(15) 中原中也・頑是ない歌

 


 

頑是ない歌

 

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しようぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜よるの
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟(ひつきやう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

 

        

 中原中也の詩は、突然、こころの表面に浮かんできて、気がつくと口ずさんでいる。そして、なんども口ずさむことになる。

 『サーカス』の「ゆや〜ん、ゆよ〜ん」とか、『春の日の夕暮れ』の「トタンがセンベイ食べて」とか、なんの脈絡もなく浮かんでくる。
そういうなかでも、やっぱりこの詩の中の「思へば遠く来たもんだ」がいちばん多い。

 さっきも、ポストに行ったかえり、夜空を見上げたら、ふとこの句が浮かんだ。「今では女房子供持ち/思へば遠く来たもんだ/此の先まだまだ何時までか/生きてゆくのであらうけど」とまでは覚えてないが、うろ覚えで口をつく。

 「思えば遠くへ来たもんだ」というフレーズは、「遠くへ」だけが違うけど、武田鉄矢の歌のほうを思い出す人のほうが多いだろう。まあ、この詩は元歌といっていい。

 中也の詩というのは、どこか俗謡っぽくて泥くさいものがけっこう多い。立原道造と比較すると、その差は歴然で、立原のはどこまで行っても、お坊ちゃんの域をでない。どこまで行っても上品さを崩さない。いつもアイロンかけた白いシャツを着ているようなイメージだ。

 中也は、ぜんぜん違う。ボロボロの服を着て、泥まみれになって生きている。そういう点では、岩野泡鳴にも一脈通じるところがありそうだ。

 ちょっと冗長で、だれたところもあるけれど、それがまた「酔っ払い感」を醸し出していていい。とくに、「さりとて生きてゆく限り/結局我がン張る僕の性質(さが)/と思へばなんだか我ながら/いたはしいよなものですよ」というあたり。神童と言われた中也のなんとも言いようのない挫折感と自己憐憫。中也の面目躍如だ。

 ぼくは、中也と比べようもない凡人にすぎないけれど、中高時代に徹底的に「頑張る」ことを叩き込まれたので、こうして70歳になんなんとしている現在においても、「結局我(が)ン張る僕の性質(さが)」に共感を禁じ得ない。そういうところが、われながら、「いたわしい」。(笑)

2018.10.4

 

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