お客さまの部屋(2)


日頃 なんとなく思っていらっしゃる舞台への期待や不満を聞かせてください。
好みの違いは当たり前。
他の劇団と宝塚を 比べるなんてナンセンス。
言ってどうなる問題でもないし、問題になるのも困るかも。
ただ、ドアを開けたあなたとお話したいだけなのです。


初めにドアを開けて下さったのはペリカンさん<P>でした。質問者はやうこです<*>

<*>
ごきげんようこそ。
早速ですが、ペリカンさんは、他の方面の演劇もご覧になっていらっしゃるとか。その中で宝塚がお好きなのは どんなところに惹かれての事なのでしょう?
 
<P>私が宝塚に求めるものは、現実とかけ離れた非日常的なものです。
あの空間に漂う異次元の世界の中で、しばし現実とお別れして我を忘れるのです。そういう意味で 舞台の上はどちらかと言うと現実とは違っている方がよろしいですね。
あまりのめり込めないときは、「あっ!WOWOW録画予約忘れた。」 とか 「帰りに大根買わなくっちゃ!」とか、色々思い付いてしまうのです。 

分かる気もしますネ ただ、宝塚では 現実的なものって却って少ない気がするけど具体的にはどんな作品ですか?       

<P> 最近のものでは「ハウトゥサクシ−ド」がそうでした。  えらくなることに夢中だった人が急に「人間愛」なんて叫んでもね。  スト−リ−がサラリ−マン社会のモデルのようでしたし。  
現実離れしたというと、やはりコスチュ−ムものでしょうか。(「仮面のロマネスク」は大好きでした。)  
ショ−の中で、皮のライディングス−ツを着てオ−トバイに乗っかっている男役を見ても、今朝、同じ姿で出かけて行った息子を見ているようで、 「どっかでひっくり返っていないかしら」 などと現実に引き戻されてしまうのです。

へええ そんなものかしら。 つまり、時代劇(和洋の)がお好きっていうことですか。
 たしかに テレビドラマのような今どき風の劇だったら リアリティが求められ、そうなると男は ソリマチ君やキムタクの方が しっくりくるかも。 「失楽園」だって舞台じゃ やりようがないだろうし・・。(え・・テーマのことですよ)  不倫を扱うとなるとやっぱり時代もので見せたほうが美しいですし。 そういえば 宝塚で不倫は観たくないというご意見もありますが・・・。 

<P>今回のこのやうこさまの企画のきっかけの一つは、「仮面のロマネスク」の賛否にあったのではないかと想像しますが、確かにあれは現代ではインモ−ラルの極みだけれど、モラルというのは、結構時代によって変わりますよね。 セシルが修道院で結婚前過ごしていたのも、そうしなくては、あんな自由奔放な人達に巻き込まれるからでしょうね。 良家の娘は修道院を出るやいなや婚約するんでしょうね。

時代ものだから、モラルをテーマとして捉えずに、別の観点で観るという事ですか?   

<P> そうですね。原作ではちゃんと各人良い終わり方はしていないらしくて、本当は カソリックのモラルに沿ったものらしいのですが、実際、あの時代あんな風だったから 革命へ動いて行ったんだと思います。  お芝居の場合は、そのことを良いとか悪いとか言うんでなくて、その時の人々の 心の動きを表現して頂けたらよろしいかと思うのですが それをどう捉えるかというのは、観客にお任せ頂きたい。(私が、人から説教されるのが嫌いだから、そう思うのでしょうか。)       
 「あかねさす〜」なんて、大体、兄さんが弟の嫁を好きになって奪い取り、自分の娘を2人も嫁にやるなんて、不道徳も不道徳。 「仮面のロマネスク」の比じゃあありません。  でもそのことから生じる大海人皇子や額田王の心の葛藤があって、芝居になるのではありませんか?    

テーマの解釈も含めて 自分なりの楽しみ方ってありますよね

<P>この「仮面のロマネスク」の場合は 私はトゥ−ルベル夫人に成ってみたかった。 
 ヴァルモンに言い寄られて「いけませんわ。ああ、およしになって...」なんて 言ってみたいような..(リチャ−ド・ギアでもよろしくってよ!)  
 セシルが可哀相という方もいらっしゃるようですが、そもそも婚約シテイナガラ 「ダンスニ−さま!」はありません。メルトィユの命令とはいえ、そこのところを  ヴァルモンにつかれてしまったのさ。

まっ 厳しいおっしゃりよう!だって 親が勝手に決めた婚約者で あの方にお会いする前だったんですもの。結婚してから裏切るよりマシですわ。でも あの方が「君に済まない事をした」っておっしゃった時「わたしも」って言いそびれて・・。だって あの美しい瞳に見つめられ抱き寄せられてしまったんですもの。でもきっとモメルわね私達。・・・って そう つい、なりきりラブバージョンあれこれが出来ちゃうところが良いかもしれない。   
 
<P>だから、その心の動きを色々みてとれたり、想像したり出来るのが楽しいと思うのです。っていうか、芝居というのは人物達の心が動いてくれないと、面白くない ということかもしれません。
エリザベ−トがなぜあんなに良かったかと考えると、もちろん音楽、装置、衣装、全てが素晴らしかったのですが、エリザベ−ト、ト−ト、 フランツの心の動きがじっくり表現されていましたよね。        私には「仮面のロマネスク」よりも「失われた楽園」のほうが後味の悪いものでした。
ア−サ−とリアの純愛物みたいになっているけれど、最後は策士の 海峡組の方が、直接手をくださないけれど、殺人を犯して勝つという、なんとも後味の悪いものでした。
 が、私はあの結末はあれで正解だと思うのです。 もしア−サ−があそこで殺されなかったら、ますますビッグになって、またリアも大女優の道を歩み、ふたりとも「もっとビッグに...」と尽きせぬ道を歩いて結局2人ともエゴイスティックになって離婚して、夫婦としてはあまり幸せにはならなかったと思うのです。
だから、あそこで自分の映画が成功して、リアも大女優への道を一歩踏み出したということを確認できたところで死んで、ア−サ−は幸せだったとおもいます。

つまり、モラルということを広義にとらえれば「仮面・・」のような不倫ものだけでなく悪いものは他にもあるけれど、作品の質や、楽しみ方によって評価が違ってくるということですか?   

<P> ミュ−ジカルのHPにこの作品のことを絶賛している方のがありました。42nd ストリ−トなど色々なミュ−ジカルのシ−ンを取り入れていて、これで音楽さえ良ければパ−フェクトな出来とありましたが、ミュ−ジカルに不案内な者としては、そんなに何度も観たい作品ではありませんでした。
 しかしながら、何度もみに行くのは、やはりスタ−とそのタマゴ達を観たいと思うからです。

作品というより出演者 と言うのは、宝塚独特の見方ですね。他の演劇でも勿論、スターが呼び物という場合もあるけど概して、作品があって 役者をはめて行くという過程の方が多いのでしょうし。  
 
<P>そういう意味で、宝塚は歌舞伎に近い、作品を通して役者を見せる「見世物」の割合が強いと思います。  役者を見せる「宝塚」ですから、その役者がいかに魅力的に見えるかという作品を作って頂きたいわけです。 
どういった部分を魅力的に感じるかというのは、人によって様々なので、そこは難しいところです。

そうですね。「エリザベート」を 格別誰のファンでもない”素人”の友人達にみせたら、雪と星とで好みの違いが分かれました。誰が一番カッコ良かったかと訊けばモチロン轟さんなんですけどね。(強制的に)作品の好みって言うともう意見がバラバラです。

<P>・・・ともかく技術的に優れていないと魅力的ではないと思う人もあれば、カッコ良くないと魅力的ではないと思う人もいます。             
カッコ良く、歌もダンスも芝居も上手な人が一番ですが..ただ、えてして非常に外見的に魅力的なのに技術点の低い人、技術点は高いのにあまり格好良くない人が多いのも事実です。
そんな時どちらが優先するかといえば、宝塚の場合は、見世物的要素が強い分だけ格好の方が優先するとおもいます。
(格好良い+何か得意なもの1〜2こ)あるいは(超格好良い+平均的技術点)がスタ−の条件でしょうか。−本当は美形でなくってもお化粧上手とスタイルシャンで舞台の上で格好良ければO.K.です。  宝塚の作家の使命はそのスタ−の魅力を沢山引き出すことに尽きると思います。 
 反対から言えば、スタ−は作家からあんな役やこんな役をやらせてみたいと創作意欲の沸く人でなくてはなりません。何をしても同じでは駄目ですよね。色々な役をやって、色々な魅力を出し尽くした頃、惜しまれながら退団ってことでしょうか。   
 植田理事長の言う「宝塚らしさ」とは、スタ−をスタ−らしく見せる作品、「見得の切れる作品」ってことなんじゃあないんでしょうか。 
 最近の若手作家はどちらかというとメッセ−ジを持った、作家自身の主張のある作品を作りたがりますよね。 それを第一にして、スタ−を見せることを忘れてはいけないということなんじゃないかと思います。(虹ナタの高嶺さんが  素敵とは思いませんでしたが...)
こういう「見得を切る」ということも大切にして、お芝居としても充実した楽しめるものがどんどん生まれてくれることを願って止みません。


休暇を終えたMacsさんを無理矢理引っ張って参りました。


夏休みに入る直前に帝国劇場で”レ・ミゼラブル”を観て参りました。
ここのところ、宝塚ばかりでしたので、久しぶりに外の舞台(こういう言い方が宝塚ファンの証ですねぇ)を観ました。
やはり素晴らしかったです。こんなに純粋に舞台を観て感動したのは久々のような気がします。
勿論、宝塚の舞台でも感動は味わえますが、宝塚の世界に深く入り込んでいくに従って、舞台以外の諸々の要因も含めた感情が大きくなるように思えることもしばしば・・・。(だからよけいに感動できたのかもしれませんが。)
この作品、ずっと世界中で愛されているのが分かるような気がします。 混沌とした世界で、ジャン・バルジャンを中心に(この日は山口祐一郎さんでした。実は山口さんを見るのが一番の目的でした(笑))様々な人物がそれぞれの人生を精一杯生きていく・・・そんな人々の人生模様は哀しくもあり、時には滑稽でもあり・・・でも一様に感動的でした。
どんなにあがいても逆らいきれない運命のようなもの、この世に生まれおちた瞬間から決められている人生かもしれないけど、それでもどうにか自分自身の手で運命を変えていこうと必死でもがく様が時には冷たくリアルに、そして時には優しく描かれており、一切台詞のない歌だけの構成による流れるような舞台の展開と相まって、本当に良い舞台でした。
この作品、きっと観れば観る程心に染み入るのではないでしょうか。私もこの作品は以前にも何度か観ておりますが、観る毎に感動の度合が高まっていきます。
それぞれの役を演じられた役者さん達も皆素晴らしく、ジャン・バルジャンやジャベールはやはり男性が演じるからこそ感じられる圧倒的な力強さと包容力に溢れていました。これは女性には出せない魅力でしょう。逆に革命派の学生達を宝塚の男役がやれば、理想を追い求めた青年達の清冽で純粋な生き様がより際だつのではないか、と思いました。
アンジョラス役を轟さんで見たいなぁ・・・とか(笑)。
こう考えた時ふと思ったのです。「もしかして、私が宝塚に求めているものってこれかな?」と。

私は決して宝塚の舞台にユートピアを見せてほしい訳ではありません。ひたすら奇麗で美しい絵空事・・・確かにそういう世界を作りあげ、観客に夢を見せることができるのは宝塚だけでしょうから、それはそれで良いと思います。でもそれでなくてはいけない、とも思いません。
言ってしまえば、虚偽や欺瞞に満ちた、汚れた世界でも良いのです。その中にある美しいものを感じられれば・・・・
これは宝塚に限ったことではありませんが、でも宝塚ではそれをより純粋で美しいものとして表現できると思うのです。それはやはり男役という、性別を超えた非現実的な存在のせいでしょうね。

私が宝塚の舞台に求めること・・・現実の中にある理想、それを観ている私達が美しいと感じることが出来るような舞台を観せて欲しい。そういったところでしょうか。
勿論、外見的なこと、宝塚ならではのスター制度に関わることなど、細かく言えばきりがありませんけど、根本的なものはこれです。
逆に言えば、現実をあたかも理想のように描かれてしまうと抵抗がありますね。遅くなってしまいましたが、”私が宝塚の舞台に求めるもの”についての私なりの答えです。それでは、今日はこの辺りで。

ペリカンさん再登場

 おっしゃる意味、な〜んとなくわかる気はします。
でもね、「おしん」なんて おっしゃるところに当てはまるような気がするんですけど、私は「宝塚」ではやって欲しくありません。
私は「宝塚」には視覚的美しさを大事にしてもらいたいのです。舞台美術の美しさも(派手さかな)凄いと思います。
あんまりテ−マが重いと繰り返し観るのは辛いです。
昔の高汐巴時代の軽いコメディタッチのものをビデオで観ましたが、とてもしゃれていて好きです。
とても良くできているのだけど、“一回でいいや”と思うものがあります。結構駄作でも繰り返し観たいものもありますね。
演じる人達に対する好みのせいでしょうか?


Macsさん再登場

私も『おしん』は観たくないですねぇ。絶対嫌ですねぇ。
『おしん』放映時はまだ義務教育中(朝早くからの登校が義務)でしたので、あまり詳しい内容は知りませんが、あーいう”いざという時は人の情けで助けてもらいながら、自分の苦労ばかりを押し付けがましく売りにする”ようなお話は嫌いです(あー国民的人気番組に対して喧嘩売っちゃった(^ ^;))。
一番ひねくれていた年頃に見たからかな?(フォローです)
話が逸れてる・・・・そう、私にとって『おしん』は”汚れた現実の中にある理想”ではない、ということですね、きっと。
それに、確かに宝塚の舞台においては視覚美は必須であって、”汚い現実”とは外側ではなく、内側のことを指して言ったつもりでした。文章力がないので、ちょっと誤解を与えてしまったのかも・・・・スミマセン。でも、御意見戴けてとても嬉しかったです。こちらこそ、脳天気で適当な私ですが、これからも宜しくお願いいたします
                             (* つづく・・・と良いケド)

玄関ページへ