(3)古今和歌集「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな

〈恋一 読み人知らず〉

【口語訳】ほととぎすの鳴く五月となり、家々には菖蒲が飾られているが、私は恋のために理性がなくなって、物の区別もつかなくなり、ただ恋に迷うばかりであるよ。(『日本古典文学全集』による)

 


 

 これも、まずは、朔太郎の鑑賞から。

 

 古今集恋の部の巻頭に出てくる名歌である。時は初夏、野には新緑が萌え、空には時鳥(ほととぎす)が鳴き、菖蒲(あやめ)は薫風に匂っている。ああこのロマンチックな季節! 何といふこともなく、知らない人ともそぞろに恋がしたくなるとふ一首の情趣を、巧みな修辞で象徴的に歌ひ出してる。表面の形態上では、上三句は下の「あやめも知らぬ恋もするかな」を呼び起こす序であるけれども、単なる序ではなくして、それが直ちに季節の風物を写象して居り、主観の心境と不断の有機的関係で融け合って居る。しかも全体の調子が音楽的で、丁度さうした季節の夢みるやうな気分を切実に感じさせる。けだし古今集中の秀逸であらう。〈備考〉昔の歌人の多くは、この歌から五月雨頃の陰鬱な季節を感じ、いつも雨が降ってる曇暗の空の下で、菖蒲がしをれて居るやうな恋悩みの意に解して居る。旧暦の五月は今の六月に相当するから、原作者の心意に浮かんだ表象としては、或はかうした方が当たるかもしれない。

 

 朔太郎も言っているとおり、この歌の「五月」をどういう季節感でとらえるかによって、歌の情緒はかなり違ってくる。

 高校時代に、この歌を朔太郎のこの鑑賞によって知って以来、ずっと朔太郎風に受け取って味わってきた。この「五月」は、あくまで朔太郎の言うような風薫るロマンチックな季節であり、けっして陰鬱な梅雨時ではない。「菖蒲(あやめ)」は、「家々に飾られている」のではなく、野辺に匂っている。そんな季節感だ。

 しかし、ここで注意しなければいけないのは、「あやめぐさ」だ。これは、「あやめ」と同じで、今で言う「菖蒲(ショウブ)」のことだ。この「菖蒲」は、「菖蒲湯」に使う菖蒲で、今いうところの「アヤメ」とはまったく別種の植物だ。これがとてもややこしい。

 簡単にいえば、「アヤメ」は、「ハナショウブ」「カキツバタ」などと同じ「アヤメ科」の植物で、似たようなきれいな花を咲かせる。一方「ショウブ(菖蒲)」は、それらとはまったく別種の「ショウブ科」の植物で、きれいな花は咲かせない。花は咲くけど、地味な目立たない花だ。今でも、ショウブに、ハナショウブのような花が咲くと勘違いしている人は非常に多いわけだが、これに、古典の「アヤメ」が入ってくると、混乱はますます激しくなるわけである。

 で、朔太郎が、この「あやめぐさ」を、「菖蒲(あやめ)は薫風に匂っている」とイメージしたとき、どんな植物をイメージしていたのかという問題がある。「匂っている」と言っているので、きちんと「ショウブ」のイメージを持っていたようにも思うのだが、なんかあやしい。

 それはそれとして、朔太郎の「五月」は、あくまで新暦の五月をイメージしているわけで、だからこそ、「備考」を書いたのだ。つまり、原作者のイメージは知っていながら、あえて自分のイメージで解釈しているのだ。もちろんそれは学問的には「正しくない」解釈だが、朔太郎にとっては、学問的な正しさは絶対ではなかったのだ。

 さて、この植物としての「アヤメ」と、「文目(あやめ)=ものの道理・分別」とが、掛詞(かけことば)になっているわけで、この歌の意味は、「ああ、ぼくは、恋におちて、理性も失っっちゃった。」ってことなのだ。それを言うのに、「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさ」を持ち出した。朔太郎が言っている「序」というのはそういうことだ。だから、意味としては無視していいんだけど、そこに言葉がある以上、どうしてもイメージを生んでしまう。そのイメージが、実は、歌の「意味」にもおおいに影響しているってことを朔太郎は言っているわけで、これは学問的に言っても正当なことなのだ。(いわゆる「序詞」の働き。)

 ところで、朔太郎の詩に、この「あやめ」という言葉の出てくるものがある。その詩については、次回ということで。

2018.4.25 

 

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