(21) 名取里美「緑陰や今日あふ人の声きこゆ」 

 


 

 緑陰や今日あふ人の声きこゆ

 

この句を読むと、季語の大切さが実感される。

 「緑陰」は夏の季語。「最新俳句歳時記 夏」(山本健吉編・文藝春秋社・1971)の解説にはこうある。

 「明るい初夏の日射しの中の緑したたる木立の陰を言う。木陰に織り出す木洩れ日の縞が美しい。木下闇とちがって、語感が明るい。樹下に食卓を移して楽しむこともある。」

 樹下に食卓を云々は、余計な気もするが、これだけの言葉の意味・ニュアンスを、「緑陰」の一言で表すことができるわけだ。季語をめんどくさい決まりと思う人も多いかもしれないが、この季語を生かさないのは、実にもったいないことなのだということがこの句を読むとよく分かる。

 名取さんは、様々な場面で、季語の大切さを説かれているが、その見本のような句といってもいいだろう。

 「今日あふ人」がいったい誰なのか、ということが、この句の大事なところであるには違いないが、この「明るい」語感を背景にすれば、間違っても、「道ならぬ恋の相手」などではないだろう。ここでは、恋といった、どこかしらドロドロした感情を含まない、もっと精神的なつながりのある相手、久しぶりに会う親友とか、昔お世話になった先生とか、そういった人を想像させる。複雑にからんだ恋愛感情などの入り混む余地のない、さわやかな精神性こそが、「木洩れ日の縞が美しい木陰」にはふさわしい。

 もうひとつの注目点は、この句に流れる「時間」である。俳句は一瞬を切り取ったものとよく言われるが、その一瞬にも「時間」はある。時間をたっぷりと湛えた「一瞬」もあるのだ。

 「今日あふ人」というのは、これから会う人で、まだ目の前には現れていない。作者は、「緑陰」で、約束した時間より早くやってきて、その人を待っている。「待つ」という言葉はないが、ここには「待つ時間」が流れているのだ。どれくらい待ったかは分からないが、緑の陰の向こうにその人の「声」が聞こえる。ひょっとしたら、ひとりではないのかもしれない。独り言を言っているとは考えにくいから、むしろ二人とか三人とかで話しながら歩いてくると考えたほうがいいかもしれない。日本語には複数と単数を厳密には区別しないから、「今日あふ人」が単数だとは断定できないし、複数だとも断定できない。2〜3人で、連れだって、ひそやかに話しながら歩いてくるというのが穏当だろう。

 その声を聞いて、作者の心はときめくのだ。ときめく、というのが大げさなら、「あ、来たわ」と、うれしさに心がはずむのである。「うれしい」とか「ときめく」とかいう言葉もどこにもないのだが、その気持ちが、実にストレートに伝わってくる。声を聞いた瞬間から、その声の主が眼前に現れるまでの「時間」もまた流れるのだ。

 思えば、「季語」もまた「時間」を含んでいる。瞬間的な「初夏」とか「緑陰」なんてあり得ないからだ。ゆっくりと、あるいはあわただしく流る季節の中に、移りゆくものとして「初夏」もあり「緑陰」もある。そして、もちろん、人の心も。

 

2021.6.20


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