけたわけだけど、まあ、この調子でいったら1000編というのは冗談ではなく、ほんとになりそうな気配である。

 最近、「蔵出しエッセイ」などといって、毎日のように昔のエッセイを「蔵出し」しているのだが、ときどき、前の蔵出ししたのを忘れてしまってダブっていることもあることにこの前気づいた。ブログでは、いちいち訂正していられないのでそのままになっているが、読者の方は、また同じだあ、と笑っている方もおられることと思う。ボケに免じてどうかご容赦いただきたい。

 それにしても、行動範囲が人並みはずれて狭いぼくが、よく900編ものエッセイを書けたものだと思う。全部を読んだという人はいないと思うけれど、とにかく、海外旅行の話など一度も出てこない。行ったことがないのだからしょうがないのだが、それなら国内旅行の話が多いのかというと、そうでもない。特別な趣味があって、そのことをトコトン追究しているというのでもない。

 じゃ、何を書いてきたのかというと、どうも、厳密に調べたわけではないが、「自分のこと」が大半を占めているのではなかろうか。前回、「人間に興味がある」らしいなんて書いたけれど、もっと言えば、「自分に興味がある」ということなのかもしれない。いつか精神科医の知人がいみじくも指摘したとおり、ぼくは「自己愛人間」なのだろう。そうでなくては、昔の思い出なんかを、ああでもないこうでもないと延々と語り続けられるわけがない。

 もっとも「自己愛型人格障害」までは行っていないようで、いちおう円満な社会生活を送れているわけだから、それが大きな問題ではないけれど、やっぱり、我ながら呆れる、という面は否定できない。

 自分でも呆れ、人様にも呆れられ、それでも書きつづけることに何の意味があるのかは、知らない。意味なんてなくてもいいんだと居直っているわけでもないが、たったひとつだけ「意味」として言えることがあるとすれば、後で読んで自分が面白いからということだ。

 ああ、やっぱり「自己愛」だ。

 そうはいっても、やっぱり、ここまで書きつづけてこられたのは、少数だけれど、見捨てないで読んでくださっている方々のお陰です。改めて心から感謝致します。

 引き続き、第10期をよろしくお願い致します。


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