バイコロジー(死語だねえ)−−−30歳の自転車


今から22年前、九州福岡から佐賀へ向かう途中、三背峠。まだカラー写真が普及してなかったので、モノクロです。
ガードレールが低いのはなぜでしょう。4千円のツェルト(緊急用のテント)、980円のシュラフ、貧乏のどん底だったけど、ぜんぜん苦じゃなかったころでした。


1970年代。
当時バイコロジーという言葉がはやり、自転車のブームが巻き起こりました。
バイコロジーというのは、バイシクルとエコロジーの合体造語で、自転車に乗って環境を守ろうと言う運動です。
テレビで盛んにフラッシャー付きの自転車のコマーシャルが放映されていたのを思い出します。
つんつんツノダのTU号ーなんてのもありましたな。あれのどこがエコロジーだったんだろう。
私もぎんぎらぎんの自転車にあこがれ、拾ってきた(盗んだ・・じゃないと思う)自転車に、これまた拾ってきたバイクのウインカー(当然点灯しない)をつけていました。
16歳のある日のこと、友達が、水道のホースほどの幅しかないタイヤがついた、しかもライトもキャリアも泥除けさえもついていない自転車に乗ってきたのです。
目からうろこが落ちました。心底かっこいいと思ったのです。
当時珍しかったロードレーサーです。
自分の自転車からすべてをひっぺがしましたが、全然かっこよくなりません。
で、とうとう買う決心をしたのでした。
それから3年アルバイトをしながら、2年かけて部品をそろえ、半年かけて組み上げたのがこの自転車です。(なぜランドナーになったかというと、ロードレーサーは当時でさえ20万円ぐらいしたからです)
一日で180KM走ったこともあるぐらいどっぷりつかっていたなあ。
当時のお金で13万円ほどかかり、10年前にレストアしてさらに5万円ほどかかってます。
このとき変速機を、本来つくはずだったサンプレックスの前後新品に付け替え、さらにさびていたレバーもサンプレックスの新品を探し出しました。
(ちなみに購入当時は、何を思ってかユーレーアルビーとサイクロンという変則の組み合わせで組んでます。)
でもまだ満足してません。自転車は底なしぬまだっ。
めざせ東叡社のフルオーダー。(すみませんね、わかる人だけ付き合ってください)


サンプレックスクリテリウム これはたぶんサンプレックスのクリテリウムだったと思う。(プレステージだったっけ・・・・)フランス製。
本体は黒いデルリン樹脂。やや剛性不足だがキャパシティが大きい上、今までつかった変速機の中では、特に安くて高性能だった。(当時2500円)
初期のものは全部樹脂製だったが、この型からプレートにメッキ鋼板の補強が入るようになった。(文字が目立つように黒ペンキを流し込んである。本来メッキ。)
新車時(上の写真の頃)は、ユーレーアルビーをつかっていたが、頑丈さだけが取り柄の性能2の次という変速機だったなあ。特に5速は、入りにくいったらありゃしない。
ハブは三信のラージフランジにシマノのクイックシャフトをつかっているが、実はカンパニョロのシャフトを買って大事にとってある。
スポークはステンレス14番を8本組で使用。当時、自分でくんだ。さすがに振れ取りはやってもらったが。
フリーホイールは15から24までの一般的な5段ギアにしてある。
当時はもっと重いギア比を踏めたが、今は24でも重く感じる。
年はとりたくないねえ。ぶらさがっているのはピンクパンサー。当時のものだ。
同じくサンプレックス クリテリウム(あるいはプレステージ)FD。これも本体は樹脂製で、スライド式。
シンプルで壊れない。ただ、当時国産のはトップノーマルが標準だったので、ローノーマルのこいつには面食らった。
これは最近高い金出して買ったもので、当時は1500円ぐらいだったもの。
買ったときは8000円もした。
新車時は、サンツアーのサイクロンにワイドギア用アダプターをかましてつかっていた。
性能はサンツアーの方が断然いいのだが、こっちの方が色気がある。
外国製はデザインがいいもんなあ。
ギアはあこがれだったフランス製T.Aの46x28。キャンピング車にするつもりだったので、ギア比はかなり低くしてある。トリプルギアにしなかったのはクランクが飛び出るのが気に入らなかったから。ただ、さすがにT.Aのクランクを買うことはできなかったので、杉野のプロダイナミックの165mmをつかっている。
マッドガードは当時流行のレフォール650B用亀甲タイプ。ポンプはブルーメル。
チェーンは報国のブルースカイ。20年ものである。

 用語解説                                                                                   

東叡社・・・・昔の自転車乗りだったら、一生に一台でいいからここの自転車が欲しいと思った、フランスのルネエルス社の流れを汲んだ、オーダー専門の自転車製作所。
車で言えばロールスロイスかな。いまでも最高峰の地位は揺るぎない。ねじ一本に至るまで、こちらの要望どうり、いやそれ以上につくってくれる(らしい)。
なにせ、変速機までつくってしまう(らしい)。・・・40すぎたいまでも私にとっては、エベレストの山頂に等しきメーカーである。いつかきっとオーダーしてやる。それまでつぶれずまっててね。
ルネエルス・・・ルネルスともいう。今はなきフランスの超一流オーダーメーカー。走る芸術品を作るので有名だった。
名古屋のカトーサイクルにあるのだが100万円でも売れねーなーといわれてしまった。
納得する私も私だが、今の若い人にはただのママチャリに見えるかもしれない。
サンプレックス・・・・フランスの変速機メーカー。樹脂製の変速機を得意としていた。クリテリウム(軽いと言う意味)、プレステージ、スーパーLJ等、主にツーリング用を主としていた。Wテンションを古くから取り入れて、チェーンの引きの強さは絶品だった。ただ、本体が樹脂だったため、強度に問題があり、変速にタイムラグがあった。
ユーレー・・・・同じくフランスの変速機メーカー。アルビーというプレス鉄板製の変速機がツーリング車の定番だった。
ただし性能がいい訳じゃなく、とにかく頑丈だっただけ。その後ジュビリーという美しい軽合金製の変速機を生み出した。
軽合金・・・・当時はジュラルミンのこと。私の世代の自転車乗りは、この言葉に信仰に近いあこがれを持っていた。今のように安物の自転車にもアルミが使われているような時代じゃなかったから。自転車はさびるものだった時代にあらわれた、磨けば光る軽・合・金。私は中学生の時、学校にクランクを持っていき休み時間になると磨いていた覚えがある。一緒に抱いて寝たことも。・・・変態じゃなく、愛していたのである。今のこどもにゃわかるまい。親に買ってもらった自転車を道ばたに放り出すなよなあ
変速機のキャパシティ・・・フロントのギアの歯数差と、リアのギアの歯数差を合計したもの。これが大きいほどチェーンがたるまなくなる。
当時ロードレーサー用のカンパニョロレコードで13枚(13Tと表示する)だったから、フロントのギアを51X46の5枚差とすると、リアは13マイナス5で8枚差まで使えることになる。具体的に言うとリアのギアは13,15,17,19,21というフリーホイールが使えるわけ。
キャパシティを大きくするには、スプリングを強くする方法と、アームを長くする方法がある。
サンプレックスではスプリングを強くする代わりに、アームとマウント部分の2カ所にスプリングを使って、変速機全体でチェーンを後ろに引っ張っている。(当時国産ではシマノがはじめてこのシステムを使った。この方法だとアームが短くできるため、変速機がコンパクトになる。)
カンパニョロ・・・・外車が好きだったひとなら、カンパニョロのマグネシウムホイールやアルミホイールをご存じだと思う。
また、DUCATIの900SSやMHRにつくマグホイールも作っていたが、自転車乗りにとっては変速機やチェーンホイールを作る、当時世界最高峰のパーツメーカーだった。
ホイール部門は現在ではテクノマグネシオと名前を変えている。
グランスポーツ、レコード、ヌオーボレコード、スーパーレコードなどツールドフランスでどれほど活躍したことか。
だったと書いたのには訳がある。
シマノに逆転されてしまったのだ。あの釣具屋さんにである。
最近ではあまり名前を聞かないが、我々の年代にとっては今も最高峰のあこがれである。
シマノ・・・30年ほど前、現在では釣具屋でもあるシマノは細々と自転車パーツ(主に変速機)をつくっていたが、ある日クレーンという変速機を出し、それを進化させてデュラエースシリーズを完成させ、あれよあれよと言う間にカンパニョロを抜いてしまった。
特にすばらしかったのは、現在は当たり前になっている、インデックスチェンジシステム(かちかちと変速機が正規位置に止まるシステム。レバーの位置と変速位置が完全に一致する。それまでは変速にはコツが必要だった)をまったく独自で開発したことだ。
ただ、当時のものはひどかったことを覚えている。まともに作動しなかったなー。
しかし、努力の末今ではツールドフランスでもシマノを使わなくちゃ勝てないとまで言われるようになっている。
なんといってもSTIというデュアルコントロールレバー(ブレーキレバーで変速できるシステム)とインデックスチェンジは切り離すことができない世紀の発明だといってもいいだろう。
最近ではマウンテンバイク用のVブレーキシステムがヒット作。あれほど強力なブレーキはいままでなかった。
これからも世界一であり続けるだろうが、しかし私はやはりカンパニョロを使いたい。
ランドナー、あるいはランドヌール・・・・昔は旅行用自転車とも言っていた。特に定義があるわけではないが、ロードレーサーに対する区別をつけるために使っていたような記憶がある。基本的な構成はドロップハンドル、フロントキャリア、ライト、テールランプ、5/8インチ以上の太いタイヤ、深い泥除けぐらいか。
わたしの時代には輪行車という、分解して電車に乗せて運ぶものがメインだった。
トップノーマル、ローノーマル・・・・変速機のレバーを元に戻したときに、重くなるほうのギアにチェーンが移動するものをトップノーマルの変速機、軽くなるほうに移動するものをローノーマルの変速機という。前の変速機はたいていローノーマルで、後ろはすべてトップノーマル。
ただ、わたしが自転車に乗り始めたころは、国産変速機はすべて、フロントもトップノーマルだった。外国製は当時でもすべてローノーマルだった。


旅の思い出   

ある日思い立って、弟のランドクルーザーに自転車を積んで、信州の上高地へ行くことにした。
・・・積み込みに苦労した。70(ランクルの形式名、いわゆるジープタイプだ)はリアシートが狭く自転車が入らない。
結局、前輪をフロントフォークごとはずし、やっと積み込んだ。
自転車の出発地は乗鞍高原のキャンプ場に決めた。駐車場が無料だからだ。
夜どおし19号線を走り、乗鞍到着後車で仮眠、夜明けとともに自転車を組み立て出発した。
まずは乗鞍スーパー林道へはいる。鈴蘭高原から白骨温泉経由で上高地へ抜けるC区間だ。
バイアルスで走った頃は全線ダートだったスーパー林道も、このC区間を残して、舗装されてしまっていた。
しかし、なんといってもここは中部山岳国立公園だ。道中なにもない。
いままではバイクであっという間に抜けたC区間も、自転車、しかも荷物満載の状態では、すばらしく長い林道と化す。
しかも10年ぶりぐらいに復活させた自転車である。体力も無いに等しい。
白骨温泉を横目で眺めつつ、それでも昼頃には上高地の入り口、釜トンネルについた。
このトンネル、15分おき(だったと思う)の一方通行である。
なぜならとてもすれ違いができないから。
しかも車だとローギアしか使えない急坂でもある。
バイクだと10分もあれば抜けてしまうのだが、自転車だと押しながら1時間はかかる。(全長1kmほどなのだが)
しかも15分ごとに車が前からきたり、後ろからきたり、入れ替わるのだ。
さらに照明が無いに等しいため、ほんとに怖い。当然空気も悪い。
何台ものバスが体をかすめて上ってゆく。たぶんこちらにきづいてないと思う。
あまりの恐怖に、バスがくるたび側溝に自転車を落とし、通り過ぎるのを待つことしきり。
日本一怖いトンネルだった。
歩行者の通行は完全に無視されている。
このトンネル行は、きれいに見える上高地の空気がいかに汚されているか、思い知らせてくれた。
ここは車そのものの通行を禁止すべきだ。(バスもタクシーも)
宮脇俊三の本に、上高地まで山岳鉄道を引こう、という意見があったがそうすべきだと思う。
このままじゃ、近い将来、上高地は破滅する。
以上、バイクで来たときはちーとも思わなかったことである。
みんな一度は歩いて上高地いこうよ。
さて、必死の思いでトンネルを抜けた私を待っていたのは・・・・。
河童橋までの延々と続く上り坂だった。
渓流沿いの道を上流に向かっているのだ。考えてみれば当然のことである。
結局、トンネル入り口から河童橋までの7kmに4時間を費やした。
小梨平のキャンプ場につくなり、目の前に穂高の見える場所を選びテントを張った。この日がデビューのモンベル ムーンライト1である。
今でも売っているこのテント、真っ暗闇でも設営できるうえ、軽くコンパクトなのが気にいって購入したのだが、実際どんなテントよりも使い勝手がいい。欠点は、ものを置くスペースがほとんどないことぐらいだ。
テントを張っていると、管理人らしきおばさまが話しかけてきた。
やっぱり自転車は少なくなったようで珍しいとのこと。
「今まで、あちこちいったけど、ここは日本一の景観ですね。」と正直に感想をいうと、「ありがとね」と自分のことのように喜んでくれた。
こういう人が環境庁の長官になればいいのに。
さて、日が暮れるにつれ星がどんどん増えていく。
しかも大きい。町で見る星の4,5倍はあるんじゃないだろうか。
満天の星、降るような星。
ふと気づくと目の前をウサギが走っていった。
翌日目を覚ますと、朝日に照らされ、穂高が上の方から徐々に色づいてゆく。
あきもせず、テントの入り口からずっと眺めていた。
朝食をとり、自転車に荷物をくくりつけ上高地に別れを告げる。
ずーーーっと下りである。う、うれしー。
しかしここで大問題が発生した。スピードが乗ってくると、ハンドルが大暴れするのである。
前輪に荷物が集中したため、本来キャンピング車用じゃ無いフロントフォークが、よれているらしい。
結局、快適とはほど遠いダウンヒルとなった。きかないブレーキを押さえる手のひらが、はれ上がってしまったのだ。
タンデム用でもカンティはカンティ。センタープルほどきかない。(このころはまだいいブレーキは無かった。今、シマノのVブレーキに注目している。)
158号線を奈川度ダムまで下り、そこから再び乗鞍高原まで上る。
つらい登りだったが、抜き去っていく車の窓からの「がんばってー」に励まされ、出発点の乗鞍高原へ到着した。
いい汗かいた。
やっぱり人生最後の乗り物は自転車がいい。


−スペック−(そういや、昔の自転車雑誌で必ずこういうスペック自慢やってたっけ)