志賀直哉「暗夜行路」を読む (17) 163〜176
後篇第四 (十四)〜(十九)
引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷
引用文中の《 》部は、本文の傍点部を示す。
『暗夜行路』 163 「自然」の美しさ 「後篇第四 十四」 その1
2025.1.9
謙作は、常連院に腰を据えることとなった。
永年、人と人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作には此所(ここ)の生活はよかった。彼はよく阿弥陀堂という三、四町登った森の中にある堂へ行った。特別保護建造物だが、縁(えん)など朽ち腐れ、甚(ひど)く荒れはてていた。しかしそれがかえって彼には親しい感じをさせた。縁へ登る石段に腰かけていると、よく前を大きな蜻?(やんま)が十間ほどの所を往ったり来たりした。両方に強く翅(はね)を張って地上三尺ばかりの高さを真直ぐに飛ぶ。そして或る所で向きを変えるとまた真直ぐに帰って来る。翡翠の大きな眼、黒と黄の段だら染め、細くひきしまった腰から尾への強い線、───みんな美しい。殊にその如何にもしっかりした動作が謙作にはよく思われた。彼は人間の小人(しょうじん)、───例えば水谷のような人間の動作とこれと較べ、どれだけかこの小さな蜻?の方が上等か知れない気がした。二、三年前京都の博物館で見た鷹と金鶏鳥(きんけいちょう)の双幅(そうふく)に心を惹れたのも要するに同じ気持だったろうと、それを憶い出した。
彼は石の上で二匹の蜥蜴(とかげ)が後足で立上ったり、跳ねたり、からまり合ったり、軽快な動作で遊び戯れているのを見、自らも快活な気分になった。
彼はまた此所に来て鶺鴒(せきれい)が駈けて歩く小鳥で、決して跳んで歩かないのに気がついた。そういえば烏は歩いたり、跳んだりすると思った。
よく見ていると色々なものが総て面白かった。彼は阿弥陀堂の森で葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木を見た。掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。
荒れはてた阿弥陀堂、さまざまな生きものたち、それらは、「人と人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作」(「人と人と人との関係」と「人と」の3回の繰り返しは、最初誤植かと思ったが、そうでもないらしい。かなりの破格。)の心にしみこんだ。これを「癒やし」というのは昨今のはやりだが、できるだけこの「癒やし」という言葉を避けたい。なんでもかんでも「ああ、癒やされる〜」と言ってしまうことで、繊細な人間と自然とが交流し、交感するような感じが抜け落ちてしまうような気がするからだ。
志賀直哉という人は、自然観察をほんとうに細かく観察する人だ。その観察を正確に描写するのも得意なことは、今まで何度も言ってきたとおりだ。名作『城の崎にて』が生まれる所以である。
ここに出てくる「蜻?(やんま)」は、その描写からオニヤンマであることがわかる。オニヤンマが、林の中などを、同じコースで何度も往復するのは有名なことだが、志賀はそれを何度も見て来たのだろう。そのオニヤンマの習性を描きながら、眼の色、体の模様、体の線・形を、「みんな美しい」とする。普通の作家は、トンボが飛んでいるところを描写することはあっても、点景どまりで、そのトンボにここまで神経を集中することはないし、それを「美しい」とも言わない。まして、それを人間と比較して、オニヤンマのほうが人間より「よほど上等だ」とまでは書かないし、思わない。ところが、謙作は、京都の博物館の絵に感動したのも、もとはといえば、こうした「自然」への感動があったと回想するのだ。
トカゲのじゃれ合い(おそらく交尾の行動だろう)、そしてセキレイの観察。確かに、セキレイは、ハクセキレイでもキセキレイでも、地上ではぴょんぴょん跳びはねない。すばやく歩くのだ。長い距離を移動するときは、鳴きながら、波形に飛んでいく。
余計な話だが、鳥には、地上では、「歩く」鳥と、「跳ねる」鳥がいる。「歩く=ウオーキング」「跳ねる=ホッピング」というが、身近なスズメなどは、決してウオーキングしない。いつも、ホッピングだ。もっと身近なハト(ドバトでも、キジバトでも)は、絶対にホッピングしない。いつもウオーキングだ。これがカラスになると、ハシブトガラスは、あまり地上を歩かないが、ハシボソガラスは、よく歩くし、ときどきホッピングもする、というように、鳥の行動というのも、種類によってずいぶん違うのだが、その辺のところを、志賀直哉は、しっかり見ている。鳥好きのぼくは、感動してしまう。
ついで書いておけば、「葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木」というのは、ハナイカダであろう。葉の上に実がなるおもしろい木だが、それを、「掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。」と書くのも、心ひかれるところである。
謙作は、今まで自分が生きてきた「人間関係」の世界と、この自然を対比して、自然の「美しさ」に圧倒される。それは何も珍しいことでもなく、新奇なことでもない。ごく一般に、多くの人間が感じ続けてきたことだ。
けれども、どうして、自然は「美しい」のだろうか。なぜ「オニヤンマ」は「水谷のような人間」より「上等」なのだろうか。この水谷とオニヤンマとの比較をもう少し詳しく読むと、オニヤンマの「如何にもしっかりした動作」が「人間の小人(しょうじん)、────例えば水谷のような人間の動作」と比較されていることが分かる。この「動作」というのは、言葉としてはなんらかの「行動」を意味するだろうが、しかし、もう少し広くとると「有りよう」とか「姿」とかいうところまで意味するとも言える。
オニヤンマは、太古の時代から、ずっと変わらず(もちろん幾多の進化を遂げたわけだろうが)、同じ形、色、線を保持して、堂々と同じ行動を繰り返す。そこに一点の迷いもない。体の黒と黄色の模様を恥じて、緑にしたいとか、同じ道を往復するのに飽きて、上下運動に切り替えるとかもしない。確固とした存在なのだ。
それにくらべて、水谷のような小人は(いや小人でなくとも、たとえば謙作自身でも)、いつもおどおど周囲を気にして、右往左往している。絶世の美人でも、眉間に皺を寄せ、将来を悲観することもあるだろう。そこには「如何にもしっかりした動作」がないのだ。そして、それこそが、人間の人間たる所以なのだ。だから最初から勝負にならない。自然を前にした人間は、いつも圧倒され、畏怖するしかない。自然は、いつも、いつまでも「美しい」のだ。
自然と人間を対比するとき、どうしても「雄大な大自然」と「ちっぽけな人間」の対比になりがちだが、謙作は、ちいさなトンボや、トカゲや、セキレイに、「自然」の美を発見し、それを「小人たる人間」と対比的に語るのだ。
大山に行って悟る、というストーリーの中で、この「小さな自然」への眼差しは、注目に値する。
人と人との下らぬ交渉で日々を浪費して来たような自身の過去を顧み、彼は更に広い世界が展(ひら)けたように感じた。
彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。彼は三、四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服して行く人間の意志を讃美していたが、いつか、まるで反対な気持になっていた。人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くという事は果して自然の意志であろうか。こういう無制限な人間の欲がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人智におもいあがっている人間は何時(いつ)かそのため酷い罰を被る事があるのではなかろうかと思った。
かつてそういう人間の無制限な欲望を讃美した彼の気持は何時かは滅亡すべき運命を持ったこの地球から殉死させずに人類を救出そうという無意識的な意志であると考えていた。当時の彼の眼には見るもの聞くもの総てがそういう無意識的な人間の意志の現われとしか感ぜられなかった。男という男、総てそのため焦っているとしか思えなかった。そして第一に彼自身、その仕事に対する執着から苛立ち焦る自分の気持をそう解するより他はなかったのである。
しかるに今、彼はそれが全く変っていた。仕事に対する執着も、そのため苛立つ気持もありながら、一方遂に人類が地球と共に滅びてしまうものならば、喜んでそれも甘受出来る気持になっていた。彼は仏教の事は何も知らなかったが、涅槃(ねはん)とか寂滅為楽(じゃくめついらく)とかいう境地には不思議な魅力が感ぜられた。
「青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。」という対比である。現代の人間が、こんなふうに感じることはほとんどないだろう。けれども、謙作は(志賀直哉は)、「人間の考えた飛行機」を「醜い」という。それは、人間の欲望が作り出したものだからだ、というのだ。
「かつての」謙作は、飛行機などの文明は、人類を滅亡から救うための「無意識的な意志」の表れだと思っていたが、それがまったく変わってしまって、「人類が地球と共に滅びてしまうものならば、喜んでそれも甘受出来る気持になっていた」とまでいう。
この激しい気持ちの変化は、やや唐突の感があるが、長い謙作の苦悩の中で、徐々に醸成されてきたのだろう。仏教への関心も、そうした経緯の中で、生まれてきたものだろう。
厳しい戒律的なキリスト教から離脱した謙作にとっては、当然の関心の行方だったともいえる。
それにしても、「男という男、総てそのため焦っているとしか思えなかった。」という部分には、「時代」の雰囲気を強く感じる。少なくとも当時のエリート男性は、なんとかして、世界を救わなければならないと真剣に思い詰めていたのかもしれない。
彼は信行に貰った『臨済録』など少しずつ読んで見たが、よく分らぬなりに、気分はよくなった。鳥取で求めて来た『高僧伝』は通俗な読物ではあったが、恵心僧都(えしんそうず)が空也上人(くうやしょうにん)を訪ねての問答を読みながら彼は涙を流した。
「穢土(えど)を厭い浄土を欣(よろこ)ぶの心切(こころせつ)なれば、などか往生を遂げざらん」
簡単な言葉だが、彼は恵心僧都と共に手を合せたいような気持がした。
彼は天気がよければ大概二、三時間は阿弥陀堂の縁(えん)で暮らした。夕方はよく河原へ出て、夏蜜柑位の石を河原の大きい石にカ一杯投げつけたりした。《かあん》と気持よく当って、それが更に他の石から石と幾度にも弾んで行く。それがうまく行った時は彼はわけもない満足を覚えながら帰って来るが、どうしても、うまく行かない時は意地になって根気よく投げた。
禅に凝っている兄の信行から貰った『臨済録』を読んで、「よく分らぬなりに、気分はよくなった」というのも、謙作らしい感想である。「気分」こそ、謙作の心の「軸」だからだ。恵心僧都と空也上人の問答を読んで「涙を流した」のも、「恵心僧都と共に手を合せたいような気持がした」のも、そこに宗教的真実を探り当てたというよりは、みな「気分」の問題である。
「気分」の問題だからといって、謙作の態度を責めているのではない。人間はどうしたら「気分」よく生きていけるかということは、考えてみれば、いちばん大事な問題なのかもしれない。
河原の石を投げて、大きい石に「気持ちよく当たった」ときの「わけもない満足」以上の「生きる喜び」は、人生にはないのかもしれない。そういう喜びがありさえすれば、人間はなんとかこの世に生きていけるのかもしれない。
『暗夜行路』 164 不味い米と美しい娘 「後篇第四 十四」 その2
2025.2.16
彼は大山の生活には大体満足していたが、ただ寺の食事には閉口した。彼は出掛けに食料品を送る事を断った位で、粗食は覚悟していたが、其所まで予期出来なかったのは米の質が極端に悪い事だった。彼はそれまで米の質など余り気にする方ではなかったが、食うに堪えない米で我慢していると、いつか減食する結果になり身体が弱ってくるように思われた。
寺の上(かみ)さんは好人物で彼の世話をよくした。山独活(やまうど)の奈良潰を作る事が得意で、それだけはうまかった。
「食うに堪えない米」とは、どんな米なのか。現代の都会の人間からすると、田舎の米はうまいだろうと思いがちだが、この時代には、やれコシヒカリだの、ユメピリカだのといった米があるはずもなく、貧しい地方では、質の悪い米しか作れなかったのだろう。炊き方が悪かったとも考えられるが、カマドで炊いたのだろうから旨いはずで、それより、何日も前に炊いた米を温め直したのかもしれない。「炊きたて」というわけにもいかなかったのだろう。こうした当時の食料事情というのは、なかなか分からないものである。
山独活の奈良漬けというのは、確かに旨そうだ。ぼくは奈良漬けはあんまり好きじゃないけど。しかし、これしか旨くなかったということは、他にいったいどんなものが供されたのだろうか。
鳥取へ嫁入った寺の娘が赤児を連れて来ていた。十七、八の美しい娘だった。座敷へは余り入って来なかったが、彼の窓の下へ来てよく話した。
「やや児のような者にやや児が出来てどうもなりません」娘はこんな事をいって笑った。人からいわれたのをそのまま真似していっているとしか思われなかった。母親一人で忙しく働いているのに娘はいつも赤児を抱いてぶらぶらしていた。謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが、娘がよ<窓の外へ来て立話をして行く気持には、娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。そして彼は直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。
「娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。」とあるのは、なんでもないようなことだが、ちょっとハッとする。当時は、「人妻になる」ということは「処女を失う」ことに他ならなかったのだから、「処女である」ということが「男を恐れる」原因となる。「処女を失う」ことは、「お嫁にいけなくなる」ことを直接に意味していたからだ。今ではまるでバカバカしいことではあるが、時代というのはオソロシイもので、あの田山花袋の『蒲団』では、女弟子に惚れてしまった先生が、その女弟子に彼氏ができたとき、女弟子に「処女の喪失」が起きていないかということを、まるで気が狂ったように執拗に問い詰める場面がある。場面があるどころじゃない。それが主題かと思われるほど執拗である。つまりは、それほど、「処女であること」が「結婚」にとって、大問題だったということだ。
だから、というわけでもないが、謙作が「直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。」というのは、「ああいうこと」が、「人妻の過失」であるにもかかわらず、「もし処女であったら」というような矛盾した仮定をしてしまうというのも、直子が人妻となって処女を失ったから、男に対してルーズになったのかもしれないと思ってしまったからだろう。
道徳的に考えれば、「人妻」となったからこそ、「ああいうこと」をしないように自分を律していくべきだということになるのだろうが、謙作の頭の中では、「処女性」が大きなウエイトを占めるから、こうした矛盾が生じてしまうのではなかろうか。
ある日、寺の上さんが手紙を持って謙作の所へ相談に来た。四、五十人の団体の申込みだった。
「どうしましょう」
しかし謙作には分らなかった。
「炊事は出来るんですか」
「出来ん事はありません」
「そんなら引受けたらどうですか。──もっとも私はなんにも手伝えないが」
上さんはなお迷うらしく少時(しばらく)考えていたが、遂に引うける事に決心した。そして独言のように、「お由(よし)がもう少し役に立っといいんだけど」といった。
「赤ちゃんがいるから……それより竹さんをお頼みなさい」
竹さんというのは麓の村の屋根屋で、大山神社の水屋の屋根の葺きかえに来ている若者だった。板葺の厚い屋根で、山の木で、その折板(へぎ)から作ってかかるので一人為事(しごと)では容易な業ではなかった。寝泊(ねとまり)食事は寺の方にしてもらって、その労力を奉納するのだという話だった。謙作はこの人に好意を持ち、仕事をしているところで、よく話込むことがあった。
謙作は引受ける返事の端書を書かされた。
二、三日して謙作は机に椅(よ)り、ぼんやりしていると、下の路から上さんが「来ました、来ました」とせかせか石段を馳登(かけのぼ)って来た。
如何にも大事件らしいその様子がおかしかった。珍らしくもなさそうな事を何故こんなに騒ぐのかと思った。しかしいつもは和尚も働くらしく、上さん一人ではそれは大分重荷だったに違いない。上さんは午後になって何度か坂の上まで見に行ったが、今、四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見、そんなに興奮しているのであった。
間もなく団体の連中が着くと、寺の方は急に騒がしくなった。謙作は手伝えるものならば手伝ってやりたいと思ったが、出来ないので、そのまま散歩に出た。
日が暮れ、彼が還って暫くして漸(ようや)く晩飯が赤児を抱いた娘の手で運ばれた。
「自分でつけるから構いませんよ」
「どうせ何もしないんですから」そして娘は笑いながら、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」といった。
謙作はちょっと返事に困った。勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。
その夜、謙作はいつものようにして寝た。娘はそれきり顔を出さなかった。それで当り前なのだが、彼は娘が何故不意にそんな事をいい出したか不思議な気がした。
謙作が滞在した「蓮浄院」という寺は、実在した寺である。「蓮浄院は、江戸時代中期に建てられた大山寺の支院のひとつで、以前は宿坊・旅館業として運営されていたが、平成2年に住職が亡くなった後は、旅館業も廃業。平成8年に無人となってからは、老朽化が進んでいた。」(「だいせん議会だより 第5号」 ここでの「質問」の中に、「志賀直哉の暗夜行路執筆の地、蓮浄院は…」とあるが、間違いである。「執筆の地」ではなくて「滞在の地」である。)ということだが、その後、改修などをめぐってゴタゴタがあり、改修も進まないうちに大雪で建物は崩壊。どうやら、現在は「蓮浄院跡」となっているらしい。
志賀直哉は松江在住のころ、ここに10日間ほど滞在したことがあり、その記憶を頼りに『暗夜行路』の部分を書いたと言われている。その執筆は、滞在してから24年ほど後なので、やっぱり志賀直哉の記憶力というのはすごい。
四、五十人もの客を受け入れることができるというのだから、相当大きな宿坊だったのだろう。神奈川県の大山(おおやま)も、「大山詣で」で有名だが、こちらの大山(だいせん)も、「大山参り」が盛んだったわけである。
この寺のお上さんの慌てぶりが面白い。坂の上から「四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見」たという描写も短いながら、鮮明だ。
それにしても、この「お由」という娘。どうも気になる。志賀が「不思議な気がした」と書くときは、注意しなくてはならない。「お由」が、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」と言ったのは、どういう意味だったのか、謙作は、「不思議」に思うのだが、謙作は、そこに性的なニュアンスがを嗅ぎ取っているのだ。
「勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。」というのも、なにがどう「まぎらわしい」のか、よく分からない。蚊帳が足りないので、娘が、自分の蚊帳に入れてくれとでも言ってくるのかと思い、それはヤバいとか思ったのだろうか。そんな不埒な想像をちょっとでも巡らしたため、その晩、娘が顔を出さなかったのを「それで当り前なのだが」と書く。つまり、謙作は、「当たり前じゃないこと」を期待、といってはいいすぎだけど、ちょっと頭をかすめたということなんじゃないだろうか。そういえば、この娘が登場したとき、「十七、八の美しい娘だった。」と書いている。「美しい娘」というだけでは、別に「客観的」な記述かもしれないが、場合によっては「主観的」な記述ともいえる。だから、とっさに、言い訳のように「謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが」と書くことになるのだ。この「別に何の感情をも持たなかった」という記述が、この晩の謙作の「不埒な想像」への言い訳(?)になっているのかもしれない。
とにかく、この辺りは、謙作の感情というか、生理というか、そんなものが、微妙に揺れ動き、なかなか面白いところである。
この謙作の感情・生理の微妙な揺れは、その晩に見た夢となって具体的な形をとる。それは次の「十五」の冒頭から語られることになる。
『暗夜行路』 165 名文 「後篇第四 十五」 その1
2025.3.5
その晩、謙作は夢を見た。
その夜、謙作は妙な夢を見た。
神社の境内は一杯の人出だ。ゆるい石段を人に押されながら登って行くと、遠く石段の上に大社造の新しい社(やしろ)が見える。今、其所(そこ)で儀式のような事が始まっている。しかし彼は群集に隔てられ、容易に其所へは近寄れなかった。
石段には参詣人の腰ほどの高さに丸太を組んで板を敷いた別の通路が出来ている。儀式が済むと生神様(いきがみさま)が其所を降(くだ)って来るという事が分っていた。
群集がどよめき立った。儀式が済んだのだ。白い水干(すいかん)を着た若い女──生神様が通路の端に現われた。そして五、六人の人を従え、急足(いそぎあし)に板敷の上を降って来た。身動きならぬままに押され押され少しずつ押上げられていた彼はこの時、もっとぐんぐん其方ヘ近寄って行きたい衝動を感じた。
生神様は湧立つ群集を意識しないかのように如何にも無雑作な様子で急いで板敷の路を降って来る。それは今鳥取から帰っているお由だった。彼はそれを今見て知ったのか、最初から知っていたのか分らないが、とにかくその女の無表情な余り賢い感じのしない顔は常の通りだった。そしてそれは常の通りに美しくもあった。なおそれよりも生神様に祭上げられながら少しも思いあがった風のないのは大変いいと彼は思った。彼はお由が生神様である事に少しも不自然を感じなかった。むしろこの上ない霊媒者である事を認めた。
お由はほとんど馳けるようにして彼の所を過ぎて行った。長い水干の袖が彼の頭の上を擦って行った。その時彼は突然不思議なエクスタシーを感じた。彼は恍惚としながら、こうして群集はあの娘を生神様と思い込むのだ──そんな事を考えていた。
夢は覚めた。覚めて妙な夢を見たものだと思った。群集は前日の団体が夢に入って来たに違いない。ただあの不思議なエクスタシーは何であろう。そう考えて、夢ではそう感じなかったが、今思うと、それには性的な快感が多分に含まれていたように思い返され、彼は変な気がした。そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。
また、「変な気がした。」なんて言っている。
謙作がお由を、美しいと思い、隣の部屋に寝るといったお由に不埒な期待を抱いたからか、この夢の中の「不思議なエクスタシー」は、「そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。」などととぼけているが、読者からすれば、「変」でも「おかしな事」でもない。それなのに、どうして、とぼけるのだろう。
謙作は、自分の中に巣くう「性欲」を直視したくないのかもしれない。直視したって、どうなるというわけでもないのだが、謙作がこんな山奥にまで来ることになったのも、人間の「性欲」のせいである。その「性欲」が引き起こした事件に、謙作がそれこそ不思議なほどイライラして、(といっても、妻の不義にイライラしない方がよほど不思議なわけなのだが)走り出した列車に乗ろうとしていた妻をホームに突き落とすというあるまじき振る舞いを生んでしまった。その結果として、妻との関係がこじれてしまい、その生活に耐えらなくなって、自分を変えるために山奥までやって来たのだ。謙作はここで生まれ変わるつもりなのだ。
それなのに、目の前に現れた娘に好感を抱き、夢にまで娘が出てきてしまい、あろうことか、「性的快感」「エクスタシー」を感じてしまう。これじゃ、なんにもならないじゃないか、という謙作の気持ちを、「とぼける」という心理的態度で打ち消そうとしているのだろうか。
さて、その翌日。
翌朝(あくるあさ)、軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外(そと)は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅(わずか)にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。彼は楊枝と手拭(てぬぐい)とを持って戸外へ出た。そして歯を磨きながらその辺を歩いていると、お由が十能(じゅうのう)におき火を山と盛って庫裏から出て来た。
「夜前(やぜん)は彼方(むこう)へ寝て往生しました。団体の人たちが騒ぐので、やや児が眠られんのですわ」
「少しは聴えたが、此方(こっち)はそんなにもやかましく思わなかった」
「よっぽど引越ししょう思うて来て見ましたが、ようやすんでられる風じゃでやめました」
相変わらず、素晴らしい自然描写だ。名文である。
丸谷才一は、「名文」とは何かを定義して、「君が読んで感心すれば、それが名文である。」(『文章読本』)と身も蓋もないことを言っているが、そのことを書く前に、志賀直哉の文章(『焚火』)を引用することを忘れてはいない。
名文の定義は、その後にくるオマケみたいなもので、ちゃんとこんなふうに言っている。
名文から言葉づかいを学ぶなどと言へば、人々はとかく、大時代な美文、虚しい装飾、古人の糖粕をなめる作文術を連想しがちなやうである。しかしわたしがここで言ひたいのは美文がどうのかうのといふやうなことではなく、もつと一般的な事情にすぎない。落ちついて考へてもらひたいのだが、われわれはまつたく新しい言葉を創造することはできないのである。
可能なのはただ在来の言葉を組合せて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかひを歴史から継承することは文章を書くといふ行為の宿命なのだ。それゆゑ、たとへば志賀直哉の、
こう言ってから、志賀の『焚火』を引用して、それを「達意で平明な写生文」だとするのだ。引用されているのは、次の部分である。
Kさんは勢よく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(はふ)った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了(しま)ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に残つたおき火を櫂で上手に水を撥ねかして了つた。
舟に乗つた。取りの焚火はもう消えかかつて居た。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。
この『焚火』の一文は、名文の一例として丸谷ならずとも、たびたび引かれているが、こうした「達意で平明な写生文」が『暗夜行路』の至る所に見られることは、さんざん書いてきたことでもある。
まずは、朝の目覚め。「軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。」と聴覚による描写だ。今の建物に住む者にとってはため息が出るほど羨ましい状況だ。(子どものころ、こんなことがあったかもしれない。)
「彼は起きて、自ら雨戸を繰った。」と書いて、自分が我が家ではなくて、旅の宿にいることを示す。我が家なら、謙作はそんなことは自分ではしないはずだからだ。
そして、次には、視覚による描写がくる。澄んだ墨色でさっと描かれた水墨画のような光景が広がるかと思うと、「流れ込む霧が匂った。」と嗅覚に訴え、「肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。」と触覚を刺激する。
「雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。」と書くことで、そこにゆるやかな時間の流れを感じさせ、雨から霧へのイメージの転換をしたあと、「山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。」と聴覚に戻る。この「音」で、空間が横へ奥へと、ぐっと広がる。
その空間の中に、そこに住む人々の暮らしを「庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。」と点描するのだが、これは、聴覚と視覚の融合だ。庫裏のほうから聞こえてくる炊事などの音、そして、そこから立ち上る煙。
五官で、ここにないのは味覚だけだが、朝の食事を予感させる「庫裏」の様子から、近未来の「味」が期待されていると考えれば、五官総動員で描かれているといっていい。
実に見事なもので、これはもう、情景描写というのはこう書くものですよ、というお手本のようなものだ。昔の作家たちは、志賀の文章を書写したものだとよく言われるが、それも頷ける話である。
さて、そこへお由がやって来て会話が始まる。「謙作の夢の中のお由とは大分異(ちが)っていた。」とあるが、当たり前である。こんな当たり前なことをわざわざ書くというのは、謙作がまだ妄想的な夢から覚めきっていないからだろう。
それはそうと、そのお由との会話が、謙作がここでよく話し込むことのあった屋根屋の「竹さん」という若者の意外な一面を浮かび上がらせることになる。
『暗夜行路』 166 「信じる」ということ 「後篇第四 十五」 その2
2025.4.12
謙作は、昨晩、お由が天理教の創始者のような「生神様」になる夢を見たとお由に語った。すると、お由は、竹さんの父親が天理教にのめり込み、竹さんが子どものころに家をつぶしたこと、それでも竹さんは、「感心な人」で、「村でもあの人は別ものらしいです。」という。謙作が、「何所か老成したような所がある。それだけに若々しい所も少いが」と言うと、お由は、「お父さんに家をつぶされたのは竹さんが子供の時ですからね、それだけでも大変なのに近頃また、人にもいえない苦労があるらしい噂です」と言う。
朝食のときに、お由は、その竹さんの苦労を話しだす。印象的なエピソードである。
「へえ、そんな人なのかな。──それはそうと、昨日から手伝に来てるんですか?」
「いいえ。お母さん、頼まんかったらしいです」
彼が朝飯の膳についた時、お由は竹さんの人にもいえない苦労というのを話した。
竹さんには三つ年上のまだ子供を産まない嫁がある。生来の淫婦で、竹さん以前にも、以後にも、また現在にも一人ならず、情夫というような男を持っている女だった。そして竹さんは亭主と呼ばれるだけの相違で、事実は何人かの一人に過ぎなかった。それを承知で結婚した竹さんではあるが、やはりそのため大分苦しんだ。人からは別れろといわれ、自分でも幾度かそれを考えた。しかし竹さんには何故か、この女を念(おも)い断(き)る事が出来なかった。意気地がないからだ、そう思い、また実際それに違いないが、竹さんはどうしてもこの女を憎めなかった。
絶えず面倒な事が起った。それは竹さんを入れたいわゆる三角関係ではなく、竹さんを除いたそういう関係で、面倒が絶えなかったのである。竹さんは女の不身持よりもこの面倒を見る事に堪えられなくなった。さりとてきっぱり別れようとはしなかった。
「それはお話にならんですわ。男が来て嫁さんと奥の間にいる間、竹さんは台所で御飯拵えから汚れ物の洗濯までするというのですから。時には嫁さんに呼びつけられ、酒買いの走り使いまでするというのですから」
「少し変ってるな。それで竹さんが腹を立てなければ、よっぽどの聖人か、変態だな。一種の変態としか考えられない」
謙作は竹さんを想い浮べ、そういう人らしい面影を探して見たが、分らなかった。しかし彼にもそういう変態的な気持は想像出来ない事はなかった。
「竹さん自身はどういってるんです」
「自家(うち)のお母さんなどには何か愚痴をいってるらしいです」
「うむ」
「もう諦めてるんでしょう」
「諦められるかな」
「どうせ、そういう嫁さんらしいです。で、それは諦めても狭い土地の事で、人のロがうるさいから、一つはそれで山に来ているらしいんです」
「苦労した人と聴けばそんな所も見えるけど、現在そういう事がある人とはとても考えられませんね。よく松江節を唄いながら木を割っているが、そんな時の様子が如何にも屈託なさそうで羨しい気がした」
「時々は沈んでいる事もありますわ」
「そう。それが本統だろうけど、あの人の顔を見て、そんな事があろうとは全く想像出来なかった」
「誰だって」お由は急に笑い出した。「顔だけ見て、その人が間男をされているかどうかは、分らんでしょうが」
「そうだ。それは正にそうだ」謙作も一緒に笑った。
「其所で私の顔を見て、あなたはどう思う。そういう事があると思うか、どうですか」
「ハハハハハハ」
謙作は竹さんを「変態的」だと突き放して見ているが、その一方で、「しかし彼にもそういう変態的な気持は想像出来ない事はなかった。」と考える。どんなにひどい仕打ちにあっても、自分が多くの「情夫」の一人に過ぎないことを分かっていても、自分の家に「情夫」が上がり込んで奥の座敷で妻とむつみ合っていても、洗濯したり、洗い物をしたりしている──お由に言わせれば「お話にならん」状況でも、竹さんに「別れる」という選択肢はない。どうしても、この妻を思いきることができない。そんな男を身近には知らないが、それでも謙作は、そういう「変態的な」気持ちは、「想像出来ない事はなかった」という。
今ではまず使われないが「淫婦」という言葉が、竹さんの妻に使われているが、『暗夜行路』には、この「淫婦」に属するような女が、初めのほうにたびたび登場する。「栄花」とか、「まむしのお政」とかいった女である。特に栄花は、彼女を登場人物にして謙作は小説を書こうと思ったりするのである。
芸者遊びに浸っていたころの謙作にとっては、栄花は、淫蕩ではあっても、魅力的な女性だったわけで、竹さんの気持ちもそういう意味では、分からなくもないといったところだったのだろう。
それにしても、謙作は、その話を聞いて、そうかあ、竹さんってそんな苦労を背負っているのかあ、とてもそんなふうには見えないなあと言うわけだが、田舎者のお由に笑われてしまう。「誰だって、顔だけ見て、その人が間男をされているかどうかは、分らんでしょうが」
この言葉は、まさに庶民感覚といったもので、落語の「紙入れ」みたいなものだ。誰がどんなことをするかわかったもんじゃないというのは、普通に人間生活を送っている人間にとっては常識というか前提のようなものだ。謙作は、まさに「一本取られた」といった感じで、「そうだ。それは正にそうだ」と懸命に(と思える)笑ってごまかすが、どんなに人間心理の奥まで探っている文学者でも、庶民感覚にはかなわないということなのかもしれない。
それなら、自分はどう見えているのか? 自分が、「間男」されたマヌケな男とこのお由に見えているだろうか。ふとそんなことを思って、お由に聞いてみるが、笑ってごまかされしまう。当たり前だが、わかりはしないのだ。
こんな山奥で、松江節(註)なんかうたって、木を割っている平凡極まる男にも、一編の小説になりそうな「苦労話」がある。しかもその「苦労」たるや、自分の悩んでいる「苦労」など屁でもないほど深刻なものだ。謙作は、自分の悩みなど、微々たるものではないかと、この時、ふと思ったかもしれないが、謙作の思いは直子へと向かう。
この時謙作はふと、留守を知ってまた要が衣笠村を訪ねていはしまいかという不安を感じ、胸を轟かした。しかし直子が再び過失を繰返すとは思えなかった。──思いたくなかった。そしてそう信じているつもりではあるが、それでもまだ何所かに腹からは信じきれない何か滓のようなものが残った。
あの女は決して盗みをしない、これは素直に信じられても、あの女は決して不義を働かない、この方は信じても信じても何か滓のようなものが残った。女というものが弱く、そういう事では受身であるから、そう感ぜられるのか、それとも彼の境遇がそういう考え方をさせるのか分らなかった。が、とにかく、直子にはもうそういう事はあり得ない、彼は無理にも信じようとした。ただ、要の方だけはその時は後悔しても、若い独身者の事で自分の留守を知れば心にもなく、また訪ねたい誘惑にかられないとはいえない気がするのであった。お栄という女がもう少し確(しっか)りし、かつ賢い女ならとにかく、人がいいだけで、そんな事には余り頼りにならないのを彼は歯がゆく思った。
相変わらず、直子を「許せる」かどうか、「信じることができる」かどうかというところにとどまっている。あくまでも、これは謙作自身の問題で、直子の側に立つことができないのだ。
直子を信じても、信じても、「何か滓のようなもの」がどうして残るのか。その「滓」とは何なのか。「信じきれない」と言ってしまえばいいようなものだが、「滓」が残ると言う。そこにリアルがある。
「信じる」とか「信じられない」とかいったことは、あくまで心の問題で、同時にそれは「言葉」の問題でもある。「信じる」と言い切ったところで、それで、本当に自分の心の中を説明し尽くしたことにはならないのだ。直子はもう絶対に過ちを犯さないと「信じる」と自分に言ってみても、自分の心の中にはその言葉では言い尽くせない「何か」が残る。かといってそれが「信じることができない」という言葉によって表されるわけでもない「何か」なのだ。
ちょうどそれは、ビンの中の白ワインのようなもので、上澄みがきれいに澄んでいても、ビンの底に「滓のようなもの」が沈んでいて、ちょっとビンを揺らすと、その「滓のようなもの」がふわっと浮いてきて、ワインを濁らせてしまう。(そんな白ワインがあるかどうか知りません。あくまで比喩です。)
謙作は、直子を「信じることができない」わけではない。けれども、彼の「信じる」は、常に不安定なのだ。その不安定さを「滓」という比喩が表現しているように思える。比喩というものは、言葉が掬い得ないものを指示することができる。「詩」が、比喩を多用するのも、そのためだろう。
ところで、「女というものが弱く、そういう事では受身であるから、そう感ぜられるのか」といったくだりは、いまではアウトだろうけど、そういう「通念」がかつて(今も?)あったということは確かだ。また「独身者」に対する「偏見」も垣間見える。そして、ここでも「お栄」に対する不満が出てくる。「賢い女ならとにかく、人がいいだけ」というのも、あんまりだよね。
「十五」は、これで終わる。
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【註】松江節について、ChatGPTに聞いてみたら、こんな回答が得られました。
「松江節(まつえぶし)」は、島根県松江市を中心に伝わる日本の伝統的な民謡の一つです。松江の地域文化や風情を表現しており、地元ではお祭りや踊りの際によく歌われたり踊られたりします。
以下のような特徴があります:
? 松江節の特徴
起源:江戸時代から伝わるとされ、武家文化や茶の湯文化が盛んな松江らしい、雅(みやび)な雰囲気を持つ節です。
歌詞:宍道湖の夕景や松江城、堀川など、松江の名所や自然の美しさを歌詞に取り入れたものが多いです。
踊り:松江踊り(松江おどり)という盆踊りのスタイルもあり、松江節に合わせて優雅に踊るのが特徴です。
行事での活用:松江水郷祭や観光イベントなどで披露され、地元の人々や観光客に親しまれています。? 松江節の代表的な歌詞(一例)
松江名所は 城山さまよ
櫓(やぐら)太鼓に 月が出る
松江しぐれか 城山しぐれ
粋な殿さん 誰じゃいな
この歌詞は、松江城(別名:千鳥城)や、宍道湖に映る月、そしてしっとりと降る雨(松江しぐれ)など、松江の情緒あふれる風景を描いています。
『暗夜行路』 167 「不憫」と「不愉快」 「後篇第四 十六」 その1
2025.4.23
旅の出がけに謙作は、手紙は待たぬように、便がなければ無事と思っていていい、といい置いて来た。そしている所を知らせなかったから、直子からの便もなかったわけだが、今日お由から竹さんの話を聴くと、急に手紙を書く気になった。出発前と同じ自分を直子に考えさせておく事が可哀そうになり、かつ、それはよくないことに思われて来た。
悲し気な眼つきをしながら、子供のように首を傾け、「本統に、もう僻まなくていいのね」という直子の姿を憶い、彼は不憫にもなるが、不愉快な気持にもなる。直子はどうしても完全に赦されたという自信が持てない。たとえ赦されても自分だけは赦されたと思ってはならぬと思っている。赦されたと安心すれば、その時、不意に謙作から平手で顔を叩かれるような事が起ると思っている。これは謙作の寛大になりきれない気持が直子にそう思わせるので、謙作自身にとってはこの意識は苦しかった。直子がつい犯した過失に対し、それほど執拗に拘泥するのはつまらない、そのため、更に二人が不幸になるのは馬鹿気ている。しかしそう思うのは功利的な気持も含まれていて、謙作自身としては愉快でなかった。また直子からいえば、それでは本統に安心する事が出来ないのだ。しかし腹から寛大になれないなら、せめて、これより仕方がないではないかと、謙作は腹立たしく思うのだ。そして、こういう自分の気持を純化するのが、この旅の目的だったが、幸にも、それが案外に早く彼に来たのだ。
「便がなければ無事と思っていていい」とはよく言われることだが、夫が長期に、それも勝手に家を出ていったわけだから、そんなことは全然あてはまらない。待っている直子からすれば、「便がない」ということが、「無事の証拠」と思えるわけがない。むしろ、あれやこれやとよくないことばかり考えてしまう。それが人間というものだろう。
それなのに、謙作は、そんな常套句を盾にして手紙を書かない。なんでそんなに意地になっているかのように、頑とし書かないのか、理解に苦しむところだ。その上、自分の居場所も教えてないとは、まったく呆れる他はない。なんて身勝手な男なのだろう。
それが、今度は、「今日お由から竹さんの話を聴くと、急に手紙を書く気になった。」という。竹さんのほとんどマゾヒスティックな生き方に衝撃を受けてのことのようだが、その心境の変化が分かりにくい。オレは竹さんのような人間じゃないぞ、オレはちゃんとした「自分」を持って生きているんだ。しかし、このままでは、「竹さんレベル」になっちゃう、ということなんだろうか。そしてこう続ける。「悲し気な眼つきをしながら、子供のように首を傾け、「本統に、もう僻まなくていいのね」という直子の姿を憶い、彼は不憫にもなるが、不愉快な気持にもなる。」
不憫になるのは、当然だろう。かわいそすぎるもの。しかし、そういう「不憫な」直子を思うと「不愉快にもなる」というのだ。「不愉快」! 最後までこの「不愉快」が出てくるのだ。
いったい何がそんなに「不愉快」なのか。一つには、自分が赦しているのに直子がそれを信じ切れない。信じ切れないのは、直子が悪いのではなくて、自分が「寛大になりきれない気持」を持っているからだ、ということはすぐに分かる。しかし、その中に、「赦されたと安心すれば、その時、不意に謙作から平手で顔を叩かれるような事が起ると思っている。」ということが入っている。
どうして直子がそんなふうに思うと謙作は考えるのか。どうして、直子が「赦されたと安心」すると、謙作が直子をひっぱたくというような事態が予想されるのか。ここは、複雑である。直子がそう想像するだろうと謙作が思っていると書かれているが、実際には、直子はそこまでは予想はしていないだろう。けれども、謙作は、「赦されたと思って安心している直子」に、突然怒りを感じるかもしれないと思っているのだ。それが直子の気持ちへ反映しているのだろう。
ここで思い出すのは、前編に出てきた「栄花」と「蝮のお政」の「罪」の話だ。そこで問題となっていたのは、一度罪を犯した人間が、どんなに懺悔したって、そこに「偽善」に匂いは免れない。結局、罪を犯した人間は、その罪を背負ったまま生きていくしかないのだという謙作の感じ方だった。
「蝮のお政」は、自分の犯した罪を懺悔する芝居を全国を回って演じているのだが、謙作は、その芝居に感心しない。その芝居を演じることでお政が救われているとは思えない。芝居の中にも「偽善」を意識して、苦しい思いをしているだろう。それなら、むしろ罪を犯している時の心の躍動のほうが、彼女にとっては幸せだったのではないか、そんなことを思ったりしていたわけである。
その、「罪の赦し」の問題が、その後の謙作の心の中にずっと流れているのだ。だからこそ「赦されたと安心」している直子を、謙作は単純には喜べないのである。ひっぱたきたくなるのである。直子が、単純に晴れ晴れした気分で安心して暮らすということは、現実にはなかなか難しい。だから謙作がひっぱたきたくなるような顔を直子はしたくてもできないだろう。それにも関わらず、謙作はそんなふうに想像する。どうしても想像してしまうのだ。
謙作が寛大になりきれない、というのは、むしろ当然である。言葉では「赦す」といいながら、心の中では決して完全には「赦してはいない」というのは、人間として当然なのだ。だから直子はそんな「完全な赦し」を謙作に求めてはいないだろうし、自分の「罪」を背負って生きていくしかないと思っているに違いないのだ。ただ、自分が納得できる「赦し方」を謙作にしてもらいたいだけなのだ。理屈をあれこれ並べて、「赦す」と言うのではなく、感情を爆発させて怒りまくっても、その上で、泣きながらでも「それでも、オレはお前を赦す」と言ってほしいのだ。
謙作が、なかば自暴自棄になって、もうこれしか仕方がないだろうと思った結論というのは、論理的でありつつも、やけっぱちのような気分でもあったわけで、そこに至ってはじめて謙作は、手紙を書きたくなったわけである。謙作は、直子のことを「不憫だ」と思った感情を大事にして、自分の「不愉快」は自分こととして胸にしまって生きていかねばと思ったのだ。
謙作は、ようやくここへたどり着いたわけだ。自分の気持ちが「不愉快」だろうと「功利的」だろうと、「腹から寛大になれないなら、せめて、これより仕方がないではないか」というのが結論である。それは「腹立たしさ」を伴うけれど、やっぱり「これより仕方がない」のだ。そう思ったとき、謙作の心は「純化」されたということなのだろう。
この「純化」は、自分の「不愉快」が消失したということではなくて、「不愉快」を超越したということだろう。謙作は、今まで、なんとかして「不愉快」という感情を自分の中から追い出したかったのだろうが、謙作にとっては「不愉快」こそが、自分自身である証だったのだ。「不愉快」こそが、善悪の判断基準だったし、生きて行く上での絶対的な「砦」だったのだ。だから「不愉快」の消失は自我の消失を意味する。それは謙作にはできないことだった。しかし、「不憫」という相手に対する感情によって、その「不愉快」を乗り越えることができそうだ、そう謙作はようやく悟ったといえるだろう。
思えば、竹さんこそは、その生き方の体現者だった。妻の放蕩三昧が、竹さんにとって「不愉快」でないはずはない。それがもし「愉快」だというのなら、謙作のいう「変態」以外の何ものでもないだろう。けれども、竹さんは、悩んでいる以上、「不愉快」なのだ。その「不愉快」を心にしまいこんで、表面上はごく普通に生活している。そんな心のうちを決して人に悟られない。そういう生き方もあるのだと謙作は気づいたのだ。自分の中の「不愉快」を後生大事に守り続け、守り続けることだけが、正しい生き方だと知らず知らず思い込んでいた謙作にとっては、竹さんとの出会いは、大きな意味を持っていたわけである。
『暗夜行路』 168 謙作の手紙 「後篇第四 十六」 その2
2025.5.17
謙作は、こんな手紙を直子に書いた。
「皆御無事か、御無事の事と思っている。手紙出さぬようにいったが、急に出したくなって出す。私は旅へ出て大変元気になり、落ちついている。お前に話したかどうか忘れたが、数年来自分にこぴりついていた、想い上った考が、こういう事で気持よく溶け始めた感がある。尾道に一人いた頃そういう考で独り無闇に苛々(いらいら)したが、今は丁度その反対だ。この気分本統に自分のものになれば、自分ももう他人に対し、自分に対し危険人物ではないという自信が持てる。とにかく謙遜な気持から来る喜び(対人的な意味ではないが)を感ずるようになった。今思えばこれは旅に出る時から漠然望んでいたもので、思いがけなく来た変化ではないが、案外早く、自然にその気持に入れた事を大変嬉しく感じている。お前に対しても今までの自分はあれで仕方がなかった。後悔してもお互に始まらない事だ。しかしこれからはお互に安心したい。お前も二人の間に決して不安を感じてもらいたくない。一人で山にいて遠く自家(うち)の事を考えると、この気持は一層強い。これからも私は怒り、お前を困らす事もあるだろうが、それにはもう何の根もない事を信じてもらいたい。そんな事は決してないつもりだが、山を下りるとまた元の杢阿弥(もくあみ)になるようではつまらない。私はこの気持をもっと確(しっか)り掴(つか)み、本物にしてお前の所へ還(かえ)るつもりだ。それもそう長い事ではない。
赤ちゃんの事は時々憶出(おもいだ)している。病気させぬよう充分注意。この寺にも《うち》のより半年早生れの赤坊(あかんぼ)いるが、乱暴な育て方をしている。医者も薬屋もない山だから、ひと事ながら心配な事もある。
此所(ここ)の飯の不味(まず)い事、大閉口(おおへいこう)。炊き方が悪いのではなく、米自体が悪いのだ。こんな経験初めてだ。
手紙来ていたら送るよう。信(のぶ)さんから便りあるか。お栄さんには尾道の時とは大異(おおちが)い故、御心配無用といってもらいたい。お前も身体(からだ)を気をつけるよう。私も身体は元気だが、食いもの悪く、知らず知らず減食する結果となり、少し瘠(や)せたようだ。しかし何も食物は送らぬよう」
謙作は、今の心境は、尾道で過ごしたころの「丁度その反対」だと言っている。謙作が、突然尾道に行ったのは、愛子との結婚話が破談となり、挙げ句、お栄と結婚したいと思うようになっていく自分の「性欲」を持て余し、旅に出て頭を冷やしたいといった動機からでもあったのだが、その尾道で、謙作は兄信行から「衝撃的」な事実を手紙で知らされる。
それは、自分の出生の秘密で、謙作は、母と祖父(父の父)との間に生まれた不義の子だったというのだ。これがどれほど衝撃的であったかは、想像もつかない。それでも、謙作は、頑張ったのだ。頑張った、というのも変な言い方だが、そういうしかない。そのことで、自分を見失い、またもとの放蕩の生活に溺れてしまっても仕方のないくらいの衝撃だったはずだ。でも、頑張ったのだ。しっかりと己を持したのだ。
その思いを、謙作は、「数年来自分にこびりついていた、想い上った考」と言っているのだが、どこが「想い上がっ」っているというのだろうか。普通なら、むしろ「卑屈になった」はずだろう。しかし、自分の出自が「恥ずべき」ものであったと知った謙作は、卑屈になったり、絶望したりするのではなく、むしろ、「強い自我」を持とうとした。この運命に絶対にオレは負けないと心に決めたのだ。だからこそ、「頑張った」といえるのだ。けれども、そのために、謙作はあまりにも自己中心的になってしまった。謙作にとっては「自分」だけが、興味の中心だったし、その「自分」がいかにしてまっとうに生きていくかだけを考えていたのだと言っていい。そのためには、何が何でも「強い自分」でなければならなかったのだ。
そういう謙作は、直子の過ちを知っても、直子に対して暴力を振るったり、わめいたり、罵ったりはしなかった。「許す」といって、あとは、全部自分の問題なのだから、お前は口を出すなと言い放った。あり得ないような不義密通によって生まれた自分が、やっとのことで乗り越えてきた人生なのに、今度はまた、その不義密通によって自分を台無しにしたくなかった。心のなかで、「許せない」とどんなに思っても、「許す」と「言う」ことが、謙作にとってはギリギリの線だったのだ。
もちろん、謙作の感情がそれでスッキリするわけではなく、直子を駅のホームに突き落とすという「暴挙」をしてしまう謙作だったが、それでもなお謙作は、どうしたら、本当に直子を許すことができるのだろうかを切実に考えたのだ。しかし、いくら考えても、分からない。自分の感情をどう始末していいか分からない。考えて分かることではなかったのだ。
だからこそ、謙作は、また旅に出た。それが今回の大山行きだったのだ。
此所(ここ)へ来た事は色々な意味で、大変よかった。毎日読んだり、何かしら書いたりしている。雨さえ降らねば、よく近くの山や森や河原などへ散歩に出かける。私はこの山に来て小鳥や虫や木や草や水や石や、色々なものを観ている。一人で叮嚀(ていねい)に見ると、これまでそれらに就いて気がつかず、考えなかった事まで考える。そして今までなかった世界が自分に展(ひら)けた喜びを感じている。
手紙の中のこの部分は非常に重要だ。今まで、謙作は自然を見なかったわけではない。小説としても、随所に美しい自然描写がある。しかし、それらの「自然」は、謙作の心を根本的に変えるものではなかった。謙作の心に直接訴えかけてくるものではなかった。いわば「外側の自然」に過ぎなかったのだ。しかし、ここへきて、謙作は「小鳥や虫や木や草や水や石や、色々なもの」を「一人で叮嚀に見る」と、「それらに就いて気がつかず、考えなかった事まで考える」ようになったというのだ。「自然」はもはや謙作の「外部」にあって、観賞の対象ではなく、謙作に「気づかず、考えなかった事」を考えさせるものとなっている。それが具体的にはどのようなことなのかは分からない。しかし、謙作が今まで考えてきたことは、すべて、「自分」および、その「自分」に関わってくる人間のことだった。「自分を中心とした人間関係」だけが、謙作の生活のすべてだったのだ。「自然」は、そこからの解放を意味するようになった。
だから謙作は言うのだ。「今までなかった世界が自分に展(ひら)けた喜びを感じている。」と。つまり、謙作は、やっと「自分」から一歩抜け出すきっかけを与えられたのだといっていい。
「自分」が直子を「許す」と言っても、「許さない」と言っても、事態は変わりはしない。「許す」といっても、直子は信じないだろう。「許さない」と言ってしまえば、直子は離れていくしかない。かといって、直子がほんとうに謙作から「許された」と感じるように謙作が行動することもまたできない。どこまでいっても堂々巡りなのだ。
もう、そんなことはどうでもよろしい。自分の感情をどのように言語化しても、感情は変わらない。それなら、「自分」という存在を、新しく捉え直すしかない。
お前に対しても今までの自分はあれで仕方がなかった。後悔してもお互に始まらない事だ。しかしこれからはお互に安心したい。お前も二人の間に決して不安を感じてもらいたくない。
「今までの自分はあれで仕方がなかった」というのは、あまりに無責任ではないかという見方もあるだろうが、今までの謙作だったら、「今までの自分」をそんなに簡単に「あれで仕方がなかった」とは言えなかっただろう。そんなに「自分」に甘くなれなかっただろう。とことん反省して、「あれではダメだったのだ」と思うのが謙作だったはずだ。謙作だけに限らない。読者としても、そんなに甘いことは謙作に言えない。口では「許す」なんて言っていながら、直子をホームに突き落とすなどというとんでもないことをしでかした謙作は、度しがたい男にしか見えない。
けれども、その「度しがたさ」を含めて、謙作は「自分」を素直に認め、受け入れるのだ。
そしてお前には色々な意味で本統に安心してもらいたい。実際これまでの事も馬鹿馬鹿しいという事はよく知っているのだが、病気のように一卜通りの経過をとらねば駄目なものだ。今の私は本統にその経過をとり終った。もう何の心配の種もない。
謙作は、直子との間にあった一連の経緯が、「馬鹿馬鹿しい」としながらも、「病気のように一卜通(ひととお)りの経過をとらねば駄目なものだ」という。どんなに度しがたくても、馬鹿馬鹿しくても、それは「病気の経過」であって、どうしても通らねばならない道だったのだ。「病気」であれば、「一通りの経過」をとれば、治るはずだ。辛いけれど、その「経過」を耐えねばならない。自分はそれに耐えた。おそらく直子も耐えたのだろう。だから「もう何の心配の種もない。」と断言できるのだ。
単純な感想だが、スゴイなあと思ってしまう。謙作という男は、自分勝手なエゴイストで、いつでも感情に左右されて、自分の「気分」だけで物事を判断し、他人のことなんかちっとも考えないワガママ男とも言えるのだが、そういう「自分」を否定せず、かといって安易に肯定もせず、いやむしろ常に「自分」を批判しつつ、それでも、真っ直ぐに生きてきた。肝の据わった人間である。
『暗夜行路』 169 爽やかな「竹さん」 「後篇第四 十六」 その3
2025.6.7
彼は机に凭(もた)れたまま開放しの書院窓をとおしてぼんやり戸外を眺めていた。座敷の前、三間ほどの所が白壁の低い土塀で、それから下が白っぽい苔の着いた旧い石垣で路、路から更らに二、三間下がって金剛院という寺がある。朝からの霧がまだ睛れず、その大きな萱屋根(かややね)が坐っている彼の眼の高さに鼠色に見えている。
彼はまだ何か書き足りないような気がした。それよりも直子には寝耳に水で何の事か分らぬかも知れぬという不安を感じた。急に自家(うち)が恋しくなり、発作的にこんな手紙を書いたと思われそうな気もした。彼は洋罫紙(ようけいし)の雑記帳を取り、その中から三枚ほど破って、余白に「こんなものを時々書いている」と書き、手紙に同封した。二、三日前この書院窓の所で蠅取蜘蛛(はえとりぐも)が小さな甲虫を捕り、とうとう、それが成功しなかった様子を精(くわ)しく書いておいたものだった。自分の生活の断片を知る足しになると思ったのだ。
手紙を書き終えた謙作は、しばし、ぼんやり外を眺める。「書院窓」からみえる光景が、カメラが移動していくかのように描かれる。視線は、土塀から石垣、路、金剛院へと移る。そうした「部分」を包みこむ「霧」が後から描かれ、視線は「大きな萱屋根」へと上昇する。映画なら、カメラをわざわざ移動して撮影することなく、ワンシーンで描くだろうが、この細かい移動は、やはり小説ならではのものだ。もちろん、映画でも、こうした移動撮影は可能だが、そんなことをすると、やけに大げさで何かそこに意味があるのかと勘ぐられてしまうだろう。
謙作は「書き足りない」ような気がする。自分の気持ちは丁寧に書いた。直子への思いもちゃんと書いた。でも、この手紙を書くに至った自分の心境というか、状況というか、そういうことを書いていないので、直子にとっては「寝耳に水」の手紙と思われるんじゃないだろうかと「不安」になったというのだ。
そんなことはないだろうとは思う。直子にしてみれば、待ちに待った手紙だ。びっくりはするだろうけど、「急に自家が恋しくなり、発作的にこんな手紙を書いたと」と直子が思うとは思えないが、そう思ったとしたら何が不都合なのだろうか。それは、恐らく、自分が「発作的」に、あらぬことを口走っているかのようの思われたら困るということだろう。自分は考えに考えた末にこういう心境に至ったのだということを、正確に直子に伝えたいのだろう。自分は、「発作的」にこんなことを考えたのではなく、自分は落ち着いているのだ。冷静なのだ。それを分かってほしい。そう思ったのだろう。
だから、ハエトリグモのことを書いた断片を同封したのだ。それにしても、ハエトリグモの観察の文章が、「自分の生活の断片を知る足しになると思った」というのはおもしろい。「ハエトリグモの失敗」の描写が「自分の生活の断片」なのだということは、この頃の謙作にとって、「小さな自然」がいかに重要な意味をもっていたかを示唆しているといえるだろう。これはあの『城の崎にて』とつながっている志賀文学の「芯」のようなものだ。
そういえば、しばらく読み返していないが、尾崎一雄の『虫のいろいろ』という短編も、こうした「自分の生活の断片」を記したものだ。志賀よりも、もっと即物的だったような気がするけど。
彼は買置きの煙草が断(き)れたので、それを買いかたがた、今の手紙を出しに河原を越し、鳥居の所まで行った。霧で湿ったバットをよく買わされるので、新しい函を開けさせ、その一つを吸って見てからいくつか買い、また同じ道を引還(ひきかえ)して来た。何となく、睛々した気持になっていた。彼は自分の部屋の窓から余分の煙草を擲込(なげこ)んで、今度は今行った方向とは反対の方へ出かけた。杉の葉の大きな塊が水気を含んで、重く、下を向いていくつも下がっている。彼はその下を行った。間からもれて来る陽が、濡れた下草の所々に色々な形を作って、それが眼に眩(まぶ)しかった。山の臭(にお)いが、いい気持だった。
タバコを買うついでに、手紙を出しに外へ出る。こんな単純で、当たり前なことが、現代では失われつつある。タバコは買わない、手紙は出さない。たとえタバコを買いがてら手紙を出しに出かけたることがあっても、こんな豊かな自然は、ない。まあ、100年も前の話なのだから、そんなことを言っても詮無きことだけど、でも、現代のぼくらが、生活の大切なディテールを喪失していることは確かで、それは不幸なことだと思う。しかし現代には現代の「生活のディテール」はきっとあるのだろう。でもそれは、ジイサンには分からないことだ。それはそれで仕方がない。
「バット」(念のために書いておくがこれはタバコの銘柄です。)一つ買うにも、いつも湿ってるから、函を明けさせて確かめてから買う、なんてことはそうはできないにしても(謙作の傲岸不遜ともいえる態度が垣間見える。それは一種の階級意識からくるものだろう。)、そこには自動販売機で買うことからは生まれない、人情の機微のようなもの、感情の揺らぎのようなものが、ある。
その後の、杉の下を歩いていく描写の素晴らしさ。書き写していても、うっとりとしてしまう。その緻密な描写のあとにくる、「山の臭いが、いい気持だった。」という小学生のような素朴で直接な言葉は、ぼくらの心をさっと明るくし、解放する。
路傍(みちばた)に山水(やまみず)を引いた手洗石(てあらいいし)があり、其所だけ路幅が広くなっている所で、竹さんが仕事をしていた。枝を拡げた大きな水楢(みずなら)がその辺一帯を被(おお)い、その葉越しの光りが、柔かく美しかった。竹さんは短く切った水楢の幹から折板(へぎ)を作っている。既に出来た分が傍(わき)に山と積んであった。彼を見ると、竹さんは軽いお辞儀をした。
「竹さん」の登場である。やっぱりこの人は重要人物なのだ。
「水楢」がさりげなく登場するが、スギや、ヤマザクラなんかと違って、この類いの木はみんな似ていて、「ミズナラ」「コナラ」「イヌシデ」「アカシデ」など、そんなに簡単に識別できるものではない。現代人は、よほどの趣味がないと、下手をするとイチョウだって識別できないだろう。
こういうところは、昔の文学者の知識というのはなかなかすごくて、謙作は一目で「ミズナラ」だと分かるわけである。ということは、志賀も知っているということだ。
ミズナラの「葉越しの光」、つまりは「木洩れ日」が「柔らかく美しかった」というのは、それを見たものにしか伝わらない。こうした光を「木洩れ日」と名づけたのは誰だったのだろう。
「日本国語大辞典」によれば、最古の用例は「「杉の木の間ものおもふわが顔のまへ木漏日(コモレビ)のかげに坐りたる犬」という若山牧水の歌(1911)だから、古語にはないようだ。国木田独歩の『武蔵野』とか、二葉亭四迷の『あひびき』あたりに出てきそうな言葉だが、出でこない。堀辰雄の『風立ちぬ』には、一例だけあった。ちなみに、英語にも中国語にも、「木洩れ日」にあたる特別な言い回しはないようだ。中国人の水墨画の師匠、姚先生にも伺ったら、そういう言葉もないし、そういう現象に注目もしないとのことだった。
で、この「折板(へぎ)」とは何だろう。辞書には、「杉または檜(ひのき)の材を薄くはいで作った板。」(日本国語大辞典)とあるが、これを何に使うかというと、この後の二人の会話で詳細に語られる。
「そんなに要(い)るのかね。」
「どうして、この三倍位は要るんですよ」
「材料から拵(こしら)えてかかるのだから大変だな」謙作は其所に転がしてある、幹の一つに腰を下ろした。「第一こんな立派な木を無闇と伐(き)ってしまうのは勿体ない話じゃないか。やはりこの辺にある奴を伐るのかね」 「まあ、なるべく人の行かないような所から伐って来るんです」
「それにしても、そう木の多い山ではないから惜しいものだね」
「水屋の屋根にする位、知れたもんですよ」
竹さんはよく桶屋が使っている、折れた刀の両端に柄をつけたような刃物を、傍に置くと、カーキー色の古い乗馬ズボンのポケットからバットを出して吸い始めた。
「こんな大木を伐るのは、自分でやるのかしら」
「これは本職でないと駄目だね。本職の木挽(こびき)が挽(ひ)いて、持って来てくれるんです」 「そうだろうね」 「それはそうと、山へはいつ登ります?」
「僕はいつでもいいよ。竹さんの都合のいい時でいい」
「実は明日の晩、一卜組案内を頼まれているんだがね。学生四、五人という話で、それと一緒にどうです?」 「うん、いいよ」
「中学生なんか、かえって、無邪気でいいでしょう」
「そうだ」 濡れて、苔の一杯についた手洗石のふちに何か分らない、見馴れない虫がウヨウヨ這廻っている。桜にいる毛虫より小さく、黒い地肌の見える、毛の少い奴で、何千だか何万だか、重なり合って、脈を打っている。群をなしているのが堪らなかった。虫もこういうのに会っては興醒(きょうざめ)だと思った。
「やはり毛虫の類かね」
「昨日は一疋もいなかったが、今日急に出て来たね」
「普通の奴とは大分(だいぶん)異(ちが)うが、やはり、毛虫の類だろうな」
「……寺を十二時に出て、ゆっくり登って、頂上で御来迎(ごらいこう)を拝む事になるんだが、月があると楽なんだが、この頃は宵のうちに入ってしまうね」
「そうかな。月がないとすると提灯をつけて行くのか」
「晴れてさえいれば星明りで充分ですよ。登り出せば木がないからね。もっともその用意だけはして行くが」
「少し昼寝をしておかないと弱りそうだが、そいつが出来ないんで困る」
「夜、早く寝ておけばいい。いい頃に行って、私が起して上げましょう」
「そのまた、早寝も習慣で出来ないんだ」
「そりゃあ、困ったね」と竹さんは笑い出した。
竹さんは煙草を喫いおわると、足で踏消し、また仕事にかかった。謙作はいつも行く阿弥陀堂の方を廻って帰って来た。
この「折板」は、「水屋」の屋根に使うのだと分かる。「水屋」には、いろいろ意味があるが、ここでは「社寺の前にあって参詣人が手や口をすすぎ清めるための手水(ちようず)鉢を備えた吹放ちの建物。」(平凡社・世界大百科事典)の意味。「竹さん」は、寺の仕事をしているので、こういう仕事もあるのだろう。
この場面での物語進行上の大事なことは、山へは、明日の晩に行く事にきまったということだけなのだが、竹さんの仕事の細かい内容とか、突然現れた毛虫のこととか、ずいぶん余計なことが書き込まれている。この「余計なこと」が、小説の細部として、よく生きている。それがなくちゃ困るという情報ではないが、小説は、情報ではないのだ。
月がなければ、真っ暗だけど、それでも「星明かりで充分」というのは、「情報」としてではなくて、「情景」として美しい。月明かりで、真夜中の林道を歩いた経験は忘れがたいが、星明かりで歩いたという経験はついぞない。残念なことだ。
竹さんには、謙作の「不眠」が理解できない。「そりゃあ、困ったね」と笑う竹さんには、近代知識人の悩みは無縁なのである。それだけに、爽やかだ。
『暗夜行路』 170 「ChatGPT」の力を借りて 「後篇第四 十六」 その4
2025.5.21
今日の手紙は早くて、明後日(あさって)、隔日しか登って来ない郵便脚夫が今日来なければもう一日遅れて直子の手に入るわけだと思った。彼は机に向い、読みかけて、そのままになっていた、元三大師(がんさんだいし)の伝を読み始めた。よく田舎家の入口などに貼ってある元三大師鬼形(きぎょう)の像のいわれを面白く思った。上野にある両大師の一人が元三大師だという事も初めて知った。
よく言われることだが、今のネット社会からすれば、悠長な話である。といっても、そんなに大昔のことではない。つい50年ほど前、ぼくが学生だったころは、手紙をポストに入れてから、返事が返ってくるのは、はやくても1週間後ぐらいだったのではなかろうか。メールの返事が、翌日になってもない、なんて怒るのは贅沢というものだ。
家に帰った謙作は、読みかけになっている帝国文庫の『高僧伝』の元三大師のくだりを読み始めた。この元三大師というのは、文庫本の注によれば、「天台宗の僧、良源のこと。永観三年(九八五)正月三日に入滅したのでこう呼ばれた。」とある。この元三大師は、疫病などが流行したとき、自らが鬼の姿に変身して魔を退けたという伝説があり、その鬼になった姿を絵にしたのが「角大師(つのだいし)」で、この絵を玄関や門口にはっておくと、魔除けになるといわれ、大変にはやったらしい。これが、謙作が言う「よく田舎家の入口などに貼ってある元三大師鬼形(きぎょう)の像」だろう。
当時は、そんなお札はごく普通に見られたのだろうが、現在のぼくらがここを読んでも何のことやらわからない。ちなみに、ぼくもそんなお札は見たことがない。ただ一般に「厄除け大師」と言われるときの「大師」は、この「元三大師」を指すらしい。ただし、ぼくも行ったことがある川崎大師も厄除けで有名だが、それは「弘法大師」ということだ。また、今でもはやりの「おみくじ」も、元三大師が創始したという説がある。
などと知ったかぶりして書いているが、この辺は、ぜんぶ「ChatGPT」にぼくが質問して得た回答をまとめたもの。だから、絶対正しいっていえないかもしれないが、案外ちゃんとしているようだ。
それにしても、そろそろ大詰めだというのに、こんな寄り道をしていていいのだろうか。ここに元三大師が出てきてもこなくても、話の展開には関係なさそうなのだが。
さて、話はつぎのように展開する。
その時、彼は玄関に聴き馴れない男の声を聴いたが、自分に客のあるはずはなく、庫裏への客が間違えているのだろうと少時(しばらく)そのままにしていたが、また、同じ声がしたので、出て行った。四十前後の坊主が如何にも慇懃(いんぎん)な様子で立っていた。
「ちょっとお邪魔致してもお差支(さしつか)えございませんか」
何か間違いだろうと思ったが、謙作は書院と玄関とのあいだの間(ま)に通した。坊主は具合悪そうに奥の間、玄関の間などを見廻していたが、本の積んである床の間に眼をやると、
「何か御研究でもなさっておいでですか」といった。
「いいえ」謙作は坊主の何となく俗な感じがいやだった。間違いでないとすれば、どうせ《ろく》な用ではないだろうと思い、故意に不愛想に黙っていた。
初対面の人間に対して(いや、初対面じゃなくても)、謙作は、すぐに「好き・嫌い」の感情をむき出しにする。表面には出さなくても、心の中でむき出しにする。ここでも、「謙作は坊主の何となく俗な感じがいやだった。」といきなり感じるのだが、「坊主」は、ただ、挨拶して、入ってきて、本棚の本をみて、質問をしただけである。それなのに、謙作は、そこから「俗な感じ」を受け取る。「坊主」の描写をあまりしないから分からないのだが、あえていえば「如何にも慇懃(いんぎん)な様子で立っていた。」といったところに、「俗な感じ」を受ける理由があるのかもしれない。「慇懃」というのは「人に接する物腰が丁寧で礼儀正しいこと。」であるが、その前に「如何にも」という言葉が挿入されている。つまりは、その丁寧で礼儀正しい物腰が、「わざとらしい」と謙作は受け取るのだ。敏感といえば敏感である。今でいえば、訪問販売員の物腰みたいなものだろう。しかし、ここは「坊主」なのだから、そこまで「俗」(つまりは欲得目当て)であるはずもないのだが、案外謙作のこの直感は当たるのである。
それはまた『暗夜行路』冒頭の、幼い謙作がいきなり現れた「祖父」に感じた「嫌悪」を思い起こさせる。
で、この「坊主」は、謙作を禅の講習会に誘いに来たのだが、その裏には、謙作の使っている広い部屋を講習会のために貸してもらえないかと言いだすのだ。
この辺のことを、引用すると長いので、かいつまんで書いておくと、こんなふうになる。(ここでも「ChatGPT」にお願いして、まとめてもらいました。いやあ、便利だなあ。ちなみに、「ChatGPT」にお願いしたのは、今回が初めてです。「ChatGPT」のご紹介も兼ねてということで。)
ある日、謙作のもとに、万松寺の住職を名乗る坊主が訪れ、金剛院で開かれる十日間の禅の講習会への参加を勧める。講習会は小学校教員の希望で企画されたもので、講義をするのは住職本人ではなく、天竜寺の峨山和尚に師事した修行僧だという。住職自身は禅宗ではないが、主催者として協力しているという立場であった。
謙作は最初は無関心だったが、信行から以前聞いていた「峨山の弟子」ならば一通りの修行を積んだ坊主かもしれないと少し関心を持つ。「臨済録」をテキストにするという話を聞くと、ちょうど兄からその本をもらって持っていることを話し、住職を驚かせる。
住職は謙作が禅に詳しいのではと期待するが、謙作は「全然知りません」と答える。それでも住職は、「それも因縁」として、難しく考えずぜひ参加してほしいと熱心に勧誘を続ける。公案の話題にも触れるが、謙作は「考えてから返事します」とやや曖昧に返す。
しかし謙作の内心には、今目の前にいるこの住職と十日間も関わることになるのかと思うと、すでに気が重く、気乗りしない気持ちがあった。住職はなおも言葉を尽くして誘うが、謙作は最後まで返事をしなかった。勢よく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(はふ)った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了(しま)ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に残つたおき火を櫂で上手に水を撥ねかして了つた。
舟に乗つた。取りの焚火はもう消えかかつて居た。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。
これが文庫本で3ページにわたる、ほぼ会話で描かれる事情である。それを「ChatGPT」は、会話文をつかわず、話し合われた内容をじつに見事にまとめている。しかも、このまとめには、ぼくは一切手を加えていない。いやあまったく何という世の中になったんだろう。
さて、「あとでお返事します。」という謙作に住職は「そう仰有(おっしゃ)らんでぜひ……」と食い下がる。その後を引用しておこう。
謙作は返事をしなかった。坊主はちょっと具合悪そうにしていたが、急に改った調子で、
「実は、そこで一つお願い致したい事があるのでありますが……」といいだした。
話の要領は、下の金剛院には離れがなく、師家と講習生とが襖(ふすま)一重で隣合っているため、一人一人に授ける公案が他(た)に漏れてしまう。それが困るので、もし謙作が講習生の一人になり、他の人々と合宿してくれれば、この離れを師家のために使う事が出来る。もしそうしてもらえれば非常に好都合なのだ、幸い禅に理解があり、公案がどういうものかを御存知なので、お願いするにもし易く、大変幸であった。────こういう話だった。
謙作はすっかり腹を立ててしまった。坊主の話にいくらか釣られた形だったのでなお腹を立てた。
「最初から、それをいうなら、考えようもありますが、おだてるような事を貴方はいわれた。それでは貴方に乗せられる事になる」謙作は腹立(はらだち)から、こういう言葉を繰返した。
「それは誤解です。私は最初からそんな目的で伺ったのではないのです。一人でも多く、求道の方を得たいと思いまして、それで、お勧めに伺ったのですが、伺うて初めて、この離れが師家に大変好都合な御部屋だと考えたので、甚だ不躾(ぶしつけ)とは思いましたが、ついお願いして見たまでで、最初から此所(ここ)を空渡(あけわた)して頂きたい────そんな考で伺ったのではないのです。この点をよく御諒解戴かんことには私が如何にもずるい人間かなぞのよ
うで……」
「それは嘘だ!」とうとう、謙作は怒鳴った。
「どうしてですか」坊主もちょっと調子を変え、青い顔をした。
「そんな見えすいた嘘をいっても駄目だ」
二人は黙って暫く睨合(にらみあ)っていた。そのうち、坊主は不意に衣の袖をばっと両方へ拡げると、おかしいほど平蜘蛛になって、
「御海容を願います」といった。その急な変り方に謙作はちょっと呆気にとられた。
結局、静かな部屋を他に探してくれれば此処を空渡してもいい、必ずしもこの寺でなければならぬという事はないのだから、と謙作もいい、坊主ももしそうしてもらえればありがたい事だ、といって帰って行った。謙作は下らぬ事で、折角(せっかく)の静かな気分を打壊した事を馬鹿馬鹿しく思った。しかしそれに余り拘泥しない事にした。
でました! 謙作の癇癪、ってとこだね。怒鳴ってしまってから、「下らぬ事で、折角の静かな気分を打壊した事を馬鹿馬鹿しく思った。」なんて反省しているけど、「しかしそれに余り拘泥しない事にした。」と開き直っている。謙作の自然と同化したかのような境地は、実に馬鹿馬鹿しいこんなレベルのことで、簡単に壊れてしまい、なんのことはない、いつもの癇癪持ちの謙作に戻ってしまう。こんなことなら、今後の直子との生活だって、どうなることやらと思いやられる。
しかし、「それに余り拘泥しない事にした」というのは、開き直りではなくて、そういう癇癪を起こすことはあっても、すぐに「静かな気持ち」に戻ることができるだろうという自信の表れなのかもしれない。これからの直子との生活で、謙作がまったく癇癪を起こさずにいられるということは、現実的ではない。なんども、癇癪を起こしながら、何度もそれをやりすごしながら生きて行く、それしか謙作にはできないだろう。そのことを、謙作自身が深く納得しているのかもしれない。
それにしても、この二人のやりとりは妙にリアルで、おもしろい。大の大人が睨み合って、そのあと、「坊主」が「平蜘蛛」になってしまう。それを「おかしいほど」と書く。謙作は呆気にとられて思わず心の中で笑ってしまったのだろう。それで急に話がまとまってしまう。こういった事の成り行きは、謙作には珍しい体験だったのかもしれない。都会の知識人では、あり得ないような「坊主」の行動だろう。話をどこまで詰めていっても、煮詰まるだけで、解決の糸口がみつからないような状況で、とつぜん「平蜘蛛になる」という行為は、案外効果的なのだ。
ちなみに、「平蜘蛛」というのは、「ヒラグモ」という薄べったい蜘蛛の一種らしいが、かなり古くから「平身低頭する。はいつくばるさま。」(日本国語大辞典)で、江戸時代の浄瑠璃にすでに用例がみえ、また森鴎外も「平蜘蛛になってあやまる」という用例が「ヰタ・セクスアリス」にある。今では、まず使わない言い方だが、当時はかなり一般的だったのだろう。
そんなこんなで、「十六」は終わる。残るは、あと四章である。
志賀直哉『志賀直哉『暗夜行路』 171 小説の神様 「後篇第四 十七」
2025.7.17
禅の坊さんとちょっとしたいさかいがあって、不愉快な気持ちになった謙作だったが、まあ、あんまり拘るまいと思っていたところ、その夕方、意外な話を聞くはめになった。
夕方、想いがけない話をお由から聴き、謙作はすっかり不快(いや)な気持になった。竹さんの女房が痴情の争(あらそい)で、情夫と一緒に重傷を負い、危篤だという知らせがあり、竹さんは倉皇(そうこう)、今、山を下って行ったというのだ。
「可哀想ですわ、竹さんはそんな悪いおかみさんでも少しも憎んでいないのですからね、きっとこんな事になると思っていた、と泣いていたそうです」
「気持の悪い話だな」
「斬った方は竹さん以前からおかみさんと関係のあった人で、斬られたのも竹さんのお友達で、一緒に山へ来た事のある人だそうです」
「その細君というのは、助かりそうなんですか」
「竹さんの帰るまで持たないだろうと誰かがいってましたわ」
「もし助かっても、そんなの、もう駄目だな」彼は吐捨てるようにいった。
「それが、竹さんには、そういかないらしいですわ」
謙作は不思議な気がした。しかしそういう竹さんだから、その渦に巻込まれなかったのだ、と思った。
「実は先刻(さっき)会って、明日の晩、山を案内してもらう約束をして来たばかりなんだ」
「そうそう。お母さんがいってました。——でも、代りの人があるそうです」
叡山に次ぐ天台の霊場などいわれる山に来て、なおかつ、こういう事を聴かねばならぬというのは如何にも興醒(きょうざめ)だった。ただ竹さんが、完全に事件の圏外にいて、その災厄を逃れた事はよかった。彼はその朝、お由から竹さんの話を聴き、竹さんが多少、変態なのではないかしらと思ったが、今はそれより、竹さんのはその女房を完全に知るための寛容さであったかも知れぬと思った。性質と、これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。さっき気楽に話合っていた、恐らくその頃、山の下ではそんな血塗騒(ちまみれさわぎ)が演じられていたのだ。如何に超然たる竹さんでも、今頃は参っているだろう。女を憎んでいないとすれば、恐らく悲嘆に暮れているかも知れないと、彼は思った。【注】倉皇=あわただしいさま。あわてるさま。いそぐさま。副詞的にも用いる。(日本国語大辞典)
この事件のことを知り、謙作は、なぜだらしのない女房に文句ひとつ言わず、いいなりになっていたのかという疑問に対して、「竹さんのはその女房を完全に知るための寛容さであったかも知れぬと思った。性質と、これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。」と分析する。
竹さんはマゾヒズムとも言える「変態」かもしれないと思いつつ、一方では、「女房を完全に知るための寛容さ」だったのかもしれないと考える。そして更に「(女房の)性質と、(女房の)これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。」と結論づける。(女房の)を補ってみたが、妥当だろう。
しかし、竹さんは、そこまで意識的だったとは思えない。どんなにひどい仕打ちを受けても、竹さんにはその女房しかいなかったのだ。我慢するしかなかったのだ。それが現実であろう。ただ、謙作から見れば、そうでも解釈しないと竹さんを一人のまともな人間として捉えることができない。あるいは、そう解釈してまで、竹さんを肯定的に受け入れたいということだったのかもしれない。「そんなヤツ、変態だ。」といって切り捨てることはできなかったのだ。
物語も最終盤に来て、ずいぶん重い話を持ち出したものだと思うが、このとんでもない痴話げんかの果ての「血塗騒」も、もちろん謙作にとって他人事ではなかった。謙作の苦悩の根源にある「不貞」と、この話はつながっているからだ。謙作のこころはそちらに向かう。
「注」をつけておいたが、「倉皇」という言葉は、初めて知った。誤植じゃないかと思ったけれど、調べたら、相当前から使われていた言葉のようで、漱石の「吾輩は猫である」にも用例があった。(「細君は〈略〉倉皇針箱と袖なしを抱へて茶の間へ逃げ込む」)今では完全に「死語」だ。このように、長いこと使われてきたのに、突然まったく使われなくなる言葉というのは、いったいどうしてそうなるのだろう。不思議なことである。
謙作は母の場合でも直子の場合でも不貞というよりむしろ過失といいたいようなものが如何に人々に祟(たた)ったか。自分の場合でいえば今日までの生涯はそれに祟られとおして来たようなものだった。総ての人が竹さんのように超越出来れば、まだしも、──その竹さんとても不幸である事に変りはないが、──そうでない者なら、何かの意味で血塗騒を演ずるような羽目になるのだ。謙作自身にしても、もし自恃(じじ)の気持がなく、仕事に対する執着がなかったら、今頃はどんな人間になっていたか分らなかった。
「恐しい事だ」謙作は思わずこんな事をいった。
「本統に恐しい事ですわ」とお由は謙作とは別な気持で答えた。そして、「でも、私には竹さんのおかみさんの気持が分りませんわ」といった。
「そんな女を少しも憎めない竹さんも変っている」と謙作はいった
自分の生涯は、「不貞」あるいは「過失」に祟られどおしだったと謙作は思う。それを完全に超越しているかに見えた竹さんも、不幸であることに変わりはないが、「血塗騒」には巻き込まれなかったとはいえ、間接的は巻き込まれている。それが「超越してない者」なら、この情夫のように事件の当事者となってしまう。
謙作は、自分には「自恃」と「仕事に対する執着」があったから、そうした当事者にもならず、なんとかまともな生活を送ってくることができた。そう考えるのだ。
謙作の言った「恐ろしいことだ」という言葉は、人間が心の中にとんでもない闇を抱えていることに対する「恐ろしさ」だ。
つい最近、キンダースペースの「モノドラマ」で、志賀直哉の「范の犯罪」を見たのだが、そこに描かれる無意識の殺意、のような恐ろしさを、ここでも感じる。人はだれでも、そういう闇を抱えていて、それが、ふとしたときに表面化してしまう。そして、ふとしたことで、それが殺人にまでなってしまう。
実は、その「恐ろしさ」を、謙作は、直子を列車から突き落としたとき、痛切に感じていたのではなかったか。直子は腰から落ちたからよかったものの、打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくない状況だったのだから。
お由の「本統に恐しい事ですわ」という言葉が、謙作のそれとは「別な気持」であったのは当然である。お由は、ただこの血なまぐさい事件に驚いているだけだからだ。
翌日はよく晴れ、山登りには好適な日であったが、謙作は昨日の暗い気分が滓(かす)で残っていて、妙に億劫(おっくう)で、気が進まなかった。とにかく、その晩の山登りは止(や)める事にした。
午後彼は阿弥陀堂へ行き、その縁で一時間ほど、凝然(じっ)としていた。子供から母を憶う時、よく一人、母の墓へ出かけたが、同じ気持で、此所(ここ)へ来る事を彼は好んだ。人はほとんど来ず、代りに小鳥、蜻蛉、蜂、蟻、蜥蜴(とかげ)などが沢山其所(そこ)には遊んでいる。時々、山鳩の啼声(なきごえ)が近い立木の中から聴えて来た。
帰途、不二門院(ふじもんいん)という荒寺へ行った。見上る大きな萱屋根が更に大きな杉の木の間に埋(うず)まっている。久しい空寺(あきでら)らしく、閉めた雨戸の所々、板が剥取(はぎと)られてあった。彼は下駄穿(げたば)きのまま入って見た。
正面には本尊も何もない大きな仏壇があり、その両側が一間ほどずつ開けはなしの押入れのようになっていて、何十とも知れぬ大きな位牌がほこりにまみれ、立ったり倒れたりしていた。代々の住職、大檀那(だいだんな)という人たちの位牌らしく、桃山建築にあるような唐破風(からはふ)のついた黒塗金字の大きな位牌が算(さん)を乱しているのは余りいい気持ではなかった。恐らく野鼠、木鼠(きねずみ)の仕業だろう。
暗い庫裏(くり)の長い土間に大きな《ながし》があり、その上に畳一畳ほどの深い水溜(みずため)の枡があった。半分は屋内に、半分は屋外に出ていて、筧(かけい)から来る山の清水が、それから滾々(こんこん)と溢れていた。杉の枝を漏れる夏の陽が山砂の溜った底の方まで緑色に射込み、非常に美しく、総てが死んでしまったようなこの寺で、此所だけが独りいきいきと生きていた。彼はまた、反対側の書院の方へも行って見たが、荒れかたが甚しく、周囲四、五町、人家のない森の中の淋しい所ではあるが、住めれば住んでみてもいいような気で、見に来たが、その事は断念した。
これはまたなんという素晴らしい描写だろう。何度も何度も書いてきたことだが、この「暗夜行路」という小説には、本筋とはあまり関係のない部分に、際だって優れた文章がある。なくたって、いっこうに構わない部分なのに、いやに気合いをいれた文章を綴るのである。
この荒寺の様子も、いちおう自分の住むところの候補として見に行ったということではあるのだが、それにしても、その荒廃の様子が、4K映像でみるような解像度で描かれている。
まずは、阿弥陀堂の描写。人気のない境内に遊んでいる小動物たち。聞こえてくるヤマバトの声。謙作の心のなかに静かによみがえってきているであろう母の墓地で過ごした時間の遠い記憶。
その後、不二門院の荒廃ぶり。こんなにもこの寺が荒れているのも、おそらく明治の廃仏毀釈の影響であろう。さまざまな位牌が埃をかぶって散乱しているさまを、「算を乱している」と表現する。この言葉もまた分からないので、調べてみると、「算を乱す=算木を乱したように、列を乱す。ちりぢりばらばらになる。散乱する。算を散らす。(日本国語大辞典)」とあった。この言葉もほとんど「死語」だ。
そうした室内の荒廃ぶりのあとに描かれる「半分は屋内に、半分は屋外に出て」いる「畳一畳ほどの深い水溜の枡」の美しさ。屋内の仏壇だの位牌だのがすべて埃まみれですすけているのに、この「深い水溜の枡」に、山の清水が滾々と溢れている様は、簡潔な描写だが、ため息がでるほどだ。
彼がまた寺に帰って来た時、赤児を抱いたお由が石段の上に立っていた。
「留守に昨日の人は来ませんでしたか」
「来ませんわ。それにそんな都合のいい所なんて他にあるわけがありませんわ」お由はその坊主にいくらか反感を現わしていった。
「来なければ丁度いい。実は今、不二門院へ行って見たが、荒れ方があまり甚(ひど)いので……」
「ほう、とても、とても」とお由は首を振った。上が一直線のような妙な形をした握拳(にぎりこぶし)をロ一杯に入れていた赤児が、涎(よだれ)に濡れた手を謙作の方に差出し、身体(からだ)を弾ませながら大きな声をあげ、なお、抱かれるつもりか身体を無闇に彼の方に屈(ま)げて来た。
「この間、コンデンス・ミルクを嘗(な)めさしたんで、味をしめたな」謙作は笑いながら、
「駄目だ、駄目だ」と、そのまま自分の部屋へ入って行った。
阿弥陀堂、不二門院を描く文章の後に、すっと力を抜いた文章がきて、しめくくる。解像度の高い写真のとなりにある、ラフな画像のスナップ。あるいは、緻密に描かれた水彩画のとなりに、ペンでさっと描かれたスケッチ、といったところだろうか。
そのスケッチも独特で、「上が一直線のような妙な形をした握拳(にぎりこぶし)をロ一杯に入れていた赤児」なんて、なんとも奇妙で、肉感的で、その後のヨダレをだらだら垂らして体を曲げてくる様子といい、リアルでユーモラスだ。
この章の最後の一文は、「『駄目だ、駄目だ』と、そのまま自分の部屋へ入って行った。」と極めて簡潔だが、それがとても効果的だ。天才的としかいいようがない。まあ、「小説の神様」だからね。それを否定する人もいるけど、やっぱりぼくは否定できない。
小説は、たった一行でも、心に残る文章があれば、それでいいのである。
『暗夜行路』 172 「自分のこと」がいちばん分からない 「後篇第四 十八」その1
2025.7.20
山登りは延期になり、数日が経った。竹さんの家の状況は分からないし、竹さん自身の消息も分からない。謙作は竹さんのいないことを淋しく思ったが、とにかく、山登りの連れを他に探してもらうことにした。
謙作は竹さんの帰るのを待って山登りをしようと思っているのではなかったが、竹さんとの約束が駄目になると、つい億劫な気持で、延していたが、こう天気続きで今度降り出すとまた降り続きそうにも思われ、今の間に山登りをしてしまおうと思った。そして帰ると、彼は早速寺のかみさんに山の案内者を頼んだ。
「連れはどうでもいいから、なるべく、明日の晩という事にして下さい」
「そうですか? 一人に一人の案内人は無駄なようにも思いますが、天気が変ると、あの時出かければよかったというような事になるかも知れませんからね。……まあとにかく、案内人の都合を訊合(ききあ)わして見ましょう。いいお連があるかも知れないし」
「そうして下さい」
庫裏の土間に立って、二人がこんな事をいっている所に、戸外(そと)から巻脚絆に草鞋(わらじ)穿きの若い郵便脚夫が額の汗を拭きながら入って来た。彼は尻餅をつくように框(かまち)に腰を下ろし、紐で結んだ一卜束の手紙を繰り、中から二、三通の封書を抜きとり、其所(そこ)へ置いた。
「どうも御苦労さん。今日あたりは《えらい》だろうね。お茶がいいかね。水がいいかね」
「水を頂きましょう」
「砂糖水にしようか」
「すみません」
謙作は郵便脚夫が手紙の束を繰る時、ちょっと眼で直子の字を探したが、勿論まだ返事の来るはずはなかったので、
「それじゃあ、連があってもなくても、なるべく明日の晩という事にして下さい」台所へ行く上さんにこう声をかけ、自分のいる離(はなれ)の方へ引還そうとした。
「そうそう」
郵便脚夫は急に何か憶い出した風で、上着のボケットを一つ一つ索(さぐ)って、皺(しわ)になった電報を取出すと、「ええと……時任さんは貴方(あなた)ですね」といった。
謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。彼は自分の動悸を聴いた。
「お宅からですか?」コップを載せた盆を持って出て来た上さんがこういった。その如何にも暢気(のんき)な調子が謙作を一層不安にした。
「オフミハイケン、イサイフミ、アンシンス、ナオ」
「ありがとう」謙作は郵便脚夫に礼をいい、無意識にその電報をいくつにも畳みながら、自分の部屋へ還って来た。
何故、そんなにドキリとしたか自分でもおかしかった。彼は電報の返事を全然予期しなかった事が一つ、それに手紙を出してしまうと、もっと早くそれをいってやるべきだった、というような事をこの二、三日切(しき)りに考えていた、更に竹さんの家(うち)の不快(いや)な出来事が彼の頭に浸込んでいた、その聯想が電報で一遍に彼の頭に閃いたのだ。何れにしろ、馬鹿気た想像をしたものだと彼は心に苦笑したが、「とにかく、これでよし」と、彼は急に快活な気分になった。そして何度か電報を読み返した。
直子への手紙を出してから、謙作はとくにそこのことについてそれほど心配しているふうでもなかったが、郵便脚夫から電報を渡されると、ドキッとして、「直子が死んだ」と思った。
このあたりの書き方にはびっくりする。
ドキッとして、すぐに「直子が死んだ。」と思ったのは、渡されたのが電報だったからだ。電報というのは、やっぱりドキッとする。それはごく普通の反応だ。
しかし、それに続けて「自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。」と断定するところがすごい。「自殺」はいいとしても(別によくはないが)、その後の、「居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。」というのは、ずいぶんと飛躍した推測だ。自殺は、すぐに、川への身投げか、海への入水か、とにかく、遺体が見つからないという状況を連想する。その連想のあり方に驚かされるのだ。
そして「彼は自分の動悸を聴いた。」と続く。「自殺だ」→「やっと遺体が発見されたのだ」→「ドキドキした」となるわけだが、それをいっさいの心理的描写を抜きにして、妄想的断定を書いた後に、自分の身体の動揺を書く。それを、将棋の駒でも置くように、ポンポンと並べる。
と、こう書いて、最初はアップしたのだが、アップしてすぐに友人から電話があり、そりゃおかしいんじゃないかとの指摘があった。「自殺して、遺体がなかなか発見されなかった」というんじゃなくて、「居所」というのは謙作の住所のことで、それが分からなかったから、「今まで知らすことができなかった」のであって、謙作からの手紙が来たので、やっと「居所=謙作の住所」が分かって、電報がきたのだ、ということじゃないか? ってことだった。
まさにその通りだ。なんで「居所」を、直子の「遺体」だと思ったのだろうか。まったくとんでもない勘違いだ。友人の指摘が正しい。で、この辺を全面的に書き直そうと思ったけど、以前にも、こういうぼくの勘違いがあったので、まあ、そのまま残しておこうと思った。そういうわけで、この部分でのぼくの「驚き」は、勘違いからくる「驚き」であることを確認しておきたい。
「Yoz Home Page」に収納するときは、この部分は修正したいと思います。(しませんでした。)
そうしておいて、「コップを載せた盆を持って出て来た上さん」を登場させて、「お宅からですか?」と暢気な調子でしゃべらせる。その「暢気な調子」が「謙作を一層不安にさせた」と書く。このような対比的な書き方で、謙作の不安をいっそうあおることになる。
しかし、その後の謙作の動作や心理の描写をいっさいしないで、いきなり電報の文面を示す。ここがまた尋常じゃない。
不安になりながら、おそるおそる電報の文面に視線を投げる。その謙作の目に飛び込んでくる言葉。この一連の流れの中に、いくらでも心理的動揺を示す表現を入れることができるのに、それを志賀はしない。完全に空白にする。
思えば、それこそが現実なのかもしれない。現実というのは、あっという間に襲ってきて、ぼくらを呆然とさせる。そこに心理的な表現の入る余地はないのだ。
電報を「無意識にいくつにも畳みながら」部屋に戻った謙作は、そこではじめて、自分のこころの動きを反芻して、「苦笑」することになる。なんで謙作は、いきなり「自殺」とか、「遺体が見つからない」とかいった連想をしたのかが、ここで明かされるわけだ。竹さんの事件が、そういう連想を生み出したのだと、謙作は納得する。「とにかく、これでよし」として、「急に快活な気分になった」謙作は、電報を何度か読み返す。電報を読み返す謙作の姿に、謙作の安堵がいたいほど感じられるのだ。
その晩、彼は蚊脹の中の寝床を片寄せ、その側(そば)に寝そべって、久しぶりに鎌倉の信行に手紙を書いた。彼は自分がこの山に来てからの心境について、細々(こまごま)と書いてみるのだが、これまでの自分を支配していた考が余り空想的であるところから、それから変化した考も自分の経験した通りに書いて行くと、如何にも空虚な独りよがりをいっているようになり、満足出来なかった。そういう事を書く方法を自分は知らないのだとも思った。そしてそれよりも直子かお栄の手紙で自分の旅立ちを知り、心配しているかも知れない信行を安心さすだけの手紙を書く方がいいと思い直し、五、六枚書いた原稿紙の手紙を二つ折りにして、傍(わき)のポート・フォリオヘ仕舞込んだ。
【注】ポート・フォリオ=書類入れ。(ずいぶん、ハイカラな言い方を使っていたものだ。)
謙作は信行に手紙を書く。信行にはこの旅について、なにも言ってなかったのだ。その手紙を書きながら、「自分の経験した通りに書いていく」と、それが「空虚な独りよがり」を言っているような気がして満足できない。そして謙作は、こう思う。「そういう事を書く方法を自分は知らないのだ」と。
ここは、非常に大事なところだ。「そういうこと」とは、つまりは「自分の心境」だ。自分の気持ちがどうであって、そこからどう変化して、今に至るかという経緯は、ほんとうなら、謙作自身が一番よく知っているはずだ。それなのに、それを「経験した通りに」書いていくと、どうも違うなあという気持ちになる。満足できない。そして「そういう事を書く方法」を自分は知らないのだというのである。
これは痛切な述懐で、志賀直哉自身、そのことを充分承知したうえで、その方法を探り続けていたのではないだろうか。『暗夜行路』が、いわゆる「私小説」とは一線を画しているのは、その故であろう。といって、「私小説」が、この方法に無自覚であったとは言えないとも思うのだが、その辺の研究は山ほどあるのだろう。
この小説を書くことの根本的な問題について、古井由吉が、講演でこんなふうに語っている。
本来小説は、書き手が熟知というか、ほんとうによく知っていることを書く、これがあるべき姿ですよね。それこそ筆も豊かになるし、展開も力強く、細部も満ちる。日本で、明治三十何年に自然主義が発生したときに、人はそういうふうに考えた。自分がよく知っていることを、偽りや虚飾なく書くと。そこからいつのまにか私小説というものが出てきて、日本の文学の主流みたいになる。自分がよくよく知っているのは「自分のこと」だから、自分のことをありのまま、虚飾なく書くことが文学のまことだ、そういう論理なんです。でも、この論理に落とし穴があることはわかるでしょう。自分のことが、いちばんわからないんですよね。
それでも仮に、自分のことは、ほかのことに比べればつぶさに知ってると、そういうところから出発しましょう。で、書きはじめますね。書いてるうちに、どうも自分が考えたことと文章が違う、そういう疑惑にとりつかれる。これが最初のつまづきです。ところが、これがまた逆転するんですよ。一所懸命書いてると、文章のほうに、文章としての現実味が出てくる。それに照らしあわせて、自分が思っていたこと、自分が自分について知っていたことは、はたしてそうなんだろうかと、逆に自分の知っていたつもりのことに疑問をいだきだす。思っていることは書いていることに、もちろん影響を与えるし、書いたことがまた跳ねかえって、思っていたことを揺するんですね。いままで思いこんでたものが、書いてみると違った光で見えてくる。これがゆらりゆらり揺れて、網渡りみたいなものになる。で、この場合も最後には、転ぶ寸前にゴールに倒れこむ。
小説の終わりというものは、ある程度のキャリアを経れば、書いてるうちにおのずから興奮はあるでしょう……絶望の興奮ってやつかな、それに疲れもたまってくる。疲れと興奮のないまぜになったものに悼さして、わあっと駆けこむ。ぽとりと落とす。「読むこと、書くこと」(平成十四年六月二十二日早稲田大学第一文学部文芸専修課外講演会/「早稲田文学」平成十四年九月号)『書く、読む、生きる』草思社文庫・2025年刊所収
この古井由吉の文章は、そのまま『暗夜行路』という小説の格好の解説となっているように思える。
「自分のこと」がいちばん分からない、という認識は、志賀の根底にあったと思う。だから時任謙作という主人公を設定し、そこに「自分のこと」を注ぎ込んだのだが、書けば書くほど分からなくなってくる。そのうち、古井のいう「逆転」が起きて、「文章のほうに、文章としての現実味が出てくる」といった事態が生じる。それと「自分」をどう重ね、どう離れるか、といった難題に苦しんだ結果が、完結までの26年ということではなかっただろうか。とにかく、『暗夜行路』の結末は、「これがゆらりゆらり揺れて、網渡りみたいなものになる。で、この場合も最後には、転ぶ寸前にゴールに倒れこむ。」がぴったりくるのであって、古井は、ここを『暗夜行路』を頭において書いたんじゃないかと思われるほどである。この文章は、『暗夜行路』の最終章で、ふたたび参照できるかもしれない。
「もうおやすみですか」と襖の外から声をかけ、寺の上さんが顔を出した。丁度いい連(つれ)があり、明晩十二時頃から頂上行きをするからと、それを知らせに来たのだ。
「どうもありがとう。そうしたら、明日はせいぜい朝寝をするから、戸を開けないようにして下さい。昼寝が出来ないから、なるべく寝坊をしておくのです」
「承知しました」寺の上さんはなお、敷居際に膝をついたまま、声を落し、「それはそうと、竹さんのお上さんはとうとう死んだそうですよ」といった。
「そうですか。…•••そしてその男の方は?」
「男の方は助かるかも知れないという……」
「それから、竹さんの事は何か聴きましたか」
「その竹さんですが……殺した奴が覗(ねら)いはしないかと皆大変心配しているそうですわ」
「変な話だな。殺した奴はまだ捕まらないのですか」
「そうなんです。山へ逃げ込んだらしくてね」
謙作は不快(いや)な気がした。
「しかし竹さんを覗う理由は何にもないじゃありませんか。そんな馬鹿な事はないでしょう」
「そんな奴はもう気違いみたようなものですからね。やはり、竹さんも油断はしない方がいいですよ」
「それはそうに違いないが、竹さんは大丈夫ですよ」
「ああいう人ですから、そりゃあ大丈夫とは思いますけど……」
謙作は腹立たしい気持になった。そして、「この上竹さんが、またやられる……そんな馬鹿な事があって堪(たま)るものか」と思った。
明日の山行きは決まった。竹さんのお上さんは亡くなってしまった。お上さんの情夫は重症を負ったがどうなったかは分からない。殺した男は、逃げてまだ捕まっていないが、竹さんを今度は狙うんじゃないかと皆が心配している。どうして竹さんが狙われなきゃいけないんだと、謙作は腹をたてる。確かに変な話である。しかし、謙作が腹を立ててもしょうがない。しょうがないけど、やっぱり腹立たしい。それは分かる。
このエピソードは、古井由吉の言う「綱渡り」みたいなものなのかもしれない。
そして「第四 十八」は次のように終わる。
翌日(あくるひ)、謙作は出来るだけ朝寝をするつもりだったが、癖で、いつも通り、七時過ぎると眼を覚ました。前夜、信行への手紙を書き、少し晩(おそ)くなったところに、竹さんの不快(いや)な話を聴き、また一方では、自分の手紙を見た直子の事など、それからそれと考えると彼は寝つかれなくなった。遠く鶏の声を聴き、驚いて時計を見ると、二時少し廻っていた。
彼は眼は覚めたが、このまま起きてしまっては恐らく四時間も眠っていないと考え、無理に眼を閉じ、もう一度眠ろうとしたが、ただうつらうつらとするだけで、本統には眠れず、それでも十時頃漸く床を離れた。頭が疲れ、体もだるかった。今晩の山登りは弱るに違いない。しかしこの調子ならかえって昼寝が出来るかも知れぬと思った。
『暗夜行路』 173 誤読の顛末 「後篇第四 十八」その2
2025.7.21
いやはや、とんでもない誤読をするものであると、我ながら呆れている。前回、いちおう赤字で誤読でしたという旨を書き入れておいたが、なんだかゴチャゴチャしてしまったので、改めて書いておきたい。
問題は、謙作が郵便脚夫から電報を受け取ったとき、ドキッとして、こう思ったという記述だ。
謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。彼は自分の動悸を聴いた。
友人のHは、ここを読んですぐに、「居所が分からず」の「居所」を謙作の居所、つまりは手紙や電報の宛先となる住所のことだと理解したわけだ。それなのに、ぼくは、「居所」を「自殺した直子の居所」だととってしまい、この連想のあり方に驚かされる、なんて書いているので、そりゃないでしょ、と直ぐに電話をくれたというわけだ。
ちなみに、このHという友人は中学以来の友人で、我が家からあるいても15分ほどのところに住んでいる。専門は心理学なのだが、文学好きで、この「志賀直哉を読む」も毎回アップするとすぐに読んでくれて、「誤植」を指摘してくれるありがたい存在である。
その彼の指摘を聞いて、彼は、君のような読み方もあるかもしれないけれどと、控えめに言ってくれたのだが、話しているうちに、ぼくのとり方は、とんでもない勘違いであることが鮮明になった。というか、なんかここ変だよなあと頭の中が混乱しながらも、強引に感想を書いてしまった居心地の悪さが、ああ、そもそもがオレの勘違いだったんだと、スッキリしたといった方がいいだろう。
しかし、それにしても、勘違いどころか、言葉をまったく理解してないいうレベルだ。「居所」とは、今さら辞書で調べるまでもないことだが、「住んでいるところ」「住まい」「住所」という意味なのだから、「遺体の居所」なんて表現があるわけがない。まったく呆れるほかはない。
それなのに、どうしてそんなアホな誤読をしてしまうのか。これは、ぼくの根本的な欠陥なのだが、ものすごく思い込みが激しいというか、前後関係を把握する能力に乏しいというか、記憶力がないに等しいというか、そういうものの「集大成」だといえば、それでオシマイだが、まあ、それはそれとして、未練がましいことをいえば、ここを読んだとき、直子が謙作が今住んでいるところを知らないはずはない、という「思い込み」があったということだろう。
Hも電話で、直子が謙作の「居所」を知らなかったという記述はどこかにあるのか? と言っていたが、改めて調べてみると、謙作が直子に手紙を書いたのは、この前の一度きりで、今ここに着いたとか、今はここに落ち着いているとかいった手紙は一切書いていないのだ。今では考えられないことだが、直子は、だから謙作の「居所」を謙作の最初の手紙が来るまでまったく知らなかったのだ。
直子はすぐに謙作に返事を書いたのだろうが、しかし、その返事が届くには数日かかるだろう。謙作はきっと返事を待ちわびているだろうと思って、とりあえず電報を打ったのだ。その電報がかえって、一瞬、謙作を不安に陥れ、「自殺」まで考えさせることとなった。
で、結局、ぼくの「誤読」の原因というのは、「居所」という言葉の意味をちゃんと捉えることができなかったという超基本的な読解力の欠如と、直子は謙作の「居所」を知っていたはずだという根拠を無視した思い込みの二つだということになる。
この連載も、あと2回というところまでやっとこぎ着けたのに、またぞろこんな誤読で、古井由吉のいう「綱渡り」をやってしまった。これに懲りずに、もう少しだけ、お付き合いください。
『暗夜行路』 174 大山の影 「後篇第四 十八」その3
2025.8.22
さて、いよいよ山登りだ。そして、この長い長い小説のほんとうのクライマックスだ。
山登の連(つれ)というのは大阪の会社員たちで、大社詣の帰途(かえり)、この山に寄った連中だった。謙作は二、三時問の昼寝で睡気の方はよかったが、昼飯に食った鯛にあたったらしく、夕方烈しい下痢をして、妙に力が脱け、元気がなかった。どうしようかちょっと迷ったが、六神丸(ろくしんがん)を定量の倍ほど呑んだら、どうやらそれも止ったので、やはり思い切って出かける事にした。
のっけから不穏な状況だ。「鯛にあたった」というが、刺身だったのだろうか。「六神丸」というのは、漢方薬だが、江戸時代から使われていて、今では改良されたものが売られている。調べてみると、「身体がだるくて気力が出ないようなときや、暑さなどで頭がボーッとして意識が低下したり、めまいや立ちくらみがしたときの気つけにもすぐれた効果を発揮します。」(救心製薬HP)とある。食中毒には効き目がないのだ。脱力感があったので、飲んだのだろうが、まあ、昔はこんな感じだったのだろう。定量の倍というのも、乱暴な話だ。
十二時頃寺を出た。提灯を持った案内者は五十近いおやじだった。会社員たちは若かったが、彼らは一週間の休暇を出来るだけ享楽したい気持で、殊更(ことさら)元気だった。洋服に地下足袋、それから茶代返しに違いない小さなタウルを首に巻き、自然木の長い金剛杖をてんでについていた。
「おっさん、その一升瓶を破(わ)らんように気をつけてや。おっさんにも御馳走(ごつつお)するさかいな」
こんな事を後ろから大声にいう者があった。
「何遍いうのや。そんなに心配なら、自分で担(かつ)いで行け」
「お前らも飲むものを一人で担いで行けるか。阿呆」
皆(みんな)が元気なだけ、謙作はその夜の自分の体力に不安を感じた。一緒に行って途中で自分だけ弱る事を考え、負けまいと意地張る事でなお苦しい想いをし、同年輩という事、そして自分だけが関東者だという事で下らぬ競争意識など持ちかねないと思うと不安を感じた。
「山にはもうよほど久しゅうおいでですか」肩を並べて歩いていた男が話しかけた。
謙作が一人別だという事を気の毒に思うらしく、この男はつとめて対手(あいて)になるようにしているらしかった。
「半月ほどいます」
「よう厭(あ)きられんですな。この山に二日凝然(じつ)としれいわれても私どもには、よう我慢でけまへんな」
前に歩いていた太った男が、振返り、
「聞かしとるな。うまいこと惚気(のろけ)とるぞ。──この男は旅行に出た晩から、帰りたがっとるです。最近、彼は妙齢の婦人と結婚したであります」といって、大きな声で笑った。
「こらッ」その男も仕方なく、照れ隠しに太った男の背中を強く平手で叩いた。
この会社員たちは、地元の連中なのか、あるいは大阪あたりから遊びに来たのか、関西弁が効果的だ。ただ、最後の「帰りたがっとるです」「結婚したであります」といった「です」「あります」という言い方は、確か、山口あたりの言葉じゃなかったろうか。調べてないのでよく分からない。
ここで、ちょっとびっくりするのは、「会社員たちは若かった」と書いてあるから、謙作は、「もう若くない」のかと思っていると「同年輩ということ」と出てくることだ。そうだ、謙作は、妙にジジクサイけど、まだ「若い」のだ。
この謙作の年齢については、すでに本多秋五がこんなことを書いている。
『暗夜行路』を読んで、一番気になるのは主人公の年齢である。時任謙作が読者の前に登場したときほぼ二五歳だとすると、彼が伯耆大山へ出かけるのはそれから五年目のことだから、ほぼ二九歳ということになる。伯耆大山の時任謙作がほぼ二九歳の青年だなどとは誰も思わないだろう。(中略)伯耆大山の謙作が老けすぎて見えるばかりではない。謙作は小説の発端からしてすでにその気味がある。(岩波新書「志賀直哉」)
「時任謙作年譜」を作った阿川弘之も、この文章を引用して同意して、こんなふうに書いている。
私もさう思ふ。年代不整合の問題と同じくらゐ、これは気になる問題である。吉原の引手茶屋へ仲の町の一流芸者を呼んでの堂々たる遊興ぶり、女たちや行きずりの人々に対する謙作の口のきき方、浮世絵の蒐集、美術品鑑賞に窺へるその方面の眼識、いづれを取っても、二十五、六の青年のものとは考へにくい。
(「時任謙作年譜」)
で、どうして大山登山の謙作がこうもジジクサイかというと、どうも、この最終あたりを書いていた時の志賀直哉が、「暗夜行路」を書き始めたころ(30歳)より大分年をとってしまっていた(54歳)ため、その年齢が謙作の年齢に無意識的に反映してるんじゃないかといったようなことを阿川は言っている。
まあ、それならしょうがないが、確認しておきたいのは、この大山登山の時の謙作の年齢は、30歳であるということだ。
その謙作が、激しい食あたりで、元気をなくしているとはいえ、「同年輩」の若いサラリーマンたちの心情とはあまりにかけ離れていることは、ちょっと違和感もあるが、謙作がこれまで苦しんできたことを思うと、そのくらい精神的に老けたってしょうがないとも思える。
「妙齢の婦人と結婚した」若いサラリーマンと、謙作の対比は、見事で、謙作の孤独の輪郭を際立たせている。同年輩ゆえに、彼らへの対抗意識、そして関西人に負けまいとする意地。そんなことはくだらないとわかっていても、なんだか、張り合ってしまう謙作は、そういう自分の性格にも不安を感じてしまうのだ。
竹さんがよく仕事をしていた場所から十町ほど進むともう木はなく、左手は萱(かや)の繁った山の斜面で、空は睛れ、秋のような星がその上に沢山光っていた。路傍(みちばた)に風雨に晒(さら)された角材の道しるべが少し傾いて立っていた。それが登山口で、両方から萱の葉先の被(お)いかぶさった流の底のような凸凹路(でこぼこみあち)を、皆は一列になって、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)、お山は晴天(せいてん)」こんな事をいいながら、身体を左右に振りながら登って行った。前に四人、後(うしろ)に二人いると、皆(みんな)と同じ速さで歩かないわけにゆかず謙作は、段々疲れて来た。彼はそれでも我慢して登るつもりであったが、少し不安になった。一時間ほど登ると大分高い所へ来感じがした。夜でもそれが分った。そしてその辺で、とにかく、一卜休する事にした。
謙作は疲れた。気持にも身体にももう張りがなかった。これ以上同じ速さで皆について行く事は到底出来そうに思われない。彼は案内者に、
「身体が本統でないから、私は此所(ここ)から帰る。二時間ほどすれば、明くなるだろうし、それまで此所で休んでいる」といった。
「そうですか。それはいけませんな」そういって案内者は、「どんな具合ですか」と訊(き)いた。
謙作は大した事ではなく、ただ、下痢のあとで、体力が衰えているだけ故、心配せずに残していってくれといった。
「さあ、それにしても、どうしたらいいかね」
「本統に心配しなくていいんだ。遠慮せずに登って下さい」
「我慢出けまへんか。──なあ君、まだ大分(だいぶん)あるんかね」
「今の倍以上登らんなりませんな」
「降りる方はいいが、これ以上登るのは自信がない。どうか心配しないで残していって下さい」
皆が慰めるような事をいうのに一々答えるのも少し億劫(おっくう)になった。結局、彼一人残る事になったが、謙作への遠慮か、暫くして皆は黙り勝ちに登っていった。謙作は用意して来たスエーターを着、それを包んで来た風呂敷を首に巻き、そして路から萱の生えた中へ入り、落ちつきのいい所を探して、山を背に腰を下ろした。彼は鼻で深い息をしながら、一種の快い疲れで眼をつむっていると、遠く上の方から、今登って行った連中の「六根清浄、お山は晴天」という声が二、三度聴えて来た。それからはもう何も聴えず、彼は広い空の下に全く一人になった。冷々した風が音もなく萱の穂を動かす程度に吹いていた。
謙作は、とうとう、ひとり取り残された。連れの若者たちが、どんどん遠ざかっていく様子が、実に見事に描かれている。特に、最後の「彼は鼻で深い息をしながら」から最後までの二文は、名文というしかない。
そして、ここからは、それ以上の名文が続く。
「暗夜行路」が話題になるとき、きまってこの部分の「大自然に溶け込む感じ」が取り上げられるが、今回、数十年ぶりに読んでみて、いいしれない感動を感じた。
いろいろメンドクサイ、どうでもいいようなことがゴチャゴチャ書かれ、途中で放り出したくなる「暗夜行路」だが、そこを乗り越えて進んできたのは、まさに「ここ」を読むためだったのだと深く納得されるのだ。他を読まずに、ここだけ読んでも、ある程度の感動は得られるだろうが、「いろいろあったからこそ」のこの「境地」なのだと深く理解できれば、味わいもまたひとしおである。
疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子(けし)粒ほどに小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、── それに還元される感じが言葉に表現出来ないほどの快さであった。何の不安もなく、睡(ねむ)い時、睡(ねむり)に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のは全くそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持は全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
静かな夜で、夜鳥(よどり)の声も聴えなかった。そして下には薄い靄(もや)がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。しかし、もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾(うら)むところはないと思った。しかし永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。
彼は膝に臂(ひじ)を突いたまま、どれだけの間か眠ったらしく、ふと、眼を開いた時には何時か、四辺(あたり)は青味勝ちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少くなっていた。空が柔かい青味を帯びていた。それを彼は慈愛を含んだ色だという風に感じた。山裾の靄(もや)は晴れ、麓の村々の電燈が、まばらに眺められた。米子(よなご)の灯(ひ)も見え、遠く夜見ヶ浜(よみがはま)の突先(とっさき)にある境港(さかいみなと)の灯も見えた。或る時間を置いて、時々強く光るのは美保の関の燈台に違いなかった。湖のような中(なか)の海はこの山の陰になっているためまだ暗かったが、外海(そとうみ)の方はもう海面に鼠色の光を持っていた。
明方の風物の変化は非常に早かった。少時(しばらく)して、彼が振返って見た時には山頂の彼方から湧上るように橙色(だいだいいろ)の曙光(しょこう)が昇って来た。それが見る見る濃くなり、やがてまた褪(あせ)はじめると、四辺(あたり)は急に明るくなって来た。萱(かや)は平地のものに較べ、短く、その所々に大きな山独活(やまうど)が立っていた。彼方(あっち)にも此方(こっち)にも、花をつけた山独活が一本ずつ、遠くの方まで所々に立っているのが見えた。その他(ほか)、女郎花(おみなえし)、吾亦紅(われもこう)、萱草(かんぞう)、松虫草(まつむしそう)なども萱に混って咲いていた。小鳥が啼きながら、投げた石のように弧を描いてその上を飛んで、また萱の中に潜込んだ。
中の海の彼方から海へ突出(つきだ)した連山の頂(いただき)が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島(だいこんじま)にも陽が当り、それが赤?(あかえい)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟(けむり)が所々に見え始めた。しかし麓の村はまだ山の陰で、遠い所よりかえって暗く、沈んでいた。謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のように手繰られて来た。地を嘗(な)めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。
「自然との融合」ということはよく言われ、そうした体験をした人も多いのだろうが、正直なところ、ぼくにはそうした体験はない。中学生以来、山にもよく行ったし、昆虫採集で野山を駆け巡ったものだが、それはまた別の体験で、自然はあくまで「対象」であって、その中に、溶け込んでいくとか、吸い込まれていくとかいった感じをしみじみと味わったことはなかったのだということを、この部分を読んで、改めて知ったといっていい。
「暗夜行路」は、人間関係でいろいろ悩んだ主人公は、最後は大山に登って「自然との融合」を感じて救われた話だよと、簡単に要約してしまってはいけないのだ。
静かな夜で、夜鳥(よどり)の声も聴えなかった。そして下には薄い靄(もや)がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。しかし、もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾(うら)むところはないと思った。しかし永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。
「もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾(うら)むところはない」と謙作が思うのは、謙作の「自我」に劇的な変化があったからだろう。いつも「不快」と「快」の間で不安定な自我、どこまでも自己中心的な自我、いったん癇癪を起こすと妻だって列車のホームから突き落としてしまうといった始末に負えない自我、そういう自我をもてあまし、なんとか生まれ変わりたいと思ってやってきた大山で、謙作は、やっとその重苦しい自我が、まるで靄のように自然の中に溶け出していくのを感じたのではなかったか。
では、その「自我」はどこへ行ったのか。それは分からない。謙作は、この後、直子の元に帰って、見違えるように生まれ変わった姿を見せることができたのかは分からない。ただ、謙作の「自我」は、この部分の最後に現れる、「大山の影」がそれを象徴しているように、今のぼくには感じられる。
『暗夜行路』 175 「非常な努力」 「後篇第四 十九」その1
2025.8.24
謙作は、とうとう登山を断念して、寺へ帰ってきた。その姿に、お由は驚いた。
彼は十時頃、漸(ようや)く寺へ帰って来た。よく途中で、参ってしまわなかったと思うほど、彼は疲切っていた。玄関の板敷で赤児を遊ばせていたお由が、入って来た謙作の様子を見、謙作に声をかけるよりも、驚きから、「お母ァさん、お母ァさん」と家の中に向って、大声に呼立てたほど、謙作の様子も顔色も悪かった。
寺の上さんも驚いた。直ぐ離れに寝かせたが、熱が高く三十九度── 暫くすると、それが四十度に昇った。頭を氷で冷す一方、直ぐ麓の村へ医者を呼びにやり、ついでにその使に京都への電文を持たせてやった。それは謙作が譫言(うわごと)にたびたび直子の名を呼んだからでもあった。
ここで注目しておきたいのは、前の章(十八)の記述が、ほぼ謙作の視点で書かれているのに対して、この章は、視点は謙作をやや離れて、第三者の視点になっているようだということだ。この「視点」の問題というのは、小説にとっては非常に重要な問題で、一般には「一人称視点」「三人称視点」というように区別される。実験的な作品では「二人称視点」も使われることがあるが、まあ、あんまりない。(多和田葉子の作品にあった。)
「一人称視点」を厳密に守るとなるとけっこう大変で、主人公(「私」でも「彼」でもかまわないが)の見た光景しか書けないことになる。当然、他人の心の中は書けない。「ぼくは彼女が好きでたまらない。でも、彼女がぼくのことをどう思っているか分からない。」というような書き方になる。
いっぽう「三人称視点」は、別名「神の視点」とか「全知視点」とか呼ばれているとおり、誰の心の中も書くことができる。「彼は彼女が死ぬほど好きだ。しかし、彼女は彼のことなどまるで眼中になかった。」なんてことが平気で書ける。つまり「作者」あるいは「語り手」は、「神」の位置にいるから、なんでも知っているのだ。
ふつうの小説は、この二種類の視点が、入り交じっていることも多く、そのあたりが小説を読むおもしろさでもあるのだ。
いわゆる「私小説」では、当然のことながら、「一人称視点」で書かれる。ただ誤解しちゃいけないのは、「一人称視点」だからといって主人公が「わたし」とか「ぼく」とかいった一人称で示されるわけでは必ずしもないということだ。例えば田山花袋の『蒲団』は、「私小説」だと言われているが、「わたし」ではなく「渠(かれ)」が主人公の人称として使われている。
で、この『暗夜行路』はというと、主人公は「謙作」と呼ばれ、それは作者である志賀直哉と同一人物ではない。だから「私小説」ではないのだが、その多くの部分では、「謙作」は限りなく「志賀直哉」に近い人物となっていることもあり、それゆえに、『暗夜行路』は、「自伝的小説」と呼ばれることもあるわけだ。その辺が、微妙で、またおもしろいところだ。
ここでの「視点」に注目すると、「よく途中で、参ってしまわなかったと思うほど、彼は疲切っていた。」という部分では、「彼」を「私」に置き換えても問題ない。「よく途中で、参ってしまわなかった」というのは、謙作の思いであり、それは「第三者」が知り得ないことだからだ。だからここの「彼」は「私」でもいいのだ。
しかし、その謙作を見たお由が、驚いたあと家の中に向かって大声で叫んだ部分で、「謙作の様子も顔色も悪かった。」というのは、明らかに第三者(ここでは「お由」)から見た(つまり視点)光景である。寺の上さんが、医者を呼びにやったり、直子への電文を持たせたりした、とか謙作が譫言で直子の名を呼んだ、という記述もみな「三人称視点」で書かれているのである。この辺に注意したい。
さて、医者はどうなったのか。
村の医者が来たのは夜八時過ぎだった。上さんとお由とはそれまで幾度(いくたび)、戸外へ出て見たか知れない。日が暮れると、ほとんど人通りのない所で、それが、いつもと全く変りない静かな夜である事が、あたかも不当な事ででもあるように二人には腹立たしかった。要するに二人とも、親切者には違いなかったが、女二人だけの所で、もし謙作に死なれでもしたら大変だと思うのだ。とにかく、早く医者に来てもらい、この重荷を半分持ってもらいたい気持で一杯だったから、提灯と鞄を持った使を先に、巻脚絆草畦穿(まききゃはんわらじば)きという《いでたち》の年寄った小さな医者の着いた時には、二人の喜び方は一卜通りではなかった。
この部分では、「語り手」は、上さんとお由に入りこんで、その心の中を書いている。二人とも親切者には違いないが、謙作が重荷で、はやく厄介払いをしたいのだ、という分析は、謙作のものではないだろう。謙作は意識不明ではないが、うつらうつらしているという状態だ。ここは、「語り手」が(まあ、志賀直哉といってもいいが)、それが、上さんとお由の心の中をするどく剔っているということになる。親切と見える人たちの心の中にもエゴイズムがあるということを、志賀は見逃さないのだ。
「先生が見えましたよ。もし! 先生が見えましたよ」
先に一人走って来たお由が、彼の枕元に両手をつき、顔で蚊帳を押すようにして、亢奮しながら、こう叫んでも、謙作は薄く眼を開いただけで、何の返事もしなかった。しかし医者が入って来て、容態、経過を訊ねた時には、声は低かったが、案外はっきりそれに答えていた。鯛の焼物──五、六里先から、夏の盛に持って来るのだから、最初から焼いてあるのをまた焼直して出す、──それが原因らしいという事は、側(そば)に寺の者のいる事を意識してか、少し曖昧にいっていた。医者は一卜通りの診察をした後、特別に腹のあちこちを叮嚀に抑え、「此所(ここ)は……?」「此所は……?」と一々訊ねて痛む場所を探した。結局急性の大腸加多児(かたる)で、その下痢を六神丸で無理に止めたのがいけなかったと診断した。そしてヒマシ油と浣腸で悪いものを出してしまえば、恐らく、この熱も下がるだろうといった。下痢の事は使の者に聞いていたので、医者はそれらを鞄の中に用意していた。
浣腸はほとんど利目(ききめ)がなかった。ヒマシ油の方が三、四時間のうち利くだろうし、とにかくそれまでこの離れにいて見よう、出た物を調べる必要もあるからという医者の言葉だったので、寺の上さんは早速医者と使いの男へ出す、酒肴の用意をするため、庫裏の方へ行った。
「何をされる方ですね」
医者は次の間へ来て胡坐(あぐら)をかき、其所(そこ)に置いてあった既に冷えた茶を一口飲んで、お由に訊いた。
「文学の方(ほう)をされる方ですわ」
「言葉の様子では関東の人らしいな」
「京都ですわ」
「京都? ほう、そうかね?」
医者とお由がこんな話をしているのを謙作はそれが自分とはまるで関係のない事のように聴いていた。
「……どうですやろ」小声になってお由が訊くと、医者も一緒に声を落し、
「心配はない」と答えた。
医者が来たということを興奮して叫んでも、謙作は返事をしなかったというのは、先ほどの「分析」が謙作のものであったかもしれないとの思いを抱かせるが、どうなんだろうか。謙作の心のうちを書かないのは、やはり「三人称視点」だからだろう。
それにしても、鯛の焼物だったとは! 20キロも遠くから、暑い盛りにおそらく歩いて運んできたのだろうから、刺身じゃなくても傷むのは当然かもしれない。
「大腸加多児」という病名は今では使われていないが、このころの小説にはときどき出てくる。今で言えば「感染性腸炎」あたりだろうか。
謙作は半分覚めながら夢を見ていた。それは自分の足が二本とも胴体を離れ、足だけで、勝手にその辺を無闇に歩き廻り、うるさくて堪らない。眼にうるさいばかりでなく、早足でどんどん、どんどん、と地響をたてるので、やかましくて堪らない。彼は二本の足を憎み、どうかして自分から遠くへ行かそうと努力した。夢という事を知っているから、それが出来ると思うのだが、足はなかなか自分のまわりを離れてくれない。彼の考えている「遠く」というのは靄(もや)の中、──しかも黒い靄で、その中に追いやろうとするが、それは非常な努力だった。段々遠退いて行く、遠退くにつれ、足は小さくなって見える、黒い靄が立ちこめている、その奥は真暗な闇で、其所まで、足を歩かせ、闇に消えさせてしまえば、それを追払えると思うと、もう一卜息、もう一卜息という風に力を入れる、それには非常な努力が要った。そして、一っぱいにそれが張ったところで、ちょうど張切ったゴム糸が切れて戻るように、消える一歩手前で、足は一遍にまた側へ戻って来る。どんどん、どんどん、前と変らずやかましい。彼は何遍でもこの努力を繰返したが、どうしても、眼から、耳から、その足を消してしまう事は出来なかった。
それからの彼はほとんど夢中だった。断片的には思いのほか正気のこともあるが、あとは夢中で、もう苦痛というようなものはなく、ただ、精神的にも肉体的にも自分が浄化されたということを切りに感じているだけだった。
翌朝早く年とった医者は帰り、代りに午頃、食塩注射の道具などを持った余り若くない代診が来たが、その時は、熱は下がったが下痢するものが米の磨汁(とぎじる)のようで、手足の先が甚(ひど)く冷え、心臓の衰弱から、脈が分らない位になっていた。大人の急性腸加多児としては最も悪い状態で、代診はもしかしたらコレラではないかと心配していた。とにかく、早速強心剤の注射、それと食塩注射。太い針を深く股に差し、ポンプで徐々に食塩水を流込むのだが、その部分だけが不気味に脹れあがり、謙作は苦痛から涙を出していた。
不思議な夢だ。二本の足だけが勝手に体を離れてどんどん行ってしまう。自分の周りでうるさい地響きをたてる。闇のなかで、その足を追い払おうとするのだが、それには「非常な努力」を要した。
この「非常な努力」という言葉が深く印象に残る。謙作の一生は、この一言に尽きるとさえ思えてくる。謙作のまわりでやかましい音をたてる二本の足。どうしても追い払えない二本の足。それは、自分の足だが、自分から分離していった足だ。その足を消し去りたい。その足から自由になりたい。その一心で、謙作は「非常な努力」を、「もう一卜息、もう一卜息」と頑張ってきたのだ。
そんな中、直子がやっと到着する。
いよいよ、この小説の本当の最後だ。
『暗夜行路』 176 本当の終幕 「後篇第四 十九」その2 【最終回】
2025.8.26
直子が着いたのはそれから間もなくだった。しかし寺の上さんは謙作が直子の到着を切(しき)りに心待ちにしている事を知っていたから、不意に会わし、もし気のゆるみから、どうかあってはという心配で直ぐ会わす事に反対した。謙作はそれほど衰弱していた。医者も注射した食塩水が吸収されれば、もっと脈もしっかりして来るから、その時にしてもらいたいといったので、直子は吃驚(びっくり)してしまった。直子は色々悪い場合を想像しては来たが、恐らく想像よりはきっと軽いに違いない、「電報なんか打ったから驚いたろう?」こんな事をいって微笑する謙作まで考え、それを希望として来たから、現在の容態が、想像以上なので、すっかり驚いてしまった。そしてそんなに衰弱した謙作を見るのが恐しくもなった。何故なら炎天下の三里の登り道を急いだ彼女は疲労と亢奮とから、自分自身にも自信がなかったから、会って、余りの変り様に、もし気を取乱したりしては病人のためにも悪いと思うと、医者のいうように暫く様子を見てからにするのが本統かも知れぬと思った。
寝不足と、夜汽車の煤(すす)と、汗とで顔色の悪く見える直子に寺の上さんは小声で頻(しき)りに入浴を勧めたが、直子はなかなか尻をあげなかった。
予想以上に容態の悪い謙作に、直子は驚く。「炎天下の三里の登り道」を徒歩で来たであろう直子の疲労も相当なものだろう。
今は大人気のSLだが、煙が大変だった。トンネルに入るたびに、窓を閉めなければ、室内は煙で大変なことになる。ぼくは子供のころに、何度もSLに乗って新潟へ行ったから、その匂いまでよく覚えている。この時代、京都から、「大山口駅(現在は伯耆大山駅)」までは、既に山陰本線が通っていたが、9〜10時間かかったらしい。今なら3時間半というから、まあ、大変な時代だったわけだ。
「浴衣にお着更(きか)えなされませ」とも上さんはいった。
「ありがとう、そんなら、顔だけ洗わして頂きます」
直子は湯殿を案内してもらい、漸くそれだけをし、其所にあった小さい鏡台の前で乱れた引結(ひっつめ)の髪を撫でつけ、還(かえ)ろうとすると、庫裏(くり)の炉を挟み、医者と上さんとが何か小声で話込んでいるのを見た。二人は足音で一せいに直子の方を見たが、医者が、
「奥さん、どうぞ、ちょっと」といった。
「…………」直子はどきりとしながら、其所へはいって行った。
「脈は大分よくなりました。今、眠っておられますが、今度眼が覚めた時、なるべく静かにお会いになったらいいでしょう」
「随分危険な容態なのでございましょうか?」
「はっきりは申し兼ねますが、とにかく、急性の大腸加多児に違いないので、子供の場合とか、よほど不健康な人の場合は別ですが、普通には、そう恐しい病気ではないので……御心配なさらんでいいと思いますが、……実は今、此所の奥さんとも御相談していたのですが、一度米子の○○病院の院長さんに診ておもらいになっては如何かと思いまして……」
「ぜひお願い致します」直子は早口にそれをいった。「どうか直ぐ、そうお願い致します。様子によっては鎌倉におります兄にも知らせなければなりませんので……」
「いや、いや。まだ、そんな容態とは私は思いません。とにかく、それでは早速、使を出して、電話か電報で、○○博士にお願いして見ます。勿論今日というわけには行きませんが、明日午後にはきっと来てもらえるでしょう」
「それからその時、看護婦さんを一人お願いしたいのですが……」
お由が入って来た。お由は「驚いた」といった調子で、「奥さんの来ていられる事を知っていられますわ」と、三人を見廻すようにしていった。
「そうかね?」と医者はことさら首を傾け、それを疑問にしながら、「夢を見たのだよ、それは」といった。
「そんな事ありませんわ。会われるのをお母さんが止めた事まで、よく知っていられますわ」
直子はもう中腰になり、黙って、医者の顔を見ていた。それと気がつくと、医者はお由に訊いた。
「それで、奥さんに来て欲しいといわれるのかね?」
「へえ、そういっていられます」 医者は炉の炭火から煙草に火を移し、一口、それを深く吸込んでから、
「なるべく感情を刺戟せんように、貴女(あなた)御自身も泣いたりせんようにしてお会いになったらいいでしょう」といった。直子はちょっと頭を下げ、お由と一緒に離れの方へ行った。
「どうでしょう?」寺の上さんは眉間に深い皺(しわ)を作って、今まで恐らく何遍か、訊いたに違いない事をまた繰返した。
「さあ、うちの先生は何といわれたか知りませんが、私にはどうもはっきりした事はいえませんよ。実はコレラかという心配もあったが、そんな事はないらしい。腹と尻を充分に温め、強心剤で持たしていれば、余病の出ないかぎり、大概直ると思うんだが……」
「何しろ家の人が留守なので、留守中そんな事があると、私も実に困るんですよ」
「もう先方(むこう)の奥さんが来たのだから、貴女はそうやきもきせんでもいいでしょう」
「私はどうも様子が悪いように思われて……」
「心臓が甚く衰弱してしまったので、私も本統の所、何方ともいえないんだが……」
「どうも様子が悪い」そう繰返し、寺の上さんは大袈裟に溜息をついた。医者は黙って、ただ煙草を喫(の)んでいた。
この辺りのやりとりは実にリアルで、繊細である。医者にもはっきりとしたことは分からない。とにかく、米子の病院の先生にみせたほうがいいが、コレラではなさそうだから、たぶん治るだろう、という程度では、とてもじゃないが安心できない。しかし、これも時代だろう。
なにもかも曖昧な状況の中で、「お上さん」の言葉だけが、するどく現実を突きつける。「何しろ家の人が留守なので、留守中そんな事があると、私も実に困るんですよ」──どんなに親切そうに見える人でも、切羽詰まったときには、こういう残酷な言葉を吐いてしまう。さすがに医者は、奥さんが来たからいいじゃないかと苛立たしげに言うが、それでも、お上さんはブツブツ言っている。うんざりして、タバコを吸っている医者の気持ちもよく分かる。そしてそんな「世間」の真っ只中にポツンと一人いる直子の孤独感も、痛いほど伝わってくる。
前回も指摘した「視点」の観点から言えば、この辺は、「三人称視点」で書いている。直子の心の中には深く立ち入らず、そこに集まった人たちのやりとりで、状況を見事に描ききっている。
そして、最後の最後、視点は直子に徐々に移っていき、最後は直子の思いで、終わる。
直子は胸を轟かせ、しかし外見は出来るだけ冷静を装うたつもりで入って行ったが、やはり亢奮から、眼を大きく見開き、見るからに緊張していた。謙作は仰向けに寝たまま、眼だけを向け、そういう直子を見た。直子もまた、眼のすっかり落窪んだ、頬のこけた、顔色も青黄色くなった、そして全体に一卜まわり小さくなったような謙作を見て胸が痛くなった。彼女は黙って、枕元に坐り、お辞儀をした。謙作は聰きとりにくい嗄(しゃが)れた声で、
「一人で来たのか?」といった。
直子は点頭(うなず)いた。
「赤ちゃんは連れて来なかったのか?」
「置いて参りました」
大儀そうに、開いたままの片手を直子の膝のところに出したので、直子は急いで、それを両手で握締めたが、その手は変に冷めたく、かさかさしていた。
謙作は黙って、直子の顔を、眼で撫でまわすようにただ視ている。それは直子には、いまだかつて何人にも見た事のない、柔かな、愛情に満ちた眼差に思われた。
「もう大丈夫よ」直子はこういおうとしたが、それが如何にも空々しく響きそうな気がして止めたほど、謙作の様子は静かで平和なものに見えた。
「お前の手紙は昨日届いたらしいが、熱があったので、まだ見せてくれない」
直子は口を利くと、泣出しそうなので、ただ点頭いていた。謙作はなお、直子の顔をしきりに眺めていたが、暫くすると、
「私は今、実にいい気持なのだよ」といった。
「いや! そんな事を仰有(おっしゃ)っちゃあ」直子は発作的に思わず烈しくいったが、
「先生は、なんにも心配のない病気だといっていらっしゃるのよ」といい直した。
謙作は疲れたらしく、手を握らしたまま眼をつむってしまった。穏かな顔だった。直子は謙作のこういう顔を初めて見るように思った。そしてこの人はこのまま、助からないのではないかと思った。しかし、不思議に、それは直子をそれほど、悲しませなかった。直子は引込まれるように何時までも、その顔を見詰めていた。そして、直子は、
「助かるにしろ、助からぬにしろ、とにかく、自分はこの人を離れず、何所までもこの人に随(つ)いて行くのだ」というような事を切(しきり)に思いつづけた。
これが、この長い小説の幕切れである。あっけないほど短い。
直子は、見る。「いまだかつて何人にも見た事のない、柔かな、愛情に満ちた眼差」を。そして謙作の「静かで平和」な様子を。これらは、直子が今まで決してみることのできなかった謙作の眼差しであり、様子なのだ。そして、謙作の「私は今、実にいい気持なのだよ」という言葉を聞きながら、この人はこのまま、助からないのではないかと思い、「助かるにしろ、助からぬにしろ、とにかく、自分はこの人を離れず、何所までもこの人に随(つ)いて行くのだ」と思い続ける、というところで、幕をおろす。
この幕切れは、すっきりしない。いったい謙作は助かるのか、助からないのか。
謙作は、元気になって、直子と手を携えて山をおり、京都で新しい生活を始めるのだろうか。それとも、直子の予感どおり、直子に見守られながら静かに息を引き取るのだろうかという疑問が当然でてきて、すっきりしないのだ。
ぼくは、謙作が元気になって直子と暮らし続けるという状況を想像できない。たぶん、謙作は亡くなるのだろう。まだ30歳の謙作だが、この「老成」した謙作は、すでに「仙境」にいるような気がしてならないのだ。
思えば、この小説のクライマックスは、やはり「十八」にある、謙作の大自然に溶け込んでいく心境を描いたところにあって、そこで幕を下ろしても構わなかったのだと思う。
現に、長くこのシリーズを読み続けてきてくれた旧友は、「十八」の回が終わったときに、「長い長い思索の重厚な終幕。おつかれさま、でも、ありがたかった。ありがとう。」というメールをくれた。ぼくは、「まだ終わりじゃないよ。ほら、直子が『助かるにしろ、助からぬにしろ、この人についていこう』とか思うところがあるでしょ?」って返事をしたら、「あ、そうだ、それ思い出した。」と返してきた。彼も、昔読んだけれど、ちっともおもしろくなくて、ぼくの連載で再読していたのだ。
しかし、彼が感じた「終幕」は、正しかったのだと思う。あれで終わってもよかったのだ。その後の「十九」は、後日談のようなもので、小説のストーリー展開上は必要なものだろうけれど、謙作の「自我」との長い格闘という観点からすれば、あれが「終幕」だったのだ。
そして、そここそが実は『暗夜行路』の重大な問題でもある。というのは、この時任謙作を主人公とする小説は、最初から最後まで、謙作という一人の男の「自我との格闘」だけを描いてきたということがはっきりするからだ。
直子が過ちを犯し、それを謙作に告白したとき、謙作は、これは自分だけの問題だから、お前は口を挟むなと言い放った。ほんとうなら、直子が謙作の妻として犯した過ちなのだから、二人で乗り越えなければならない問題であるはずだ。謙作が直子を許すとか許さないとかいうことも、謙作「だけ」の問題ではない。二人が共に悩み、苦しみ、罵り合い、慰めあい等などの経過を経ていかざるを得ない問題なのだ。しかし、謙作は直子を「排除」して、自分「だけ」の問題として向かい合おうとした。その結果、家を離れて大山へ行ったのだ。そして、そこで、謙作「だけ」、謙作の心の中「だけ」で、解決してしまった。
最近読んだ本の中に、「遊びは自分一人ではできない。自己と他者とが重なるところ、つまり『中間領域』で行われるのだ。」というような言葉があった。この「中間領域」が成立するためには、あるいは成立するのは、「自己」が「他者」に「依存」できるからだ、という。ここで言われる「遊び」を、あらゆる人生上の事柄に当てはめることができる。人間が生きていくためには、どうしても「他者」と「重なる」ことが必要なのだ。「重なる」ためには、「他者」に「依存」することができなければならない。「依存」は、「信頼」といってもいいが、代表例として、「母子関係」が挙げられていた。子供は、母親に依存しているから、安心して遊ぶことができる。遊んでいる子供は、外からは見えないけれど、その心の中に母親がいるというのだ。精神分析学者のウィニコットの本である。
この「依存」とか「中間領域」とかいう言葉を補助線として『暗夜行路』に引いてみると、『暗夜行路』に描かれている謙作ほど、この補助線から遠い人物はないということが分かる。
謙作は、とにかく徹底して「依存」を避け続けた。というか、「依存」できる相手がいなかった。それは生母の不在という生まれながらの環境からして当然のことだっただろうが、それが謙作の生涯を貫いた。誰にも依存せず、自分だけで人生を切り開き、自我を確立すること、それが謙作の生きる意味だったわけだ。
最後の最後で、謙作は、その「自我の確立」というオブセッションから解放されたのだが、それは「自然」が「依存」の対象となったということではなく、もう「依存」すら必要としない、「自我の消滅」といった境地だったのかもしれない。
けれども、ほんとうは、謙作は「依存できる相手」を心から求めていたのだ。愛子、お栄、そして直子。つまりは、生母への憧れ。しかし、その憧れはかなわなかったのだ。
直子は、謙作の言葉を聞いて、その穏やかな眼差しを見て、この人にどこまでもついていこうとしきりに思い続けるのだが、それが、二人が「重なり」、二人で生きて行くことにつながっていくのかどうかは分からない。分からないどころか、不安でいっぱいだ。謙作に「依存」が可能だろうか、と思うからだ。
人生は、自分一人で生きていくことはできない。常に「他者」との「関係」において生きていくのだ、という真実を、謙作が心から理解するには、まだまだ多くの時間がかかりそうだ。
*
ということで、なんとかかんとか、最後まで辿りつきました。2019年5月28日に第1回を書いてから、6年かかってしまいました。この間、様々な方から、感想をいただいたり、励ましをいただいたりしました。毎回のように、誤字脱字をチェックしてくれた旧友もいました。ここまで来ることが出来たのは、そんな皆さまのおかげです。心より感謝致します。