志賀直哉「暗夜行路」を読む (14) 126〜136

後篇第三 (十七)〜(十九)

引用出典「暗夜行路 後篇」岩波文庫 2017年第9刷

 引用文中の《  》部は、本文の傍点部を示す。

 


 

志賀直哉『暗夜行路』 126 鞍馬の火祭 「後篇第三  十七」 その1

2023.3.6

 

 突然現れた信行は、お栄の現状を伝え、そのお栄のために金を無心して、鎌倉へ帰って行った。

 「第三 16」は、これで終わるが、「第三 17」になると、話はがらりと変わり、鞍馬の火祭を見物に行った様子が、詳しく語られる。この描写が見事だ。長いが、そっくり引用しておく。

 

 十月下旬のある日、謙作は末松、水谷、水谷の友達の久世などと鞍馬に火祭というのを見に行った。日の暮れ、京都を出て北へ北へ、いくらか登りの道を三里ほど行くと、遠く山の峡がほんのり明かるく、その辺一帯薄く烟(けむり)の立ちこめているのが眺められた。苔の香を嗅ぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそういう夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。子供連れ、女連れの見物人が提灯をさげて行く。それを時々自動車が前の森や山の根に強い光を射つけながら追抜いて行く。山の方からは五位鷺(ごいさぎ)が鳴きながら、飛んで来る、そして行くほどに、幽かな燻り臭い匂いがして来た。
 町では家ごと、軒前に(のきさき)──といっても通りが狭いので、道の真中を一列に焚火が並んでいた。大きな木の根や、人の脊丈けほどある木切れで三方から囲い、その中に燃えているのが、何か岩間の火を見るような一種の感じがあった。
 焚火の町を出抜けると、やや広い場所に出た。幅広い石段があって、その上に丹塗の大きい門があった。広場の両側は一杯の見物人で、その中を、褌(ふんどし)一つに肩だけちょっとした物を着て、手甲、脚絆、草畦がけに身を固めた向う鉢巻の若者たちが、柴を束ねて藤蔓で巻いた大きな松明を担いで、「ちょうさ、ようさ。──ちょうさ、ようさ」こういう力んだ掛声をしながら、両足を踏張り、右へ左へ踉蹌(よろ)けながら上手に中心を取って歩いている。或る者は踉蹌ける風をして故(わざ)と群集の前に火を突きつけたり、或る者は家(うち)の軒下にそれを担ぎ込んだりした。火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一卜抱えほどあるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。若者は汗を拭き、息を入れているが、今度はまた別の肩にそれを担ぐ。それも一人ではとても上げられず、傍(そば)の人から助けてもらうのである。
 この広場を抜け、先きの通りへ入ると、其所にはもう焚火はなく、今の松明を担いだれんじゅぅゅ連中(れんじゅう)が「ちょうさ、ようさ」という掛声をして、狭い所を行き交う。子供は年相応の小さい松明をわざと重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持のいい温(ぬくも)りが感ぜられる。
星の多い、澄み渡った秋空の下で、こういう火祭を見る心持は特別だった。一卜筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方はまた高い山になっているというような所ではいくら賑わっているといっても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。これが都会のあの騒がしい祭より知らぬ者には大変よかった。そして人々も一体に真面目だった。「ちょうさ、ようさ」この掛声のほかは大声を出す者もなく、酒に酔いしれた者も見かけられなかった。しかもそれは総て男だけの祭である。
 或る所で裸体(はだか)の男が軒下の小さな急流に坐って、眼を閉じ、手を合わせ、長いこと何か口の中で唱えていた。清いつめたそうな水が乳の辺りを波打ちながら流れていた。大きな定紋のついた変に暗い提灯を持った女の児と無地の麻帷子(あさかたびら)を展(ひろ)げて持った女とが軒下に立ってその男のあがるのを待っていた。漸く唱え言(ごと)を終ると男は立って、流れの端(は)しに揃えてあった下駄を穿(は)いた。帷子を持った女が濡れた体に黙ってそれを着せ掛けた。男は提灯を待たず、下駄を曳きずって直ぐ暗い土間の中へ入って行った。これはこれから山の神輿(みこし)を担ぎに出る男であるという。
 こういう連中が間もなく石段下の広場に大勢集った。其所には二本の太い竹に高く注連縄(しめなわ)が張渡してあって、その注連縄を松明の火で焼切ってからでなければ誰もその石段を登る事が出来ないとの事だ。しかし縄は三間より、もっと高い所にあって、松明を立ててもその火はなかなかそこまでは達(とど)きそうにない。沢山の松明がその下に集められる。その辺一帯、火事のように明かるくなり、早くそれの焼切れるのを望み、仰向(あおむ)いている群集の顔を赤く描き出す。
 やがて、漸く火が移り、縄が火の粉を散らしながら二つに分かれ落ちると、真先に抜刀を振翳(ふりかざ)した男が非常な勢で石段を馳登(かけのぼ)って行った。直ぐ群集は喚声をあげながら、それに続いた。しかし上の門にもう一つ、それは低く丁度人の丈よりちょっと高い位に第二の注連縄が張ってある。先に立った抜刀の男はそれを振翳したまま馳け抜ける。注連縄は自然に断(き)られる。そして群集は坂路を奥の院までそのまま馳け登るのである。

 

 この2000字ほどの文章は、「暗夜行路」という長編小説と切り離しても、紀行文的随筆として十分成立するほど完成度が高い。

 「暗夜行路」を、些細な人間的な感情の齟齬を描いた小説として読むと、いささかうんざりさせられるが、こうした情景描写やら、自然描写やらの文章に注目して読むと、格別の味わいがあるのだ。

 「日の暮れ、京都を出て北へ北へ、いくらか登りの道を三里ほど行くと、遠く山の峡がほんのり明かるく、その辺一帯薄く烟(けむり)の立ちこめているのが眺められた。」──この出だしは、ゆっくりと始まる映画のシーンのようだ。今だったら、バスや電車、あるいはタクシーを使うところだが、三里ほどの道を歩いて行く。この歩いて行く時間が、風景に深みを与える。「山の峡」が「ほんのり明るい」さま、「立ちこめる薄い烟」。その烟は、松明に火をつけるための準備の烟であろう。そうした情景が、目の前に少しずつ近づいてくる。

 「苔の香を嗅ぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそういう夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。」──ここでは、鼻の奥に染みこんでくるような「苔の香」が印象的。苔そのものは、特別な香りを持つものではないだろうが、その苔を育む土の匂いは確かにある。しかし、それを「苔の香を嗅ぎながら」というように描いた作家はそうはいないだろう。そして、「冷え冷えとした山気を浴びて行く」と続く。ぼくらも、その冷たい山気を全身に浴びる思いだ。そうした鋭い嗅覚、触覚に訴える描写のあとに、「この奥にそういう夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。」とあると、その「不思議」が、観念的なものではなく、感覚的な「不思議さ」として迫ってくる。これから現れるであろう火が、熱い火が、ただ熱いのではなく、その核心部に「冷え冷えとしたもの」を秘めているかのような、それこそ「不思議」な感覚に襲われるのだ。

 そうした空気の中を、女や子どもが提げる提灯の明かり、自動車や自転車の光が通り過ぎ、「山の方からは五位鷺(ごいさぎ)が鳴きながら、飛んで来る、そして行くほどに、幽かな燻り臭い匂いがして来た。」と続く。飛んできた鳥が「五位鷺」だと即座に分かるのは、当時の人なら普通なのかもしれないが、やはり、現代作家だとしたら珍しいことだろう。自然に対する知識や経験の深さは、この時代の作家は一日の長がある。

「五位鷺」の声、そして、おそらくその羽音。それに連なるかのように、「幽かな燻り臭い匂い」がしてくる。感覚の総動員である。

祭りの描写は、細部までくっきりと描かれ、解像度のいい映画をみるかのようだ。「火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一卜抱えほどあるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。」などというダイナミックな描写には息を飲む思いだ。

 「子供は年相応の小さい松明をわざと重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持のいい温(ぬくも)りが感ぜられる。」──わざとよろけて松明を担ぐ子どもの可愛らしさもさることながら、町が気持ちのいいぬくもりに包まれるさまを描いたあと、急に視線が空へ向かう。この絶妙の切り替えが、志賀直哉の真骨頂だ。

 「星の多い、澄み渡った秋空の下で、こういう火祭を見る心持は特別だった。一卜筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方はまた高い山になっているというような所ではいくら賑わっているといっても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。」──町全体が、薄い烟に包まれてひとかたまりになっているその真上に広がる「星の多い、澄み渡った秋空」の何という美しさ。そして、その空の下の町のすぐ裏には、「深い渓流」があって、「その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。」

 熱い火の奥にある冷たさ、静けさ。それは、同時に、賑わう祭りの奥に広がる静けさだ。この短い文章は、火祭りの本質を描き尽くしている。

 静かに、何度でも、この類い希な文章を読み、味わいたいものだ。

 さて、この後、驚くべき展開が待っている。読者の皆さんには、予想がつくだろうか?

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 127 鞍馬から帰ったらお産が済んでいた 「後篇第三  十七」 その2

2023.3.26        

 

 火祭りを見たあと、「四、五人で担ぐような大きな松明をいくつか、神楽の囃子に合わせて、神輿の囲りを担ぎ廻る」という「神楽」もあったのだが、時計をみるとすでに二時半。三人は、眠い目をこすりながら、帰途についた。

 

 町を出ると急に山らしい冷気が感ぜられた。四人は時々振返って、明るい山の峡(はざま)を見た。道は往きより近く思われ、下りで楽でもあったが、やはり皆は段々疲れて、無口になった。
 「睡くて敵わん」一番先きに末松がこんな事をいった。
 「僕が腕を組んでいって上げるから、眠りながら行き給え」そういって水谷は末松と腕を組んで歩いた。
 京都へ入る頃は実際水谷がいったように叡山の後ろから白ら白らと明けて来た。出町の終点で四人は暫く疲れた体を休めた。間もなく一番の電車が来て、それに乗り、謙作だけは丸太町で皆と別れ、北野行に乗換え、そして秋らしい柔らかい陽ざしの中を漸く衣笠村の家に帰って来た。

 

 夕方に出発して鞍馬まで歩いていき、夜通し火祭りを見て、夜明けにまた歩いて帰ってくる。京都に暮らしていると、こんな暮らしの一コマがあるのだと思うと、羨ましい限りで。もっとも、若い時じゃないと意味がないけれど。

 さて、謙作が家に着くと、こんなことになっていた。

 

 「旦那はんのお帰りどっせ」何かあわただしい仙の声がし、直ぐ台所口から出て来て、「お産がござりましたえ」と仙はにこにこしていった。
 謙作の胸は理(わけ)もなく轟いた。そして急いで玄関を上がると、前から産室に決めておいた座敷へ入って行った。リゾールか何か、薬の匂がして、其所には蒼白い額をした直子が解いた髪の毛を枕から垂らし、仰向けに──よく眠入っていた。赤児は其所から少し離した小さい蒲団の中に寝ていたが、謙作はそれを見たいと思うよりも直子の方が何となく気遣われた。若い看護婦が黙って叮嚀(ていねい)なお辞儀をした。小声で、
 「如何(どう)でした?」と彼は訊いた。
 「お軽いお産でございました」
 「そりゃあ、よかった。そりゃあ、よかった」
 「ぼんさんでござりまっせ」と敷居の所に坐っていた仙がいった。
 「そうか」彼は安心した。そして、枕元に立ててある風炉前(ふろさき)屏風の上からちょっと赤児を覗いて見たが、頭からガーゼを被(かぶ)せてあって、顔は見られなかった。
 「何時でした?」
 「一時二十分でございました」
 「夜前(やぜん)早うに奥さんがお迎いを出してくれ、おいやして、直(す)ぐ俥を出しましたんどっせ。お会いしまへなんだっしゃろな」
 「うん、会わない──とにかくあっちへ行こう。起きるといかん」謙作は先に立って茶の間へ行った。

 

 何と、謙作が鞍馬の火祭りを見ているそのときに、直子は出産したのだ。この後に、「早産というほどでもない」という言葉が出てくるから、予定日よりはかなり早かったのだろう。それにしても、赤ん坊がいつ生まれるか分からないという時期に、歩いて何時間もかかる鞍馬に行って、のんびり火祭りを見ているなんて、ずいぶんとのんきなことだ。

 今時は、コロナで出産に立ち会えなかったというようなことが、問題になるわけだが、この時分は、立ち会うどころか、亭主はのんびり物見遊山なんて。

 自分が鞍馬に出かけている間に、お産が済んでしまったことに対しても、なんの「悔い」も、「申し訳なさ」も感じていない。直子は、謙作を呼んでくれと言ったのだが、鞍馬なんかに行っていたんじゃ連絡のつきようもない。そういう事態を考えれば、まだ祇園で遊んでいたほうがマシというものだ。しかし、そういった「反省」もない。

 直子のお産は、こんなふうに始まった。

 

 前日、謙作が家を出る時、入れ違いに夕刊配達の入って来たのを覚えているが、それが中まで入って来ずに、玄関に坐っていた直子を眼がけ、新聞をほうって行った。新聞は靴脱ぎの上に落ちた。それを何気なく手を延ばして取ろうと屈(かが)んだ時に直子は腹に変な痛みを感じたという。そして間もなくまた痛みが来て、自分でも気附き、直ぐ仙に産婆、医者、それからS氏の所へも電話をかけさせ、自分はその間に丁度入ろうと思っていた風呂に入り、身仕舞いをすっかり済まして待っていたという。──それを仙が話した。
 「そりゃあ、偉らかった」謙作は直子がそういう時、案外しっかり、よくやった事を愉快に感じた。

 

 この新聞配達もずいぶんなヤツだ。新聞を直子にむかって放り投げるなんて、どういう了見なのか。

 しかし、それ以上に、大変な思いをした直子のことを「そりゃあ、偉らかった」と言い、「案外しっかり、よくやった事を愉快に感じた」というのも、今で言えば「上から目線」がひどすぎる。そういう前に、「そうか、それは大変な思いをさせてしまったな。おれがついていればよかったのに、すまなかった」と言うべきだろう。

 しかし「言うべき」だ、などいっても始まらない。そんな「べき」は、謙作には通用しないし、実は誰にだって通用しない。人間は、それぞれの価値観を持ち、感受性を持ち、それに従って行動するしかない。その価値観なり感受性なりを、生涯かけて、どのように形成していくかが実は大事なことではあるけれど、それを自覚する人は少ない。むしろ、自分の価値観、感受性の絶対性を信じて疑わない人が、世の中にはごまんといるわけである。謙作がその一人なのか、そうではないのかは、今後の展開を見ないと分からないが、ここでは、まだ謙作は、「その一人」であるにすぎない、ように見える。

 

 

 「S さんの奥さんが女中はんを連れて来てくれはりました。今、お帰りやした所どっせ」
 「そうか。──赤坊の方も丈夫だね」
 「へえ、そら立派なややはんどす」
 「ちょっと看護婦さんを呼んでくれ」彼は赤児の事をもっと精(くわ)しく聞きたかった。
 看護婦は来て、白い糊の利いた袴をぶわりと広く、縁に坐った。
 「どうぞ入って下さい。──大分早かなかったんですか?」
 「いいえ、──でも七百五十目ですから、普通よりはいくらか少ないかも知れませんが、早産というほどではないと思います」
 「ふむ、そう。──まあ二人とも、心配ありませんね」
 「そりゃあ……」
 「どうも、ありがとう」謙作はそういって、何気なく頭を下げたが、心では看護婦よりも、もっと何かに礼をいいたい気持だった。看護婦は産室の方へ還って行った。

 

 「看護婦よりも、もっと何かに礼をいいたい気持」というのは、よく分かる。看護婦や助産婦や医師は、赤ん坊が生まれる実際の手助けをするし、その努力によって赤ん坊は生まれてくるが、その背後に「もっと何か」の存在を感じるものだ。その「もっと何か」に対する感謝こそ、「自分の価値観、感受性」の更新を迫るものではなかろうか。

 「看護婦は来て、白い糊の利いた袴をぶわりと広く、縁に坐った。」の表現も的確。「ぶわりと広く」なんて、見たことも聞いたこともない表現で、「糊の利いた」感じをこれ以上ないというぐらい見事に描きだしている。小磯良平の絵を見るようだ。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 128 生まれたての赤ん坊 「後篇第三  十七」 その3

2023.4.10

 

  着物を着更え、湯殿へ顔を洗いに行こうとした時に、看護婦が、「奥様がお眼覚めでございます」といいに来た。
 直子は仰向けのまま上眼使いをして、縁から入って来る彼を待っていた。その疲れたような血の気のない顔を謙作は大変美しく思った。
 彼は枕元に坐ったが、いう言葉が見出せず、
 「どうだい」と無雑作にいった。
 直子は静かにただ微笑した。そして静脈の透いた蒼白い手を大儀そうに出し、指を開いて彼の手を求めた。彼はそれを握りしめてやった。
 「苦しかったか?」直子は上眼で彼の眼を凝(じ)っと見詰めたまま、微(かす)かに首を振った。
 「そう。それはよかった」
 そういう直子が謙作には堪(たま)らなくいじらしかった。彼は頭をなぜてやりたい衝動を感じた。そして握った手を解こうとすると、直子はなおそれを固く握りしめて離させなかった。彼は坐り直し、畳に突いていた方の手で頭をなぜてやった。
 「どんな児?──いい児?」直子は疲れから低い声でいった。
 「まだよく見ない」
 「眠っているの?」
 「うむ。──あなたもまだ見ないのか?」
 直子は点頭(うなづ)いた。

 

  相変わらず緻密な描写だ。握った手を離そうとしても、直子が離そうとしないので、「彼は坐り直し、畳に突いていた方の手で頭をなぜてやった。」とある。つまり、片方の手は直子の手を握ったまま、もう一方の手で直子の頭をなぜてやった、というのである。

 「直子はなおそれを固く握りしめて離させなかったので、もう片方の手で頭をなぜてやった。」と書いたとしても意味は同じだ。しかし、「彼は坐り直し、畳に突いていた方の手で」と書くことで、謙作が片手を畳について座っていたこと、その姿勢が直子の方に傾いていたために、握った手を離さないまま、頭をなぜるには、坐り直す必要があったことが分かる。そんなことが分かったところで、何になるかと言われれば、この謙作の体の動きに、謙作の体温や息づかいが感じられるのだと言っておこう。

 そして、考えてみれば当たり前のことだが、直子の寝ている部屋が、自宅の和室であることがくっきりと分かる。今の感覚で、ぼんやり読んでいると、ベッドに寝ているように錯覚してしまいそうだが、この描写で、あ、そうだ、これは大正時代の話なんだと気づくわけである。

 なんだ、そんなこと、わざわざ気づくことでもないじゃないかと思われるかもしれないが、ぼくは、ふと、昨今のAIによる小説創作のことを思ったのだ。「大正時代・出産・若い父・若い母・父の暗い過去・無邪気な母」などとキーワードを入れて、さて、小説を書けといったら、どんな小説が出来てくるだろうか。それらしい小説は出来るかもしれないが、このような描写が果たして生成されるだろうか。

 進歩の著しいAIのことだから、この先の予測はつかないけれど、小説は──文学はといってもいいが──一人の人間の「肉体」から生まれるものだから、AIにはこういう描写は無理に違いないと思う。ここでぼくが言う「肉体」というのは、一人の人間が何十年という時間を生きてきて、その記憶の層が古い池の底の泥のように堆積しているところの「肉体」という意味だ。

 AIが進歩して、もしこの「暗夜行路」のような小説が書けるようになったとしても、逆にそこに生成されるであろう「肉体」に、ぼくらはどんな興味を持ったらいいのだろう。まあ、思いは尽きない。

 

「御覧になりますか?」と傍(わき)から看護婦がいった。そして返事を待たず、屏風を除(の)け、被(かぶ)せたガーゼを取ると、割りに手荒く(と謙作には感ぜられた)蒲団を引き寄せ、直子の床にそれを附けた。
 真赤な変に毛深い顔で、頭の先がいやに尖り、それに長い真黒な毛がピッタリとかぶさっていた。眠った眼の丸く腫上っているのも気味悪かった。謙作はこんな赤児を初めて見るように思い、ちょっと失望した。
 「男だからいいようなものの、少し変な顔だな」と彼は笑った。
 「どんな赤さんでも初めは皆そうでございますわ」看護婦は謙作の言葉を非難するようにいった。
 赤児は指でも触れたら、一緒に皮がむけて来そうな唇(くちびる)を一種の鋭敏さをもって動かしていたが、それを開けると、急に顔中を皺(しわ)にして泣き出した。直子は首だけ其方(そっち)へ向け、手を差し延べて、産着のふくれ上った肩を指で押し下げるようにして見ていた。その眼が如何にも穏かで、そしてそれは如何にも、もう母親だった。
 「これが本統に変でなくなるかね」謙作には父らしいといえるような感情はほとんど湧いて来なかった。
 「今お顔が腫れていますが、それが干(ひ)けると、それはお可愛くなりますよ。立派なお顔立ちでございますわ」そう看護婦がいった。
 「そうですか、そんならまあ安心だが、このまま大きくなられた日には大変だからね」
 謙作はいくらか快活な気分になって、「奈良の博物館に座頭か何かの面でこういうのがあるよ」こんな串戯(じょうだん)をいったが、直子も看護婦も笑わなかった。そして、茶の間で膳拵(ぜんごしら)えをしていた仙の「旦那さんの、まあ何をおいやす」といって笑う声がした。
 「色んなとこ、電報、まだだろう?」
 「ええ」
 「そんなら直ぐ打っておこう」そういって、謙作は直ぐ二階の書斎へあがって行った。

 

 出産直後の赤ん坊を見て、ああ、かわいい! と言いながらも、なんだサルみたいだなあとちょっとガッカリするということはよくあることだし、ぼくにしても、二番目の子どもが生まれたとき、産室から看護婦さんだったか、医師だったかが、赤ん坊の両足を持ってぶら下げて、見せてくれたときは、おおきなハムみたいだなあと思って笑ってしまったような覚えがある。生まれた時から、美男・美女というような赤ん坊はマレであろうし、いたとしても、光源氏ぐらいなものだろう。(何しろ、光源氏は、その「光」という名前(あだ名)が、生まれたときに玉のように光り輝いていた、というところに由来するのだ。)

 しかしだ。この謙作の心の動きと言動は、さすがに、どうなんだろう。直子を見初めたときには、「鳥毛立女屏風の女」みたいだと繰り返し言っていたのに、自分の子どもが「奈良の博物館に座頭か何かの面」みたいだと言葉にするのは、冗談にしても笑えない。直子も看護婦も「笑わなかった」のも当然だ。当然なのに、謙作自身は、それに不服のような書きぶりで、その微妙すぎる空気を一挙に和ませるのは、例の女中の「仙」である。「仙」の名脇役ぶりは毎度のことながら水際立っている。

 しかし、それはそれとして、「真赤な変に毛深い顔で、頭の先がいやに尖り、それに長い真黒な毛がピッタリとかぶさっていた。眠った眼の丸く腫上っているのも気味悪かった。謙作はこんな赤児を初めて見るように思い、ちょっと失望した。」という一連の描写は、やはり異常だ。どこかに嫌悪の匂いが漂っている。

 普通の父親なら、赤ん坊がどんなに皺だらけでも、ハナペチャでも、せいぜい「これじゃサルじゃないか」といって、笑いながらも、限りないいとしさに涙ぐむだろう。そういう、いわば「突き抜けた愛情」のようなもの、「根底的な暖かさ」のようなものが、ここの謙作には微塵も感じられない。それを見逃すわけにはいかない。

 これが、次の章になると、この赤ん坊が、「どうも自分の子どものような気がしない」という思いにつながっていく。ここにも、謙作自身の出生の秘密が暗い影を落としているのだろう。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 129 「総て順調」? 「後篇第三  十八」 その1

2023.5.16

 

 総(すべ)て順調に行った。謙作は時々眠っている赤児を覗きに行った。しかし、それは一種の好奇心のようなものからで、これが自身の肉親の子であるという事は、どうも、しっくり来なかった。彼は何か危っかしい感じで、抱いて見たいとも思わなかった。直子の方はもう本統に母親になり切っていた。乳の時間が来て、寝ながらそれをやっている時の様子などには如何にも落着きがあった。そして赤児も安心し切って鼻を埋める位に吸いついている所などを見ると、謙作はそれを大変美しい物のようにも思うし、またどうかしてそれが白い乳房にえたいの知れぬものが喰い入っているような感じで気味悪く感ずる事もあった。それはこれまでこういう生れたての赤児を見る機会が彼にはほとんどなかったからでもある。

 

 生まれたての赤ん坊を見て、「奈良の博物館の座頭の面」みたいだというようなことを言っていた謙作だが、そんな笑えない冗談も口をついて出るほど、なんとなく、この赤ん坊が気に入らないといった風情だった。生まれたての赤ん坊に、そうした「変な感じ」を持つのは、謙作に限ったことではないにしろ、そこになんだか、謙作特有の感覚が感じられる。それが謙作の出生に関わっているのだろうということは容易に察することができる。

 「総て順調」だったにもかかわらず、謙作の中の一種の違和感は、どうしても拭いきれない。時々赤ん坊を覗きにいくが、それは愛情からではなくて「好奇心」からだといい、しかも「これが自身の肉親の子であるという事は、どうも、しっくり来なかった。」とまで言うのだ。

 我が身を引き裂いて生まれてくる赤ん坊が自分の子であるということは、母親には疑いようもない事実だが、父親にとっては、それは、突然目の前に現れる何か得体の知れないものでしかない。それが「自身の肉親の子」であるということを父親が実感するには、いったい何が必要なのだろうか。

 もちろん、謙作は、直子の「浮気」などを疑っているわけではない。それは100パーセントないことは分かっているはずだ。ここでの問題はそういうことではなくて、もっと生物学的な問題である。子どもが生まれる原因は、自分にあることは事実だし、それ故に子どもは生まれてくる。しかし、「あのこと」が、ここにこうして生身の赤ん坊が出現したということと、直接につながっているのだという実感がないのだ。

 一般的にいえば、謙作の「しっくり来ない」という感じは、そういうことだ。けれども、この場合はそれだけではない。謙作は、自分の本当の父が実は祖父であるということを、まったく知らずに大人になった。そしてある日、それを知らされた。その衝撃は、計り知れなく大きい。自分が父だと疑うこともなかった人が、突然父ではないと知らされた。この人は父ではなかったのだ、と知ったとき、謙作にとっては、父と子という関係は、永遠に理解不能なものとなってしまったのではなかろうか。

 その謙作が、今、目の前にいる赤ん坊が、「自分の肉親の子」であるということを素直に受け入れられないとしても、少しも不思議ではないだろう。自分が祖父の子であるなんてまるで思ってもいなかったことが事実であったのだから、今自分がこの赤ん坊の父ではないというようなまるで思いもつかないことが、ある日、事実であると告げられることが絶対にないとはいえないだろう、そう謙作は、どこかで思っている、あるいは感じているのかもしれない。

 

 敦賀の方からは誰れも出て来なかった。母はもう少し後でなければ出られず、直ぐ飛んで来るはずの伯母は持病の神経痛で動けずにいるという便りがあった。しかし直子は別にそれを淋しがらなかった。お七夜という祝い日が近づき、早く名を命(つ)けねばならなかったが、なかなか気に入った名が浮ばず、結局直子の直と謙作の謙とを取って、直謙(なおのり)としたが、赤児には何か厳(いか)めし過ぎて、気に入らなかった。「もっともいつまで赤坊(あかんぼ)でいるわけでもないから」と彼はそれに決めた。

 

 「総て順調」というわりには、なんだか、ことはすんなりとは進まない。直子の実家から誰も来ないということは、「順調」とはいえない。直子の母や伯母が、それこそ「飛んで来」てこそ、この赤ん坊が真に祝福されていることの証であろう。

 赤ん坊の命名にしても、「直謙」なんて、いかにも安直ではないか。最初からそう決めていたのならともかく、気に入った名が浮ばなかったので、しょうがないので、そういう名を思いついたといった感じで、しかも、「厳めしすぎて気に入らない」。喜びをもって、命名するという雰囲気がどこにもない。すべてイヤイヤやっている感じだ。

 もっとも、この「厳めしすぎて気に入らない」というのはよく分かる。だから、生まれた赤ん坊には、なるべくカワイイ名前をつけようとする。しかし、その子が「いつまでも赤ん坊でいるわけではない」のも事実で、その結果、将来、カワイイ名前のオバアチャンが続出することになる。それくらいなら、「厳めしすぎて」も、「いつまでも赤ん坊でいるわけではない」からそのほうがいいやという判断も、極めてまっとうなもので、そのことを非難してもしょうがないのだが、謙作が「それに決めた」という口ぶりが、どうにも、情熱に欠けるのである。

 ただ、命名というのは、なかなか難しいもので、これに決めたと思っても、その名前がその子になじむまでには、ずいぶんと時間がかかるものだ。そういうことを思えば、この時の謙作の「情熱のなさ」といったようなことも、それは情熱がないのではなく、誰もが感じる難しさなのだとも言えよう。

 しかし、こうした赤ん坊をめぐるなんとなくギクシャクした感じが、この後の展開の伏線になっていることは確かである。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 130 夜泣き 「後篇第三  十八」 その2 2022.5.27

         

  一週間は至極無事に過ぎ、そして八日目の夜になって、もう皆床に就いてから赤児が泣き出し、どうしても、それを止(や)めなかった。乳首を含ませるとちょっとの間泣き止むが、直ぐまた泣いた。臍(へそ)を調べて見たが、どうもなく、もし虫にでも刺されているのではないかと、着物を総て取更(とりか)えてみたが、それでも泣き止まなかった。原因が分らないだけに変に不安を感じた。熱を計ると、少し高かった。
 「どうだろう、Kさんに来てもらおうか」
 「そうね。その方がいいかも知れませんわ」直子も不安そうにいった。
 しかし間もなく、赤児は泣き疲れたように段々声を落して行って、しまいに泣き止んだ。そして安らかな呼吸(いき)をしながらよく眠入(ねい)った。
 「どうしたんだろう?」謙作はほっとするような気持で直子を見た。直子は、
 「よかったわ」といった。
 「よう夜啼きちゅう事をされる《やや》はんがござりまっせ」と仙がいった。そして仙は天井に「鬼の念仏」を張るといいといって、それを勧めた。
 赤児は続いてよく眠っていた。皆は出来るだけ静かに自分たちの寝床へ還った。謙作は独り二階の書斎に寝ながら、やはりなかなか眠むれなかった。そして直子もきっと眠むれずにいるだろうと思った。産褥にいる直子は昼間も時々眠っていたからなお眠むれないに違いなかった。しかし赤児を覚ます恐れから彼は降りて行く事も出来なかった。

(注)鬼の念仏=大津絵の有名な画題の一つ。鬼が法衣を着て、傘を負い、奉加帳.鉦(かね)、撞木(しゅもく)をもっている。子供の夜泣きを防ぐためのおまじないに使われた。〈岩波文庫・注〉

 

 ここから、この小説はいきなりドラマチックな展開をみせる。生後一週間という赤児は、丹毒という病気に冒され、死んでしまうのである。この経緯を志賀直哉は、こと細かに描いていく。読んでいて苦しくなるほどだ。

 現在の日本人の平均寿命は、男性が81歳、女性が87歳だが、大正時代は、男女ともに50歳に満たなかった。それは、乳幼児の死亡率が非常に高かったからで、みんな50歳で死んだということではもちろんない。

 お七夜とか、七五三とかいったお祝いも、そういう乳幼児の死亡率の高さゆえに、みなある種の感慨をもって祝われたのだろう。

 明治、大正の文学者でも、子どもを亡くした人が多い。有名なのは島崎藤村で、彼は小説「破戒」を書くために幼い子どもを餓死させたなどと言われるが、それは乱暴な話で、経済的困窮の中で小説執筆に没頭し、子どもが栄養失調で死亡したということだろう。縮めていえば「餓死させた」となるわけで、そういわれても仕方のないことかもしれない。室生犀星も長男を幼くして失い、その悲しみから「忘春詩集」が生まれた。また、中原中也も子どもを失い、自分もその悲しみを抱えて死んでいった。

 志賀直哉も、結婚後、転居を繰り返したあげくに住んだ我孫子で、長女慧子を失うという体験をしている。この体験が、この部分に生かされているそうである。直謙の死に至る経緯が、詳細をきわめるのも、そのためだろう。

 ところで、仙が言い出した「鬼の念仏」だが、岩波文庫の注によれば、大津絵の代表的な絵だという。なるほど、調べてみると、この絵はどこかで見た覚えがある。この絵が、夜泣きに効くとは知らなかった。ぼくの長男も、夜泣きがひどくて往生したのだが、それを聞いた父が、この絵を逆さにして枕元に貼っておけと、自分で描いた(のだと思う)鬼の絵を持ってきてくれたことがある。その絵が鬼だったことはよく覚えているが、どんな鬼だったかははっきりとは覚えていない。ひょっとしたら、この大津絵をまねたものだったのかもしれない。少なくとも、鬼の絵が夜泣き封じになるということは、父が勝手に思いついたことでないことは確かなようだ。

 

 彼は気を更(か)えるために気楽な本を読んでいた。暫くすると階下の茶の間でボンボン時計の十二時を打つのが聴こえた。そして赤児はまた泣き出した。直子と看護婦と何かいってる声がして来た。彼は二階を降りて行った。
直子は床の上に坐って赤児を抱いていた。赤児は出来るだけの声を出して泣いていた。
「時計、どうか出来なくって? あれで眼が覚めたのよ」直子は謙作を見上げ、腹立たしそうにいった。
「止(と)めておこう」
「ええ、そうして頂戴。──あの時計、これから使わなくてもいいわ」と直子はいった。
謙作は茶の間へ行って時計を止めて来た。直子は切(しき)りと乳を呑まそうとしたが、赤児はなかなかその乳首を口に含もうとはしなかった。
「とにかく、近所の医者にでもちょっと見せておこうじゃないか。Kさんといっても今からでは遠くて少し気の毒だし、それにまた直ぐ泣き止むだろうと思うし」
「ええ……」
「そんなら早速、俺が自分で行って来よう」

 

  「ボンボン時計」が生きている。この時計に直子は八つ当たりしているが、それが、どこか謙作への怒りにも思える、というのは深読みすぎるだろうか。

 「時計、どうか出来なくって? あれで眼が覚めたのよ」という言葉には、自分で気づいてどうにか出来ないのか、といった、謙作に対する非難めいた語気があるし、あの時計のせいだ、というのは、煎じ詰めればあんな時計を買ったあなたのせいだ、となりうる。しかも、謙作が「止めておこう」というと、そうしてくれというだけでは足りなくて、「あの時計、これから使わなくてもいいわ」とたたみかける。そこまでその時計を目の敵にするのは、直子の切迫した心情故だろうが、どこかに、謙作への怒りを抱えているともとれる。

 直子は謙作のなにが気に食わないのか、といっても、ほんとうに謙作が「気に食わない」と書かれているわけではない。ただ、感じられるというだけだ。まして、その原因がどこにあるのか、と考えても、明確に答はでない。

 こうしたことは、結婚生活を何十年か経験すれば、だれにだって思い当たるフシはあるだろう。妻、あるいは夫の、まったく理由が分からない「不機嫌」などは、結婚生活のいたるところに転がっている。

 ただ、謙作と直子は、まだ結婚してそう年月が経っていない。それでも、子どもの具合が悪いという事態に直面して、気分が動揺しているにせよ、直子の謙作への不満が噴出しているように感じられるのだ。この子の具合が悪いのは、あなたのせいだ、と言わんばかり。その不満あるいは怒りはどこから来るのか。もうすぐ子どもが生まれようとしているのに、夜中に鞍馬の火祭見物に出かけてしまうような謙作に対する怒り、と、考えられなくもない。

 

  謙作は台所口から直ぐ戸外(そと)へ出た。戸外は風の少しもない、曇った真暗な晩だった。彼は歩いたり、馳けたりしながら行った。近所の医者としては、彼は、五町ほどある御前通(おんまえどお)りに仕舞屋(しもたや)のような格子の填(は)まった家で、ただ「医」とした軒燈を出してある家きり知らなかったので、そこへ行った。二、三度叩くと戸の内(なか)から、
「何御用」という女の声がした。

 

 しばらく、声だけのこの女とのやりとりがあり、やがて女が出てきた。

 

 「お待たせ致しました」女は寝間着姿で、瘠(や)せたせた脊(せ)の高い見すぼらしい女だった。
 医者は中で着物を更えていた。これも見るから見すぼらしい小男で、年は謙作よりも少し上らしく、薄い天神髭を物欲しそうに生やしていた。医者は帯をしめながら、
 「どんな御様子ですか?」といった。
 「ただ無閤と泣き続けるだけで、原因が分らないのです」
 医者は今になって、かえって忙しそうに出て来て、
 「お待たせしました」といった。
 「こんなに晩(おそ)くお願いして──」
 「いや。それじゃ直ぐお供致しましょう」こんな風にしきりと調子よくしようとした。
 少し酒に酔っているらしかった。謙作にはこの医者が如何にも頼りなく思われた。気の毒でもやはりK氏を頼めばよかったと思った。途々(みちみち)医者は生後幾日目かとか、母親に脚気(かっけ)の気はないかとか、そういう事を少し訊いた後で、何時から京都へ来たか、そして何のために、というような要らざる事まで訊き出した。謙作はなるべくそういう話を避けるために医者よりも一卜足先に歩いた。小さい医者はそれに遅れまいと息を切りながら、ついて来た。

 

 出てきたのは、「見すぼらしい」女と医者。

 医者の話をうるさがって、さっさと先を行く謙作を、息を切りながらついて来る「小さい医者」の姿が鮮明にイメージされる。最初に出てきた女が、背が高い女だったことで、更にこの医者の「小ささ」が際立つ。細かいところだが、志賀直哉のうまいところだ。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 131 「丹毒」という病気 「後篇第三  十八」 その3 2023.6.8

 

 

 いかにも頼りなさそうな医者は、不得要領の診断をして帰っていったが、赤ん坊は、夜中泣き続ける。夜明けを待って謙作は、K医師の自宅に行き、往診を頼む。

 

  一時間ほどしてK医師は来た。半白の房々とした口髭を持った大柄な人で、前夜の見すぼらしい医者とは見るから何となく頼りになった。医者は挨拶もそこそこに赤児の今までの経過に就いて色々訊ねた。赤児は丁度乳を飲んで泣止んでいる時だったが、医者がちょっと手を額に当てると直ぐ泣き出した。医者は手を離し、泣いている赤児を凝(じ)っと暫く見ていた。その顔をまた直子は寝たまま上眼使いに凝っと見詰めていた。
 「とにかく、身体(からだ)を一つ拝見しましょう」医者がいった。
 看護婦は障子を閉めてから、赤児を受取り、小さい蒲団に寝せて、何枚も重ねてある着物の前を開いた。
 「それでよろしい」医者は近寄って、胸から腹、咽(のど)、それから足まで叮嚀に調べ、二つ三つ打診をしてから、自身で臍(へそ)の緒の繃帯(ほうたい)を解き、大きな年寄らしい手で下腹を押して見た。赤児は火のつくように泣いた。
 「ちょっと背中の方を出して下さい」
 看護婦は袖の肩から赤児のいやに力を入れて屈(ま)げている小さな手を一つずつ出して、裸の赤児を医者の方に背中を向け、横にした。赤児は両手を担ぎ、両足を縮めて、力一杯に無闇と泣いた。腹を波打たせながら泣く、その声が謙作には胸にこたえた。直子は怒ったような妙に可愛い眼をして黙ってそれらを見ていた。
 医者は叮嚀に背中を調べた。そして尻から一寸ばかり上に拇指(おやゆび)の腹ほどの赤い所を見附けると、なお注意深く其所(そこ)を見ていたが、やがてこごんだまま、顔だけ謙作の方へ向け、
 「これです」といった。
 「何ですか」
 「丹毒(たんどく)です」
「…………」
直子は眼を閉じ、そして急に両手で顔を被(おお)うと寝返りして彼方(あっち)を向いてしまった。

 

  「丹毒」という病名は、今ではあまり聞かないから、もう過去の病気かとなんとなく思っていたのだが、調べてみると、「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」と同じ(?)病気だということで、それなら、よく聞く。つまり、力士がよくかかるからだ。「蜂窩織炎で休場」というのはよくあることだ。なかなか難しい病気らしい。

 この「丹毒」という病名は若いころから知っていたが、それは、まさに、この「暗夜行路」を読んだからだ。高校の「現代国語」の教科書に、「暗夜行路」の一部が載っていて、その一部というのが、この子どもの死を描いた部分だったのだ。そのとき、「丹毒」という病名が強烈に印象に残った。しかし、印象に残っただけで、特にその病気について詳しく調べることもなかったというわけだ。

 志賀直哉は、大正3年(1914年)結婚する。大正5年6月に、長女慧子が生まれるが、生後一ヶ月半ほどで腸捻転のため死亡。大正8年6月、長男直康が生まれるが、生後37日に、丹毒のため死亡している。当時、赤ん坊が無事育つということが、いかに大変なことだったかがよく分かる。

 この赤ん坊の病気と死は、長男の死亡の経験をもとに描いたことは間違いないだろう。そうでなくては、これほど精細な描写はできない。フィクションというのは、そう簡単なことではない。

 医者は、早く手当をすれば心配なくすむだろうというが、謙作は不安に駆られる。しかし、医者に聞くのはおそろしい。

 

  謙作は明瞭した事を訊くのが恐ろしかった。彼はそういう不安と戦いながら、それでもやはり訊かずにはいられなかった。
 「どうでしょうか」
 「せめて生後一年経っておられるとよほど易(らく)なのですが──しかし早く気が附いたから、どうか食い止められるかも知れません」
 医者はなお、丹毒は大人の病気としてもかなり困難な病気で、まして幼児では病毒と戦ってしまいまで肉体がそれに堪えられるか否かで分れるのだから、とにかく栄養が充分でないといけないという事、それには母乳に止まられる事が何よりも恐しく、出来るなら、母親だけ赤児の泣声の聴こえぬ所へ離しておきたいものだといった。

 


  医者は、母乳が命綱だから、母親の健康を保つために、母親に安心感を与えることが大事だとアドバイスするのだが、謙作には、そんなことは不可能に思えた。自分が不安なのに、妻に安心感を与えるなど、できるわけがない。それができれば苦労はない。

 

  「ええ」そう答えたが、謙作にはそれが不可能な事に思われた。医者が、どうにか食い止められるかも知れないといっている、それも信じられなかった。医者自身そう思っていないとしか考えられなかった。
 「幼児の丹毒といえば普通まあ絶望的なものになっているんじゃないですか」謙作は弱々しい気持になってこんな事をいった。
 「さあ、そうも決まりますまい。が、とにかくなかなか困難な病気です。蜂窩織炎(ほうかしきえん)、それから膿毒症とまで進まれたら、これはどうも致し方ありますまいな。しかしそうせん内に出来るだけ―つ手を尽して見ましょう」
 謙作は黙ってちょっと頭を下げた。

 

  「蜂窩織炎」という病名が、ちゃんと出てくるのでびっくりした。

 いずれにしても、幼児の病気というものは、心配なもので、ぼくのような心配性の人間には、なかなか厳しい。実は、こういう話を読むのも辛いというのが、本音なのだ。

 けれども、ここをすっ飛ばすわけにはいかないので、丁寧に読んではいるのだが、まあ、引用はほどほどにしておきたい。とにかく、発病から、死亡に至る経緯を、こと細かに書いているので、興味があれば、原典にあたっていただきたい。

 

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 132 看護婦林と「小さい医者」 「後篇第三  十八」 その4 

2023.6.28

 

 赤ん坊の手当をするには、栄養補給が大事で、その栄養は母乳なのだから、何よりも母親の乳がとまらないようにすることが肝心だ。だから、直子の精神の安定が大事だと、医者は言った。

 

 「それでね」謙作がいった。「あなたの床は茶の間の方へ移すからね。お乳の時だけ此方(こっち)へ来て飲ますのだ」
 「ええ」直子は小さな声で微(かす)かに答えたが、そのうち急に泣き出した。
 間もなく医者は帰って行った。
 「あなたはよほど気をしっかり持っていないと駄目だよ。あなたがいくら心配した所で、直接病気のためには何にも出来ないんだからね。それより乳がよく出るよう、出来るだけその方には呑気になる心掛けをしてなければいけないよ」
 直子は泣腫(なきは)らした眼で、そんな事をいう謙作の顔を睨むように見ていたが、
 「随分無理な御註文ね」といった。
 「いくら無理でも、あなたがその気になっていてくれねば困る事は分っているね」謙作も不意に亢奮しながら、早口にいった。
 直子は黙って眼を伏せてしまった。謙作は前夜一睡もしなかった所から充奮し易かった。それに、こういう降って湧いた不幸が彼には変に腹立たしかった。
 「子供が病気になったのを呑気にしていろというのが、無理な註文<らい初めから分った事だ。それを無理でもそうしなければ、乳が止まるからそういってるんだ」
 「どうかそういわないで頂戴。私にもよく分っているの。──実は実家(さと)の近くで、丹毒で亡くなった赤ちゃんがあるのよ。それを知っているので、何だか心配で仕方がないの──だけど、本統に私、出来るだけ病気の事、忘れるように心掛けますわ。貴方が心配していらっしゃる所に、そんな事をいって悪かったわ」
 「うむ。そんなら、それでいいけど、──その赤ちゃんの病気は何時頃の話だい」
 「もう四、五年前」
 「そう。それじゃあ、今日の注射液の出来てない頃だな。その時分からはそういう方もきっと進んでいるだろう。Kさんも早く気が附いたから、大丈夫だといっているのだから、あなたは本統にその気でいる方がいいよ」
 「ええ」
 「それに林さん(看護婦)がいい人で大変幸(さいわい)だ」
 「本統に、私も安心してお任かせしておけるわ」

 

  子どもが重病なのに、その子どものことを心配しないでゆっくり休め、というのは、いくら何でも無理な注文だ。そのことを謙作も分かっているのだが、無理だろうが何だろうが、それしか方法はない。それが合理的だ。だから、直子にそれを押しつけようとする。そうしなくてはいられない。

 そこには、謙作のエゴがある。「こういう降って湧いた不幸が彼には変に腹立たしかった。」というところにそれが端的に表れている。子どもの突然の病気は、たしかに「降って湧いた不幸」だ。そしてそれは「変に腹立たし」いに違いない。けれども、この言い方には、どこか「他人事」のような冷めたところがある。こんなことさえ起こらなければ、自分は、今までもどおりの平穏な生活を送ることができたのに、いったい何だ! という癇癪が透けて、あるいははっきりとみてとれる。

 しかし、だからといって、謙作が人並み外れてエゴイストだということでもないだろう。突然訪れる「不幸」を前にして、こんな思いにとらわれない人間は、むしろ少ないだろう。

 医者のいう合理的判断は、同時にまた謙作の判断でもあったが、直子は、そういう合理性は承知のうえで、「経験」を持ち出す。「呑気でいろ」という合理的指示を裏切るのは、こうした「経験」だ。そして、それは重い。

 そんな話をしていると、玄関に誰かが来た。看護婦が応対に出た。この看護婦は林といって、お産のときから謙作の家に来ている。その後も、ずっと付き添っていたようで、謙作夫婦の信頼もあつい。

 

 玄関に誰れか来たらしいので、謙作は直ぐ自分で起って行った。赤児が眠っていた時で玄関には看護婦が先に出ていた。来たのは前夜頼んだ近所の医者だった。看護婦は前夜その医者が来た時から、変に軽蔑を示していたが、今日はそれより、もっと反感を現わしてつけつけ何かいっていた。消化不良ではなく丹毒という事、栄養が大事だから乳は成べく充分に飲ますようという事だった、など、先に《こたえる》事を立て続けにいった。
 「ははあ、いや、それはどうも、おいたわしいですな……」こんな事をいいながら、小さい医者は引っ込みのつかぬ形で弱っていた。
 「実はついこの先の病家まで来たものですから、どんな御様子かと思って……」医者は具合悪そうに謙作の方を向いて云訳(いいわ)けをした。
 謙作は医者が気の毒でもあり、それにどういう場合、簡単な事でまた頼まぬとも限らぬ気がしたので、
 「折角(せっかく)ですから、貴方にも、もう一度診(み)ておいて頂きましょうか」といった。
 「いや。K先生のお診断でしたら、決して間違いはございません。では、まあお大事に……」
 こういうと小さい医者は逃げるように帰って行った。

 

  この看護婦の描き方、「小さい医者」の描き方、いずれも、見事なものだ。

 女中のお仙もそうだが、「暗夜行路」では、いわゆる「脇役」が、妙に輝いている。ここでも、看護婦の林は、容姿やら言葉遣いやらに、とくにこれといった描写はないのに、その行動によって、その人間が、生き生きと立ち上がってくる。

 「小さい医者」が、前夜やって来たときから「変に軽蔑を示していた」のは、おそらく、この医者のことを知っているからだろう。評判のよくない医者だったに違いない。だから、林は、なんだこの人か! と軽蔑を示したわけだ。しかも、その見立てが誤っていたものだから、その「変な軽蔑」は、「反感」にエスカレートし、「つけつけ」とK医師の見立てを報告するわけである。この林の、きっぱりとした性格には、胸のすく思いがする。

 しかし、こういう時の謙作もおもしろい。その林看護婦に決して便乗しない。立ち位置を引いて、客観的な判断をするわけだが、しかし、その前に、同情が入る。

 看護婦につけつけ言われてぐうの音も出ない「小さい医者」を見ていて、謙作は、「気の毒」に思うのだ。普通に考えれば、自分の子どもが生きるか死ぬかという病気であることを見抜けなかった医者に対して、怒りがこみ上げるところだろう。看護婦がつけつけ言ったら、そうだそうだ、お前はそれでも医者か、などと怒鳴ったっておかしくない。けれども、謙作は、案外冷静なのだ。この冷静さは、先述した「どこか他人事」の気分のつながりかもしれない。

 この土壇場で、謙作は、どこか冷めていて、事態を離れたところから客観的に俯瞰する視点を失っていないのだ。

 「それにどういう場合、簡単な事でまた頼まぬとも限らぬ気がした」というのも、実に冷静な判断だ。そのうえ、この医者にもう一度診てもらいたいと申し出る。こうした冷静なのか、気配りなのか、あるいは世智に長けたというのか分からない謙作の言動には、ちょっと驚かされる。

 「小さい医者」のほうも、いわゆる藪医者なのだろうが、その誠実さが好ましい。志賀は、こういう人物を徹底的に否定せずに、いたわりをもって描いている。自分のくだした診断に自信が持てなかったのだろうか、わざわざたずねてきて、看護婦につけつけ言われ、面目まるつぶれになり、挙げ句のはてに、もう一度診てくださいと謙作に言われて、それこそ「這々の体(ほうほうのてい)」で逃げ帰っていく医者。その医者の後ろ姿を見送る謙作の視線は、決して冷たくない。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 133 「歴史的現在」 「後篇第三  十九」 その1 2023.7.19

 

 赤ん坊の病気は、いよいよのっぴきならない事態に進展していく。

 

  赤児はほとんどひっ切りなしに泣き続けた。眉間に太い皺を作って、小さい脣(くちびる)を震わしながら「ふぎゃあふぎゃあ」というように泣く。その声が謙作や直子の胸を刺した。そうして絶えず聴いていると、偶々(たまたま)泣き止んだ時でも、耳の底からその声が湧いて来た。往来へ出る。其所(そこ)はもう自家(うち)から泣声の聴こえぬ遠さなのに、不意にそれが聴こえて来たりした。

 

 赤児の泣き声は、謙作と直子の胸を刺す。この短い文章で、赤児の様子と、それに対する親の気持ちが実に見事に描かれている。

 特に、「……耳の底からその声が湧いて来た。」と書いてきて、その後に、なんの接続詞も説明もなしに「往来へ出る。」といった書き方は、神業だ。凡庸な作家なら、「謙作は我慢ができなくなって、思わず往来に出た。」などと書くところだ。そんな余計なことは書かずとも、「往来へ出る。」ではなくて、「往来に出た。」と書いてしまうだろう。この「出る」と「出た」では大きな違いがある。

 この「出る」は、いわゆる「歴史的現在」というものだと高校時代に教わったが、ふ〜んと思っただけで、まあ、過去の出来事を今のことのように書く、ということね、ぐらいにしか認識しなかった。その後も、この用法について詳しく調べたことはないが、今では、いろいろな研究があるのかもしれない。

 ぼくは文法学者じゃないから、勝手に考えてみる。「……耳の底からその声が湧いて来た。」の後に、「往来に出た。」でも、ちっともかまわないし、むしろ自然だ。それを「往来に出る。」と書くとどうなるか。あくまで「感じ」だが、こう書くと、表現がぐっと一人称的になる。「……耳の底からその声が湧いて来た。」を読んでいるときは、読者は、ああ、謙作も直子も辛いだろうなあと、わりと客観的に事態を眺めているわけだが、そこへ「往来に出る」となると、いきなり、読者は「謙作化」しちゃう。つまり、謙作の立場になってしまう、ということだ。

 それじゃ、その前の、「『ふぎゃあふぎゃあ』というように泣く。」はどうなんだと言えば、やっぱりここでも、読者は「赤ん坊化」こそしないけど、赤ん坊のそばにいる謙作や直子の耳になってしまう。

 簡単にいえば、表現がダイナミックになるということだ。

 昔の作家は、文章修行のために、よく志賀直哉の文章を書き写したものだということを聞いたとき、何をバカなことをと思ったものだが、今改めてこうして細かく読んでみると、その頃の作家の気持ちがよく分かる。

 「オイ、如何(どう)したらいいかー如何すればいいのか」余り烈しく泣かれる時に謙作は思わず、こんな独りごとをいう。こういう場合の癖だった。が、実際如何しようもなかった。
 赤児の声は段々に嗄(しゃが)れて来た。とうとうしまいに顔ばかり泣いていて、声は出なくなった。これは赤児には苦痛の表明の二つを一つにされたようなもので、不憫(ふびん)な事だった。が、まわりの者には絶えざる刺激の泣声が聴こえなくなっただけでもいくらか助かった。直子の乳は幸に止まらなかった。赤児もそれほど苦みながら、乳だけは思いの外、く飲んだ。まわりの者はそれに希望を繋(つな)いでいたが、十日経ち、二週間経つ内に、やはり蜂窩織炎(ほうかしきえん)を起こしてしまった。 

 

 赤ん坊の声がとうとう出なくなったことを、「赤児には苦痛の表明の二つを一つにされたようなもの」と考える謙作は、やっぱり不思議な人だ。「どうしたらいいか」とオロオロする一方で、こんな分析をすることができるなんて。

 声が出なくなった、ということは、赤ん坊の衰弱を意味するのに、それを、赤ん坊は不憫だが、「まわりの者」は「助かった」というのも、不人情といえばそうだが、それが人間というものだということはまた確かなことだ。

 そういう意味では、謙作という人間は(あるいは志賀直哉という人は)、現実にオロオロしながらも、徹底したリアリストであったということだろう。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 134 BGMとしての「魔王」 「後篇第三  十九」 その2

 2023.8.17

 

  国から出て来た直子の母が台所口の柳を鬼門の柳だといって、切(しき)りに植替えたがった。謙作は母と一緒にそういう御幣を担ぎたくなかったが、たびたびいわれ、それを植替えさした。
 彼がそれより何となく気になっていたのは、赤児の誕生の日の夜、前からの約束で末松らと三条の青年会館に演奏会を聴きに行った、其所で彼はシューバートのエールケー二ヒを聴いた、その事だった。彼は前から曲目をもっとよく見ていたら、この演奏会ヘ行かなかったろう。この嵐の夜に子供を死神にとられる曲は今の場合、聴きたくなかった。しかし彼は何気なく行って、誕生の日に聴くには如何にも縁起の悪い曲を聴くものだと思った。彼はちょっと厭な気持になった。

 

 赤ん坊の丹毒は、蜂窩織炎を起こすに至り、事態はいよいよ切迫してきた。

 こういうとき、やっぱり、色々迷信めいたことが気になるもので、直子の母の「鬼門の柳」もその一端だろうが、一説によると、鬼門に柳を植えるのは、むしろ鬼門除けとしてということもあり、地方によって異なるのかもしれない。

 問題は、謙作の聴いた「シューバートのエールケー二ヒ」つまり「シューベルトの魔王」である。このあたりの数ページが、高校時代の現代国語の教科書に載っていたのだ。たぶん、角川書店の教科書だったように思う。それを読んで、どう思ったのか記憶にないが、ただ、「シューベルトの魔王」のイメージだけが強烈に残った。そのとき、その曲を聴いたという覚えもないし、「暗夜行路」を読破した覚えもないが、しかし、「志賀直哉の書いた『暗夜行路』には、『シューベルトの魔王』が出てくる。」という「知識」だけは、数十年経っても失われていなかった。

 知識偏重の教育というのが批判されて久しいけれど、そして、もちろん「偏重」はいけないに決まっているけれど、「教育」あるいは「学校教育」でなければなしえないことに、「知識を与える」があることも間違いない。高校の授業がなければ、ぼくは、生涯、志賀直哉も、「暗夜行路」も、シューベルトも、「魔王」も、なにもかも知らないままであったかもしれない。

 そういうものを「教養」というつもりはないが、「教養」の大半を占めるのは、やはり「知識」だろうと思う。

 教科書での「暗夜行路」のきわめて「不十分」な読書が、今の、「暗夜行路」の精読のきっかけになっていることも、また確かなことだ。

 さて、その「魔王」を聴いた場面はこうだ。

 

  若いコントラルトの唄で、その晩の呼び物だったが、謙作には最初から知らず知らずの悪意、反感が働いていた。彼にはその曲を少しも面白いとは感ぜられなかった。総て表現が露骨過ぎ、如何にも安っぽい感じで来た。それはただ、芝居がかりに刺激して来るだけで、これだけの感じなら、文学のままで沢山だと思った。シューバートのこの音楽は文学を文学のまま、より露骨に、より刺激的に強調しただけで、それは音楽の与えられた本統の使命には達していない曲だと彼は考えた。
 ゲーテの詩までが彼には気に入らなかった。それは本統に死を扱った深味のある作ではなく、芸術上の一つの思いつきだという気がした。比較的若い時の作に違いないと思った。この点メーテルリンクの「タンタジイルの死」の方が彼には好意が持てた。
 寺町を帰って来る時、水谷が充奮しながら、
 「エールケーニヒは素敵でしたね」といった。
 「あれはやはりいいね」末松が答えた。末松は自身では何もやらなかったが、好きで、音楽の事は精しかった。末松は黙っている謙作の方を向いて、
 「あの曲はシューバートの中でも最もいいものだと思うよ」といった。
 謙作は返事をしなかった。彼は音楽の事では余り明瞭(はっきり)した事をいいたくなかった。いうだけの自信がなかった。そして、彼は二重廻しのポケットの中で丸めていたプログラムを何気なく道へ落した。厄落し、そんな気持で……。
 彼はこんな事を気にしたくなかった。気にしても仕方なく、気にするほどの事ではないと思った。勿論それは直子にも話さなかった。そして自分でも忘れていたが、今、赤児にこんな病気になられると、誕生日にエールケーニヒを聴いた事が讖(しん)をなしたというような気もされるのだ。

(注)「讖をなす」= 予言をする。未来の吉凶・運不運などを説く。

 

 「シューベルトの魔王」を子どもの誕生の日の夜に聴いたことが、すでに子どもの死を「予言」していたという感じ方は、ばかばかしいことだが、しかし、「鬼門の柳」を気にする直子の母とまた同じレベルの迷信深さに謙作もまた捉えられていたということだろう。

 ここには一種の音楽批評があるわけだが、印象批評に終始している。「音楽の与えられた本統の使命」とは何なのかについての言及がまったくない。ゲーテに対する批評のほうが、まだ、芯がある。これは、謙作が(たぶん、志賀直哉自身も)音楽についての理解に自信がないということだ。それを率直に書いているのが面白い。

 こういった志賀直哉の率直さに、共感する。ぼく自身、文学への理解には自信がないが、音楽については、さらにそれを上回る自信のなさを自覚しいてるからだ。

 それはそれとしても、この「厄落とし」を最後に、もう、「魔王」は出てこない。それが不思議だ。

 というのも、ぼくが高校時代に読んだかすかな記憶のなかでは、謙作は子どもが死にそうだという不安のなかを、夜の道に出て、医者の元へと急ぐのだが、その謙作の頭の中に「シューベルトの魔王」の歌が、鳴り響くというシーンが確かにあるからだ。そこがすごく劇的だった。映画みたいだった。

 けれども、今回読んでみると、そんなことはぜんぜんなくて、子どもが生まれた日に、「魔王」を聴いたことが、「縁起が悪い」という印象を持って不快だったというだけのことだったのだ。

 文学というものは、実に勝手なイメージを読者のなかに生み出すものだ。しかし、ほんとうにそれが「勝手なイメージ」であろうか。

 子どもが重病になったとき、その子の誕生の日に、「魔王」を聴いたことを思い出し、「縁起が悪い」と思ったということだけが書かれているが、しかし、「思い出した」のは、「魔王」を聴いたという「事実」だけではなくて、当然、その時「魔王」の音楽そのもが、謙作の頭のなかによみがえったはずだ。とすれば、子どもの死に直面しかかっている謙作の頭のなかには、ずっと「魔王」の音楽が鳴り響いていたのではなかろうか。あるいは、子どもが泣き止まなかったその日から、いやな予感とともに、この「魔王」がかすかに流れていたのかもしれない。そして、それがここに来て、一挙にクライマックスに達したとみることもできる。そう考えると、ぼくが頭の中に描いていたイメージは、あながち「勝手な」ものでもなく、志賀直哉の意図したものであったのかもしれない。

 小説には、BGMはないが、ここにはBGM的効果がたしかにある。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 135  「余白」 「後篇第三  十九」 その3

 20239.1

 

 丹毒は伝染する恐れがあり、皆も割りに注意深く手先きの消毒をしていた。或る麗(うら)らかな朝だった。謙作と母とが茶の間で食事をしている時に、直子が、廻り縁を静かに寝間着の裾を曳きながら赤児の病室の方へ行った。乳を飲ますためである。
 「あら! ベルや。ベル! いけません」
 「どうしたんだ」謙作は茶の間から声をかけた。
 「ちょっと来て頂戴。ベルが昇汞(しょうこう)を飲みそうにするの」
 謙作は茶の間の前から下駄を穿いて庭へ出た。ベルというかつてこの家(うち)に飼われていた小犬が、喜んで、飛び廻っていた。
 「これを飲みそうにするのよ」更(か)えるために踏石の上へ下ろしてあった、洗面器の昇汞を指して直子がいった。
 「そりゃあ、飲みやしないよ。ただ好奇心で匂いを嗅いでたんだろう」
 「そうでしょうか? 今本統に飲みそうにしてたのよ。こんな水を欽んだら、それこそ、直ぐ死んでしまいますわ」と直子がいった。
 引越の時、手伝に来ていた爺やが貰って来てくれた犬で、しかし直子の妊娠が分ると、同じ年の動物は飼わぬものだというような事で、小屋ごと、一軒措いた隣りの家へやってしまった。しかし犬はそれからも始終遊びに来て、今は何方(どっち)の犬ともつかず、行っり来たりしていた。
 看護婦の林が出て来て、黙ってその昇汞の洗面器を取上げると怒ったような顔をして、どんどん台所の方へ下げて行った。

 

   丹毒の伝染性について、そしてその対処法についてごく簡単に説明した直後、赤ん坊の部屋へ行こうとする直子の姿がチラッと描かれる。直子はチラッと見えただけで、すぐに姿が隠れたはずだから、声だけが聞こえる。声だけの応答から、謙作は、庭へ出て、直子と話す。そして、喜んで飛び回る子犬へと視線が移る。そして、どうして子犬がそこにいるのかという事情も分かりやすく語られる。

 こうした一連の叙述の流れは、見事という他はない。これだけの内容を、これだけの字数で描くことがどれだけ技術を要することかはかりしれない。昔の小説家志望の若者が、志賀直哉の文章を筆写したというのも、もっともなことである。

 そこに現れる「看護婦の林」も、切れ味鋭い。志賀直哉お得意の、脇役の生き生きした描写である。

 

 謙作たちはこの一っこくなような所のある、勝気な看護婦に信頼していた。林は赤児の事では緊張し続けた。よく健康が続くと思う位だった。謙作はむしろ林の健康のために、もう一人看護婦を頼んだが、林はかえってそれを喜ばなかった。赤児に対する、そ
の看護婦のやり方が気に入らなかった。そして自分は自分で一人の時と全く同じに働き、その人に任かせてゆっくり休養するという事はしなかった。ある時その看護婦が風邪で帰ると、林は「もし私のためでしたら、どうかもうお頼みにならないで頂きます。──だけど私一人で御不自由だと思召(おぼしめ)すんでしたら別ですけど」こんなにいった。
 謙作はもし林に倒れられたら、どんな代りが来るとしても、赤児のためには大打撃だからといったが、林は大丈夫倒れる事はないからといっていた。
 今の場合、赤児のために直子に要求する所は、母であってもらうよりは乳牛になり切っていてもらう事だった。で、乳の時以外は全く赤児に近づけない事にしていたが、しかし赤児としては、生れたてのまだ何も分からない赤児ながら、母乳以上の母愛をも要
求しないとはいえなかった。そう謙作には思えた。そしてこの感情──この母愛に近い感情は他の看護婦ではなかなか求められそうになかった。──とにかく、林のやり方が看護婦としての義務を遥かに越えていた事は謙作たちには嬉しい事だった。伝染する恐れがあり、皆も割りに注意深く手先きの消毒をしていた。或る麗(うら)らかな朝だった。謙作と母とが茶の間で食事をしている時に、直子が、廻り縁を静かに寝間着の裾を曳きながら赤児の病室の方へ行った。乳を飲ますためである。

 

 この看護婦林については、志賀は、容貌の説明を一切していない。描くのはひたすら、林の態度・行動であり、言葉だ。それだけなのに、彼女の肉体までもが、生き生きと眼前に立ち現れるような思いにとらわれる。すがすがしいまでに、一本筋が通った人間として、強く印象に残るのである。

 一人の人間について、詳しく描けば描くほど、その人間は捉えどころのない茫漠とした印象を与える人間になりかねない。それほど、人間は複雑な存在だし、様々な側面を持っている。けれども、たとえばこの林という看護婦のように、その職務に携わる姿を簡潔に描くと、このように「一本筋が通った人間」が現れる。

 「暗夜行路」の脇役──女中のお仙、お栄、お才といった人々が、みな生き生きとした個性を発揮して存在感を示すことができるのは、実は、謙作や、直子や、信行といった主役級の人間が、みな底知れない奥行きをもった人間として描かれているからなのかもしれない。そうした人間との対比で、あっさりとしかも的確に描かれた脇役には、「余白」がある。それが気持ちいい。

 この看護婦の林にも私生活というものがあるだろう。家庭はどうなっているのか。どんな悩みを心に抱えているのか、など想像すればきりがない。そこを省略する。すると、その人間の周りに「余白」ができる。物語の風通しがよくなる。

 つまりは「立体感」ということだろうか。赤ん坊の死という切迫したシーンを描く際に、その死を体験する謙作や直子の心理にあまりに近づきすぎると、読者は、とても読んでいられないほどの息苦しさを感じるだろう。けれども、そうした「余白」をまとった脇役や、「余白」そのもののような子犬などが描かれることで、物語を離れて眺める視点が獲得されるのだ。

 

 

志賀直哉『暗夜行路』 136  運命 「後篇第三  十九」 その4

 2023.9.26

 

 

 

 赤ん坊は、懸命の治療もむなしく、死んでしまう。

 この赤ん坊の死に至るまでの経緯は、読むのも辛いほど詳しく描かれている。あくまで謙作の目を通して描かれているのに、そこに感傷の入る余地がない。謙作は苦しむが、その目は涙に濡れることなく、どこまでも澄んでいて、その死を見つめている。

 もちろん、謙作は、現実のすべてに直面できるわけではない。むしろ、肝心なところで逃げようとするのだ。

 いよいよ赤ん坊が、死ぬか生きるかの手術に向かおうとするとき、謙作は、立ち会いを拒否する。

 

 

  謙作はK医師が食塩注射の支度をする手伝いなどをしていた。しかし彼は自身手術に立合う気にはなれなかった。恐しかった。
 「かまいませんか?」
 「ええ、かまいません」こうK医師にいわれ、彼は庭へ出てしまった。手術着を着た若い外科医が縁側でシャボンとブラッシで根気よく手を洗っていた。
 間もなく皆病室へ入って行った。謙作は直子のいる部屋の方へ行った。
 「お立合いにならないの?」直子は非難するような眼附をしていった。
 「いやだ」謙作は顔をしかめ、首を振った。
 「可哀想だわ、そりゃあ、可哀想ですわ」
 「Kさんがいいっていったんだ」
 「そう仰有(おっしゃ)ったかも知れないが、誰も血すじが行っていなくちゃ、可哀想よ。じゃあ、お母さんに行って頂きましょうか」直子は傍(そば)に坐っていた母を顧みた。
 「はい」そういって母は直ぐ出て行った。
 謙作はまた庭を病室の方へ歩いて行った。障子を〆切(しめき)った中からは時々医者たちの低い話声と、ちょっとした物音がするだけで、勿論、声の全く潰(つぶ)れてしまった赤児の声は聴こえて来なかった。謙作は急に不安に襲われた。もう死んでしまったんだ。そう思わないではいられなかった。彼はじっとしていられない心持で庭を往ったり来たりした。ベルが、頻りにその足元に戯れついた。

 

  直子は謙作を冷たいと思っただろうが、ぼくには謙作の気持ちがよく分かる。「男というものは」という言い方はよくないかもしれないが、やっぱり、男はこういうとき、ダメなものなんだとつくづく思う。その点、直子の母は、即座に「はい」といって、病室に入っていく。すごいなあと思う。

 謙作が病室に入らないので、事態は、「音」だけで描写される。「医者たちの低い声」「ちょっとした物音」、そして「聴こえない『潰れてしまった』赤ん坊の声」。──短い文章だが、ここに流れる「長い」時間がありありと感じられる。そうした果てしないような時間の中に、謙作の「不安な時間」が組み込まれる。

 

 少時(しばらく)して、障子が開いて、林が顔を出した。亢奮し切った可恐(こわ)い顔をしていた。謙作を見ると、
 「どうぞ、直ぐお乳を上げて頂きます」そういって直ぐまた障子を〆めてしまった。
 「助かった」謙作は思った。彼は急いで直子の部屋に行き、
 「オイ。直ぐお乳……」といった。
 「よかったの?」直子は立ち上がりながらいった。
 「うむ」
 直子は急いで縁を小走りに行った。林が血のついた綿やガーゼを山に盛った洗面器を隠すように持って風呂場へ急ぐのが見えた。
 謙作が行った時には病室は綺麗に片附いていた。K医師が赤児に酸素吸入をかけていた。直子は側に坐って泣き出しそうな顔をしてそれを見ていた。
 「どうもなかなかえらい膿でした」K 医師は顔を挙げずにいった。
 「…………」
 「食塩注射と酸素で、どうか取止(とりと)めましたが、しかしよく堪えて下さいました」
 謙作はK医師に代って、酸素をかけてやった。赤児は疲れから、よく眠入っていたが、その顔は眉間に八の字を作り、頬はすっかりこけ、頭だけがいやに大きく、まるで年寄りの顔だった。赤児は眼を閉じたまま急に顔中を皺(しわ)にして、口を開く。苦痛を訴えるには違いないが、もう全く声がなく、泣くともいえない泣き方だった。それを見ると、これが助かるとはとても思えなかった。しかし直子が乳首を持って行くと、これはまたどうした事か、死んだようになっていた赤坊が急に首を動かし、直ぐそれへ吸いつくのだ。それは生きようとする意志、そういう力をまざまざと現わしていた。が、それも余り長くは続かなかった。赤児は充分飲む前にまた眠りに落ちて行った。

 

 看護婦林の「亢奮し切った可恐い顔」「血のついた綿やガーゼを山に盛った洗面器を隠すように持って風呂場へ急ぐ」姿、などに、手術の有様が想像される。

 そして、謙作が入っていった「綺麗に片附いていた」病室に、緊張感が余韻のように漂っている時間が流れる。すべてが見事だ。

 この後、数日におよぶ治療が行われるが、赤ん坊は衰弱していくばかりで、謙作は、こんなに苦しむなら、少しでもはやく苦痛から解放させたいとすら思うのだった。

 

 彼は今は、もう死ぬと決ったものなら、少しでも早く苦痛から逃がれさせたいという気さえしていた。しかしこの考は赤児が生きよう生きようとする意志を現わす時に僭越な済まない考だとも思われた。しかし医者たちもとても六ヶしい事を明瞭にいってい、彼自身見ても何所(どこ)に希望を繋いでいいか、分らないほどひどい様子を見ると、赤児のなお生きよう生きようとする意志が彼には堪らない気がした。
 「死ぬに決った病人でも、死に切るまでは死なさないようにしなければならないんですか。生きてる事が非常な苦痛になってる場合でも」
 「仏蘭西(フランス)と独逸(ドイツ)で考が違います。仏蘭西では権威ある医者が何人か立会って、家族の者もそれを希望した場合、薬でそのまま永久に眠らす事が許されているのです。ところが独逸ではそれが許されてないんです。医者としては最後の一秒まで病気と戦わねばならぬという考なんです」
 「日本は何方(どちら)です」
 「日本はまあ独逸と同じ考なんですが、考というより医学が大体独逸をとってるからでしょうが、それはまあ何方にも考え方の根拠はありますわな」
 「医者の判断が例外なしに誤らないという事が確かなら、仏蘭西流も賛成ですがね……」
 「それは数ある中では何ともいえませんからな」
 謙作と外科医とがこんな事を話し合った翌日、赤児は発病後一卜月でとうとう死んでしまった。赤児は苦みに生れて来たようなものだった。

 

 この安楽死の問題は、いまだに決着をみていない。フランスとドイツの差ということは、知らなかった。

 葬儀は簡単に済ませ、遺骨は花園の霊雲院という寺に預かってもらった。この死にいちばんこたえたのはやはり直子だった。

 

 赤児の死で一番こたえたのは何といっても直子だった。その上、産後肥立たぬ内に動いた事が障り、身体がなかなか回復しなかった。謙作はまだ一度も直子の実家へ行っていなかったし、神経痛で寝ている伯母の見舞いを兼ね、二人で敦賀へ行き、それから、山中、山代、粟津、片山津、あの辺の温泉廻りをして見てもいいと思った。しかし直子の健康がそれを許さなかった。それに、直子は心臓も少し悪くし、顔にむくみが来て、眼瞼が人相の変るほど、腫れ上がっていた。医者はその方からも、温泉行は以(も)っての外だといった。
 直子は毎日病院通いに日を送っていた。

 

 赤ん坊の死を描く筆致とは違って、ささっとスケッチするように、直子の現状を描いている。こんなところに、
「敦賀、山中、山代、粟津、片山津」といった地名が列挙されるのも、どこか新鮮だ。暗い病室から、いきなり温泉地の空気のなかに気持ちが解き放たれるように感じる。


 で、謙作はどうだったか。

 

 謙作は久しく離れている創作の仕事に還り、それに没頭したい気持になったが、まだ何かしら重苦しい疲労が彼の心身を遠巻きにしているのが感ぜられ、そう没頭は出来なかった。彼の感情は物総てに変に白々しくなった。ちょうど、脳に貧血を起こした人の眼にそう見えるように、それは白らけてしか見えなかった。彼は二階の机に向い、ぼんやり煙草ばかりふかしていた。
 どうして総てがこう自分には白い歯を見せるのか、運命というものが、自分に対し、そういうものだとならば、そのように自分も考えよう。勿論子を失う者は自分ばかりではない、その子が丹毒で永く苦しんで死ぬというのも自分の子にだけ与えられた不幸ではない、それは分っているが、ただ、自分は今までの暗い路をたどって来た自分から、新しいもっと明かるい生活に転生(てんしょう)しようと願い、その曙光を見たと思った出鼻に、初児の誕生という、喜びであるべき事を逆にとって、また、自分を苦しめて来る、其所に彼は何か見えざる悪意を感じないではいられなかった。僻(ひがみ)だ、そう想い直して見ても、彼はなおそんな気持から脱けきれなかった。

 

  直子の状況は、身体の不調を中心に描かれたが、謙作のほうは、精神的苦悩の面で語られる。

 思えば、そもそもの出生が、稀にみる不幸であったともいえる。それにまつわっての、最初の結婚話の破綻。さらに、お栄への恋とまたその破綻。自暴自棄になってもおかしくない境遇にいながら、やっとのことでつかんだ直子との結婚と、子どもの誕生。そこに「曙光を見た」と思った謙作を襲った苛酷な「運命」。

 「自分は今までの暗い路をたどって来た自分」というところに、「暗夜行路」という題名の芽生えがあるようだ。

 このまま、謙作の運命への思いを書き継げばいくらでも書いていけるのに、志賀直哉は、そうせずに、次の行で、こう書いて、筆をおく。

 霊雲院は衣笠村からそう遠くなかったから、謙作はよく歩いてお参りをして来た。

 この短い一文で、「暗夜行路」後篇「第三」は終結する。

 

 

 


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