私説・日本映画小史 1

女優の礎築いた田中絹代


 映画を発明したのは誰かと聞かれて、アメリカ人なら「これもエディソン」、フランス人なら「わが国のリュミエール兄弟」と答えるだろう──という笑い話がある。

 フィルムに孔をあけ、そこに爪をひっかけて、一定の早さでフィルムを送り出す装置ができたとき映画が誕生したとすれば、発明者はエディソン。

 ただ、エディソンの機械は、オルガンほどの四角い箱に「のぞきメガネ」がついて、一人ずつしか見られない。それをリュミエール兄弟は、スクリーンに拡大して映写し、いちどに沢山のひとが見られるよう工夫した。一八九五年さいごの土曜日、パリ。こうしてはじめて、動く映像という、まったく目あたらしい感覚は、わずか一〇〇年のうちに、人類共通の財産になることができた。

 映画はなんでも貪欲に摂り入れる。動く写真のつぎは音。とはいえ、写真に映った人間が、動きだしてから声を発するまで、三〇年ほどが必要だった。

 日本で、トーキーとよべる最初のトーキーは、一九三一年の『マダムと女房』であろう。のどかな郊外に引っ越した文士、隣家のコケティッシュなマダムが気になって、彼女の練習する歌が聞こえてくると、腰が浮いてくる。なるほど、トーキーなればこそのコメディである。

 少しばかり鼻の下の長い文士の、可憐でしっかりした女房を演じた田中絹代は、関東大震災の翌年、サイレント時代にデビューしたが、この作品でトーキーの試験にもパスし、多少の転変はあっても、一九七四年、『サンダカン八番娼館 望郷』で主演した三年後に亡くなるまで、ずっと映画女優でありつづけた。

 三三年に主演した『伊豆の踊子』はサイレント。田中絹代のこの踊り子は、伊豆の街道わきで用を足したあと、着物の裾をそろえながら登場する。それは、美空ひばりより、吉永小百合より、山口百恵より、初々しく一途な少女だった、すでに二四歳だったのに。演技に、技術以外の、芯の強さがあった。二年後の『春琴抄 お琴と佐助』では、うってかわって気位の高い、凛とした女性に扮しているが、その真骨頂は四九年の『西鶴一代女』。初めての恋に身をこがす娘から、「因果もんの見せ物やないか」と自嘲する娼婦まで、あらゆる女のかわいさ、心の深さを一身に実現する。彼女によって日本の映画女優は、女性のキャリアとして地に足をつけることになった。