私説・日本映画小史 13

没収された「戦ふ兵隊」


 一九三七年の七夕の日、蘆溝橋で日本と中国の軍隊が衝突し、これが日中戦争の発端になった。同年十二月には、日本軍、南京を占領。翌三九年八月、大本営が武漢の攻略を命令し、日本軍は二か月後に武漢三鎮を制圧した。

 『戦ふ兵隊』は武漢攻略作戦の従軍記録で三九年三月に完成したが、試写を見た陸軍参謀本部が公開を好まずフィルムを没収、製作した東宝は上映をとりやめた。現存するフィルムは、ずたずたに切られて二十分ほど短くなっている。

 ファースト・シーン。レクィエム( 鎮魂の曲 )のような静かな音楽にのって(音楽・古関裕而)、中国服の人物が産土(うぶすな)の神に祈る。頭を地に幾度も打ちつけ、必死に祈る。続いて、農家が燃え、それをじっと見つめる男たちが映される。顔のクローズ・アップ。深い嘆きのせいで何も考えられぬ、といった表情。はるかに山並みが連なり、その前で草の上に農民がへたりこんでいる。途方に暮れている。

 突然、すさまじい音をとどろかせて日本軍の戦車が現われる。

 「いま大陸は新しい秩序を生み出すために烈しい陣痛を経験してゐる」という字幕の、空々しさ。

 監督の亀井文夫はこのとき三十歳、民衆の側に立った自分の思いを、叙情的な映像と抑制された音をたくみに組合せて、潔癖といえるほど鮮烈に表明した。

 銃身をみがき軍馬の蹄鉄を打って働く兵隊たち。遠くで、春雷のような砲弾の音が、のどかに、だが、やがて不気味に響いている。いつも死と隣り合わせの兵隊たち。

 当時、亀井は書いた、「戦う兵隊を、集団としてスペクタクル風にではなく、その人間性を愛情を忘れずに描きたかった」と。

 中国の農民も日本の兵隊も、亀井にとっては、同じく戦争におしひしがれる民衆だった。