(11) 伊東静雄「春浅き」

 


 

  春浅き

 

あゝ暗(くら)と まみひそめ
をさなきものの
室に入りくる

いつ暮れし
机のほとり
ひぢつきてわれ幾刻をありけむ

ひとりして摘みけりと
ほこりがほ子が差しいだす
あはれ野の草の一握り

その花の名をいへといふなり
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや

目とむれば
げに花ともいへぬ
花著(つ)けり

春浅き雑草の
固くいとちさき
実ににたる花の数なり

名をいへと汝(なれ)はせがめど
いかにせむ
ちちは知らざり

すべなしや
わが子よ さなりこは
しろ花 黄い花とぞいふ

そをききて点頭(うなづ)ける
をさなきものの
あはれなるこころ足らひは

しろばな きいばな
こゑ高くうたになしつつ
走りさる ははのゐる厨(くりや)の方(かた)へ


 

 伊東静雄の詩を初めて読んだのは、高校1年か2年かの国語の教科書だった。載っていたのは、『夏の終り』という詩だったが、透明な空気の中を、はぐれ雲が「さよなら、さやうなら」といいながら去って行くイメージに、ひどく心をひかれた。

 それで、新潮文庫の『伊東静雄詩集』を買い求め、ずいぶん熱心に読んだものだ。それ以来の付き合いである。

 書道を始めてから、何度か、伊東静雄の詩を書いて書展に出品したりした。難解な詩でも、なんか書にすると、わかったような気持ちになれる。もっとも、それは自分だけのことだが。

 『夏の終り』は、平明な詩だが、伊東の詩は、多く難解である。簡単には意味が通じないように敢えて難解に書いているふしがある。そういう詩も、ぼくは好きなのだが、ここに引いた『春浅き」のような詩も大好きだ。

 この詩は、文語で書かれていて、ちょっと難しそうだが、内容は平易だ。書斎で肘をついてぼんやりしていた父のところへ、外であそんでいた子どもが、手に花を持って入ってくる。そしてその花の名前を教えてくれとせがむのだ。けれども、父は、名前を知らない。それで、「しろばな・きいばな」だと適当に答えると、子どもは満足して、その名前をうたいながら、母のいる台所のほうへ走りさった、という内容だ。

 明るい外から、薄暗い室内への明暗の対比、あどけない子どもの心と、どこか鬱屈した父の心との対比、それを結ぶのが、地味な野草の「実に似た固い花」だ。けれども、これは、父と子の心の交流を描いているのではない。むしろ、越えがたい断絶をこそ描いているように思えてならない。

 どうして、そう感じるのか。それは、「わが子よかの野の上は/なほひかりありしや」の2行からくる。この2行がなければ、この詩は、父と子の微笑ましい光景を描いたものとして完結してしまう。けれども、この2行があるために、この詩は、無限の深みを持つのだ。

 「あゝ暗と まみひそめ/をさなきものの/室に入りくる」からして、そういう目で読むと、悲痛な響きがある。「あゝ暗」という子どもの言葉で、父は、室内の暗さに気づく。「いつ暮れし/机のほとり/ひぢつきてわれ幾時をありけむ」というわけだ。この時、父は何を考えていたのだろうか。

 おそらくは明るい「ははのゐる厨の方へ」走り去った子どもを見送った父は、それから、ひとり、何を思い、何を考えていたのだろうか。

 

2018.6.23

 

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