志賀直哉「暗夜行路」を読む (16) 151〜162
後篇第四 (八)〜(十三)
引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷
引用文中の《 》部は、本文の傍点部を示す。
『暗夜行路』 151 疑惑 「後篇第四 八」 その1
2024.7.6
その後平和な日々が過ぎたが、あくまでそれは表面的なもので、夫婦の仲は悪化し、謙作の生活はすさんでいった。
その後、衣笠村の家(うち)では平和な日が過ぎた。少なくも外見だけは思いの外、平和な日が過ぎた。お栄と直子との関係も謙作の予想通りによかった。それから謙作と直子との関係も悪くはなかった。しかしこれはどういっていいか、──夫婦として一面病的に惹き合うものが出来たと同時に、其所(そこ)にはどうしても全心で抱合えない空隙が残された。そして病的に惹き合う事が強ければ強いほど、あとは悪かった。
妻の過失がそのまま肉情の剌戟になるという事はこの上ない恥ずべき事だ、彼はそう思いながら、二人の間に感ぜられる空隙がどうにも気になる所から、そんな事ででもなお、直子に対する元通りなる愛情を呼起こしたかったのである。病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさえした。
「夫婦として一面病的に惹き合うものが出来たと同時に、其所(そこ)にはどうしても全心で抱合えない空隙が残された。」というのは、いったいどういうことなのか、分かりにくい。「病的に惹き合うものが出来た」とはどういうことなのか。直子の性的過失を、観念的には赦そうとしながら、謙作という男の肉体は、そこにどうしようもなく性的な刺激を受けてしまったということらしい。まあ、安物の恋愛小説なんかにはよくある設定である。
その分かりにくさは、すぐに具体例によって解消される。いわく「病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさえした。」というのである。その「描写」を会話で再現しないだけましだが、それにしても、醜悪な行為である。そうした痴態を、志賀は平然と書く。これが岩野泡鳴だったら、こんなことではすまないし、別に驚きもしないだろうが、あの「高潔さ」を何となくイメージさせる志賀直哉だから、そしてこの小説が「私小説的」なところがあるので、なおさらびっくりする。
自分でも「恥ずべきことだ」と認識しながら、そういう痴態を演じてしまう人間というもののどうしようもなさ。そこから志賀直哉は目を離そうとしない。これを冷徹なリアリストと呼ぶべきだろうか。
直子がまた妊娠した事を知ったのは、それから間もなくだった。彼は指を折るまでもなく、それが朝鮮行以前である事は分っていたが、いよいよ直子との関係も決定的なものになったと思うと、今更、重苦しい感じが起って来た。
直子の妊娠と聞いて、謙作はすぐに「指を折る」。(「指を折るまでもなく」と書かれているが、心の中で折っているのは明白だ。)「要の子ではない。自分の子だと確認する。けれども、それは果たして「確信」だったろうか。自分が朝鮮に行く前に、直子と要が二人で会っていないという保証はどこにもない。男は、これは自分の子だという確信をなかなか持ちにくいものだと相場は決まっている。
それはそれとしても、その後にくる「いよいよ直子との関係も決定的なものになったと思うと、今更、重苦しい感じが起って来た。」とはどういうことなのだろう。
「直子との関係も決定的なものになった」というのは、直子と自分が生まれてくる子どもの親であるという関係が、「決定的」なものになったと思ったということだろうか。それなら、「重苦しい感じ」ではなくて、「晴れ晴れした感じ」とか、「嬉しい感じ」とか、そういった親になる喜びではなかろうか。それがなぜ「重苦しい」のか。
それは、やはり、生まれてくる子どもの父親が自分ではなく、要ではないのかという疑いを拭いきれなかったからだろう。だから「決定的」なのは、親が自分だということなのではなくて、とにかく、直子と自分の間に子どもが生まれ、それが誰の子であれ、その子を自分たちの子どもとして受け入れなくてはならないという意味での「決定的」なのだ。まわりくどい言い方しかできないが、そうでもいうしかない。
あるいは、そういうこととは別に、子どもが生まれることによって、直子との関係が今までとはまったく異なった新しい段階に入ったという意味での「決定的」なのかもしれない。
謙作の心は時々自ら堪えきれないほど弱々しくなる事がよくあった。そういう時、彼は子供のようにお栄の懐(ふところ)に抱(いだ)かれたいような気になるのだが、まさかにそれは出来なかった。そして同じ心持で直子の胸に頭をつけて行けば何か鉄板(てついた)のようなものをふと感じ、彼は夢から覚めたような気持になった。
今風に言えば、「出た〜、お栄!」といったところだろうか。結局のところ、謙作にとっての「女」とは、自分の母であり、母の代わりであったお栄であったので、その「愛」は、「その懐に抱かれる」以外の何ものでもなかったのだ、と、結論づけたくなるほどだ。
お栄に「母」を感じた謙作は、その懐に抱かれることを夢見て、あろうことか結婚の申し込みをする。けれども、それが断られると、直子と結婚していちからやり直そうとしたのだが、そこでも直子に求めたのは「母」であった。しかも、その母親は夫を裏切り、あろうことか、夫の父と過ちを犯してしまい謙作を生んだ。その上、謙作を捨てて、謙作にとっては祖父にあたる「実の父」の家にあずけてしまい、その祖父の妾であったお栄が謙作を育てる、という、まあ、ありえないほど複雑な事情を抱えている謙作なのだが、それだけに、直子の過ちは、自分の母の過ちと重なり、生まれてくる子が万が一にも自分の子でなかったとしたら、いったい自分の人生はなんだったのかと、世をはかなむのは当然のことだろう。そういうすべてを含んでの「重苦しさ」であったはずなのだ。
だからほんとうは、謙作は直子を赦すことなぞできるはずがないのだ。そうしたことを理解しないで、ここだけ読んだ読者は、なんだこの甘ったれ男が! ってことになるだろうが、そこは十分に忖度しなければならないところだろう。
室生犀星などは(実在の人物だが)、謙作よりももっとひどい境遇に生まれた。加賀藩の足軽組頭が女中に手をつけて生まれた犀星は、生後すぐに近くのお寺に預けられ、犀星は生涯実の母に会えなかった。もらわれていった雨宝院というお寺の住職室生真乗の「内縁の妻」赤井ハツの私生児として戸籍登録され、ハツに育てられたのだが、このハツという女は片っ端から貰い子をして、その子たちを虐待し、小さい頃から働きにだして金を稼がせ、自分は酒だ役者だと遊び暮らした女だ。犀星は粗暴に育ち、小学校3年のとき、事件をおこして(小学校で先生の来るまえに、教卓の上に座って切腹のマネをしていたところを、やってきた先生に叱られ、先生が「やれるもんならやってみろ」と言ったところ、ほんとうにナイフを腹に突き刺したとかいう事件。不正確かもしれません。)退学となり、以後学校というものに行っていない。犀星は死ぬまでそのハツを恨み、自分の文学を「復讐の文学」と呼んだのだった……なんてことを書いていたら切りがないのだが、本当の話だ。
謙作の境遇なんか、それに比べれば屁でもないといえばいえるが、人間というものは、そんなに簡単に理解できるものではないのだということは、肝に銘じておきたい。そしてそのことを何よりもよく教えてくれるのが文学というものなのだ。
志賀直哉『暗夜行路』 152 謙作の癇癪 「後篇第四 八」 その2
2024.7.20
直子の妊娠を知った謙作は、自分たち夫婦の関係が「決定的なものになった」と感じたが、それは、子どもが出来たことで、「本当の夫婦になった」と言ったようなことではなくて、むしろ「重苦しい感じ」を起こさせたのだった。もちろん、子どもが自分の子ではないのではないかという疑惑をどうしても否定できなかったからである。
そんな謙作の生活は次第に荒んでいった。
夏が過ぎ、漸(ようや)く秋に入ったが、依然謙作の心の状態はよくなかった。それは心の状態というよりむしろ不摂生から生理的に身体(からだ)をこわしてしまったのだ。彼はこんな事では仕方ないとよく思い思いしたが、だらしない悪習慣からはなかなか起きかえる事が出来なかった。彼は甚(ひど)く弱々しいみじめな気持になるかと思うと、発作的に癇癪(かんしゃく)を起こし、食卓の食器を洗いざらい庭の踏石に叩きつけたりした。ある時は裁縫鋏(さいほうばさみ)で直子の着ている着物を襟から背中まで裁(た)ちきったりした事がある。こんな場合、彼ではその時ぎりの癇癪なのだが、直子は直ぐその源(みなもと)を自身の過失まで持って行き、無言に凝(じ)っと、忍んでいるのだ。そしてその気持が反射すると、謙作は一層苛立ち、それ以上の乱暴を働かずにはいられなかった。
お栄は前から謙作の癇癪を知っていたが、そんな風にそれを実行するのは余り見た事がなく、僅(わず)か一、二年の間に何故、謙作がそれほどに変ったか、分らないらしかった。
ここで言われる「不摂生」、「だらしない悪習慣」とは、間違いなく、女遊びである。東京にいたころの放蕩から、何とか立ち直ろうとして、尾道に逃れた謙作だったわけだが、その「病」がふたたび再発したのだ。
お栄に対する欲情を感じたときも、謙作は、激しい放蕩生活に墜ちた。その時は、性欲のはけ口としての放蕩だったのだが、今回は、一種の絶望感からくる放蕩だ。しかし、もちろん、そんなことをしたって、癒やされるわけではない。むしろ自己嫌悪が増大するだけだ。元来が真面目で、正義感の強い謙作だから、そういう身を持ち崩した自分に我慢がならないのだ。
そういう謙作が起こす「癇癪」は、尋常ではない。食器を庭に投げて壊すだけでもびっくりするのに、直子の着物をズタズタにハサミで切り裂くなんて、想像を絶する所業だ。癇癪持ちというのは、そこまでするのが当たり前なのだろうか。ぼくが癇癪を起こすことはまったくないので、理解に苦しむところだ。
そうした尋常じゃない癇癪を、謙作は、「彼ではその時ぎりの癇癪なのだが、直子は直ぐその源を自身の過失まで持って行き、無言に凝っと、忍んでいるのだ。」と認識する。まるで「その時ぎりの癇癪」なんだから、そんなに深刻にとることはないのだといったふうである。しかも、その癇癪は、「自分の中だけから来る癇癪」と思っているふしがあって、だからこそ、直子がその癇癪の原因が自分にあると思うことが、自然のこととは思っていないようなのだ。「直子は直ぐその源を自身の過失まで持って行き、無言に凝っと、忍んでいるのだ。」という書き方の中の「直ぐ」が問題だ。
今でも日常会話によく出てくるように、「お前は何かというと直ぐ怒るんだから。」とか、「君は直ぐそうやって、すねるからいけない。」とか、「直ぐ」には、どこか非難めいたニュアンスがある。「怒ったり、すねたりする必要なんかないのに」という意味合いが込められているわけである。時代が違えば言葉の意味やニュアンスも変わるのだろうが、この謙作の場合も、直子が謙作の癇癪の原因を自分のせいだと考えるのは筋違いなんだけどなあというニュアンスが感じられる。
だから、次には、「そしてその気持が反射すると、謙作は一層苛立ち、それ以上の乱暴を働かずにはいられなかった。」と続くことになるのだ。「おれがこうやって癇癪を起こすのは、お前の過ちを責めているんじゃないってことは、さんざん言ってるだろう。それがなぜ分からないんだ!」という「苛立ち」である。その「苛立ち」が、「それ以上の乱暴を働かす」ことになるなんて、なんという理不尽さだろう。いったい「それ以上の乱暴」って何? って思う。直子にも直接暴力をふるったということだろうか。どうもそうらしい。
お栄もそんな謙作をはたで見ていたことになるが、なぜ謙作がそれほど荒れるのか「分からないらしかった」というのも、もっともである。けれど、お栄は、さすがに黙ってみていることはできず、かといって自分が中に入ってなんとかすることもできず、結局、謙作の兄の信行に手紙を書くことしかなかった。
ある時謙作は鎌倉の信行から、その内遊びに行くという便りを貰った。そして謙作は直ぐ返事を書いたが、後で、それはお栄が手紙で信行を呼んだのだという事に気がついた。彼は追いかけに直ぐ断りの手紙を出してしまった。しかしまた、彼は折角来るという信行をそんなにして断った事が気になり出した。彼は来てもらうかわりに此方から出掛けようかとも迷ったが、それを断行するだけの気力はなかった。そして会えば必ず総てを打明けるだろうと思うと、それだけでも今は会いたくなかった。
いろいろグズグズと迷う謙作である。信行にぜんぶ打ち明けてしまえば、スッキリするのにと思うのだが、謙作はどうしてもそれをしたくない。自分で、自分だけで解決したい。なにしろ、当の直子ですら関係ないから顔出すなといった謙作だ。(しかし、そこまで言うなら、直子に暴力をふるうな、って言いたいけどね)
信行に「総てを打明ける」ことがなぜいやなのか。友人の末松には打ち明けたではないか。やっぱり、肉親となると、また感情は別に働くのだろう。もともと信行とは気が合わなかったということもあるだろう。
その点、友人の末松は、すでに事情を知っているから、謙作に旅を勧めるのだった。
末松は自分も一緒に行くからと、切りに旅行を勧め、二人ともまだ知らない山陰方面の温泉案内などを持って来て、誘ったが、彼はなかなかその気にならなかった。末松の好意はよく分っていながら、そうなると意固地になる自身をどうする事も出来なかった。そしてとにかく自分で自分を支配しなければならぬ、そう決心するのだ。
友人というのはありがたいものだ。しかし、謙作は、とことん意固地だ。そういう謙作の決心とは、「自分で自分を支配しなければならぬ」ということ。しかし、これほど難しいことはない。かつて、この「決心」を実現できた人間が一人でもいただろうか。
話をそんな大げさにしなくても、日本の近代文学の大きなテーマに「近代的自我の確立」という問題がかつてあった。今はどうなってるのか詳しいことは知らないが、志賀直哉の時代には、この「近代的自我」の問題が、作家の中に根深く存在し、そこで個々の作家が苦闘した、ということがあったのだろうと思う。
志賀直哉『暗夜行路』 153 癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作 「後篇第四 八」 その3
2024.8.3
謙作の癇癪の発作のありようが「理解に苦しむ」と前回書いたところ、友人から、メールが来て、こんなことが書かれていた。引用の許可はもらっていないが、許してくれるだろう。
着物を切り刻むは序の口、もっとしたいだろう、癇癪のつらいのは、際限がなくて、じぶんで抑制できないことなんだけど、そうか、それは分かってもらえないことなのか、と、来し方を振り返るのでありました。
謙作の「おれがこうやって癇癪を起こすのは、お前の過ちを責めているんじゃないってことは、さんざん言ってるだろう。それがなぜ分からないんだ!」には、「うそつけ!おまえのせいでこれだけオレが苦しんでるって、もっと思い知らせてやりたいくせに!」とおもいました。
作者にそれが分からないわけないから、謙作の内面を描いて、「お前の過ちを責めているんじゃないっ!」は、まさかウソだろう、なにか表現上のテクニックかなとしか、きみの解説を拝読しても、信じがたい。
だって癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ、「おれのツラさ、分かってるだろ、おまえは」なんだから心底は。
なるほど、友人には、謙作の心底がよく分かるのだ。「癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ」って彼は言うけれど、実際に癇癪を起こしたことのないぼくにはその「身勝手」さがやっぱり理解できない。
自分の人生を思い起こしてみれば、幼少のミギリはそれこそ癇癪起こして身勝手の限りを尽くしたはずだけど、物心ついてからは、ほとんどその記憶がない。記憶がないだけで、実際には何やってきたのか知らないが、まあ、だいたいのことは、耐えてきたような気がする。少なくとも他人の着物を切り裂いたり、皿を庭に投げ捨てたことなんてない。
そういうことになったのは、たぶん、癇癪ばかり起こして荒れる祖母と、それに耐えたり立ち向かったりする母とのバトルのかなかで、幼い頃に育ったことが強いトラウマとなって、とにかく争いごとを極端に嫌うようになったのだろうと思われる。自分さえ我慢していれば、争いにならないから我慢しようという基本的スタンスは、結局のところ、現実に果敢に立ち向かうといった姿勢をぼくから奪ったようにも思える。まあ、職場では、なにかというと校長とかにたてついて、争いごとの種をまき散らしてきたけれど、それはまた別の分野の話。
まあ、祖母の癇癪は経験しているはずだけど、子どもにはよく理解出来なかったし、それ以外に、ぼくの周囲にはあんまり癇癪持ちはいなかったし。経験不足は否めない。
いくらこんなことを書いても詮無きことだからやめるが、文学鑑賞には、どうしても自分の人生経験というバイアスが入るよね、ということだ。でも、そういうバイアスを、こうした友人の感想が是正してくれるのは、とてもありがたい。そうか、癇癪っていうのは、そんなに身勝手なのか、と少なくとも頭では分かるから。
さて、「自分で自分を支配しなければならぬ」と思っていた謙作だが、末松の助言も頭によみがえり、旅に出るようになった。
彼は久しく遠退いていた、古社寺、古美術行脚を思い立った。高野山、室生寺、など二、三日がけの旅になる事もあった。丁度晩秋で、景色も美しい時だった。そして彼は少しずつ日頃の自分を取りもどして行った。
秋が過ぎ、出産が近づいた。彼は総てでいくらかの自制が出来て来ると、直子に対し、乱暴する事も少くなった。自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考えると、彼は無理にも苛立つ自身を圧えつけるよう心掛けた。
奈良には志賀直哉住居跡という建物もあるが、志賀直哉は、奈良を愛していたのだろう。美しい景色を見ていると、「少しずつ日頃の自分を取りもどして行った」とあるが、これが最後のシーンへの伏線でもあろう。
しかし、ここも、ほんとうのところ、ぼくにはよく分からないのだ。よくテレビの旅番組などで、キレイな景色をみて、「あ〜、癒やされる〜」とか、悩み事があったけど、旅にでて温泉に入ったらすっかり解放された気分になったとかいった場面がよく流れるが、いつも、イマイチ分からない。なぜだかよく分からないのだが、簡単にいうと、どこへいっても、「自分自身」はあんまり変わらない。謙作のいう「日頃の自分」が、どういうものなのか分からない、といってもいい。キレイな景色を見れば、ぼくなりに感動はするが、それで「日頃の自分」が取り戻せたというふうには感じないのだ。
謙作には「日頃の自分」という何か動かしがたい確固とした「自分」があるらしいが、ぼくには、そういう「自分」がないということなのかもしれない。その場その場の「自分」はいるが、それに、たいした一貫性がない。平野啓一郎が最近よく言っている「分人」というものなのかもしれない。
ま、それはそれとして(どうも今日は脇道が多い)、謙作は、落ち着いてきたとはいえ、「まだ」直子に乱暴してきたのだ。妊娠している妻にどの程度かはしらないが、乱暴するというのは、いくら身勝手な癇癪だとはいえ、大変なことで、そのことを自覚している謙作は、「自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考える」という理性的な判断で、辛うじて乱暴を「少なく」したというわけで、いやはや、どうにも始末におえぬ癇癪ではある。
出産はその暮れ、── 延びて、正月の七草前という事で、彼は前の例もあるので、直子の軽挙(かるはずみ)にはやかましくいっていた。そして今度はお栄もいるし、万事手ぬかりなくやるつもりだったが、正月になり、十日過ぎてもまだ産がないと、少し心配になって来た。そして彼は今度は病院で産をして、一卜月位は其所で養生する方がいいというような事をいい出したが、医者に相談すると、これだけの人手があればその必要はあるまいといった。その上、直子もそれを望まなかったため、入院の話はそのまま沙汰止みになった。
謙作はもし一卜月数え違いではないかという不安を感じた。二月に入って産があり、月を逆算してそれが自分の朝鮮旅行中にでもなっていたらと思うと、慄然(ぞっ)とした。
最初の子は丹毒で生後間もなく亡くなっているので、謙作もずいぶんと気を遣った。「直子の軽挙」とは、何を指しているのか、読み返してみたが、該当箇所は見つからなかった。丹毒で死なせてしまった、ということ全体を「軽挙」と言っているのだろうか。そうだったら、直子もかわいそう。
ここで、謙作が、生まれてくる子が、自分の子ではないんじゃないかという不安をずっと抱えていたことがはっきり分かる。
最初の子は、自分の子であることに疑いこそ持たなかった謙作だが、それでも、その赤ん坊を「抱いてみる気になれなかった」謙作である。どこまでも「自分の出生」が影を落としているのだ。
しかし一月末のある日、彼は大和小泉にある片桐石州の屋敷に出かけ、それから歩いて法隆寺へ廻り、夜に入って帰って来ると、自家(うち)では赤児(あかご)が生れていた。充分に発育し、そのため、前より遥かに産が苦しかったという丸々とした女の赤児を見て、彼は何かなし、ほっと息をついた。彼が丁度法隆寺にいた頃生れた児ゆえ、一字をとって隆子と命名した。
赤ん坊が生まれそうになると、旅に出ちゃう謙作である。最初の子のときは、こともあろうに、鞍馬の火祭見物に深夜に出かけている。これは単なる偶然というよりも、出産への怖れなのではなかろうか。現在では、出産に立ち会うことが常識になっているが、ぼくの時代でさえ、立ち会うことはむしろ出来なかったのではなかろうか。たとえ出来たとしても、ぼくにはムリだった。
謙作の生きた時代には、「立ち会う」ことなど、論外だったはずだが、まさか、旅に出ちゃうことが常識だったとも思えない。
「丸々とした女の赤児」を見て、喜びではなくてほっとした謙作。隆子はどうなっていくのだろうか、ちょっと心配である。しかし、ほんとうに心配なのは、実は直子のとのことなのだった。
志賀直哉『暗夜行路』 154 そして「事件」は起きた 「後篇第四 九」 その1
2024.8.16
生まれてきた子どもが自分の子どもだと確信して、喜びよりも安堵した謙作だが、それで直子に対するわだかまりが解消したわけではなかった。
そのわだかまりの正体がなんなのかも分からないままに、ある日、それが自分でも思ってもみない行動として現れた。ここが、この長編小説「暗夜行路」の一つのクライマックスである。
この章の冒頭は、隆子が生まれてしばらく経った梅雨時の気分から始まる。いやな予感を感じさせる文章は、相変わらずうまい。
謙作は毎年(まいねん)春の終りから夏の初めにかけきっと頭を悪くした。殊に梅雨期(ばいうき)のじめじめした空気には打克(うちか)てず、肉体では半病人のように弱る一方、気持だけは変に苛々して、自分で自分をどうにも持ちあつかう事が多かった。
今ではまず使わない「頭を悪くした」という言い方は、今でいうと「鬱っぽい」とか、「気分がすぐれない」とかいう感じだろうか。桂文楽の「鰻の幇間(たいこ)」の中に、タイコ持ちが、暑い街中を歩きながら、こう暑くちゃどうも「脳が悪い」というようなことを呟く場面がある。こっちのほうは、もっと使わないが、明治あたりでは「頭」を「脳」と言ったようである。古典落語でよく聞く言葉が、こういう小説にも出てくると、ちょっと嬉しい。小説を読むことの喜びの一つは、言葉との出会いだ。
「自分で自分をどうにも持ちあつかう」という表現にも引っかかる。今では「自分で自分を持ちあつかいかねる」となるべきところで、志賀の誤りだろうと思ったが、念のため「日本国語大辞典」で調べてみると、そうではなかった。「もちあつかう」の説明はこうだ。
(1)手で持って動かしたり使ったりする。あつかう。とりあつかう。
*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉一〇「姉の箸を引ったくって、持ちあつかひ悪(にく)い奴を無理に持ちあつかって居る」
(2)もてなす。あしらう。対処する。あつかう。
*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・三・二「柳之助は未だ興有りげに持扱(モチアツカ)って、『解りませんか』」
*疑惑〔1913〕〈近松秋江〉「そんな卑しいものにはお前を待遇(モチアツカ)はなかった」
(3)取り扱いに困る。処置に苦しむ。もてあます。当惑する。もてあつかう。
*あきらめ〔1911〕〈田村俊子〉三〇「提げた片手の傘を持ち扱かって富枝は肩に凝りさへ覚えるやうであった」
*海に生くる人々〔1926〕〈葉山嘉樹〉二七「自分では大して自由にならない体を持ち扱って退屈し切ってゐた」ここでは、(3)の意味である。この「暗夜行路」の後篇が書かれたのが、だいたい1937年ぐらいだから、それ以前にこの(3)での用例があることが分かる。やっぱり、志賀直哉あたりだと、言葉の誤用というのはほとんどないようだ。なんか変な使い方だなあという言葉はよくみかけるのだが、それでも、当時の使い方だと考えておくほうが無難なようだ。
それはそれとして、ここから信じられないような「事件」が起こる。
ある日、前からの約束で、彼は末松、お栄、直子らと宝塚へ遊びに行く事にした。その朝は珍しく、彼の気分も静かだった。丁度彼方(むこう)で昼飯になるよう、九時何分かの汽車に乗る事にした。
出がけ、直子の支度が遅れ、彼は門の前で待ちながらいくらか苛立つのを感じたが、この時はどうか我慢した。
末松とは七条駅で落ちあった。暫く立話をしている内に改札が始まった。彼はふと傍(わき)に直子とお栄の姿が見えない事に気がつくと、
「便所かな」とつぶやいたが、「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」と直ぐ腹が立って来た。
二人は便所の方へ行こうとした。その時彼方からお栄一人急足で来て、
「二人の切符を頂戴」といった。
「どうしたんです。もう切符切ってるんですよ」
「どうぞお先へいらして下さい。今赤ちゃんのおむつを更(か)えてるの」
「何だって、今、そんな事をしてるのかな。そんなら、貴方(あなた)は末松と先へいって下さい」
謙作は苛立ちながら、二人の切符を末松へ渡し、その方へ急いだ。
「有料便所ですよ」背後(うしろ)からお栄がいった。
宝塚へ遊びに行くことにした朝は、「珍しく」謙作の気分も「静か」だったのに、ちょっとしたことで、苛立った。出がけに直子が支度で遅れたからだ。これは今でもよくあることで、とくに女性の場合は、いろいろと支度が多くて、予定の時間に家を出られないことが多いようだ。もっとも、これも人それぞれで、我が家の場合は、出がけにもたついて時間をとるのはほとんどぼくである。家内は、何やってるの、はやくしなさいよ、とは絶対に言わないが、これが逆だと、「何やってるんだ」と夫が叱責することになる。こういうシーンは玄関にとどまらず、昨今の、スーパーや、バスの中で頻繁に見かけるところだ。
ちょっとした苛立ちは、少しずつ膨らむ。門の前では「どうか我慢した」とあるので、かなりの苛立ちだったことが分かるが、駅について、直子の姿が見えないことに気づいた謙作は、それが直子が便所にいっていることを察知して、「直ぐ腹が立って来た」。苛立ちは、腹立ちへと変化したのだ。「苛立ち」はまだ漠然としているが、「腹立ち」は具体的な形をとる。すなわち「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」という「言語化」である。これを言葉に出したわけではないだろうが、心の中では、ほとんどヒステリックに叫んでいる。
列車に乗ってから、車内で用を足すのは、今でもそれほど愉快なことではない。まして、車内にある便所は、数も少なく、使用者も少ないし、万一列車が途中で止まりでもしたら、それこそ大変だ。だから、今でも電車に乗る前には、それほど行きたくなくてもトイレには行くことが多い。まして、直子は乳飲み子を抱えている。それなのに、「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」というのは、いくらイライラしていたといっても、思いやりに欠けるし、想像力に欠けるとしかいいようがない。
しかし、謙作にとっては、ちゃんと列車に乗り込むこと「だけ」が大事なのであって、それを阻害する「直子の事情」はどうでもいいわけである。というように、理性的に分析することなど苛立った謙作にはできないのであり、「苛立ち」から「腹立ち」へと移行しつつ、その感情はもう制御できないところまでエスカレートしている。
そんなにまで謙作の苛立ちと腹立ちがエスカレートしてしまう根源には、やはり直子に対する怒りがあることは言うまでもないだろう。
直子は丁度赤児を抱上げ、片手で帯の間から蟇口(がまぐち)を出している所だった。
「おい。早くしないか。何だって、今頃、そんな物を更(か)えているんだ」
「気持悪がって、泣くんですもの」
「泣いたって関(かま)わしないじゃないか。それよりも、皆もう外へ出てるんだ。赤坊(あかんぼ)は此方(こっち)へ出しなさい」
彼は引(ひつ)たくるように赤児(あこご)を受取ると、半分馳けるようにして改札口ヘ向った。プラットフォームではもう発車の号鈴が消魂(けたたま)しく嗚っていた。
「一人後(あと)から来ます」切符を切らしながら振返ると、直子は馳足(かけあし)とも急足(いそぎあし)ともつかぬすり足のような馳け方をして来る。直子は馳けながら、いま更えた襁褓(むつき)の風呂敷を結んでいる。
「もっと早く馳けろ!」謙作は外聞も何も関っていられない気持で怒鳴った。
この辺はもうカメラの移動撮影そのものだ。赤ん坊のオムツを包んだ風呂敷を結びながら、「馳足とも急足ともつかぬすり足のような馳け方」をしてついてくる直子の姿は、謙作の目に映った情景だが、その謙作も走っているので、目に見えるような立体的な映像が現出している。
直子にしてみれば、赤ん坊が濡れたオムツを気持ち悪がって泣くのを放ってはおけない。なんとかしてやりたいのだ。だが謙作は、「泣いたって関わしないじゃないか」と言い放つ。そんなことは車内でどうにでもなる。今は、列車に乗り込むことが大事だ、というわけだ。しかし、考えてみれば、たかが宝塚へ行くだけのこと。九州にでもいくわけじゃない。列車を1本遅らせればいいだけの話だ。それなのに、謙作は、直子がモタモタ走っているのを見ていられない。
謙作の頭には、遅れてくる「直子を待つ」という選択肢などまったく浮かぶ余地もなく、列車に乗り込んでしまう。
「どうでもなれ」そう思いながら彼は二段ずつ跨いでブリッジを馳け上ったが、それを降りる時はさすがに少し用心した。
汽車は静かに動き始めた。彼は片手で赤児をしっかり抱きしめながら乗った。
「危い危い!」駅夫に声をかけられながら、直子が馳けて来た。汽車は丁度人の歩く位の速さで動いていた。
「馬鹿! お前はもう帰れ!」
「乗れてよ、ちょっと掴(つか)まえて下されば大丈夫乗れてよ」段々早くなるのについて小走りに馳けながら、直子は憐みを乞うような眼つきをした。
「危いからよせ。もう帰れ!」
「赤ちゃんのお乳があるから……」
「よせ!」
直子は無理に乗ろうとした。そして半分引きずられるような恰好をしながら漸(ようや)く片足を踏台へかけ、それへ立ったと思う瞬間、ほとんど発作的に、彼は片手でどんと強く直子の胸を突いてしまった。直子は歩廊へ仰向(あおむ)けに倒れ、惰性で一つ転がりまた仰向けになった。
前の方の客車でそれを見ていた末松が直ぐ飛び下りた。
謙作は此方(こっち)へ馳けて来る末松に大声で、
「次の駅で降りる」といった。末松はちょっと点頭(うなず)き、急いで直子の方へ馳けて行った。
遠く二、三人の駅員に抱き起されている直子の姿が見えた。
「まあ、どうしたの?」お栄が驚いて来た。
「私が突とばしたんだ」
「…………」
「危いからよせというのに無理に乗って来たんだ」謙作は亢奮(こうふん)を懸命に圧(おさ)えながら、
「次の駅で降りましょう」といった。
「謙さん。まあ、どうして……?」
「自分でも分らない」
直子が仰向けに俄れて行きながら此方(こっち)を見た変な眼つきが、謙作には堪えられなかった。それを想うと、もう取かえしがつかない気がした。
息をもつがせず、とはこのことだ。今とは違って、列車の乗降口は、開いたままだったわけだから、走っている電車に飛び乗ったり、飛び降りたりは、日常茶飯事ではあっただろうが、これはもう常軌を逸した行為だ。
駈けてくる直子、「人の歩く位の速さ」で動き出した列車、謙作がやめろと言っても、赤ん坊にお乳をやらねばという一心から、列車に飛び乗ろうとする直子、そして直子の片足が、列車の踏台にかかったその瞬間、あろうことか、謙作は直子を突き飛ばしてしまう。普通の展開なら、直子の手をとってひっぱりあげるところだ。それがまったく逆になる。人間の所業とは思えない。その所業の瞬間を、志賀直哉の筆は、鮮明に書き尽くすのだ。
お栄に「どうして?」と問われても、謙作は「自分でも分からない」と答えるだけで、茫然自失の体である。謙作の脳裡には「仰向けに俄れて行きながら此方を見た変な眼つき」の直子の顔が映画のスローモーションのカットのように浮かび続けている。
謙作が直子を列車から突き落とすという事件が「暗夜行路」には書かれているということは、なんとなく覚えていた。いや、ほとんど忘れていたといったほうがいいかもしれない。何しろ、「暗夜行路」を通読したのは高校時代(あるいは大学時代?)のことで、それから60年近く経っているのだ。このシーンより、幼子を「丹毒」で亡くすシーンのほうが鮮明に記憶にある。それはそのシーンが、高校の国語の教科書に載っていたからだ。そして、短い部分ではあったけれど、それがあまりに印象的だったから、おもしろくないなあと思いつつ(たぶんそう思っていたはずだ)、通読したのだった。
そのシーンが一つのクライマックスではあろうけれど、ここほどの「重大性」はない。子どもの死は悲しいけれど、それは、謙作の外側で起こったことで、謙作の責任ではない。しかし、この事件は、「自分では分からない」とはいえ、謙作がやってしまったことだ。せっかく、直子との生活をなんとか穏やかなものに戻しつつあったのに、これではもう「取り返しがつかない」に決まっている。
謙作はいったいこの後、どうすればいいのだろう。それより、直子は大丈夫なのか?
志賀直哉『暗夜行路』 155 謝れない謙作 「後篇第四 九」 その2
2024.2.4
謙作とお栄は、次の駅で降りた。駅には、末松から電話がかかっていたので、それに出たところ、直子は軽い脳震盪を起こしたらしいが、ケガはないとのこと。謙作とお栄は、京都行きの電車に乗って、引き返した。
謙作はどうしてそんな事をしたか自分でも分らなかった。発作というより説明のしようがなかった。怪我がなく済んだのはせめてもの幸だったが、直子と気持の上が、どうなるか、それを想うと重苦しい不快(いや)な気持がした。
謙作はなぜ直子を突き落としたのか自分でも分からないという。それを説明するには「発作」としかいえないと思う。癇癪の発作だ。癇癪は、突発的で理不尽なものだから、その発作なら、いちおう説明がつく。しかし、その説明は、自分自身を納得させるには有効かもしれないが、他者を説得するにはどうだろう。
お栄は、謙作の「発作」の原因が、自分にあるのではないかと気をまわす。
「謙さん、何か直子さんの事で気にいらない事でもあるの? 貴方は前と大変人が変ったように思うけど……」
謙作は返事をしなかった。
「それは元から苛立つ性(たち)じゃああったが、それが大変烈しくなったから」
「それは私の生活が悪いからですよ。直子には何も関係のない事です。私がもっと《しっかり》しなければいけないんだ」
「私が一緒にいるんで、何か気不味(きまず)い事でもあるんじゃないかと思った事もあるけど……」
「そんな事はない。そんな事は決してありません」
「そりゃあ私も実はそう思ってるの。直子さんとは大変いいし、そんな事はないとは思ってるんだけど、他人が入るために家(うち)が揉めるというのは世間にはよくある事ですからね」
「その点は大丈夫だ。直子も貴女(あなた)を他人とは思っていないんだから」
「そう。私は本統にそれをありがたいと思ってるのよ。だけど近頃のように謙さんが苛立つのを見ると、其所(そこ)に何かわけがあるんじゃないかと思って……」
「気候のせいですよ。今頃は何時(いつ)だって私はこうなんだ」
「それはそうかも知れないが、もう少し直子さんに優しくして上げないと可哀想よ。直子さんのためばかりじゃあ、ありませんよ。今日みたいな事をして、もしお乳でも止まったら、それこそ大変ですよ」
赤児の事をいわれると謙作は一言もなかった。
謙作は、自分の苛立ちは「私の生活」が悪いからで、直子には関係のないことだと言い張るわけだが、直子の過ちを知らないお栄には、そういうしかないということだろう。しかし、案外これが謙作の本音なのかもしれない。
直子が過ちを犯したことは事実だが、それはあくまで「過ち」であり、それを謙作は「許している」と思っている。いや、「許すべき」だと思っている。その上で、自分の中に起きた不快感を、自分だけの力でなんとか克服しなければならないと思っている。その心の中の作業においては、直子は「関係ない」のだ。自分だけの問題なのだ。自分だけの問題として取り組み、乗り越えたいのだ。
謙作の中には、「しっかりしなければならない」という強迫観念がある。自分の出生にどんな暗い秘密があろうとも、それに負けまいとして生きてきた。だから、自分の周囲にどんなことが起ころうとも、自分は「しっかりした自分」を保持して、生きていかねばならない。直子が何をしようと、それが「過ち」に過ぎないならば、それを「許し」、そこから生じる不快感をなんとか自分の力で払拭し、「しっかり」と生活しなければならない。決して、そこで、女遊びなどに走ってはいけない。
直子の告白の直後に、当の直子に「お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる」と言い放った気持ちは、その後もずっと続いているのだ。この極端な「自己中心主義」。「自分さえよければそれでいい」という意味の「自己中心主義」ではなくて、何事も、「自分だけ」の問題として捉え、「自分だけ」の問題として解決しなければならないという、強迫めいた意識。これはいったいどこから来ているのだろう。
これはあくまでもぼくの推測だが、やはりキリスト教道徳があるのではないだろうか。性欲の問題で、信仰を捨てた謙作だが、それでも、女遊びに明け暮れる日々から脱出しようとしてもがいた。信仰は捨てても、そこで植え付けられた厳しい道徳観念は、謙作の心に深く根をおろしていたのだろう。
神の助けを借りなくても、自分のことは自分で始末する、そんな「しっかりした自分」を作り上げてやる、それが謙作のいわば「意地」だったのではなかろうか。
直子は、駅長室に、末松と一緒にいた。
駅長室では末松と直子と二人ぼんやりしていた。直子は脚の高い椅子に腰かけ、まるで訊問前の女犯人とでもいうような様子で凝(じ)っとしていた。
「まだ医者が来ないんだ」末松は椅子を立って来た。
直子はちょっと顔をあげたが、直ぐ眼を伏せてしまった。お栄が傍へ行くと、直子は泣き出した。そして赤児を受取り、泣きながら黙って乳を含ませた。
「本統に吃驚(びっくり)した。大した事でなく、何よりでした。──《おつも》、如何(どう)? 水か何かで冷したの?」
「…………」
直子は返事をしなかった。直子は自分の身体(からだ)よりも心に受けた傷で口が利けないという風だった。
「どうも、あれが実に困るんです。乗遅れるといって、四十分で直ぐ出る列車があるんですから、少しも狼狽(あわ)てる必要はないんですが、僅(わず)か四十分のために命がけの事をなさるんで……。しかしお怪我がないようで何よりでした」
「大変御面倒をかけました」謙作は頭を下げた。
「嘱託の医者が留守で、町医者を頼めばよかったのを、直ぐ帰るというので、そのままにしたのですが、どうしましょう。近所の医者を呼びましょうか?」
「どうなんだ」謙作は顧みていった。
「少しぼんやりしてられるようだが、かえって、直ぐ此方(こっち)から医者へ行った方がよくはないか」
「それじゃあ、折角ですが、私の方で、連れて行きます。大変御厄介をかけ、申訳ありません」
末松は俥(くるま)をいいに行った。
謙作は直子の傍(わき)へよって行った。彼は何といおうか、いう言葉がなかった。何をいうにしても努力が要(い)った。直子の決して寄せつけないというような態度が、謙作の気持の自由を奪った。
「歩けるか?」
直子は下を向いたまま点頭(うなず)いた。
「頭の具合はどうなんだ」
今度は返事をしなかった。
末松が帰って来た。
「俥は直ぐ来る」
謙作は直子の手から赤児を受取った。赤児は乳の呑みかけだったので急に烈しく泣き出した。謙作はかまわず泣き叫ぶまま抱いて、駅長と助役にもう一度礼をいい、一人先ヘ出口の方へ歩いて行った。
毎度のことながら、巧い文章だとは思うのだが、ここでは、どうも「視点」が定まらない。この小説は第三人称の小説だから、謙作の「視点」一本で進むわけではないが、その都度、微妙に「視点」を移動させている。それが効果的な場面ももちろんあるが、ここでは、混乱のように感じてしまう。
「ぼんやりしていた」直子のことを、志賀は、「まるで訊問前の女犯人とでもいうような様子で凝(じ)っとしていた。」と書くわけだが、ここは、明らかに「謙作の視点」をとっている。つまり「謙作にはこう見えた」という書き方だ。
直子は「被害者」であり、「加害者」でもなければ、まして「女犯人」でもない。「訊問」されなければならないのは、わびなければならないのは、謙作のほうだ。それなのに、直子はぼんやりと、訊問を待っている、ように、謙作には見えるというのだ。
それは、謙作が直子に対して、申し訳ないという感情に支配されているのではなく、むしろ難詰したい気持ちでいっぱいだったことの現れであろう。どうして、無理矢理乗ってこようとしたんだ、どうしてオレの言うとおりにしなかったんだ、と次から次へと出てくる非難の言葉を、ぐっと飲み込んでいるからこその「見え方」だ。
それにしても、この「比喩」は、残酷な比喩で、志賀直哉という人の酷薄さを見せつけられる気がする。
その一方で、お栄の言葉にも返事をしない直子を、「直子は自分の身体(からだ)よりも心に受けた傷で口が利けないという風だった。」と書く。ここは、「謙作の視点」とは微妙にずれる。むしろ、直子の気持ちを汲んでの「見え方」である。このずれかたが、どうも気持ち悪い。すっきりしない。
謙作は直子の「傷」をもちろん感じ取っているのだ、悪いことをしたと思ってはいるのだ、ということかもしれないが、そこがこの後に生きてこない。それが「混乱」と感じる理由である。
とにかく、謙作は「悪いことをした」と思っているのかもしれないが、それが態度に、言葉に出ない。素直に、「すまなかった。癇癪を起こしてしまって。どこか痛くはないか。大丈夫か。」と言えばいいのに、それが言えない。
むしろ、駅員の言う、非難がましい言葉こそが、謙作の心に共感をもって受け入れられる。謙作も同じことを思っていたに違いない。直子が命を賭けたのは、「40分」のためではない。赤ん坊への「乳」のためだ。そのことの切実さを、謙作は理解しない。しようともしない。だから、謙作は直子から赤ん坊をむしりとるように受け取ると、乳を飲みかけだった赤ん坊を「かまわず泣き叫ぶまま抱いて」、「一人先へ」歩いていってしまうのだ。まるで、復讐をするかのように。乳なんかに拘るからお前はあんな目にあうんだ。赤ん坊なんて、これでいいんだ。そう、謙作の後ろ姿は叫んでいる。
一言の詫びも言えないのは、「直子の決して寄せつけないというような態度が、謙作の気持の自由を奪った」からだというように書いてあるが、それでも、まず、直子をいたわる、心配する、わびる、言葉ぐらいは言えないわけではなかろう。そんなときに「気持ちの自由」なぞ、微塵も要らぬ。
まあ、こんなふうに読んでくると、この謙作という男の今風に言えば「好感度」は、だだ下がりで、(今までだって、「好感度」は、低かったわけだが。)この男はいったいこの先どうしようというのだろうと心配になる。
直子は、こんな男にどこまでついていけるのだろうか。それも心配になる。結論は、もう出ているのだが、それはそれとして、もうしばらく心配しながら、読んでいくこととしよう。
志賀直哉『暗夜行路』 156 直子の思い 「後篇第四 十」 その1
2024.9.26
列車に乗り込もうとした直子を、ホームへ突き落とすという、およそ信じられない暴挙に出た謙作だったが、直子のケガはそれほど大したことはなかった。そうはいっても、「二、三日は起上る事が出来なかった。」というのだから、「大した事はなかった」と言ってすませられることでもない。
直子の怪我は大した事はなかったが、腰を強く撲(う)っていて、二、三日は起上る事が出来なかった。謙作は一度直子とよく話し合いたいと思いながら、直子が変に意固地になり、心を展(ひら)いてくれないためにそれが出来なかった。
直子の方は彼がまだ要(かなめ)との事を含んでいると思い込んでいるらしいのだが、謙作からいえば、苛々した上の発作で、要との事などその場合浮ぶだけの余裕は全くなかったのだ。
「お前はいつまで、そんな意固地な態度を続けているつもりなんだ。お前が俺のした事に腹を立て、あんな事をする人間と一生一緒にいる事は危険だとでも思っているんなら、正直にいってくれ」
直子は謙作に対して心を閉ざしてしまっていて、とりつく島もない。まあ、そりゃそうだろう。走りだした列車から突き落とされるなんて経験、そんなにめったに出来るものじゃない。口を利きたくないのも当然だ。
謙作は話し合いたいと思うが、「直子が変に意固地になり、心を展(ひら)いてくれない」ためにできなかった、という。まるで「直子が悪い」とでもいいたげな書き方だ。
さらに、謙作は「苛々した上の発作で、要との事などその場合浮ぶだけの余裕は全くなかったのだ。」と書かれる。「事実」としてはそうだろう。突き落とす瞬間に、「このやろう、要と寝たりしやがって!」なんて思ったわけじゃないだろう。苛立ちの発作で、あんなことをしたと思っている。それもそうだろう。けれども、なぜ謙作は苛立っていたかといえば、列車に乗り遅れそうになっている直子に対して苛立ったというのではなく、その日は、朝からずっと苛立っていたのだ。それはなぜかと言えば、結局「要のこと」に行き着く。けれども、そのことに気づいていない、というか、気づいていないと思っている。
その上で、更にトンチンカンなことを言う。「あんな事をする人間と一生一緒にいる事は危険だとでも思っているんなら」なんて、まったく直子の心中を察していないことになる。そんな単純なことじゃないだろう。
だから、謙作の言い草や態度に耐えられなくなった直子は、珍しく長々と反論するのだ。
「私、そんな事ちょっとも思っていないことよ。ただ腑に落ちないのは貴方が私の悪かった事を赦していると仰有りながら実は少しも赦していらっしゃらないのが、つらいの。発作、発作って、私が気が利かないだけで、ああいう事をなさるとはどうしても私、信じられない。お栄さんにも前の事、うかがって見たけれど、貴方があれほど病的な事を遊ばした事はないらしいんですもの。お栄さんも、近頃はよほど変だといっていらっしたわ。前にはあんな人ではなかったともいっていらした。そんな事から考えて貴方は私を赦していると仰有って、実はどうしても赦せずにいらっしゃるんだろうと私思いますわ。貴方は貴方が御自分でよく仰有るように私を憎む事でなお不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考えて、赦していらっしゃるんだと思う。その方が得だというお心持で赦そうとしていらっしゃるんじゃないかと思われるの。それじゃあ、私、どうしてもつまらない。本統に赦して頂いた事には何時まで経ってもならないんですもの。それ位なら一度、充分に憎んだ上で赦せないものなら赦して頂けなくても仕方がないが、それでもし本統に心から赦して頂けたら、どんなに嬉しいか分らない。今までのように決してお前を憎もうとは思わない。拘泥もしない。憎んだり拘泥したりするのは何の益もない話だという風に仰有って頂くと、うかがった時は大変ありがたい気もしたんですけど、今度のような事があると、やはり、貴方は憎んでいらっしゃるんだ、直ぐそう私には思えて来るの。そしてもしそうとすればこれから先、何時本統に赦して頂ける事か、まるで望がないように思えるの」
まことにもっともである。この中で直子は非常に鋭い指摘をしている。「貴方は貴方が御自分でよく仰有るように私を憎む事でなお不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考えて、赦していらっしゃるんだと思う。その方が得だというお心持で赦そうとしていらっしゃるんじゃないかと思われるの。」というところだ。「その方が得だ」というところ、謙作の心にうちを正確に把握しての言葉だ。謙作にとっては、「心の平安」が第一で、それを得ることこそが「得」だと思っている。だから、直子の過ちという重大事においても、そのことで自分の平安が乱されることを何よりも怖れたから、「許す」とか「拘泥しない」とか言ったわけだ。自分が心の底で本当に直子を許しているのかいないかは考えずに、とりあえず「許す」と言っておき、あとは、何とか「自分だけ」の力で、乗りきっていこうと考えたのだった。
そこを見抜いていた直子は、「それじゃつまらない」という。この「つまらない」は、もちろん「おもしろい」の反対語ではない。「それじゃぜったいに嫌なの」ぐらいに強くとっておきたい。
直子は、そんな自分だけの損得勘定でこの問題を解決する(あるいはしたつもりになっている)のではなく、いちどほんとに自分を「憎み」、憎んだうえで、許せるなら許してほしい。許せないならそれはそれで仕方がない、と言うのだ。少なくとも、「憎む」というステップがないと、「何時本統に赦して頂ける事か、まるで望がないように思える」というのだ。
これはよく分かる。言葉の上だけで「許す」なんて言われても、それで「許された」なんて誰も思えない。言葉はどうとでもなるからだ。けれども、「行為」は瞬発的なだけに嘘がつけない。それを「発作」のせいにするのも、「言葉」によるまやかしだ。だから「許す」にしても、まずはほんとうに「憎んだ」うえでのことにしてほしい。そうじゃなきゃ、あなたの「言葉」は信じられないと、直子はいう。
よく分かる。よく分かるのだが、それでは、「憎む」とはどうすることだろう。言葉で、「実はお前を憎んでいる」と謙作が言ったところでどうしようもない。それもまた「言葉」に過ぎない。では「ほんとうに憎む」ということは、「行為」としてどう現れるのか。暴力だろうか、あるいはすくなくとも「言葉の暴力」だろうか。
直子の言い分は、十分に正当なものだとは思うが、実際のところ、「憎む」にしろ「許す」にしろ、それがいったいどういう内実を持つものなのかについては、やはり明確に把握できてはいないのだと思われる。そして、それは直子に限らず、誰にとっても、把握しきれないもの、心の闇のようなものなのだ。
直子の言葉に、謙作は、「じゃあ、そうしよう」なんてとても言えない。言ったところでどうしたらいいか、謙作にも分からないだろう。だから、謙作はこんなふうに言う。
「それだから、どうしたいというんだ」
「どうしたいという事はないのよ。私、どうしたら貴方に本統に赦して頂けるか、それを考えてるの」
さて、謙作は、これに対してどう答えるのだろうか。
志賀直哉『暗夜行路』 157 「別居」へ 「後篇第四 十」 その2
2024.10.9
直子は、どうしたら謙作に「ほんとうに赦してもらえるのか」を考えているのだと言う。謙作が、口では「お前を憎んでいない。赦している。」と言いながら、ぜんぜん行動が伴わないばかりか、走り出した電車から突き落とすなどというとんでもないことをしたのだから、もっと謙作を非難してもいいはずなのに、そんなことを考えていると言うのだ。
その直子に対して、謙作は、意外なことを言い出す。
「お前は実家(さと)に帰りたいとは思わないか」
「そんな事。またどうして貴方はそんな事を仰有るの?」
「いや。ただお前が先に希望がないような事をいうから訊(き)いて見ただけだが……とにかく、お前が今日位はっきり物をいってくれるのは非常にいい。お前が変に意固地な態度を示しているので、此方(こっち)から話し出す事が今まで出来なかった」
「それはいいけれど、私の申上げる事、どう?」
「お前のいう意味はよく分る。しかし俺はお前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない。お前は憎んだ上に赦してくれというが、憎んでいないものを今更憎むわけには行かないじゃないか」
「……貴方は何時(いつ)でもきっと、そう仰有る」
直子は怨めしそうに謙作の眼を見詰めていた。
いきなり「実家(さと)へ帰りたいとは思わないか」というのは、唐突すぎる。直子はどうしたら赦してもらえるのかと考えているところなのだ。話がみえない。だから直子もびっくりする。それに対して、謙作は、聞いてみただけだと言葉を濁してから、直子がはっきり物を言ってくれるのは「非常にいい」と、実に「上から目線」の言葉を発する。
なにが「非常にいい」だ! その前に、まず謝れ! って今の、朝ドラの視聴者ならSNSに書き込むことだろう。ふざけるな謙作! 消えろ! とかね。
しかし、こういう時代だったのだ。謙作がまずは素直に謝ることが肝要なのに、自分が謝れなかったことを、直子の「意固地な態度」のせいにする。くどいようだが、謙作は、あの事件について、一度も直子に謝ってないのだ。時代とはいえ、ひどい。
そのうえ、謙作は、屁理屈を並べる。「憎んでいないものを今更憎むわけには行かない」なんて、ただの言葉遊びでしかない。「俺はお前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない。」というのがその理屈の根拠になっているのだが、どうしてそこまで「自分」が信じられるのだろうか。
おそらく謙作は、「自分」の心の闇を覗くのが怖いのだ。「自分」というものに疑いを持つことができないのだ。それは、「自分」はどこまでも、「立派な自分」でなければならない、あるいは、そういう自分でありたいと強く願って生きてきたのだ。だから、今回のような、直子の過ちが、自分にどんな衝撃を与えようとも、「そんなこと」で、妻を「憎む」というような浅はかな「自分」ではありたくない。そんな「自分」は、許せない。そういうことではなかろうか。
直子の「貴方は何時でもきっと、そう仰有る」という言葉からも分かるように、謙作は、いつでもそうして「立派」であるべき「自分」を守ってきたのだ。
直子に怒って、直子を殴り、悪罵を浴びせかけ、徹底的に糾弾するといった「自分」はありえない。「自分」はそんなありきたりの男じゃないんだという矜持。
しかし、謙作も、考えてはいるのだ。しかし、その「考える」方向がなんか違う。
謙作はそれは直子のいうように実際もう一度考えて見る必要があるかも知れないと思った。
「それにしてもこの間の事をそういう風に解すのは迷惑だよ。とにかく、俺たちの生活がいけないよ。そしていけなくなった原因には前の事があるかも知れないが、生活がいけなくなってから起る事がらを一々前の事まで持って行って考えるのは、それはやはり本統とは思えない」
「この間の事をそういう風に解すのは迷惑だよ」と謙作は言うのだが、「迷惑」とはどういうことなのか。オレはお前のことを憎んでいないし、赦している。電車から突き落としたのは、癇癪の発作にすぎないんだから、その原因がお前の過ちにあるとお前が解釈するのは、オレには「迷惑」なんだ、ということだろうが、なんていう勝手な言い草だろう。「迷惑」だろうがなんだろうが、直子にはそうとしか思えないんだし、端からみても(たとえばお栄から見ても)そうとしか考えられないんだから、直子のそういう解釈を「迷惑」だといって非難する筋合いではないのだ。
だから直子はこう反論する。
「私は直ぐ、そうなるの。僻み根性かも知れないけど。それともう一つは貴方はお忘れになったかも知れませんが、蝮(まむし)のお政(まさ)とかいう人を御覧になった話ね。あの時、貴方がいっていらした事が、今、大変気になって来たの」
「どんな事」
「懺悔という事は結局一遍こっきりのものだ、それで罪が消えた気になっている人間よりは懺悔せず一人苦んで、張(はり)のある気持でいる人間の方がどれだけ気持がいいか分らない、とそう仰有ったわ。その時、何とかいう女義太夫だか芸者だかの事をいっていらした」
「栄花(えいはな)か」
「その他(ほか)あの時、まだ色々いっていらした。それが今になって、大変私につらく憶い出されるの。貴方はお考えでは大変寛大なんですけど、本統はそうでないんですもの。あの時にも何だか貴方があんまり執拗(しつこ)いような気がして恐しくなりましたわ」
直子は自分のことを「僻み根性かもしれない」というが、そんなことはない。ごく普通の感覚だ。そして、直子は、かつて謙作が言っていたことを心に深く刻んでいたのだ。
懺悔して赦された気になってのうのうと生きて行くより、一生罪を背負って生きて行くほうがえらい、みたいな話を謙作がしたことが、トゲのように直子の心にひっかかり、それが、今傷として膨らんできたのだ。その謙作の考え方、感じ方を自分に当てはめたとき、直子は慄然として、自分はあの栄花みたいに、一生罪を背負って生きていかねばこの人は認めてくれないんだろうかという恐怖を感じたのだ。そして、そういう謙作の心根を「執拗(しつこ)い」と表現した。
この「執拗い」という言葉は、時としてとても強烈に響く。ぼくもなんどかこの言葉を投げつけられたが、そうとう腹が立ったものだ。まして謙作だ。
謙作は聞いているうちに腹が立って来た。
「もういい。実際お前のいう事は或る程度には本統だろう。しかし俺からいうと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったように寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考え方だよ。同時に功利的な考え方かも知れない。そういう性質だから仕方がない。お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。何時だって俺はそうなのだから……。それにつけても生活をもう少し変えなければ駄目だと思う。もしかしたら暫く別居してもいいんだ」
直子は一つ所を見詰めたまま考え込んでいた。そして二人は暫く黙った。
「……別居というと大袈裟に聞こえるが」謙作はい<らか和らいだ気持で続けた。「半年ほど俺だけ何所(どこ)か山へでも行って静かにしてて見たい。医者にいわせれば神経衰弱かも知れないが、仮りに神経衰弱としても医者にかかって、どうかするのは厭だからね。半年というがあるいは三月(みつき)でもいいかも知れない。ちょっとした旅行程度にお前の方は考えてていい事なのだ」
「それは少しも僻(ひが)まなくていい事なのね」
「勿論そうだ」
「本統に僻まなくていい事ね」直子はもう一度確めてから、「そんならいいわ」といった。
「それでお互に気持も身体(からだ)も健康になって、また新しい生活が始められればこの上ない事だ。俺はきっとそうして見せる」
「ええ」
「俺の気持分ってるね」
「ええ」
「暫く別れているという事は、決して消極的な意味のものじゃないからね。それ、分ってるね」
「ええ。よく分ってます」
やっぱり怒った。そして開きなおる。「俺からいうと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。」と。ここはほんとうに一貫している。とにかく「オレ一人」の問題だ。お前は関係ない。スーパーウルトラエゴイストなのだ。
「お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所(そこ)へ落ちつくより仕方がないんだ。」というのは、謙作の、本質なのだろう。しかし、「其所(そこ)へ落ちつくより仕方がない」という「そこ」とはどこなのだろう。「寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば」が、「そこ」なのだろう。
「考え」と「感情」の乖離。「考え」のほうは、きわめて近代的な「自分」の捉え方で、いわゆる「近代的自我」に関する「理想」である。しかし、「感情」のほうは、近代もなにも関係なく、「癇癪の発作」として暴走してしまう。そこをどう折り合いをつけて、調和させていくか、それが謙作の唯一の「問題」であり、そうである以上「オレ一人の問題」であるほかはない。
そこにおいては、直子という「他者」を「認めない」ことになっても仕方がない。「他者」との「関係」において「自分」を形成していこうという発想は、謙作にはないのだ。
なんの脈絡もなく発せられたかにみえて「実家(さと)に帰りたいとは思わないか」という謙作の言葉は、ここに至って、今はやりの言葉でいえば「回収」されたことになる。(「栄花」の話も、「回収」だね。)
直子は「僻まなくていい事なのね」と何度も念を押す。つまりこの「別居」が、自分のせいであると考えなくてもいいのね、ということだ。謙作は、「勿論そうだ」と答えるが、直子もそこをもう疑うことができない。アホらしくて疑う気にもなれなかったのかもしれない。
最後の「ええ。よく分かってます」にしても、謙作の思いへの心からの同意ではなくて、一種の諦めの言葉であろう。
二人は別居することとなった。お栄は尾道でのことを持ち出して反対した。けれども、あのときは「仕事」で、今度は「精神修養」と「健康回復」が目的だからと説得した。
「何処へ行く気なの?」
「伯耆(ほうき)の大山(だいせん)へ行こうと思うんです。先年古市(ふるいち)の油屋で一緒になった鳥取の県会議員がしきりに自慢していた山だ。天台の霊場とかで、寺で泊めてくれるらしい。今の気持からいうとそういう寺なんかかえっていいかも知れない」
お栄の問いにそう謙作は答えた。
心に深く傷を負った直子をおいて、謙作は、「伯耆大山」に向かうというのである。勝手な話である。
それなら、直子も、メンドクサイ謙作なんて捨てて、さっさと実家に戻ったほうがいいと思うのだが、直子はそうしない。謙作は、大山で、なんらかの心の解決を得て、直子は、この人についていこうと思うというのが、結末だったはずだが、ふたりの心の変化がどのように描かれるのか、心して読んでいきたい。ぼくは、謙作より、直子の心境の変化により興味を感じるのだが。
志賀直哉『暗夜行路』 158 妙な「出発」 「後篇第四 十一」 その1
2024.10.23
謙作は、いよいよ「出発」することになった。伯耆大山に行くことは決まっているが、それ以上の細かい計画があるわけでもない。きままな「旅」だ。
しかし、「普通の旅とは心構えが異(ちが)う」旅なので、出発前のやりとりが「何となく妙」だった。そのやりとりはこんな風に始まる。
謙作はいよいよ旅へ出る事にしたが、普通の旅とは心構えが異うだけに出発際が何となく妙だった。
「何時(なんじ)でもいいんだ。どうせ一日で山までは行けないんだから……」彼は出来るだけ暢気らしい風をしてこんな事をいっていた。彼は旅行案内を見ながら、
「三時三十六分鳥取行か。もしそれに遅れたら五時三十二分の城崎行でもいい」
「缶詰や何かお手紙下されば、直ぐ明治屋から送らせますから……」
「まあ、なるべく、そういうものを取寄せずに、むこうの物で間に合わそうよ。なまじ、都の風が吹いて来て、里心がついては面白くない。そういう意味で、なるべく用事以外、お互に手紙のやり取りはよそうじゃないか」
「ええ。……それでももし貴方に書く気がおでになったら下さればいいわね。もしそういう気におなりになった時には」
「そうだ。それはそれでいい訳だが、そんな事をいってしまうと、お前がそれを待っていそうでやはり窮屈になるね」
「それなら、どうでもいいわ」
「何となく妙」なんてものじゃない。すごく妙だ。
そもそも、初めて謙作が「大山」に行くと言い出してから、この出発の日まで、何日経ったのか、その間に、直子とどんなやりとりがあったのかについては、まったく説明がない。いきなり章を「十一」と変えて、「謙作はいよいよ旅へ出る事にしたが」と始める。
直子は、この謙作の「大山行き」について、どう考え、どんなことを言い、どう「納得」したのか、まるで分からない。とにかく、謙作は行っちゃうのだ。乱暴だよね。謙作がというより、作者が。
何時の列車でもいいということを、「出来るだけ暢気らしい風をして」いう謙作は、内心は決して「暢気」ではない。相当の覚悟があるらしいのだ。それが徐々にあかされるわけだが。
「明治屋」は、1885年(明治18年)に横浜で創業された老舗だが、このころには、京都にも支店があったのだろう。「缶詰」も、贅沢品だったころの話だ。
そういう直子の思いやりも、謙作は断る。なんでも自分でやるから、気にするなというのだ。しかも、手紙のやりとりすらよそうと言う。「もし貴方に書く気がおでになったら」を繰り返す直子があわれである。そのすがるような直子の申し出に、謙作は、「そうだ。それはそれでいい訳だが、そんな事をいってしまうと、お前がそれを待っていそうでやはり窮屈になるね」と言う。謙作は、どこまでも縛られたくない、自由でいたいのだ。
「お前がそれを待っていそうでやはり窮屈になる」というのは、気持ちとしてはよく分かるのだが、家でいつ帰ってくるのかわからない直子の不安と、謙作の「窮屈」を比べたら、だれが考えたって、直子の不安のほうが重大に決まっている。それでも、謙作は、自分の「窮屈」を排除したい。自由気ままでいたいのだ。
「それなら、どうでもいいわ」という直子の投げやりな言葉に、直子のため息が聞こえる。この人には何を言ってもダメなんだ。家で待つ私のことなんか、これっぽっちも考えてはくれないんだ……。
で、いったい何のための「自由」なのかといえば、自己改造のためだということになる。
「お前は俺の事なんか何にも考えなくていいよ。お前は赤ちゃんの事だけ考えていればいいんだ。俺も赤坊が丈夫でいると思えば、非常に気が楽だよ。迷わず成仏出来るというものだ」
「亡者(もうじゃ)ね、まるで」と直子は笑い出した。
「実際亡者には違いないよ。その亡者が、仏様になって帰って来るんだ」
「たち際に縁起の悪い事を仰有(おっしゃ)るのね」
「これほど縁起のいい事はないさ。即身成仏、といってこのまま仏様になるんだ。帰って来ると俺の頭の上に後光がさしているから……。とにかく、俺の事は心配しなくていいよ。お前は自分の身体に気をつけるんだ。それから赤ちゃんを特に気をつけて」
「つまりおんばさんになった気でね」
「おんばさんでも母親でもいい。とにかく、暫く細君を廃業した気になっていてもらいたい。未亡人になった気でもいい」
「貴方はどうしてそういう縁起の悪い事をいうのがお好きなの?」
「虫が知らすのかな」
「まあ!」
謙作は笑った。実際彼は今日の出立を「出家」位の気持でいたのだが、そういう気持をそのまま現して出るわけには行かなかった。丁度いい具合に話が笑談(じょうだん)になったのを幸い、そろそろ出かける事にした。花園駅から鳥取行に乗る事にした。
自己改造どろこではない。「即身成仏」なんだという。
もちろんこの辺りは冗談半分なのだろうが、いきなり「迷わず成仏出来るというものだ」というのは、いくらなんでも飛躍がすぎる。直子が、どうしてそんな縁起の悪いことばかり言うのかと言う気持ちもよく分かる。謙作の内部思考においては、いろいろあって至った結論なのかもしれないが、そんなことを言われた直子は戸惑うばかりだ。
それでも、その「冗談」を直子は「亡者ね、まるで」と笑う。
「亡者」とは、「金の亡者」などと使われるときの意味とは違い、仏教語の元の意味、「@常識的な考えにとどこおることを否定する人。とらわれを捨てた人。A死んだ人。死者。また、死んだ後に成仏しないで魂が冥土に迷っているもの。」(日本国語大辞典)の方の意味で使われている。特にここではAの意味だ。
謙作は、「亡者」としてこの世界に生きているのだが、なかなか「成仏」できない。でも、この「旅」で、「成仏」してくるというのだ。つまりは、「即身成仏、といってこのまま仏様になるんだ。帰って来ると俺の頭の上に後光がさしているから……。」ということになる。
極端な話である。「頭の上に後光がさしている」謙作を、直子は想像することができるだろうか。しかも、謙作にとっては、まったくの冗談ではなくて、むしろ謙作は、「今日の出立を『出家』位の気持でいた」というのだから、その本気度は、かなりのものだといっていい。
しかし、直子からすれば、自分の過ちを本当に心から赦して欲しいと願っているだけなのに、それができないからといって、「出家」するって、いったいどういうことなの? って思うはずだ。何日も家をほったらかして、何十日後だか、何ヶ月後だかしらないけど、帰ってきたら「後光がさしてる」男なんて、直子が望んでいる夫ではなかろう。
なにもかも、謙作と直子は食い違っている。というか、謙作は、直子に根本的に「関心がない」のだ。
謙作が、直子の過ちに深く衝撃を受けて傷ついていることは確かだ。しかし、直子も同じように傷ついて苦しんでいるのだ。その直子のことを謙作は真剣に考えようとしない。ただ、自分が変われば、「仏様」になれれば、直子も救われると思っているのだろう。しかし、それとても怪しい。謙作は、とにかく、自分が変わりたい、仏様になりたい、それだけなのかもしれない。
直子のことを気に掛け心配していることは確かだろう。しかし、「お前は自分の身体に気をつけるんだ。」と言ったその直後に、「しかし、それから赤ちゃんを特に気をつけて」と、すぐに話が「赤ちゃん」に移って行く。その挙げ句には、「おんばさん(*乳母のこと)でも母親でもいい。とにかく、暫く細君を廃業した気になっていてもらいたい。未亡人になった気でもいい」というのだ。
「母親」でも「乳母」でもいいから、とにかく「赤ん坊」をしっかり育てろ、「細君(妻)」なんて廃業して「未亡人」になったつもりで、「赤ん坊」を育てろという。しかし、直子は、謙作の「妻」として、悩み苦しんでいるのだ。謙作との「関係」が問題なのだ。
そのことが謙作にはまったく分からない。直子に「未亡人」になったつもりでいろというのは、突き詰めれば、離婚して子どもだけはちゃんと育てろといっているに等しい。離婚しないで、「別居」するのは、直子との夫婦関係を立て直すためだろう。そういう相手に、「暫く細君を廃業した気になっていてもらいたい」とは、なんという言い草なのだろう。バカヤロウとしかいいようがないよね、まったく。
バカヤロウなんて言う前に、百歩ゆずって、謙作の思いに寄り添ってみれば、謙作は、とにかく、今までの自分のままではダメだと痛切に思っているのだ。何とかして、この癇癪持ちで、独善的で、エゴイズムの塊のような「自分」を根本的に改造したい。どのように改造するかは、分からないけれど、この「旅」でそのきっかけでもつかみたい。そういう思いでいっぱいなのだ。それが、言ってみればこの小説全体の大きなテーマでもある。
しかし、問題なのは、謙作の「自己改造」という作業の中に、直子という存在がいっさいの関わりを拒否されているということだ。直子が軽はずみとはいえ、過ちを犯した以上、謙作に赦されようが赦されまいが、直子自身の「自己改造」もまた必要となるだろう。直子の場合は、謙作ほどの強烈な自我を持っていないから(持っていないと謙作はみなしているから、と言い換えてもいい)、「出家」なんて大げさなものにはならないにしても、直子なりに自分のあり方を探る必要があるだろう。それは、直子個人というよりは、「妻としての直子」の作業となるだろう。場合によっては、そこで直子は大いに変わっていく、あるいは成長していくかもしれないし、その可能性はおおいにある。けれども、謙作には(あるいは志賀直哉にはと言ってもいいかもしれない)、その視点がないのだ。少なくともここまででは。
謙作によって、拒絶され、放り出された直子は、この後、どう変貌するのか、あるいはしないのか、注目に値するところである。
「もう送らなくていいよ。なるべく簡単な気持で出かけたいから」
お栄が茶道具を持って出て来た。
「三時に家を出ます。──それからお前、仙に俥をいわしてくれ。三時」
「もう少し早くして御一緒に妙心寺辺まで歩いちゃ、いけない?」
「この暑いのに歩いたって仕方がないよ」
「…………」直子はちょっと不服な顔をして、台所へ出て行った。
「また、先(せん)みたように瘠(やせ)っこけて帰って来ちゃあ、いやですよ」お栄は玉露を叮嚀(ていねい)に淹れながらいった。
「大丈夫。何も彼(か)も卒業して、人間が変って還って来ますよ」
「時々お便りを忘れないようにね」
「今もいった所だが、まあ便りはしないと思っていて下さい。便りがなければ丈夫だと思ってようござんす」
「今度は三人だから淋しくはないが」
「赤坊を入れて四人だ」
「そうそう。赤ちゃん一人で二人前かも知れない」
「鎌倉へは手紙を出しませんからね。あなたから、出来るだけ何気なく書いて出しといて下さい。余計な事を書かずに」
お栄は点頭(うなず)いた。
謙作は茶を味いながら、柱時計を見上げた。二時を少し廻っていた。
直子が赤児を抱いて出て来た。まだ眠足りない風で、顔の真中を皺にしながら、眼をまぶしそうにしている。
「お父様の御出発で、今日は感心に泣かないわね」
「その顔はどうしたんだ」謙作は笑いながら指先で赤児の肥った頬を突いた。
「もう少し、機嫌のいい顔をしてくれよ」
赤児は無心に首をぐたりぐたりさしていた。
「医者は如何なる場合にも病院のを頼めよ。近所の医者は直謙の時でこりごりした」
「ええ、そりゃあ大丈夫。第一病気になんぞさせない事よ」
「今のうちはお乳だけだから、心配はないが、来年の夏あたりは何でも食べるようになるからよほど気をつけないとね」お栄は直子に茶をつぎながらいった。
謙作は風呂場へ行って水をあび、着物を更えた。そして暫くすると、俥が来たので、大きなスーッケースを両足の間に立て、西へ廻った暑い陽を受けながら一人花園駅へ向った。
こうしたくだりを読んでいると、だれにも屈託がないように思える。「出家」するような悲壮感はない。
とくにお栄とのやりとりは、ごく自然で、今さらながら、謙作とお栄の親密さに驚かされる。「また、先みたように瘠っこけて帰って来ちゃあ、いやですよ」なんていうお栄のセリフは、まるで古女房のそれである。直子とお栄とはうまくいっているようだが、こんな会話をそばで聞いている直子の気持ちは、ほんとうのところどうなんだろうか。
直子は、妙心寺あたりまで一緒に行ってもいいかと聞くのだが、謙作は、「この暑いのに歩いたって仕方がないよ」といって冷たく拒絶する。お栄に対する親密な言葉づかいとはまるで違う。(まあ、お栄は、謙作にとっては母親みたいな存在だから、ぞんざいな口のききかたはできないわけだが。それにしても……)
「暑い」とか、「仕方がない」とかいうことではない。これから二人で物見遊山しようっていうわけじゃないのだ。直子は、少しでも一緒に歩いて、いい気持ちで送りだしたいのだ。けれども、謙作は、直子は邪魔で、一刻でもはやく一人になりたいといったふうだ。別に急ぐ「旅」でもないのに。
直子は「不服な顔」をするが、それ以上の反応はない。やっぱり諦めているのだろう。
お栄は「今度は三人だから淋しくはないが」と言っているが、家に残るのは、直子とお栄と──一瞬、もう一人は誰だ? って思ったけれど、「仙に俥をいわしてくれ」という言葉があった。そうだ、お仙もいたのだった。赤ん坊もいれて4人。これからどう暮らしていくのだろう。
志賀直哉『暗夜行路』 159 自分の「外」へ! 「後篇第四 十一」 その2
2024.11.10
直子、お栄、お仙、それに赤ん坊の4人を残して、謙作は旅立った。
直子との関係修復、もっといえば、これからの直子のとの生活を立て直すための旅なのだから、深刻な気分が謙作の心を閉ざしているかと思いきや、なんだか、やっと家庭から解放されたといったのびのびとした気分の謙作だったようだ。
志賀直哉の得意な自然描写が、存分に生かされている。
嵐山(らんざん)から亀岡までの保津川の景色は美しかった。が、それよりも彼は青々とした淵を見ると、それに浸(つか)って見たかった。川からきりたった山々の上に愛宕(あたご)が僅(わず)かにその頂を見せていた。彼はいつも東から見る山をもう西から見ていた。そして彼の頭には瞬間衣笠の家が遠く小さく浮かんだ。
綾部、福知山。それから和田山へ来て、漸く夏の日が暮れた。
彼はその晩、城崎(きのさき)へ泊る事にして、豊岡を出ると、車窓から名高い玄武洞を見たいと思っていたが、暗い夜で、広い川の彼方に五つ六つ燈火を見ただけだった。
謙作が乗った列車は、山陰本線を走った。歴史を見てみると、様々な紆余曲折を経て、京都駅〜出雲今市駅が全線開通したのは、明治45年だという。今さらだけど、明治という時代は、猛烈な勢いで、国の形を変えていったわけだ。
以前、岩野泡鳴のいわゆる「四部作」を読んでいたときも、北海道の鉄道がすでに縦横に敷かれていた様子が描かれていてびっくりしたものだが、昨今の廃線につぐ廃線の状況をみるにつけ、時代というものが、なにやらわけのわからないものとして頭の中に渦を巻くような印象がある。
この冒頭の一節も、美しい。保津川沿いの車窓を、ぼくも一度見たはずなのに、その記憶がない。「青々とした淵を見ると、それに浸(つか)って見たかった。」という謙作の気持ちもよくわかる。「愛宕」というのは、落語「愛宕山」に出てくるあの山であろう。京都では愛宕山に登るという遊びがあったのだ。落語では、幇間が旦那や芸者と一緒に登る様子が生き生きと描かれている。その愛宕山が見える、ということについては、謙作の頭の中にそうした芸者たちとの遊びの思い出も含まれているのかもしれない。
「彼はいつも東から見る山をもう西から見ていた。」と簡潔な表現で、列車の移動を語り、「そして彼の頭には瞬間衣笠の家が遠く小さく浮かんだ。」と、我が家との思いがけない心理的な距離を示唆する。「衣笠の家」は、すでに、謙作の心から「遠く小さ」いものとなっているのだ。
城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽(たのし)ませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。また温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁(むぎわら)細工、出石焼(いずしやき)、そういう店々が続いた。殊(こと)に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。
城の崎といえば、当然小説「城の崎にて」が思い浮かぶわけだが、実際に志賀直哉が城崎温泉で事故(山の手線に跳ねられた)後の療養にあたったのは、大正2年のことだから、志賀は10年以上も前の記憶を辿って書いていることになる。志賀の記憶力はものすごかったらしい。
特に、「麦藁を開いて貼った細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。」というような細密な描写は、まるで今見ているように描かれている。これを、実際に見たことがないのに想像力だけで書くということはできることではない。「一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁(むぎわら)細工、出石焼(いずしやき)、そういう店々が続いた。」という部分だって、10年以上も前のことを、写真を撮ったり、メモしたりということなしに、ちゃんと覚えているというのは驚異的だ。
しかも、こうしたリアルな描写は、この小説の展開上、ほぼ意味がない。なくても、ちっとも困らないのだ。というか、あることにかえって違和感さえある。これでは、まるで、のんきな紀行文ではないか。直子のことはどうしたのか? 心配じゃないのか? って思う人もいるだろう。けれども、城の崎に来た以上、そこがどんな町で、どんな産物があって、どんな雰囲気だったのかというようなことを、きちんと正確に、しかもくどくなく、描くという姿勢を、志賀直哉は決して崩さない。
小説のストーリーだけを追いかけて読むなら、こんな部分は余分なところで、むしろわずらわしいだけだ。しかし、「暗夜行路」のストーリーは、すでに分かっている。(いちど読んでいるからだけど。)けれども、ストーリーからはずれる横道みたいなところが、案外おもしろいのが「暗夜行路」である。
宿へ着くと彼は飯よりも先ず湯だった。直ぐ前の御所(ごしょ)の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽(ゆぶね)の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和ぐのを覚えた。
出て、彼は直ぐ浴衣が着られなかった。拭いても拭いても汗が身体を伝って流れた。彼は扇風機の前で暫く吹かれていた。傍(そば)のテーブルに山陰案内という小さな本があったので、彼はそれを見ながら汗の退(ひ)くのを待った。大乗寺(だいじょうじ)、俗に応挙寺(おうきょでら)というのがあった。それは城崎から三つ先の香住(かすみ)という所にある。彼は翌日其所(そこ)へ寄って見ようと思った。子供から応挙の名は聞いていたが、その後、狗子(くし)や鶏や竹などの絵を見て彼は少しも感服しなかった。第一円山派(まるやまは)というものにほとんど興味を持たなかったが、再びこの辺へ来るかどうか分らぬ気がしたので、寄って見る気になった。
此所が暑いのか、その晩が暑いのか、何しろ蒸暑くて彼は寝つかれなかった。この湯は春秋、あるいは冬来てかえっていい所かも知れぬと思った。
翌朝起きたのは六時頃だった。彼は寝不足のぼんやりした頭で芝生の庭へ出て見た。直ぐ眼の前に山が聳え、その山腹の松の枯枝で三、四羽の鳶が交々(かわるがわる)啼いていた。庭に、流れをひき込んだ池があり、其所には青鷺が五、六羽首をすくめて立っていた。彼はまだ夢から覚めないような気持だった。
湯船が深くて「立って彼の乳まであった」というところは、一度だけ行ったことのある道後温泉の本館の湯を思い出す。あんな深い湯に入ったのは初めてだったので驚いたけど、西の方の温泉では普通のことなのだろうか。
しかし、やっぱり観光気分だね。直子との関係が崩壊寸前だから、なんとか気持ちを切り替えるために、直子としばらく離れるという決心をした謙作にしては、その「切実感」がない。「衣笠の家」なんて、とっくに謙作の心の中から消えてしまっているかのようだ。
しかしまたこうも考えられる。謙作にとって、「切実」な問題は、「自分」をどう変えていくかということなのだが、それは、「自分自身」のみを見つめていても解決のできない問題でもある。「自分」を「自分」が見る、考察するということ自体、どだい無理な話なのだ。どこまでいっても堂々巡りでしかない。そんな経験を、ぼくも、若い頃したような気がする。
「自分」の問題の解決は、「自分」の「外」からやってくる。関心を「自分」ではなくて、「外」に向けることの大事さを、大昔、加藤周一が言っていたような記憶がかすかにあるが、定かではない。誰が言っていようが、おそらく、それは正しいのだ。
謙作の「観光気分」は、謙作が旺盛な好奇心を持っていて、「外」のものからの刺激を敏感に受けるところから醸し出されているのかもしれない。それならば、一見「意味のない」自然描写にも、深い「意味」があることになるだろう。そして、この後に続く「応挙寺」の美術品に対する鑑賞・批評も、ストーリーからははずれているが、謙作の審美眼、趣味といったものを詳しく語ることで、遠回りながら謙作の「自分」変革に一役買っていくのかもしれない。
十時頃の汽車で応挙寺へ向う。香住駅から俥で行った。
応挙の書生時代、和尚が応挙に銀十五貫を与えた。応挙はそれを持って江戸に勉強に出た。その報恩として、後年この寺が出来た時に一門を引き連れ、寺全体の唐紙へ揮豪したものだという。
応挙が一番多く描いていた。その子の応瑞(おうずい)、弟子では呉春(ごしゅん)、蘆雪(ろせつ)もあり、それぞれ面白かった。
応挙は書院と次の間と仏壇の前の唐紙を描いていた。書院の墨絵の山水が殊によく思われた。如何にも律気な絵だった。次の間は郭子儀(かくしぎ)、これには濃い彩色があり、もう一つは松に孔雀の絵だった。
呉春の四季耕作図は温厚な感じで気持よく、蘆雪の群猿図は奔放で如何にも蘆雪らしく、八枚の右の二枚は構図からも描法からも、為事(しごと)を投出してしまったような露骨な破綻を見せていた。酒に酔った蘆雪が眼に浮び、呉春との対照が面白かった。
応挙の模写という禅月大師(ぜんげつだいし)の十六羅漢が未完成のまま庫裏の二階に陳列してあった。
沈南蘋(なんちんびん)の双鷲図(そうしゅうず)、浪の間に頭を出している岩の上に雌鷲が足を縮め、両翼を開き、脊(せ)を低く首をめぐらし、雄鷲を見上げながら立っている。上の岩に真直ぐに立って雄鷲が強い眼差でそれを見下している。雌鷲の子を生むための本能が如何にも露骨に描き出され、そしてそれを上から強く見下している雄鷲の態度も謙作には興味があった。
「もう他には……?」謙作は背後に立っている小坊主を顧みた。
「まあ、絵はこんなものですが、この他に左甚五郎が彫った竜というのが屋根にあります」
二人は庫裏から下駄を穿いて、戸外へ出た。戸外は何時(いつ)の間にか曇っていた。二人は本堂を左へ廻った。石段から一間ほど登った所にちょっとした平地がある。其所から、入母屋破風(いりもやはふ)に置かれた大きな丸彫の竜を望んだ。竜の写実だと思い、彼は軽いおかしみを覚えた。
「これは実物大ですね」そういって笑ったが、小坊主には通じなかった。
「おお、降って来た」
仰ぎ見た謙作の顔に大粒な雨があたった。
「この竜が雨を呼んだのだ」彼はこんな笑談(じょうだん)をいいながらまた庫裏の方へ還って来た。
これで、「十一」は終わるのだが、こうしてえんえんと書かれている美術鑑賞は、読者には、冗長とも思え、あるいは難解とも思えるだろう。あるいは、当時の読者は、こうした一種のディレッタンティズムをも喜んだのだろうか。あるいは、これを読んで、なるほどなあと思えるほど、美術的な教養があったのだろうか。
それは知るよしもないが、今この部分を読んで、ある程度の図柄を頭にイメージできる人はそう多くはないだろう。けれども、現実からはもっとも遠い美術の世界に、これだけの興味関心をもって入り込んでいけるというのは、謙作にとっては大きな救いでもあるのだ。自分の「外」に出て行けるからだ。そのところを心にとめておきたい。
志賀直哉『暗夜行路』 160 大山は近い! 「後篇第四 十二」
2024.12.2
応挙寺で、美術の世界に遊んだ謙作は、その晩は鳥取に泊まった。
その晩、謙作は鳥取に泊った。此所(ここ)では幅一里長さ七里に亘(わた)る海岸の砂原にあるという大擂鉢(おおすりばち)、小擂鉢(こすりばち)それから多鯰(たね)ヶ池というその砂原に添うた小さな湖の見物を勧められたが、何里かを俥に揺られて行くのが、もう億劫で、絵葉書を買って済ました。
「絵葉書を買って済ました」というのがおもしろい。観光地の絵葉書というものは、まだ写真の普及していない時代、旅の思い出として買うものと思っていたが、そういう「使い道」もあったのか。そういえば、最近では、観光地の絵葉書というものは、どうなっているのだろうか。まだ売っているのだろうか。まだ買う人がいるのだろうか。観光地へ、近頃とんと行かないので、その辺のことがよく分からない。
晩飯の給仕の女中が、その地の伝説などを真面目に話すのを謙作は聞きながら、明日の天気を気にしていた。
謙作は翌日の天気模様を気にしながら寝た。もし雨なればもう一日何所(どこ)かへ泊らねばならぬのが今は少し面倒になっていた。東郷池の東郷温泉なども面白そうに思われたが、それよりも早く、涼しい大山に登り、延び延びした気持になりたかった。
夜中、駿雨の音を聞いて、彼はこれならばかえってあしたはいいかも知れぬと思った。
翌日は果たしていい天気だった。謙作は九時の汽車に乗った。帝国文庫の「高僧伝」を読んだり、小泉八雲に思いを馳せたりしながら、大山を目指した。ここでは引用しないが、その土地の伝説などに興味を示したりする部分がけっこう細かくて、前回の美術についてのように、なくてもいいような叙述が続くが、そうした知識はどこから仕入れたのだろうか。志賀は、大山に実際に行って、「取材」したのだろうか。それともかつて旅行したことがあり、その抜群の記憶力を頼りに書いているのだろうか。ちょっと知りたいところである。たぶん、そういう研究もあるだろうが、今は先を急ぐ。
やがて、「外の景色」が、謙作の気持ちに変化をもたらすようになる。
上井(あげい)、赤崎(あかさき)、御来屋(みくりや)。彼は汽車の窓から飽ず外の景色を眺めて来た。盛夏の力というようなものが感ぜられ、彼は近頃に珍しく元気な気持になった。二尺ほどに延びて密生した稲が風もないのに強い熱と光との中に揺れて見えた。
「ああ稲の緑が煮えている」彼は亢奮(こうふん)しながら思った。
実際稲の色は濃かった。強い熱と光と、それを真正面(まとも)に受け、押合い、へし合い歓喜の声をあげているのが、謙作の気持には余りに直接に来た。彼は今更にこういう世界もあるのだと思った。人間には穴倉の中で啀合(いがみあ)っている猫のような生活もあるかわりに、こういう生活もあるのだと思った。今日の彼にはそういう強い光が少しも眩しくなかった。
まず、冒頭の地名の列挙がすばらしい。どんなところか何の説明もないのに、読んで心地よいリズムがある。大岡信の「地名論」みたいだ。地名が、地名の列挙によるリズムが、謙作の心の躍動につながる。
そして「二尺ほどに延びて密生した稲が風もないのに強い熱と光との中に揺れて見えた。」そして、「ああ稲の緑が煮えている。」という極端な表現。──まるでゴッホである。
これまで、この小説にこんなにも明るい、生命感に満ちた表現は一度も出てこなかったような気がする。全体にもやがかかったような、陰鬱な空気の中で、息もできないような生活が続いてきた。直子との結婚以来、子どもの死、そして直子の過ちと謙作の思いも寄らぬ残酷なふるまい。その後の直子との心理的な確執。そこからなんとか脱出して旅に出た謙作は、やっとこの景色に出会えたのだといっていい。
大山は近い。
大山という淋しい駅で汽車を下りた。車夫を呼んで訊くと、大山まではなお六里あるとの事だった。それも俥で行けるのは初めの三里で、あとは徒歩で行くのだという。
「それじゃあ直ぐ出かけましょう。俺(わし)は分けの茶屋で何か食わしてもらえばいい」
これから六里の道を一緒に行くという事が既に彼らをいくらか親(ちか)しくしている感じだった。
謙作は俥に乗った。
「日は長(なげ)えが、何しろ半分からはずっと登りだからね」
前に遠く、線の立派な大山を眺めながら謙作はこの炎天にこの車夫があすこまで荷を運ぶかと思うと不思議な気がした。
「上はよほど涼しいだろうね」
「そりゃあ涼しい。昔はこの辺の氷といやあ、みんなあの山の雪を持って来たものだ。 冬、積み重ねておいたのを夏になって、切り出して来るのだ。俺(わし)は若い頃、その人足をやっていた」
狭い通りで子供たちが騒いでいた。人取りのような遊びで、子供たちはそれに夢中で、なかなか俥をよけなかった。
老車夫は丁度其所(そこ)に落ちていた細い竹の枝を拾うと、子供らの頭をちょいちょいと叩きながら行った。
「老ぼれ」「阿呆」子供たちは毒づいていたが、老車夫は笑いながら、手の届く子供の頭は一々叩いた。
すがすがしい情景描写だ。子どもが老車夫をからかうさま、老車夫が子どもの頭を竹の枝で笑いながら叩いていくさま。こういうところは、何度もいうが、志賀はほんとにうまい。短編の「真鶴まで」を思い起こさせる。
老車夫とも打ち解ける謙作の気持ちもよく伝わってくる。
間もなく、その狭い通りから急に広い道へ出た。路幅は六、七間、両側に軒の低い家が並んでいた。それが一層この道を広々と、また明るい感じに見せた。三叉(みつまた)に竹竿を渡し、それへ白い無闇と長い物が一杯掛けてあった。片側半分ほどは軒並それだった。干瓢(かんぴょう)だという。
「干瓢にしちゃあ幅が広いな」
「まだ乾かねえからさ」
「名物にでもなっているのか」
「なに、名物というほどじゃあない」
馳けたり、歩いたり、二人は気楽にこんな話をしながら行った。
三里来て、其所(そこ)からはもう俥は通わなかった。老車夫は俥を百姓家に預け、麻縄で荷を背負った。謙作は麻帷子(かたびら)の裾を端折(はしょ)った。
道から細い坂を登ると、上は広々した裾野だった。最近まで軍馬養成所になっていたか、広々した気持のいい場所だった。一体大山は馬市でも名高い所だという。
二人はゆるい傾斜の原をゆっくり歩いて行った。
狭い通りから広い道に出た感じが、とてもいい。これも、謙作の心の解放を示唆しているかのようだ。
中に「三叉」という言葉が出てくるが、懐かしい。我が家ではこれを「さんまた」といい、洗濯物を吊り下げた竹を物干しに持ち上げるのに使っていた。Y字型をした道具である。決して植物の「ミツマタ」ではないから注意。
老車夫との掛け合いも、ますます親しみの度合いをましている。こんなに素直な謙作は、初めてみる思いがする。
これで、「十二」は終わるが、話はそのまま「十三」へと連続していく。
志賀直哉『暗夜行路』 161 「リアル」の大事さ 「後篇第四 十三」 その1
2024.12.9
竜胆(りんどう)、撫子、藤袴、女郎花(おみなえし)、山杜若(やまかきつばた)、松虫草、吾亦紅(われもこう)、その他、名を知らぬ菊科の美しいは花などの咲乱れている高原の細い路を二人は急がず登って行った。放牧の牛や馬が、草を食うのを止め、立って此方(こっち)を眺めていた。所々に大きな松の木があり、高い枝で蝉が力一杯啼いていた。空気が澄んで山の気は感ぜられたが、登り故になかなか暑かった。そして背後(うしろ)に遥か海が見え出すと、二人は所々で一服しながら行った。
都会育ちなのに、志賀はどうしてこんなに植物の名前を知っているのだろう。いや、志賀だけではなく、昔の人は、都会育ちであろうがなかろうが、案外こういう知識は豊富だったような気がする。都会でも、今の都会のありようと違って、すぐ近くに自然は広がっていただろうから。
「さあ、もう一卜息だ」
「荷は思ったより重いだろう」
「うむ、ずっしりといやに重いね。こりゃあ本かね」
「辛いようなら、その茶屋で少し出して行ってもいい。ついでの時に運んでもらうとして」
「なに大丈夫だ。分けの茶屋で飯を一つよばれよう。そうすりゃあ元気がでらあね。」
「お前は酒を飲むか?」
「たんとはいけないね」
「其所(そこ)で少し飲んだらいいだろう」
「直しを一杯御馳走になるか。旦那はどうだね」
「私は駄目だ」
「全然(まるで)いけないという事はないだろう。直しを一杯やって、一時間ばかり昼寝をして行っちゃあどうだ」
「昼寝はともかく、ゆっくり休んで行こう」
ここで出てくる「直(なお)し」が、すぐに何だかわかるのが嬉しい。ぼくの愛してやまない落語『青菜』に出てくるのだが、そこで知ったのだ。関西では「柳蔭(やなぎかげ)」と呼ばれ、江戸では「本直し」と呼ばれる酒で、みりんと焼酎をほぼ半々に混ぜたものだ。冷酒用として飲まれたもので、植木屋が、旦那からこれを勧められるというくだりがある。夏の暑さの中で、なんともいえない清涼感がある。これを「分けの茶屋」で一杯やろうというのである。
関西では「柳蔭」と呼ぶのに、この老車夫が「直し」というのは、関西でも「直し」と呼ぶ人がいたということだろうか。それとも志賀がそのことを知らなかったということだろうか。いずれにしても、今ではまず飲まれることもないだろう酒が、落語みたいに、こんなところに顔を出してくるのは楽しいことだ。
それにしても、こんな山の中に歩いていくのに、「ずっしりと重い」ほど本を持って行くなんて、ちょっと信じられない。せいぜい2、3冊で事足りると思うのだが、「少し出して行ってもいい」とは、いったい何冊持っていったのだろうか。作家だからか、それとも謙作は、やっぱりまだ若いということか。
ゆっくり休んで行こうという謙作に、老車夫は、この先はぶっそうなところだから、さっさと行こうといって、昔話をする。
「もう三、四町だ。其所は分けの一つ家(や)といって、一里四方人家のない所だ。昔は恐ろしい爺(おやじ)がいて、よく旅人の物を盗ったりしたものだ」
「何時(いつ)頃の話だ」
「俺の若い頃の話さ。大山の蓮浄院(じょうれんいん)へ竹槍を持って押込みをやったのが知れ、茶屋の前で攻め木にかけられているのを見た事がある。海老攻めというので見ていられなかったね。真っ白い長い髪を振ってわあわあいう奴を段々にしめて行くのだ。俺(わし)は丁度雪を背負(しょ)って、其所(そこ)を通りかかって見たのだが、海老攻めというのはえらい拷問だね。身体(からだ)をぎゅうぎゅう海老のように屈(ま)げちまうんだから」
車夫はなお、その時の話を精しくした。頬被りをした強盗が住職を嚇(おど)している間に、気の利いた小坊主が本堂の鐘を乱打した。それが火事その他不時の場合を知らす撞き方なので、他の寺々でも応じて鐘を撞き出したが、静かな真夜中だけに森や谷にこだましてごんごんごんごんそれが響いた。或る僧が戸外(そと)に出ているとちょうど月の入りで、森の中を真白な髪を振り乱しながら逃げて行く老人の姿を遥かに見たという。
「山には竹はないが、その頃一つ家の前だけに竹藪があった。そこで藪を探すと、捨てて行った竹槍にすっきり切り口の合う株が見つかった。これには如何に強情な爺も恐れ入ったそうだ。調べ上げると他にも色々悪い事をしてたのが分って、間もなく米子で死刑になったよ」
なんとも鮮明なイメージで描かれる事件だ。「海老攻め」という拷問の凄まじさ、真夜中の森や谷に響く鐘の音、月の光にまっ白な髪を振り乱して逃げていく老人──こんなイメージを志賀はどこから手に入れたのだろう。どこかで別のところで、かつて聞いたことのある実話だったのかもしれない。それをここに入れたのかもしれない。
竹槍の切り口と、竹藪の中の竹の切り口が一致したなんて、嘘っぽいけど、おもしろい。
このエピソードも、どうしてもなくてはならぬものではない。なければないでかまわないような話だが、やはり、『暗夜行路』では、こうした枝葉が魅力的に光っているのだ。
もっとも、こうした犯罪が罰せられるというエピソードが、直子の過ちが頭を離れない謙作には、なんらかの意味をもって響いているという可能性も考えられるので、速断は慎まなければなるまい。
やがて、二人はその茶屋に着いた。屋根の低い広々とした平家だった。軒前の大きな天水桶にはなみなみと水がたたえてあり、その下で襷(たすき)をかけた六十ばかりの婆さんが、塩びきの鮭を洗っていた。
「暑い暑い」車夫は其所の縁台に重い荷を下ろした。
広い平家は真中に士間が奥まで通ってい、その左が住い、右が客用の間になっていた。そしてその客用の間の真中に八十近い白髪(しらが)の老人が立てた長い胚を両手で抱くようにして、広い裾野から遠く中の海、夜見(よみ)ヶ浜、美保の関、更にそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。老人は謙作たちが入って来たのも気附かぬ風で、遠くを眺めていた。
見事なものだ。茶屋のたたずまいが、たった二文(屋根の低い〜洗っていた。)で活写されている。天水桶にはなみなみとたたえられた水、塩びきの鮭を洗う六十ばかりの婆さん──これだけだ。これだけの「点景」で、全体を描いてしまう。
そして、車夫の「暑い暑い」のセリフをはさんで、こんどは、まるでドローンで撮影したように視点を移動させて、家の間取りを描いていき、その果てに外の風景が広がる。その風景の中に、「静かに腰を下ろしている」老人。
なんという美しい風景だろう。まるで、広重の絵だ。
「車屋にめしと酒」謙作は婆さんにいった。「私には菓子と、それからサイダーをもらおうか」
「お爺さん。お爺さん」婆さんは立って濡れ手を前へ下げたまま老人を呼んだ。
「私は手が臭いからお客様に菓子とサイダーを上げて下さい」
老人は黙って立った。脊(せ)が高く丁度風雨にさらされた山の枯木のような感じがした。
「菓子と何だね?」
「お爺さん、サイダーは俺(わし)が持って来る。菓子だけ出しておくれ」車夫はそういい、自身流しの方へそれを取りに行った。「此方(こっち)の方が冷えているのかね」
爺さんは棚から硝子の皿を取り、石油鑵(かん)から駄菓子を手で掴み出し、それを謙作の前へ持って来た。そして「おいで……」こういってちょっと頭を下げると、また元いた場所へ還って腰を下ろした。
「これを食べるかね」婆さんは塩びきを切りながら車夫にいった。
「結構だね」車夫は胸に流れる汗を拭きながら答えた。
婆さんが「私は手が臭いから」といって、菓子を出すのを爺さんに頼むあたりは、芸が細かい。「塩びき鮭」を洗っているので手が鮭臭いというのだ。こういう細かいところの「リアル」がとても大事だ。鮭の塩びきを肴にのむ「直し」もうまそうだ。これも「リアル」。
余計な話だが、今やってる朝ドラ『おむすび』には、こういう「リアル」が極端に欠けている。同時に再放送中の『カーネーション』が、こうした「リアル」に満ちているので、『おむすび』は余計見ているのが辛い。
「石油鑵(かん)から駄菓子を手で掴み出し」の「石油鑵」も懐かしい。ぼくが子どもの頃にも、「石油鑵」に菓子やら乾物やらを入れていたような気がする。
爺さんが「おいで……」というのは、「おいでなさいまし」というような挨拶の省略形だろう。最初読んだとき、「こっちへおいで」の意味かと思って戸惑った。こういう勘違いがぼくには多くて困る。
さて、ここで重要なのは、美しいパノラミックな風景の中に、ズームインしてきたような座っている爺さんが、謙作には「風雨にさらされた山の枯木のような感じがした。」というところだ。
なんでもないようなたたずまいの爺さんが、この後、重要な意味合いを持ってくるのである。
志賀直哉『暗夜行路』 162 「リアル」のありか 「後篇第四 十三」 その2
2024.12.29
謙作は扇を使いながら、サイダーを飲み、それから遠い景色を眺めた。そして彼は二、三寸にのびた白髪頭の老人を背後(うしろ)から眺め、今、車夫に聞いた昔の爺(おやじ)とを想い較べ、それらが同じ場所に住んでいるだけに如何にも面白い対照に感じた。この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭(あ)かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。また恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
老人のいる左手の壁に寄せて、米俵がいくつか積上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一疋(いっぴき)の仔猫(こねこ)が其所から米俵の上へ現われた。仔猫は両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来た所を覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。
「車夫に聞いた昔の爺(おやじ)」というのは、寺に泥棒に入ってつかまって「海老責め」(ひどい拷問の仕方らしい)にされ、結局は米子で死刑になったという老人のことだ。そういう老人と、今ここに「枯れ木のように」座っている老人を、謙作は重ねてみている。そしてそれが「面白い対照」に思えてきたというのだ。
この二人の老人はもちろん別人である。しかし、今ここに座っている老人の過去はいったいどうだったのだろう。この老人はどんな人生を送ってきたのだろう。謙作は、そんなふうに思ったのだろう。そして、この老人はいったい何を考えているのだろうと想像する。想像するが、それは誰にも分からない。
「老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。」と謙作は考える。何も考えていないのかもしれない。何かを思い出しているのかもしれない。でも、「もし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。」と想像する。
老人というのは、考えてみれば不思議なものである。自分が「老人」になって初めて分かったことだが、決して「老人」になったからといって「悟り」を得たり、日々平穏な気持ちで生きていられるわけではない、ということだ。心の煩わしさは、若い頃よりはマシだけど、若いころには感じたことのない、不安とかむなしさとか、もろもろの感情の揺れに悩まされているのが実態だ。
この時点での謙作の年齢は29歳だから、まだ若者だ。そうは言っても、とても29歳には思えない。この件については、本多秋五がこんなことを言っている。
『暗夜行路』を読んで、一番気になるのは主人公の年齢である。時任謙作が読者の前に登場したときほぼ二五歳だとすると、彼が伯者大山へ出かけるのはそれから五年目のことだから、ほぼ二九歳ということになる。伯誉大山の時任謙作がほぼ二九歳の青年だなどとは誰も思わないだろう。
(本多秋五『志賀直哉』岩波新書)
しかし、29歳だというのだからしょうがない。しょうがないけど、どうして「29歳に見えない」のかというと、この部分を書いているとき、志賀直哉は書き始め(25歳)からすでに25年も経ち、50歳になっていたからだ。50歳になっていたとしても、フィクションとして、29歳らしい謙作を描きうるはずだが、どうも、「感じ方・考え方」が50歳の作者の影響を受けてしまっているのだというような論文がけっこうあるようだ。だから、これじゃ29歳とは思えないよなあと感じるのはしょうがないわけで、そこをつついても不毛だ。あるいは、『暗夜行路』は、駄作だという結論を出す人もいる。だから、それでも読み進めようと思う読者としては、29歳の謙作を目の前に据えなくてはならないわけだ。
その29歳の謙作には、この老人の内面は想像することもできず、ただその佇まいを見て、「その静寂な感じが羨ましかった」というのである。「その静寂な感じ」は、あくまで謙作の印象なのであって、その老人が孤独と憂愁に包まれていないという保証はどこにもない。
けれども、謙作にとって大事なのは、外界がどう自分に訴えかけてくるかということであって、その外界の一部である「老人」の内面の「リアル」ではない。
「旦那も直しを一杯どうだね」と車夫は謙作に勧めるが、謙作は断る。米俵のあたりをちょろちょろしていた仔猫のことが話題になったりするこの辺の会話はのどかなもので、落語を聞いているようなゆったりした気分になる。
そこへ、若い男がやってくる。
乗馬ズボンに巻脚絆(まききゃはん)をした三十余りの男が入って来た。
「やあ」そういって框(かまち)の所で後ろ向きになると、股を開き両手を腿に、さも疲れたようにドスンと腰を下ろした。「山田を探して山まで行ったが、おらなんだ。お婆さん、今日此処(ここ)を通らんかったかね?」
「誰れが」
「山田が」
「見かけなかったね」
「また御来屋(みくりや)へでも出掛けたかな」
「昨日足を折った馬はどうしたかね」
「それで山田を探してるんだが、いにゃあ仕方がない。殺して埋めちまおう」
「山田さんの馬かい」
「そうだ」
「えらい損害だね」
「時に、今日は肴は何だい」
「鮭の塩びきは?」
「塩びきか……。それより《するめ》でも焼いてもらおうか」
婆さんは酒をつけ、するめを焼きながら、
「今年は山でも蚊が出たそうだね」
「そんな事も聴かなかったが、そうかね」
「此処らは月初めから蚊帳を釣ってるよ」
親猫は《するめ》の臭いで、五月蠅(うるさ)くその辺を立廻り、婆さんの裂いた《するめ》の皿へ鼻をつけそうにしてはそのたび、頭を叩かれ、眼を細くし、耳を寝かせていた。
突然名前が飛び出してくる「山田さん」はいったいどこへ行ったのか。
「御来屋」というのは、調べてみると「鳥取県西部、大山町の中心地区。大山町の町役場所在地。」とある。昔から大山の中心地のようだから、まあ当然遊郭などもあったのだろう。若い男の「また御来屋へでも出掛けたかな」には、そのニュアンスがある。というか、そのニュアンスしかない。
それにしても、だからといって、*馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ。しかしまた、足を折った他人の馬を治療したり、毎日のエサを与えるような余裕はないのだろうし、飢えていく馬を見ているのも辛いということだろうか。のどかな山の中にも、「リアル」はある。
猫の描写も相変わらずうまいものだ。
*「馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ」というように書きましたが、読者の方から、馬という動物は、歩いたり走ったりして血液を循環させないと生きていけない動物なので、馬にとって足の骨折は致命的である。治療するにしても非常に困難なので、「殺して埋める」というのは、仕方のないことなのだというご指摘がありました。
ぼくも、競馬馬の骨折が致命的だということは知っていましたが、この馬のような農耕馬(多分)の場合は、治療すればなんとかなるものだと思っていました。しかし、農耕馬であっても、馬にとって足の骨折が致命的である以上、「殺して埋める」ということしか選択肢はないでしょう。そうであれば、この「山田さん」に心境もよく分かってきます。自分が大事にしてきた馬が足を骨折してしまい、殺すしかない。けれども、おそらく気の弱い「山田さん」は、それができなかったのでしょう。その上、婆さんがいうように「えらい損害」を被ることになり、「山田さん」は絶望的な気分になり、家を飛び出してしまった。行く先はたぶん、「御来屋」の遊郭あたりだろう、ということなります。別に「遊郭」にこだわることもないのですが、そんなふうに考えました。
ご指摘に感謝します。
暫くして謙作と車夫とはこの茶屋を出た。三十分ほど歩く内に謙作はまた咽(のど)が乾いて来た。車夫はもう少し行くといい流れがあるからといった。しかし行って見ると、流れは涸れて底の砂が干割れていた。
「昨晩、鳥取では大分降ったが、この辺は降らなかったかな」謙作は腹立たしそうにいった。
車夫はもう十町ばかりで、鳥居の所に冷水(れいすい)がひいてあるからと慰め顔にいった。そして、
「寺は何所にするかね。景色はないが、さっき話した蓮浄院の離れが空(あ)いてると、勉強にはいいと思うがね」
「とにかく、行って見た上にしよう」
「暫く滞在するのかね?」
「気に入れば永くいたいと思うのだ」
「永いといっても夏だけの所だよ。秋になりゃあ、下にいくらもいい温泉場があるから、山にいたってつまらない。第一ろくな食物がないから、余り永くはいられないよ」
「寺は精進か?」
「いや、生臭(なまぐさ)でも何でも食わすよ。*梵妻(だいこく)もいるし、開けたもんだ。坊主は馬の売り買いばかり熱心にやっていらあね」
謙作は叡山に次ぐ天台の霊場というように聞いていただけにこの話にはいささか落胆した。
丹塗りの剥げ落ちた大鳥居の傍(わき)に宿屋がある。二人は其所で漸く冷水にありついた。車夫は寺までなお五、六町あるといい、
「この宿は気に入らないかね?」と小声で訊いた。謙作は黙って首を振った。
車夫は少し荷に参って来たらしい、約束よりは賃金を増してやろうと謙作は思った。(*「梵妻(だいこく)」=僧侶の妻のこと。「梵妻」は「ぼんさい」とも読む。)
謙作は暢気に「気に入れば永くいたい」などと言っているが、おいてきた直子や子どものことはどうするつもりなのか。働かなくてもいくらでも金があるのだろうが、その金はいったいどこから来るのか。作家といっても、そんなに売れているという設定でもないわけだから、まあ、親からふんだんに貰った、あるいは貰い続けているといったところで「納得」するしかないが、こういうところは、「リアリズム」の観点からみれば甘い。この甘さをあまりに重視すると、「しょせん、金持ちのボンボンの暢気な悩みさ」ということになってしまう危険があるし、じっさいそう思われても仕方のないことだ。世に『暗夜行路』否定論者は数知れぬのも、こんなところに根拠があるやもしれぬ。そして読み始めてそうそうに、あるいは、読み続けているうちにどこかで、「脱落」してしまうことになるのだろう。
今の朝ドラ『おむすび』は、その脚本のあまりに雑な設定やら「リアル」を欠くセリフやらで、大量の「脱落者」を生み出しているが、それに似た現象は、きっとこの『暗夜行路』にもあったに違いないし、これからもあるだろう。
けれども、『おむすび』と決定的に違うのは(比べるのも、志賀直哉に失礼だとは思うけど)、良きにつけ悪しきにつけ「時任謙作」という人間が、ちゃんと書かれているということだ。「金持ちのボンボン」だとて、「人間」である。金持ち特有の甘さがベースになっていたとしても、「人間」としての悩み苦しみは、ちゃんとある。そこを「リアル」に描けるかどうかが問題なのだ。
「気に入れば永くいたい」などというねぼけたセリフも、謙作にとっての「リアル」だとしたら、それを含めての「人間理解」を目指したい。だから、ぼくは「脱落」しない。(ちなみに、『おむすび』も脱落しないけど、これは、「人間理解」を目指したいからじゃなくて、朝ドラをずっと見続けてきた記録を破りたくないというつまらぬ意地である。)
絵菓書と巻煙草を買って出た。
大山神社への道から右へ降り、石のごろごろした広い河原へ出た。河原はかなりの傾斜で森と森の間を裾野の方へ下っている。
「地蔵の切分け」というので、河の流れ出た所があたかも切りさいたように断崖が二つに分れていた。
二人は河原を越し、急な坂路を薄賠い森の中へ登って行った。右が金剛院、左が一段高くなって蓮浄院だった。
庫裏の土間に入り車夫が声をかけると、四十前後の顔の角張った女が出て来て、謙作と荷とを見較べながら、
「暫く御滞在ですか」といった。
庫裏の炉端(ろばた)で白い単衣(ひとえ)を着た若い和尚が、伯楽(ばくろう)風の男を対手に酒を飲みながら高声に話合っているのが見えた。
「暫く御厄介(ごやっかい)になりたいんです」
女は心元ない風で後を向き、
「ちょいと、どうです?」と和尚へ呼びかけた。
「ようこそ」酒で赤い顔をした和尚が出て来て、立ったまま取ってつけたようなお辞儀をした。
「泊めて頂けますか」
「お泊めせん事もございませんが、この寺の先住が少し悪いというので、実は明日江州(ごうしゅう)の坂本まで出掛ける事にしているのですが、人手が足らんので、……。が、とにかくお上り下さいませ。もしお世話出来んようでしたら、他の寺を御紹介しますで」
謙作は離れに通された。それは書院作りの座敷、次の間、折れて玄関という、何れ四畳半ばかりの家だった。先々住の隠居所に建てたもので、長押(なげし)から長押へ竹竿を渡し、それに縁(ふち)のない障子が何枚も積み重ねてある。それは寒中(かんちゅう)、その高さに障子で座敷を劃(くぎ)る、一種の暖房装置だった。
小さな座敷の書院作りは少し重苦しい感じもしたが、結局三間ともに貸してくれるとの事で謙作は満足した。
車夫はこの寺に一泊し、翌朝(よくあさ)還って行った。
蓮浄院への道のりの描写、中から出てきた女の描写、若い和尚の描写、などなど、手練れの画家のクロッキーのように見事だ。
あっさりとした描写なのに、その情景がありありと映画のように目の前に繰り広げられる。このあたりの映像は、小津安二郎というよりも、溝口健二といったところだろうか。なぜか溝口の『山椒大夫』を思い出した。