1 後をトボトボ

2009.7


 「100のエッセイ」も通算600を越えたが、教え子からこんなメールが届いた。

 エッセイ600読みました。最初の100とかのころは、よくこの俺がここまで続けたなんてこと自分で書いていましたが、最近の先生はもう続けるのが当然になった様な感じですね。バスケットなどのスポーツで何か技を習得したい時、最初は意識して続けて、それがもう意識しなくても出来るようになるまでにするっていいますが、先生にとってエッセイはそういうレベルに到達しているのかと思います。先生がエッセイを書き始めたのは僕がまだ在学中で日本にいる頃なので、先生ももうかれこれ10年間エッセイを続けてきたということですね。感服します。

この教え子のことについて、「100のエッセイ」の第1期を自費出版したとき、その「あとがき」でこんなふうに書いている。

 ホームページを開設して半年ほど経ったころ、ふとエッセイを連載してみようかと思いました。それもただ書くのではなく、100という数字を設定して、しかも800字という字数制限(注・現在は1000字制限)をすることで、怠惰な自分を追い込んでみようと思ったのです。100書くといっても、だらだらとやっていたらいつ終わるか分からない。そこで2年間、つまり週にIつと決めて、まったく先の目途もたたないまま、とにかく強引にはじめてしまったのです。しかし、はじめて何回目かに、すぐに行き詰まってしまいました。まあ、ゆっくりやればいいやと2週間ほど更新しなかったところ、すぐに教え子から、もうネタ切れか、そんなことではダメだというメールが届きました。ハッとしました。そうか、読んでくれる人がいるんだ、がんばらねば、と思いました。それと同時に今までのメディアにはないインターネットのすごさを実感したのです。

 つまり、この教え子の叱責のメールがあったからこそ、600編の達成があったということだ。そんな教え子からの「感服」の一言は嬉しかった。

 生徒あっての教師である。そして教師というのはいつも生徒に導かれる存在だ。「出藍の誉れ」などという言葉をまつまでもなく、教師が教えることのできることなんてたかが知れている。それに比べれば、生徒から教えられることのほうがずっと多いというのが、少なくともぼくの実感だ。

 「先生」というのは「先に生きる」ということなのだろうか。しかしぼくは「後をトボトボ歩んでいる」だけである。



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