本日のできごと 総集編


10年9月13日
今は辞めてしまったが、うちの会社にダートラの女子中部チャンピオンがいた。その子が鈴鹿クラブマン300km耐久にドライバーとしてでるというのでお言葉に甘え見にいった。愛機ニコンF3をぶらさげ、うろちょろしてるとピットパスを手配してくれたので、ピットの中からレースをみるという、もう2度とないような機会を得た。
いやあすごい。
隣のピットで、燃料補給の終わったマシンが炎上するし、トップを走っていたRSクラスのマシンが点火せず、電装を総取り替えしかろうじてエンジンはかかったのだけど、ドライバーがあきらめていたためどこにもいなかったとかいうこともあった。
うちのチームは、前日の予選でボンネットの固定が甘く、開いてしまったボンネットで屋根をつぶし、フロントウィンドウを割ってしまうというトラブルがあり、ぴりぴりとした空気が漂っていた。レンズ越しに見る目が怖いぐらいだ。おかげで、結構いい写真が撮れたのだが。
参考までに、ピット作業を順に追っていこう。
車が入ってくる。RSクラスだとマフラーから火を噴きながら。いやあ、すごいよあれは。
まず車体のどっかにピットの床からのびているアース線をつなぐ。これは火花を出さないため必ず行う。
燃料をそそぎ込む。これはチームの経済状態が見て取れおもしろい。
もちろん金のあるチームはクィックチャージャーだ。2本のホースがあり片方からガスがいき、片方からエアを抜くやつ。はずすときガスが飛び散り大迫力。
中くらいのチームはタンクを担ぐタイプのクィックチャージャーをつかう。これはタンクに直接口金がついており、肩に担いで使う。
これも押しつけるだけで、燃料が補給される。
そして貧乏なチーム。
肩に担ぐタイプは同じだが、タンクの口をあけて先端をつっこむと、口に付いた蛇口を手であける。ちょっと悲しい。
燃料補給中はすべての作業は禁止され、消化器を構えたピットマンがつく。すべてのチームが平等で、1分30秒の間、他の行為は禁止。つまり金があってもなくても、補給に要する時間は同じなのだ。
ストップウォッチを持ったオフィシャルからGOサインがでてやっとタイヤ交換だ。
ジャッキを差し込みリフトアップすると、インパクトレンチでナットをはずす。そしてタイヤをむしり取るようにはずす。
黒い粉が舞い上がる。ブレーキパッドのかすだ。
次にタイヤを持って控えていたクルーがタイヤを押し込みナットをかけ、さっととびのく。
ナットをしめるのはインパクトを持って控えていたクルーだ。ほれぼれするような流れ作業。
最後にトルクレンチを持ったクルーが、全車輪の締め付けトルクを確認。
ジャッキをはずし、ドライバーが乗り込みセルスタート。このとき車載のバッテリーでしかエンジンをかけてはいけない。
先にでてきた電装総取り替え組は、セルを祈るように回していた。もうちょっとでセルが回らなくなる直前エンジンは息を吹き返したのである。
エンジンがかかるないなや、クラッチをつないでスタート。ぐずぐずしているとはねられる。(そんな事故もあったねえ)
ピットクルーはすぐに順位を知らせるディスプレーのもとへ。
ピットからレースは見えない。ピット内にある2台のモニターと、目の前のコンクリートの壁越しに聞こえる排気音だけが、車の無事を知らせるのだ。
結局、お姉さんの慎重な走りが功を奏し、このチーム初の完走をゲット。
いやあ、エネルギーをもらいました。
いつかもう一度ここにたちたいねえ。(これは1年後かなうことになる)
レースはじめよか。


10年11月14日
航空自衛隊 各務原基地で行われた、航空祭へ友人の家族にまざって行って来た。
毎年11月に行われているが、見に行ったのはまだ1回である。
数年前に茨城の竜ヶ崎飛行場で三菱A6M5と、ノースアメリカンP51Dのアベック飛行を見て以来、飛行機に惚れ込んでしまったのだ。(素直にゼロ戦とムスタングといわないぐらい根が深い。)
そう、今日の目的はブルーインパルス。
去年初めて見たのだが、すごいのひとこと。
普通アクロバット飛行というと、広い飛行場の上を飛ぶと思うのだが、ここは違う。
左の家の屋根から煙幕を引きながら一瞬で右の家の屋根に隠れるのだ。
爆音はしている。
ただそれがどこを飛んでいるのかわからない。
私の予想する高度を遙かに下回っている山の陰から飛び出してきて、見事なアクロバットを一瞬だけ見せる。
あの人たちはなんなんだ。
みんなに一度見て欲しい。
感動すること請け合いです。
さて、今日はもう一つ目的がある。
各務原航空宇宙博物館だ。
数年前3年間だけとんだ実験機あすかを納める建物だが、外に展示してある機体がいい。
新明和の対潜哨戒機、なつかしいYS11、2ローターの救助用ヘリ等がきっちり整備されおいてあり、しかも中に入れる。
思わずプラモデル用の資料に使う写真を撮りまくった。
もちろん中もいい。
あすかをはじめとして、F104スターファイター、ヘリコプター開発用のモックアップ、一次大戦の頃に活躍した国産複葉機など五目ご飯のようだ。
本物のヘリコプターに乗り操縦すると目の前のラジコンヘリがこっちの操縦通り飛ぶシュミレーターとか、スペースシャトルの乗り心地を体験できるやつ、油圧ピストンで、ささえられたコックピットが揺れまくるやつなどもある。
しかしなんといっても一番気に入ったのがプラットアンドホイットニー社の星形エンジン。
カットモデルにモーターを組み込み、星形エンジンが回る様をみれるのだ。もちろんバルブも開閉する。7気筒が順番に点火していく様が手にとるようにわかる。
今まで謎だった、7本のコンロッドとクランクとの関係が初めてわかった。
子供を押しのけ、真剣にエンジンが回るのを見ていたおっさんは、傍目から見たら気持ち悪かっただろーな。
そしてその隣にマーリンエンジン、そう、P51Dムスタングのエンジンが。
とっても幸せな1日だった。
そうそう、客の大半が子供じゃなく、ネクタイしめた元技術者風のじじいたちでした。
飛行機大好きな人、一度遊びに来ませんか。
(今度は1人でいこうっと。)


10年12月31日
かねてより欲しかった南栄のパイプ車庫(田舎に行くとよくあるビニール製の温室みたいなやつね)が3万円であったので買った。
残業がなく本格的な車庫を建てる費用がどうしても作れないから妥協したのである。
1人で、1日でくみあがった。以外としっかりしているのでMR2用にもう一個買おうと思う。(これはバイク用)
そして、豊田市内にある貸しガレージから、DUCATIの860GTSを移動した。
そこで事件は起こったのである。
私のハイラックスWキャブにはトヨタ純正のクレーンがつけてある。250KGまでOKというやつだ。本来ジェットスキー用らしい。
で、乗せるときにワイヤーが動かなくなったが、何回かスィッチを入れたら動いたので860GTとほか細々したやつを積んだ。
そして、下山に着き、さあおろそうという段になって、スィッチが入らなくなったのである。
ご存じのようにハイラックスの荷台はかなり高い。板を渡しても、とても1人じゃおろせない。
クレーンのカバーをはずして、テスターをつかって導通を見ていると、突然コードが燃え上がった。
ここであきらめれば被害は最小で済んだのだが、私は不運を絵に描いたような男である。
ついつい、禁断の行動に移ってしまったのだ。
このクレーン、巻き上げ以外は、旋回、アームの上下とも手動で行う。ジャッキ用のハンドルで、シャフトをくるくる回すのだ。
そしてここに注意書きがある。
物をつった状態で、アームの上下は行わないことと・・・。
巻き上げがきかないので、860GTをアームの上昇でつり上げようとしたのである。
ばきっっっ。
すばらしい音がクレーンの付け根あたりから響いた。
アーム上昇用のギアを刻んだシャフトがまっぷたつ。
もうすぐ日が暮れる。
気温は氷点下2度。
心の中に、もっと冷たい風が吹き抜けた。
結局、1998年の最後の日、私はまた借金を増やすこととなったのだった。
そのあと、バイクをおろすのに、滑車や、ベルトをつかって1時間以上かかり、無事860GTSは我が家の住人となった。
ただし、車庫までは2Mほどの上り坂である。下ろすのに体力を使い切った目には、ヨセミテ渓谷のフリークライミング場の垂直の壁に見えた。
車庫を独り占めして鎮座するDUCATI 860GTS。
そしてその横で、約30分、暴れる心臓が静まるまで、私は860GTに添い寝する羽目となった。

教訓・・・年末の田舎道に通りかかる人なんていやしない。


1999年2月3日
なべに牛乳400ccと袋の中身をぶちまけ、よくかき混ぜながら中火で沸騰させる。
沸騰したら弱火にしてさらに1分間煮る。
あとはカップ4個になべの中身を分け入れ、若干冷ましてから、冷蔵庫で40分冷やせば出来上がり。
皆さんよくご存知、ハウスプリンが出来上がり。
ただ今回は、冷蔵庫に入れるのを忘れていた。
しかし40分後、立派にプリンは出来上がっていた。
外は雪が降っている。
室温0度。
冷蔵庫と同じ温度である。

2月4日
帰宅して温度計を見るとまた今夜も0度だ。(朝はマイナス3度だった。くどいようだが室温が・・・である。)
どこかで水の流れる音がする。悪い予感がして裏に回ると、風呂釜へはいる水道管が破裂していた。
いったいいつから垂れ流しなんだ。水道代が怖いよお。
とりあえず、湯沸かし器でお湯を沸かそうと思い、ボタンを押すと噴水になっていた。
よく見ると蛇口の浄水器も割れている。
ため息がでた。
しばらくお湯がでない生活が続くのである。


 99年4月7日
下界では(ここから見れば・・・です)桜も咲き、すでに4月も3分の1すぎようとしているのに、家の中の気温が5度しかない。
寒いなんてもんじゃない。冬に逆戻りである。当然桜もまだ。
せっかくオートバイに乗ろうと気を引き締めたのに、挫折してしまった。しかし悪いことばかりじゃない。
おかげで、自転車復活である。
日曜日には、久しぶりに弟の家から、ロードレーサーに乗って、犬たち(元捨て犬たち。4匹もいる)と一緒に標高600Mの峠まで上った。
一番の老犬(12歳)が途中でへばったため、ナップサックにつめて、首だけ出させて走るという荒技までやってのけた。(16KGもある)
3日後の水曜日、わたしは筋肉痛でのたうち回っている。
年とると、筋肉痛が遅れるというのはほんとである。


99年5月12日
仕事帰りにスタンドで燃料を入れ、トイレへ行き車へ戻ると、ハイラックスのアンダーガードに何かぶら下がっている。引っぱり出すとなんと、ちぎれた無惨な姿のファンベルト。
あわててボンネットを開けて点検すると、2本掛けをしてあるベルトのうち1本がない。
ディーラーへ連絡し、銀行で1万5千円をおろしディーラーへいくと、ない。さっきおろしたはずのお金が。
そういえばカードをしまった後、手にした覚えがない。体中の血液がさあっと音を立てて引いていった。
あわてて、取引明細を見直したら、さらなる不幸に見回れた。
引き出しの欄にある金額が4万5千円になっている。まちがえて余分におろしていたのである。
ふるえる手で携帯電話を取りだし、銀行に電話を入れる。もう閉店している上、あれから1時間たっている。
さいわい銀行員はいたため、調べてもらった。
返事が来るまで、この4万5千円はパチンコですった物としてあきらめようとか、役に立たない部品を買ったものと考えようとかいろいろ自分に言い聞かせていた。何しろ1時間たっているのだ。
30分後「ありました」という連絡があり、無事お金は戻ってきた。一定時間がたつとお金は機械に戻るそうだ。
うれしさで腰が抜けた。
みなさん、注意しましょうね。


99年5月13日
R100GSを売ったお金で、またR80G/Sを買おうなどと不埒なことを考え、レッドバロンに探してもらっていたら1台あった。
店長は私の返事も待たずさっさととり寄せてしまった。程度はいいのだが走行が7万km越えている。
ただ、BMWは7万kmぐらいではびくともしない。試乗したら、前乗っていたパリダカより調子いいぐらい。
ただ、どうしても走行距離が気になる。
で、同僚に見てもらおうと思い、一緒に店に行った。
「やめとけ、こりゃだめだわ」
この一言がほしかったのよ、わたしゃ。意志が弱いから。
気が楽になった私は、車がいかれたときのため(ファンベルトが切れたままなのだ)GSXR250Rの保険に入り(そうです、苦節2年。やっと復活しました)、バッテリーを購入した。計24000円を払う。
やれやれ、これで3年ぶりにバイクに乗れる(こんなホームページを作っているのに、3年前BMWで北海道へ行ったのが最後となった)、と思いながら店内を歩いていると、なにやらオーラのでているバイクがある。
私は走った。思い切り走った。
入ったばかりらしく、値札がない。
走行距離は・・・・1900km。うそだろ・・・。
88年式だから11年も眠っていたのか。ずうっと私を待っていたのかあー。
チェーン、タイヤ、スプロケ、ディスクブレーキ、それらすべてが走行距離が正しいことを物語っている。
私は、再び走った。
「ああああ、あれ、いいい、いくら!!!!」
店中のお客の視線を集めたがそんなもん気にもならない。私の瞳にはあれしか映っていない。
「ああ、あれ?、年式が年式ですから、そうは高くはならないで・・・・・」
「だからさあ、いくらなのっ!」
私の気迫に驚き、腰が引けた店員になおも食い下がる私。
「おおい、値段ついてるぞお」
同僚の声がなかったら、首を絞めそうな勢いだったろう。
私が店内に行っている間に値段が付いていた。
32万5千円。
私は、みたび走った。全力で。
「ああ、ああああ、あああれ、あれっ、俺がもらう。予約っ。よやくう。」
店内の客も、にこにこしながら契約書を書いている私にいろいろ声をかけてくれた。
よほどうれしそうにしていたに違いない。
だって、だって、一番ほしかったバイクが、11年たって、しかも慣らしも終わっていない新車で、でてきたんだよお。うれしいよー。
数分後、契約書を書き終えてから気づいた。
しまった、GSXR250Rいらなくなってしまった。
しかしいまさら2万4千円返してとはいえない。まいいか、一度なくしたお金さ。(過去の今日の出来事参照。こういう考え方してるから、結婚できないんだろーな。)
さてさて、私はいったいなにを買ったのでしょう。
2週間後に納車される単車とは。みなさん考えてください。
ヒント
真っ赤に黒のフルカウル。
白いメーターパネル。
真っ白なマービックタイプ3本スポークホイール。
アルミダブルクレードルフレーム。(ここでわかるよね)
21リッターのタンク。
199kg。
ここまで書きゃわかるでしょ。
近々公開します。


99年5月16日
友人から譲ってもらってから、ずうっと眠らせていたGSXR250Rの初乗り。
バッテリーを交換し、保険のステッカーを貼り、いざ出発。
普通なら、ラフアンドロードのプロテクター入りのジャケットと皮パンツをはくところだがとりあえずガソリンを入れに行くだけだから、ジャージの上下をきて走り出した。パワーバンドはなんと12000回転以上。8千回転以下だと加速しない。
ただ、3年ぶりぐらいにバイクに乗るので気持ちいい。120kmも出してしまった。
で、うちまであと1kmぐらいのところで・・・・砂に乗って転倒してしまった。
ちょうど対向車がきたが危うく止まってくれた。しかし、こちらが止まらない。
すべりながら何とか向きを変えようと努力したのがまずかった。
バイクに引きずられてしまったのだ。
起きあがると左半身の感覚がない。
事故扱いにならないようにできるだけ平静を装い、相手の車に去ってもらった。(軽く当たってしまったが車の傷はさけられた。)
で、左手を見ると袖口から血が滴っている。ズボンの裾も真っ赤だ。
今傷を見ると卒倒しかねないので、そのままバイクを起こし、家まで帰った。
服を脱ぐと袖口に血がたまっていた。(書いてる方も気持ち悪くなってきたので以下省略)
車に乗り換え病院で治療してもらったが、左半身の擦過傷(すりむいただけね)ですんだのが不幸中の幸い。
かくしてGSXR250Rは初試走後1時間で事故車と化したのでした。
原因は硬化したタイヤと強力なフロントブレーキ。走行距離が少ないので油断していた。
被害はバックミラー、アッパーカウル、クランクケース(ロアカウルははずしてあったのでセーフ)、ウィンカー。左にこけたのでマフラーは助かった。
ただ、私の自信はどこかへ去っていってしまった。
後1週間で1100がくるのに・・・・。
みなさん、フル装備で乗りましょうね。
(でも今度の日曜日、GSXR250Rでどこ行こうかなどと考えている。ばかだねー。でも今乗らないと自信が・・・・。)


99年5月28日
どうやら今月は厄月らしい。
友人がスキャナーを買うというので、電気店につきあった。
買い物を済まし、友人と別れ、駐車場の車に戻った後。
乗り込むとき、右側に車はなかったので、後ろを見ながら左にハンドルを切り、でようとすると、止まってしまったのだ、車が。
右側を見ると、壁のようなランクル100のドアに、私の車がくっついている。
これじゃ動かんわなー。と妙に納得。
で、我に返って車を戻し、外へでた。
向こうの車からも人が降りてきた。
とりあえず、向こうも悪い(動いてる車の横に入った)と言うことで示談。
また無駄金を払ってしまった。もうすぐ、ノストラダムスの言っていた7月がくる。
こわいよー。


99年6月5日
とうとう念願かなって、88年式スズキGSXR1100のオーナーとなった。
購入したレッドバロン豊田店は会社から2キロぐらいしか離れていないので、昼休みに同僚に頼んで車に乗せていってもらった。
何か色いろ面倒くさい法律ができたようで、保証の内容とか、ロードサービス(レッドバロンはJAFのようにバイクのロードサービスをやっている)のこととか延々と聞かされた。
最後にエンジンのかけ方とか説明しだしたので、省略してもらう。
GSXRは弟のやつで経験済みだ。
いやあ、ほんときれいだわ。11年前のバイクだとは信じられない。カウルなんか無傷である。さすがにアルミは腐食してるけど。
ずいぶん久しぶりにこのバイクに乗った。前に乗ったのは、9年前だ。
さすがに、慣らしも終わってないので(1950km!)回転が重い。
しかし、さすがに1100ccである。タコメーターが全く動かないのに(GSXRには3000回転以下がない)あっと言う間に80kmだ。
そうそうこれこれ。
ずごごごと言う排気音。開けた分だけ回転があがるエンジン。甘いブレーキ。柔らかいサスペンション。
なにもかも皆懐かしい。(by沖田艦長)
早速カウルをはずし、大事にしまい込んだ。貴重な、無傷のカウリングだからね。
それに、エンジンが見えなきゃね。(ほんとは暑さに負けただけ。1100の油冷エンジンの熱量は半端じゃないです。)

それともう一つ、近畿日本ツーリストで夏休みの北海道行きフェリーを予約した。
毎度のことだが、バイクの割り当ては少ないため、昼の時点で、残り2台しか乗れない状態になっていた。
トヨタが休みに入る2日前だというのに・・・だ。(フェリーの予約は2ヶ月前からである。つまり、とれたのは8月5日の出発分と言うことになる。)当然会社は夏休みの2日前からさぼりだ。
帰りのフェリーは8月12日にしたので、6月12日にならないととれないから、予約して帰った。
さてここで問題発生。
乗っていくバイクをどれにしようか。
1100はフェリー料金が高いためパス。唯一保険が生きているGSXR250Rはポジションがきついのでパスしたい。荷物ものらねーし。
いろいろ考えて弟のXLR250バハを借りることにしたのだが、8月5日で保険切れ。
結局GSXR1100で行くのと同じ費用がかかりそうである。


99年8月3日
北海道行きのフェリーチケットを受け取ってきた。
出発は5日の23:30。ただし京都の舞鶴港からである。私は愛知の人間だ。どうして,舞鶴まで行かなきゃ行けないのお。
実は、会社の休みは7日からだ。つまり2日も早くずる休みするのである。すべては、フェリーに乗れるライダーの数が少なすぎるのが原因だ。トヨタ自動車が休みになる7日は絶対フェリーは取れない。で、1日前,2日前とさかのぼって予約するしかないのである。
一番近いのは当然名古屋港なのだが、当然,東海地方のすべての人たちにとっても一番近い港なのですぐ売りきれる。
で、次に近いのが福井県の敦賀港なのだが、ここも上と同じ理由ですぐいっぱいになる。
で、残った舞鶴港に行くしかないのだ。ここは,敦賀からさらに80kmも先にある。
し.か.も、道路沿線は、若狭湾の海水浴場が軒並み並んでいる。
当然の大渋滞。
結局、夜11時30分という深夜に出発するフェリーに乗るために、私は朝9時に出発するのである。
(もし、北海道で、後ろにグレーの衣装ケースをつんだ、三河ナンバーの初期型ホンダXLR250Rバハを見かけたら声をかけてください。
北海道へ行こうよの中で着ていた、ピンクの上下を着ています。)


11年9月1日
GSXR1100が調子悪い。というより、大変なことになっている。エンジンをかけると、エアクリーナーから、大量のガソリンがこぼれてくるのだ。オーバーフローだ。新しいバイクに乗っていればまったく縁の無い故障である。古いバイクでは当たり前の故障だが。対策は簡単。キャブをばらして掃除するだけ。しかし、こいつはGSXR。キャブをはずすのは並みの苦労ではない。キャブが、エンジンとエアクリーナーの間のわずかな空間に押し込んであるからだ。手を切り、インテークのゴムが欠け、固定バンドがひん曲がり、やっと外れたのが2時間後。何とかしろよお、スズキさんよー。
単体となったキャブにガソリンのホースをつなぎ、コックをオンにすると2番キャブからガソリンが噴出してきた。早速ばらすと、ガソリンといっしょに浮き上がって、バルブを閉じるはずのフロートが下がったままで浮いてこない。
よく見ると、ステーが曲がって、フロートがはさまっていた。ステーをドライバーの先で曲げ、組み付けるとあっけなく直ってしまった。じつは、このキャブ、購入時に店が分解整備したのだが、そのときにステーを曲げてしまったまま組み付けたようだ。
プロってなんじゃろねー。
まだエンジンにあたりがついてないので(88年式で走行2000kmである)、回転が重いと思っていたのだが、実はこんな理由があったのだった。
今は絶好調だ。恐ろしいほどの加速をする。
で、怖くて乗れないのです。
なさけねー。


99年9月11日


昨年に続き、お誘いのあった鈴鹿クラブマン300km耐久自動車レースのピットに、カメラを3台かついででかけた。
ニコンF3に、ミノルタベクティスS1に、キャノンのデジタル。(これは昨年の反省を踏まえた上で機種を決めた。昨年はF3だけで撮ったのだが、目が悪くなったせいか、100枚中90枚はピンぼけだったのだ。今年は、超望遠はF3、その他はオートフォーカスに頼ることにしたのだ)
レンズ10本、3脚1個、フィルム12本。
去年はもぐりでピット入りしたのだが、今年はちゃんとピットパス付きである。
去年取った写真が割と評判よかったらしい(ピンぼけには目をつぶってくれたようだ)。ありがたやありがたや。
土曜日の予選日、朝、雨が降っていたためゆっくり出発。昼に鈴鹿についた。
鈴鹿は快晴だった。気温35度。ピット内は蒸風呂状態。レインタイヤを持たないうちのチームに、天は味方したようだ。
残念なことに、去年セカンドドライバーだったダートラお姉さんは、今年は控えである。
しかし、セカンドドライバーが本日も仕事を残していたため、フリー走行は彼女が行っていた。
早速車を撮影していると、昨年よりステッカーが増えていた。昨年の初完走がきいたらしい。
(昨年は、ドライバーの名前すらなかったもんね。写真写りをよくするため、私が提言し名前を入れてもらったのだ。)
さて、この車(スプリンタートレノAE111)は、実は車検でクレームがついた。
オイルクーラーを冷やすため、バンパーに丸穴を20個ほどあけていたのが違反となったのだ。
結局白いガムテープでふさいで無事車検をとおったのだが、ふと見るとまた元のように穴があいている。違反承知で行くのか、と思ったのだがよく見るとその穴は、ガムテープの上に黒いマジックで丸く塗ってあるだけ。私はそこにメカニックの意地を見た。
車、ドライバー、メカニックと写真を撮っていったのだが、なんか、去年と感じが違う。
去年は、レンズを通した顔に、恐ろしいほどの緊迫感があった。走行中ボンネットがあいて天井をつぶしたり、今まで完走してなかったことがあったりで、ぴりぴりしていたのだ。
今年のレンズ越しの顔は、笑顔が多い。和気あいあいというやつである。うーん、写真にならんなー。
昼から出勤してきたセカンドドライバーが、今までのベストラップをたたき出したおかげで、よけい雰囲気がよくなったせいもある。
しかし、予選が終わっても車が帰ってこない。事故かとざわめいたが何の事は無い。。
結果はクラス3位。といっても、このクラス、NSXRとGTRとトレノの3台しかいないので、自動的に3位になったのだが、3位までは再度車検を行うという鉄のおきてがあるためピットに戻ってこなかったのだ。
さて、7時過ぎにビジネスホテルに戻り、シャワーを浴びてから夜の町へ。
結局11時近くまでの飲み会となった。明日はほんとにレースなのか。みんなへべれけじゃねーか。
私は酒を飲めないので、こういう宴会は大の苦手である。
特に田舎での集会は、子供のときからの知りあいばかりの中で、一人だけ話題も無く、つらいだけ。
しかしここは別世界だった。酔うほどに出てくるのはレースの話ばかり。こんな楽しい酒盛りは初めてだ。
話を聞くにつれ驚いたことに、このチームのメカニックの方々は、ダートラやジムカーナで全日本を転戦していたトップドライバー達だったのである。お姉さんなんか、あのヒルクライムのモンスター田嶋と親しいということが判明したし。
当然全員がA級ライセンス持ち。さらにそのうち2人は国際C級まである。(ドライバーではなくあくまでもメカニックがである)
結婚して子供ができ、第一線を退いたとはいえ、今までレースを続けてきた人達だ。
心から尊敬した。
しかし明日ほんとに大丈夫か、この人達は。
結局、しらふの私がみんなをホテルまで送っていく羽目になった。
明日は2時から決勝である。
レーサー達は9時にホテル出発ということになったのだが、私は2時まで行く必要が無い。
で、当日9時に起きた私は、とんでもない行動に出たのである。


99年9月12日

朝9時起床。ホテルの部屋にある観光パンフレットを見ていたら急に赤福餅が食いたくなった。
2時までには帰れる・・・か。
で、私は伊勢神宮へと旅立った。
1号線を西へ行き、ローソクで有名な亀山から伊勢自動車道へ。
11時半。伊勢神宮へ到着。あ・・・暑い。35度以上ある。
早速、最近できた「おかげ横丁」へ。ここは、昔のお伊勢さんの門前町を再現してある。
ここで、まず伊勢名物の伊勢うどんを頼んだ。これは、汁の無いうどんである。のっているのはねぎだけ。いや、実は底の方に真っ黒なおつゆが潜んでいる。むちゃくちゃ辛そうだが、だしが効いていてとてもうまい。最初見たときは、これがなんで500円もすんねん!と叫んでしまったが、一度食べると病み付きになる。しかし、このうどんはこの近辺でしか食べることができないのだ。
さて、腹がふくれたところで、次の目的地、赤福本舗である。
江戸時代から続く赤福餅の本店だ。建物も当時のまま。お茶はかまどで沸かしている。だから、・・・暑い・・・・。
230円を払うと作り立てのあんころ餅3個とほうじ茶が出てきた。
昔ながらの縁台に腰を下ろすと、江戸時代の風景が見えてくるような気がした。
あと、とうふのソフトクリームと、焼き立てのせんべいをほうりこんだあと、レースのことを思い出した。
そうだ、こんな事しにきたんじゃない。伊勢神宮へとびこむと、「GTRと、NSXRがつぶれますよーに。」と不埒なことを祈った。この2台がつぶれてくれたらクラス優勝だ。
鈴鹿へ着いたときは、スタートまであと10分を切っていた。飛び跳ねる心臓をだましながら、ピットの上へ。F3に500mmを着けかまえたが息が上がり、手が震え焦点を結ばない。
結局、250枚もの写真を写し、私の耐久レースは終わった。結果は知らない。
早く帰らないと渋滞に巻き込まれるから、さっさと帰ったのである。
(実は今から宴会をやるというので、恐れをなして逃げたのだ。あんたら、何時間走ったんだあ。化け物か。)


2000年1月25日
薪ストーブを買った。
といっても30万円もするような本格的なものではなく、ホームセンターで売っていた、小さなものである。(それでも鋳物製なので重さが65kgもあるやつだ)
しかし、私の家は木造である。しかも由緒正しい茅葺だ。耐火壁を作らなくては危なくて火を入れることができない。
それ以前に、設置場所が無い。
ここに引越ししてきて、はや3年。
その間に私の家はごみ箱と化していた。
で、氷点下になろうという台所を必死になって片付けることになった。
台所を片付けるには、まず、ぐちゃぐちゃになっている玄関脇の納戸を片付けないと、台所に散らばっている得体の知れないものを退避させることができない。
2時間後、片付いた納戸にはバイクを3台置けるスペースができていた。
そこで、外のパイプ車庫(一年前に氷点下の中設置したビニール製のかまぼこ型の車庫である)で、さびつつあるDUCATI860GTを納戸に置いてやろうと思い立ったのである。
で、外へ出て車庫の前幕のジッパーをあけて入り口を跳ね上げると、何か変だ。
天井が黒い。しかも何かがいっぱい垂れ下がっている。
目が慣れてくると(照明は無い)天井には、満天の星がちりばめられていた。
そう、ビニール製の屋根が裂け、バイクは野ざらしだったのである。わあ、いつからなんだあー。
前日、前前日と数ヶ月ぶりの雨だったんだよー。
バイクたちはしっとりと芯までぬれていた。
結局、それからさらに氷点下の中約2時間、わたしはブレーキのさび付いたCX400E、XL500S、DR250R、DUCATI860GT、XLX250R、GSXR1100Rの6台を、めまい、息切れ、動悸と戦いながら家の中と軒先に移動したのであった。

    教訓

 2000年2月7日
今日、会社の同僚と2人で、薪ストーブを設置した。 先月29800円で買っておいたものである。
この家は明治に建ったものだから、当然のようにかまどがあった。 ただ、もともと土間だった部分を改修して床を張ってあるため、土間から直接生えているかまどは使うことができなかった。使ったら床が燃えてしまう。 一度壊そうとしたのだが、母をはじめ何人ものひとから、壊しちゃいかんと止められ、そのままにしておいたのである。どうやらたたりがあるらしい。
で、煙突をそのまま生かして、薪ストーブをつけることにしたのだ。
まず、薪ストーブを乗せる受け皿を工場でレーザーカット,TIG溶接を駆使して作り上げた。
何しろ、木造、それも由緒正しい純木造である。床と、ストーブを隔離する必要がある。
しかし大げさなものではない。キャンプのときに焼きそばを焼くような鉄板を想像してほしい。ただし、さびを考慮してステンレスの2mmを使った。この辺は金属加工業の特権である。
かまどの煙突を天井のすぐ下でカットし、1mのステンレス煙突、ステンレスのエルボ、横向き1mのパイプ、エルボ、立て向き50cmのパイプの順につなぎ、その真下にブロックを敷き、先ほどの受け皿、ストーブの順に乗せて完成である。
煙突の長さにあわせたのは、切るのが面倒だったからだ。
設置するや否や、同僚は薪割をはじめた。東北出身なので、ストーブには愛情を感じるらしい。
燃料は昨年切った梅の枝や、家の補修に使った木のはぎれ、裏山で朽ち果てた松の木などである。
まず、ごみ箱の中にたまっていた、数ケ月分の紙くずを敷き詰め、その上に細かく切り裂いた木をならべ、火をつける。
燃え上がったところで、少し太い木をくべる。
私は このときまで、薪ストーブというのは静かにちょろちょろ燃えるものと思っていた。
違うのである。
ごーっつという音を発し、ファンヒーターのごとく薪が燃えるのだ。
煙突が負圧を発生し、部屋の中の空気を盛大に吸い込んで、かなりの勢いで燃えていく。 非常に科学的な暖房器具である。
そのため内部構造は複雑だ。 ただ、炎の勢いが強烈な割にはなかなか部屋が暖まらない。
なんのことはない。この薪ストーブは、石油ストーブと違い、直火の熱であったまるのと少し違うのである。
鋳物でできたストーブ自身が焼けて、その輻射熱で部屋の空気を暖めるのだ。
最初2度しかなかった室温が1時間後には20度になった。こんなことは此処に住んではじめてのことだ。
いままで、石油ストーブをつけても、室温は、外気温度プラス5度前後しかならなかったのである。
この時期だと、室温は大体3度ぐらい(外じゃないよ、暖房した家の中でだよ。まいったか)だったから、薪ストーブは私に夢のような環境を提供してくれた。
そこでちょっとした事件がおきた。
同僚が調子に乗って、どんどん薪をくべていたら玄関に隣の人が飛んできたのである。
「あんたんとこ、裏から煙があがっとるけど、大丈夫かあ」
煙突は家の裏手の見えないところにある。 外へ出てみてみると確かに屋根から煙がでているように見える。
が、こんな田舎ですら、煙突から煙が出ていると人が心配するようになったのか。
私が子供のころは街中でも、食事の支度をする煙が見えたのにね。

追伸
あれいらい、帰宅すると毎日ストーブの前で火を眺めている。 薪ストーブは私の生活を変えてしまった。
パソコン?なにそれ?ホームページ?
あ、薪が燃え尽きる。薪割しなくっちゃ。 (というわけで、更新が遅れてます。ごめんなさい。)


2000年3月26日
弟のところに泊まった。
翌朝、やたら早い時間から弟が彼女と出かけた。
数時間後、ずごごごという聞き慣れないエンジン音がする。
外にでるととんでもないバイクが止まっていた。
フロントフォークがない。
前後輪ともスイングアームのバイク、ヤマハ1000GTSである。
数週間前からガレージを片づけたり、バイク雑誌を買ってきたり妙な行動が目立っていたのはこのためだったのかあ。
この日は朝から雪が舞い、雹が降る大荒れの日だったのに、我慢できずに引き取ってきたらしい。
早速悪天候の中、試乗会。私も我慢できなかったのである。
サイドスタンドをはずすとずっしりとくる。なんと整備重量290kg!。
しかしそこは1000cc。軽く発進した。
弟の視界から消えたとたんに全開。(さすがに目の前でやるのは気が引けた。)
4000回転を越えたあたりから強烈に車速がのびていく。さすがFZR1000と同じエンジン!
しかしそれよりも感動したのは減速だった。
フロントは6ポッドのベンチレーテッドディスクが、ホイールの中心、車体の軸線のど真ん中にある。リアもベンチレーテッドだ。しかもABS付き。
ブレーキは今まで乗ったバイクの中で、文句なしのベスト1といっていい。
しかもフロントフォークがないためノーズダイブしないし、剛性が高くぶれない。
思い切り減速しても車体後部が浮き上がらないのである。
あまりにも気持ちよくてフル加速と減速を繰り返してしまった。
外観からはかなり重苦しいバイクを想像していたのだが、すばらしくおもしろいバイクだった。コーナーリングもひらりひらりとねらったラインをトレースしてゆく。
もし中古車を見かけたら迷わず買いです。私もほしいよー。
写真がそろったら紹介します。お楽しみに。


12年4月4日
会社の同僚がバイクを引き取ってほしいと行って来た。
VFR400R NC40である。私が持っていたやつの次の型、最終型の一つ前でもあるやつだ。
迷わずもらうことにしたのだが、おまけがついてきた。
タウンエースのワゴン。しかも4WDだ。
すでに車は3台ある。(ハイラックス1台とMR2が2台)もうこれ以上はむりだ。
しかし心とは裏腹に「買ったあ」という返事がでてしまっていた。
私はいったいどこへ行こうとしているのでしょうか。
神様教えて。
(税金が車3台分、バイク6台分、しかもタウンエースの車検が6月に切れる。ブラジルのおじさん、遺産をください・・・。)



12年5月のある日
弟のカペラがタイヤを新品に替えてからおかしくなった。センターデフがロックしてしまい、小回りができない。どうやらタイヤをワンサイズ太くしたのが原因で、電子制御のセンターデフがエラーを起こしたらしい。で、これを口実に、とうとう買い換えることにした。標的はマツダのロードスターである。あちこち探し3年式、3万km、95万円の黒のVスペシャルを契約してきた。で、2週間後納車されてきた車を見てぶっ飛んだ。真っ赤なボディに豚鼻がついている。ヘッドマークはみなれたプロペラマーク。BMWじゃねーか。これ。1900ccのZ3ロードスターである。カペラの下取りに国産車のなれの果てを見、とうとう外車に走ったのだ。私がBMWのオートバイを売ったとき、ほぼ買った値段で売れたのを見、外車の方が値落ちが少ないということにきづいたらしい。しかし、車に興味がなかったやつがBMW・・・。話を聞くと、私のMR2を通勤に使っていたときにめざめたようだ。ライトウェイトのスポーツカーに。この年になってかかったハシカは命取りである。どうなることやら。・・・さて、試乗会、試乗会!


12年6月3日
BMW Z3を試乗させてもらった。
生まれて初めての左ハンドル。しかも右手で操作するマニュアル5速ミッション。いやあ、とまどいました。
だってバイクだと、どこの国のでも操作はほとんど一緒だからねー。
まずエンジン始動。これは国産車と同じくハンドルの右側にあるキーをひねればいい。
次に、夜だったのでライトをつける。ライトのスィッチは、ダッシュボードにあるノブを引き出す方式だ。これはMR2もほぼ同じためOK。
違うのはこのノブが左右に回ること。メーター照明他、室内でついている明かりすべてが連動して調整できる。しかも真っ赤な照明である。うーん、これはこれでかっこいいかも。
頭から駐車しているためバックギヤに入れる。これがとまどった。当然右手で入れるのだが、パターンは国産車と違い、手前上がバック。
つまり手前にひっぱってから上に入れるとバックするのだが、これが堅い。何回も1速に入れてしまう。
ギアが入ったことを何度も確認し、深いクラッチをゆっくりはなし、バックする。(ペダルは位置は国産車と同じ)。
右側の後ろが見えない。ここでリアフォグのスイッチを入れると後ろがむちゃくちゃ明るくなった。そう、並の明るさじゃないフォグランプが前後に標準装備されているのだ。
あとおもしろいのがヘッドライトの光軸調整。室内のダイヤルを回すと、ライトの光が上下に動く。荷物を積んでも空を照らさないですむわけだ。
1速に入れ、ゆっくりクラッチをはなすと動いた。車が動いただけで感動した免許取り立ての頃を思い出す。
左へウィンカーを出す。ワイパーが動き出した。
そう、ウィンカーは左側、右のはワイパーのスィッチだ。これはなかなか慣れなかった。
走り出し2速へ。車が一瞬蛇行する。右手でシフトするたびに。
ついつい左手がでてしまう。で、右手はレバーに乗せたまま走った。
助手席で弟が叫んでいる。
「センターライン越えてるぞ。左に寄れえ!」
そう、ついつい右に寄っちゃうのよ、これが。
しばらく走ると、結構慣れてしまった。シフトもほとんどしないでいい。トルクが太く、まるでオートマのように走れる。やってみたら3速発進さえできる。こりゃええ。ただ、しょっちゅうワイパーが動くのには参った。ほんと。
存分に楽しんだあと、うちに帰ってからその事件は起こった。
MR2の後ろにつけようとしたのだが、先に降りていた弟が大声で悲鳴を上げた。
「とまれえ!」
急ブレーキを踏み、前に回ってみると、MR2のバンパーまで10センチもなかった。
運転席から見えている部分からさらに1メーター近くもあるんだもん。よく見たら後輪のすぐ前に座ってる。車の半分がボンネットだよこれ。
こうして、危うく初日で事故車になる危機を乗り越え、BMWはうちの車になった。
良かった・・・殴られなくて。次はオープンに挑戦だー。(この日は寒かったのでパスした)


2000年6月4日


AE111 スプリンタートレノ
またまた今年もへっぽこカメラマンとして、懲りずによんでもらえた、鈴鹿300kmクラブマン耐久レース。
去年は9月のくそ暑い日のレースだったけど、今年はさわやかな6月のレース。
体力を消耗しないので、ニコンF3に105mmレンズをメインに置き、持っているすべてのレンズを持参。サブとしてAPSのミノルタベクティスS1を使用。
昨年同様予選から行きたかったけど、仕事がつまり、あの宴会(過去の出来事参照)に出席できなかったのがかえすがえすも残念でした。
さて、前々回はボンネットで天井をつぶしたこのトレノ。去年とカラーリングが違います。
実は練習走行中に横転、トランクだけを残し全損したそうな。(ドライバーのダートラおねえさん談)
普通だったら出場を危ぶまれるところだけど、このチーム、ほぼ全員がダートラ出身。
横転は日常茶飯事(でもないか?)。ほぼ完全に修復され、この日を迎えることができました。
今の板金技術と修復しようとする意気に脱帽です。
ちなみにこのピンクのカラーリング。セカンドドライバーのおねえさんが意見を強引に通したそうです。


右が主人公ダートラおねーさん。レース歴は10年以上。今年うん十うん歳。独身。
左の女性(とはおもっていなかった。ごめんなさい!)も知る人ぞしるトップドライバーだとは誰が想像しましょうか。ここのピットの中では、こんなすごい人々が和気あいあいと作業をしています。
前に聞いた話だけど、右の彼女がダートラをやっている頃、ぎっくり腰になったそうな。(あとで、背骨のひびと判明)普通だったら病院行きであろう状態。普通だったら。
ところがこの人、みんなに担いでもらって、バケットシートに4点式のフルハーネスでくくりつけてもらい、脂汗を流しながら完走したそうな。
先にも言ったようにダートトライアルです。舗装されたサーキットでの話じゃありまっしぇん。想像しただけで腰がズキズキ痛んできました。
そういや、去年のレースのゴール後、車の写真を撮っていたら、すごい美人ドライバーが関西弁で「くそお、あとちょっとやったのにい。くやしいい!」とさけびながら、車を蹴飛ばしていましたなあ。
この人たちは違います。ほんとにかっこいいです。本人はこういわれるのはいやがるだろうけど、その辺の男より男前です!(西村しのぶの漫画の主人公みたいだ)



給油風景。1分30秒間の給油時間中は他のいっさいの行動が禁止されています。通常床下につってある燃料タンクは無く、レース用の安全タンクをトランク内に設置してあり、床下には排気管が通るのみです。 おねーさんが持っているのはドライバー交代がある耐久独自のグッズ、座布団。体格差のあるドライバー同士が1個のバケットシートを共用するために、背中や、お尻とシートの間に詰め込みます。
このレースの主人公のお二人。おねーさんの耐火服の中身は非常にスリム。とてもダートトライアルで280馬力のランサーを振り回すとは想像できないほど。お兄さんのほうはごらんの通り。乗車時のパワーウェイトレシオは相当変わるでしょう。どちらにあわせてセッティングしても、操縦性に影響ありそうなコンビですねー。(ファンレターは私まで。こないか・・・。)
ゴール後の全員集合写真
左から今年は給油を担当してくれた昨年のセカンドドライバー氏
メカニック氏
セカンドドライバーのダートラお姉さん
第一ドライバー氏
たぶんチーフメカニック氏
ヘルパーのお姉さん
チーム監督
以上、こちらの勝手な判断です。間違ってたらごめんなさい。紹介されたんだけど、なにせ、記憶力がないからねー。
実はこのレースの直前に、ダートラお姉さんは不幸にみまわれて、普通に考えたら、とてもレースができる状態ではありませんでした。でもこの人たちのおかげで、こんな笑顔で、ゴールを迎えることができたのです。
いい人たちに囲まれてて、よかったね!

2000年10月10日
かねてよりあずかって、yahooのオークションに出していた古いカメラが売れず、持ち主がとうとう、しびれを切らした。
「soejima君、いくらなら買ってくれる?」
結局、預かりが購入に変わってしまった。
「うーん、一式7万円なら」「売った!」
この人は、にこにこしながら現金を受け取って、夜の町へ消えていった。無駄遣いしないでねー。
さて、かなり古い中古品である。(およそ20年たっている。)
そんなものに7万円!
カメラ好きの人にしかわからないと思う。
ものは、CANON F1 初期型。
昨年まで現行品として作られていた、キャノンの最高級のマニュアル一眼レフである。
ほとんど使われないうちに、忘れ去られ、押入の奥で20年を過ごしてきたやつである。
よって、外観は所々さびてはいるが新品同様。
もちろん、内部はそれなりのオーバーホールが必要だ。モルト(遮光用スポンジ)が溶けて、あちこちへばりついている。
レンズはFD28mmf2.8、50mmf1.4、135mmf3.5の3本付き。(こちらも曇っているので、自分でOH中。後述)
他にケンコーの2倍テレコンバータ、ナショナルのバウンス付きストロボ。
さらに顕微鏡用アダプター新品箱入り。(何に使っていたんだ、このカメラ)
貴重な、ストロボマウント。(ニコンF3と同じく、ストロボは専用じゃないとつかないが、これをつけると汎用ストロボが使える。)
そしてとどめに、AE−1のボディ付き。
これで70000円は安いと思うのだが・・・。自信は・・・無い。
ここんとこ毎日、帰宅すると、レンズを分解している。
最初の一個目は悲惨だった。
外に出ているねじをはずすと中で何かがはじける音が。
もう後に引けなくなった。
その何かを元に戻さないとこのレンズはスクラップとなる。
さらに分解していくとスプリングがぴょーんと。
その後ベアリングが2個転げ落ちてきた。
・・・・。どこの部品だ。・・・こいつら。
当然修理書など無い。そこで私は無謀な賭をした。
もう一個分解して、部品の配置を見よう。
そうして、2本目のレンズのねじをはずした。
スプリングがぴょーん。
そ、そうだ、レンズはもう一本ある・・・・。
・・・・・・・。
さて、この後、CANONのフラッグシップの運命は。
続く


2000年10月28日
先行ロードショーで、クリントイーストウッド監督の「スペースカウボーイズ」をみてきた。
いい!。いい!。とにかくいい!!!。
宇宙を舞台にしているがSFじゃない。舞台は今現在のNASA。
60年代に空軍で、宇宙船パイロットを目指していた(当時はNASAは発足していなかった)、70歳のじじい達(配役が絶妙。イーストウッドに、ドナルドサザーランド、ジェームスガーナーにトミーリージョーンズ)を主人公にした現代のおはなしだ。
映画は白黒の画面から始まる。そこにはまだ30歳の主人公達。わお、飛んでるのはX−2じゃねーか。(わ、わかるひとにしか・・・。)
見終わってから、涙が出てきた。感動したからじゃない。
自分も年をとるんだと言うことを、思い知らされたから。
そろそろ死に方を考える歳になってきたんだよねー。
最初とラストシーン(これがまたいい)に流れる、フランクシナトラの「私を月につれてって」が最高!。
ぜひ、このページの読者に見て欲しいと思う。このページが気に入ったあなたなら、きっと気にいるはず。
がんばれ、70歳のクリントイーストウッド!。あなたは素敵だ!
来週、もう一度見に行くぞお。


12年11月某日
ある日の出勤途中、タウンエースの水温計がレッドゾーンを指した。
すこし走ると下がるが、また突然レッドゾーンへ。
その日、結局水温は正常になった。
翌日今度はヒーターがきかなくなった。
ラジエターを見ると水がない。
その日は1リッターほど水を足して済ました。
1ヶ月ほどそれを繰り返したある日、昼休みに車で寝ようといってみると車の下に赤い水溜りが・・・。
とうとうラジエターが破けてしまった。それまでは穴が小さく、下に垂れるほどではなかったのだ。
前書いたように、こいつは10万km走ったものを、バイクのおまけに購入したもので、車両代、車検や名義変更、任意保険、タイミングベルト交換等ですでに40万円以上食っている。
ここで、また6万5千円を飲み込んだ。合計、車両価格込みで約50万。
ただほど高いものはないということわざが、いましみじみ思い起こされる。
まあ気にいっているので文句はないけどね。お金がね・・・。年を越すのにね・・・。
どうしよう。


2000年4月1日
上の行事に紹介した「ランチクルージング」に行ってきた。
当日仕事で徹夜4日目あけ。
朝5時まで仕事をし、そのまま小原村の実家へ母と弟を迎えに行き、朝8時出発。
名古屋港まで弟に運転してもらい4日ぶりに爆睡。
10時に名古屋港着。すでにかなりの人数が集まっている。
それにしてもでかい船。青空に映えてますなあ。
手続きを済まし11時に乗船。
早速バイクングランチに直行。
すべての料理が一級品だった。もう腹が裂けるかというまで詰め込んだ。
これだけ食べて通常900円というのは安いよなあ。
12時。出港。
デッキに出たのだが。
寒いよー。
まだ冬だよこれ。
結局3時の帰港まで船内をうろうろしたのだが、そう行くところもない。
前に北海道へ行ったときは2日間退屈なんかしなかったのに。
ここではたと気づいた。
あの時は、到着したらそこは北海道だったのだ。
このクルーズにはその「わくわく」がないのだ。
しかし、「今年こそ北海道へ行こう。」
そう決心させるには十分役だったクルージングだった。
このクルーズはまだ続いている。
これからの季節だったらとってもいいと思う。
問い合わせは「北海道へ行こう」のホームページにあるリンクからどうぞ。


2001年 梅雨のある日。
目がさめると縁側がプールとなっていた。
深さ約5センチ。もうすぐ敷居を越えて8畳間にあふれそうである。
縁側に置いていた本棚の一番下の段が水につかり貴重な本が全滅していた。(ただ、無いなら無いですんでいるから貴重じゃなかったのかも)
壁を触ると水が壁全面を伝って落ちてくる。
雨漏りなどと言う生易しいものではない。
洗面器を置こうにも壁全体から染み出していて、場所すら特定できないのである。
考えていても仕方がないので、本棚から本を引っこ抜き非難させといて、まず床にドリルで穴をあけた。
見る見るうちに水が引いてゆく。って、何の解決にもなっていないじゃん!
しかしこれで、とりあえず被害は縁側だけにとどまった。流れ落ちてくる水は床を這い、穴に吸い込まれていく。
雨がやむまで床が濡れるのは目をつむろう。
雨が上がった翌日、屋根に上がり、漏れていそうな場所の目隠しのトタンをはがし、トタンの継ぎ目と言う継ぎ目や漏れていそうな場所にシリコンコーキングをべったり盛った。
そして再び雨を待つ。
・・・完敗であった。
もっとひどくなった。
仕方がないのでサランラップにシリコンを山盛りにして、室内側から隙間なく貼り付けた。
とりあえず、室内に水が落ちるのは止まった。が、なぜ雨がもれるのか特定できないため気分が悪い。
今この瞬間にも雨は梁や柱に染み込んで腐らせようとしているのである。
次の週の雨の日、決心をした。
雨漏りのルートを解明するため、雨の中、屋根に上がったのである。
しかし、皆さんご存知ないかもしれないが、かやぶき屋根っちゅうやつは想像以上に傾斜がきつい。
落ちないように足場を組み、安全ベルトを引っ掛けて、軒のトタンををはいだ。(かやぶきにトタンをかぶせる場合、軒の断面を包み込むようにトタンを貼ってある)
いやあ、やってみるもんだ。
雨のもれる原因がわかった。
かやぶき屋根にトタンをかぶせるとき、先端にトタン製の雨どいを作る。
外につければいいのに、見栄えをよくするためか、落ちてきた水が内側に落ちるように雨どいが内蔵されているのである。
少しの雨なら、確かに内蔵された雨どいを伝い、1箇所に集まった水は立てどいから落ちる。
しかし、大量の水がいっぺんに落ちると、内蔵された雨どいのふちからあふれてしまい、その下のひさしの上に落ちるのである。
ただ、通常ひさしの上面にもトタンが張ってあるから、あふれた雨は下にもれないはずなのだが、よく見ると1箇所トタンが奥まで届いていない。こぼれた水の下はベニヤがむき出しになっているのだ。
早速雨に濡れながら、ビニールシートを雨が落ちている場所より奥まで押し込み、中へ戻ると・・・。
あれほど濡れていた壁面が見る見る乾いてゆく。
梁から染み出していた水も止まった。
翌朝、壁を触ると、もうぬれてはいなかった。
応急処置は終わったのである。
(あとからおもえば、うん十万円をだまし取っていった大工が、それらしく修理していった場所であった。壊してどうする。)
今回気づいたのだが、85年以上たっているかやぶき部分の雨漏りは一箇所も無い。
もれているのはすべて昭和になって追加されたベニヤ製のひさしとの継ぎ目である。
ベニヤやトタンという最新の材料が、明治時代の木材に勝てないってのはどうかと思うぞ。


2001年7月7日
何年ぶりかでデジタルカメラを買い換えた。
今このページを飾っているのは、キャノンのパワーショット初期型で、35万画素のものをさらに解像度を落として使っている。
いままで別に不便を感じてはいなかったのだが、オークションに出品するようになってから事情が変わった。
商品がきれいに見えない!
オートフォーカスじゃないからピントははっきりしないし、露出もオーバー気味になったり、アンダー気味になったりで色もよくないのである。
で、ボーナスを当てにして、買い換えることにした。
と言ってもわたしのことである。予算は3万円しかない。新型は到底無理と判断した。
最低オートフォーカスがあり、3倍程度のズームがあれば、画素数は150万ぐらいでいい。
数々の広告に目を通し、候補に上がったのは富士フィルムのファインピクス1700とカシオのQV2400だった。
どちらも3万円でおつりがくるが、雑誌では隅っこにしか取り上げられない、旧式機か、普及機だ。
さて、どちらがいいかというと、画素数は富士が150万画素、カシオが211万画素でカシオの勝ち!
どちらも光学3倍ズーム、オートフォーカスだが、露出は富士が64分割平均測光のみに対し、カシオが平均測光に加え中央重点測光と、スポット測光がある。これもカシオの勝ち。しかもカシオはレンズが270度回転し、どんな無理な方向からでも撮影できる。
フィルムに該当する記憶媒体は、富士がスマートメディア、カシオがコンパクトフラッシュ。
今使っているのがコンパクトフラッシュなので、データ転送のシステムがそろっている分これもカシオの勝ちである。
しかし結局私のもとにきたのは、富士のファインピクスの方となった。
売れ残るのを恐れたのか今回限りの特典として、4000円もするスマートメディアのリーダーがただでついてきた上、3500円する32MBのスマートメディアが1200円で買えたのだ。カシオはカード別売だったのである。(もっともコンパクトフラッシュは当然持っているため支障は無かったのだが)あと、カシオは富士に標準でついている充電池も別売だった。
しかし、本当の理由は別にある。
外装部品がカシオはプラスチック、富士はマグネシウムだったのである。
私は軽合金フェチなのだ。(特に、チタンとマグネシウム様には頭があがらない)


7月18日、チョンボをやってしまい、パソコンを壊してしまいました。
この前の更新をやった直後、CPUをAMDデュロン700Mhzから、アスロン1.2GHzにのせかえたのですが
ヒートシンクをはずすときに、つめがあまりにも硬く、ドライバーでこじったのが運の尽き。
滑ったドライバーが抵抗の一部を直撃。ぽろりと欠け落ちたのでした。
ハードディスクに代わって今度はマザーボードが昇天なさったのです。ははははは・・・・。はーーーあ。
ウィルスにやられたハードディスク交換して、やっと直ったところだっちゅうのに、またしばらく更新できません。
とほほほ。(この更新は何だって?ノートで無理やりです。)


2001年7月29日
名古屋国際展示場で行われた,KTC,YAESU10MAGAZINSフリーマーケットへ行ってきた。
このイベントは八重洲出版が発行している、オールドタイマー、モーターサイクリスト、サイクルスポーツ等、雑誌が柱となって行われたフリーマーケットだ。
朝8時に弟のBMWZ3ロードスターをオープンにし、直射日光の中汗だくになりながら10時に到着。
バイク乗りもそうだけど、オープンカー乗りもどうかしてるぞ。
窓(いや、屋根か)閉めてエアコンたこーぜという、この場合一番妥当な要望は見事に却下。
かくして炎天下の中約2時間、直射日光との戦いが続いたのだ。
さて駐車場につくと異様な光景があった。
コミケにならぶお宅たちを、世間様は非難するかまったく無視するが、この駐車場も異常だ。
ワゴンのバックドアを開け、やおらおろしたマウンテンバイクやロードレーサー。
当然、レーシングウェアに身を包み会場入り口へ。
バイクはバイクで、はじめてみるロータリーエンジンバイクやら,CB750の砂型軍団、世界一周の途中で立ち寄ったんじゃないかと思える、人間より背の高いリアの荷物。
「バイクはこちらです。人間はこちらを歩かないでください」と、メガホンが叫んでいる。
よくみるとオートバイを押しながら、みんな1列に行列している。
何事かと思ったらバイクできた連中すべて、1台ずつ雑誌モーターサイクリストのプロが写真をとっているのだった。
あまりにもおたっきーな光景に頭がくらくらしてきたため(そりゃ日射病だ)、さっそくなかへ。
意外と人が少ない。そういや、1週間前にマンモスフリーマーケットが開催されたばかりである。
今ここにいるのはまぎれもなく、純な、お・た・くたちだけである。
まったく趣味の違う弟と別れ会場を3週ほどした。目標は70年代の自転車パーツ。
2時間後ナップサックの中ははちきれそうになっていた。
早く帰ろうという弟がいなかったら、きっとあと数十万円のお買い物をしていたであろう。
よかった、弟を誘って。
で、以下が約1万円分の戦果である。
チネリのハンドルバー、新品のレジナのフリーホイール、サンプレックススーパーLJRD2個、ユーレーズベルト1個、ユーレーアルビーもどき1個、新品の帆布製フロントバッグ1個、サンシンQRレバー、新品のグランコンペブレーキレバー、同じく新品のJOS(らしき)ダイナモ。(すいません、わかる人にしかわからなくて。)
これらを買った相手は自転車も出品していた。それも10台ほど。しかも合計金額にしたら200万円以上はするであろうやつばかり。
その中で心を奪われたのが70年代のチネリのロードレーサー。カンパニョロレコードフルセット。ほとんど乗っていない、約30万円はするやつである。
それが10万円。弟がいなかったら買っていた。間違いなく。それが体に合わないサイズであってもだ。
弟が止めてくれてよかった・・・。ほんとにそうか?よかったのか。買わんで。
今も後悔している。
ばかだねー。
あ、そういやバイク関係は1個だけ、CX400カスタムのサービスマニュアルを買った。


2001年8月6日
あまりにもきつい仕事を定時でほっぽりだし、やってきました映画館。
今日は男性1000円デーなのである。
先週は千と千尋の神隠しを見てきた(とうぜんよかった)
今日はというとあちこちで駄作の声があがっている「パールハーバー」である。
やれ、航空機お宅しか喜ばないしょうもない映画だとか、戦闘シーン以外はクソ(弟談)だとか悲惨なようである。
私は航空機お宅なので当然本物のゼロ戦が飛ぶこの映画を見逃すわけにはいかない。
たしかにひどいシーンがたくさんあった。(関が原じゃあるまいし何で大本営本部が海辺の露天なんじゃ!。)
しかし3時間後(そう3時間もの長編である)、私は不覚にも座席で涙を流していた。
戦闘シーンに感動したのではない。
はっきり言ってこれでもか、これでもかの戦闘シーンには、げっぷが出た。(ただ、このシーンなくしてこの映画は語れまい。)
さらに恋愛部分も、もう結構というぐらいしつこい。(映像がかなりこっていて、美しいのだが)
しかしである。
真珠湾攻撃で終わると思われたこの映画、アメリカの報復である東京空襲まで描いていた。
私はこの映画を見るまで、アメリカが圧倒的な物量に物を言わせ、本土攻撃をしてきたものと思っていたのだが。
あのB25爆撃機に片道分の燃料しか積み込まず、そいつを150mたらずの飛行甲板しか持たない空母から発進させていたなんて・・・。
実は私の両親がこの主人公たちと同世代である。
戦時中もちゃんと恋愛し、ちゃんと青春して生きていたことを何度か聞いた。
母なんかこの映画のように戦闘機からの機銃掃射を受けたが奇跡的に助かったそうだ。
原爆によって終戦となった太平洋戦争だが、どちらの国も未来を見ることなく散っていった若者がいたことを改めて思い、涙となったのである。
彼らの犠牲の上に戦後の復興があり、そして今私がここにいる。そのことに感謝したい(たとえ40過ぎて独身であろうとも・・ぐすん)。
(私らしくない文章となりました。今回は目をつぶってください。このきもちががこの映画を物語っています。)
追伸。
評論家なんてクソ食らえ。
映画は見る人それぞれ感じることは違うんでぇ!見て損はないぞ。


2001年10月14日
弟のところへ使わなくなったレーザーディスクプレーヤーをもらいに行ったら(そう、壊れていない限り、私はなんっーでももらうのだ)。
「バイクもってけ。金はいいわ。」
ちなみに、50ccのぽんこつスクーターをもってけといっているのではない。
ヤマハ1000GTS。
れっきとしたリッターバイクである。
「なんでまた・・・」
「ガレージをあけたい。それも2台分。」
そう、GTSのページで書いてあるとおり、とうとうバイクを買ったのである。
それも2台・・・ではなく、2台分のスペースが必要なバイク、BMWR1150RT!
巨大なフルカウルに、純正の全幅1mになろうかというサイドボックス付きのやつだ。
詳細はあとから書くが、最新車種なので中古は無い。
しかも今、あいつの嫁さんは妊娠中である。
ということは来年子供が生まれるってことで。・・・・・・・。
で、代金の換わりにチャイルドシートをプレゼントすることにした。・・・てそうじゃないだろ。話がそれてる!。
そうだ、これを許した嫁さんに乾杯!
(なぜGTSを手放したかはこれからの試乗で解明してゆこう。BMWとの乗り比べレポートに乞うご期待を。)
今回再開した貧乏ガレージ製作記(こんな題名だったっけ)は、このGTSを収めるために無理やり再開したのである。



2001年12月31日
家にある3台のパソコンにウィンドウズXPプロフェッショナルをいれた。お金がないため(またバイクを買ってしまったため)一番安い14800円のウィンドウズ2000からのアップグレード版である。これでも2000のディスクがあればフルインストールできる。ただ、1台1個購入しなくてはならないのが痛い。一度パソコンにインストールするとほかのパソコンでは受け付けなくなるのだ。
さて、デスクトップ2台は特に問題なく導入できたのだが、ノートパソコンに問題がおきた。
富士通のビブロNJ4/45Cという機種である。
セレロン450、ハードディスク10GB、メモリー192MBと、XPの要求性能の下限ぎりぎりではあるが、富士通のホームページで確認したら動作したと報告されていた。
まず、見境なく入っていた、使いもしないいらないプリインストールソフトを一掃するため、フォーマット。
バイオスの設定でCDROMから起動するよう設定。(XPを入れるにはCDROMからの起動が必要だ)
ほぼ自動で約60分でインストールはすんだ。が、なんたらのファイルが見つかりませんというメッセージが出て、ウィンドウズが起動しない。仕方なくもう一度最初からインストールした。今度はちゃんと起動した。
しかし2回インストールしたため、メニューにウィンドウズXPが2個出てきてデュアルブート環境になった。
当然最初に入れたほうは起動しない。でもどっちのウィンドウズがそうなのか、まったく同じ名前で出ているためわからない。こうして2分の一の確立で起動しないパソコンが出来上がった。
何回か起動したら運良く立ち上がったのだが、今度はUSBマウスがつかえない。
で、通常のマウスを使おうとしたが、このパソコン、USBと、カードスロット以外の外部接続コネクタがない。
苦労の末、キーボード操作だけでなんとかUSBは使えるようになった。
でも今度はマウスを5秒ぐらいしか使えない。置いて5秒たつと電源が落ちるのだ。(光学マウスだ)
コードを抜いてまた差し込むと5秒間ぐらいは使える。でもすぐ落ちる。
マウスから手を放せないままコードの抜き差しをすること約2時間。
格闘の末、ネットワークの設定、インターネットの設定、メールの設定は済んだ。
原因がわからないまま、インストールから5時間が過ぎようとするころ、今日何十回開いたかわからないコントロールパネルのシステムの中にUSBハブがあるのに気づいた。このコンピュータにUSBハブはつないでいない。
その中を開いてみるとハブの電源の管理という項目があり、「電源の節約のためコンピュータでこのデバイスの電源をオフにできるようにする」にチェックマークが入っているのに気づいた。
つまり、マウスを置くと電池節約のため待機状態になるのだが、普通のマウスはボールが回ると待機がとけ、USBハブが生き返る。しかしボールのない光学マウスはスイッチが入らないのである。
このチェックマークをはずしたら、何事もなかったようにマウスは動作しだした。
それからは順調に動いている。いや、ウィンドウズ98より間違いなく快適に動いている。
何よりバグらなくなった。
いやあ、ちゃんとインストールさえできれば素晴らしいOSです。
ちゃんとできればね。
***後で気づいたのだが、ノートパソコンって、マウスなくてもタッチパッドがある・・・。なにやってたんだろ・・・。


2002年1月某日
またバイクが増えた。

今年になってすでに3台。
いえ、うちの新しい住人のことです。そのうち一台がこれCB250RSのスクラップ。
でも、よーく見ると何か変。
こちらも今年購入分のあと2台。
新旧VT250Fですが、こちらも何か変。(左のほうのVT250FC初期型)
さてどこがおかしいのでしょうか?
ちなみに3台とも部品取りという形で購入したので価格は知れたものでした。
特に右のかなり程度のいいVTは書類がないため1万円でおつりがきました。
今年中に書類付のスクラップをもう一台手に入れ、レストアして、昔これを乗っていた友人に押し売りするつもり。

2002年2月14日
最近ガチャポンにはまってる。
きっかけはフルタのチョコエッグだったのだが、よほどのチョコ好きでないと、いつか挫折する日が来るものだ。
で、行きつけのコンピュータショップにあったガチャポンの中に「ハイジ」を見つけた。
よく見るとすごいできのよさである。(うわさによると、昔2000円で売っていたものそのものらしい)
パソコンショップに行き、パソコンに見向きもせず、周りに人気がないことを確認し、ありったけの100円玉を動員して全種類をゲット。
後は坂を転げ落ちるがごとく、世界名作劇場シリーズをそろえ、あずまんが大王シリーズ、そして今はサイボーグ009に100円玉をそそぎ込んでいる。
先日何気なく除いたネットオークションに、最初から全種類をセットしたものを売っている会社があった。
・・・・・・今日最初の1セットが届いた。・・・・・もう後へは戻れない。
そういや、チョコエッグのディズニーコレクションもまだ半分だったっけ。


2002年2月15日
うちに帰ったら週間アスキーから荷物が届いていた。
ちょっと前に投稿した文章が採用されたとのこと。
2月12日発売・・・って、今週号じゃん。
早速明日買ってこよう。
ちなみにこのページを読んだ人には、今日の出来事ですでにお目にかけた文章なので見る必要なしです。


3月に入って相模原の方から上記写真のVT250の再生用にと、書類つきのVT250をいただきました。
3月末現在、すでにうちで眠ってます。・・・・って、さりげなく言ったけど、今何台あるのかわからなくなってます。


2002年3月15日
弟からもらったヤマハ1000GTSの車検を更新。実に2年ぶりぐらいにバイクに乗りました。
100馬力しかないけど、リッターバイクは気持ちいいー。
でも、車庫に入れるとき、車重に負けて向こう側へおねんね。
情けなくって涙が出ました。しくしく。
来週には88年式GSXR1100のタイヤが、誕生以来はじめて交換されます。
まだ走行2500km弱なので10分山なんですが、経年変化で、1周きれいに亀裂が走ってます。
新品タイヤをはいた走行2500kmのフルパワーGSXR1100。
乗るのがこわいよー。


2002年4月4日
とうとう買ってしまいました。
6万円もするグラフィックソフト・・・・・・・。
今まで購入した中で、一番高いコンピューターソフトは、ウィンドウズXPの14,800円だったのですが、今回とうとう記録を大幅にに塗り替えてしまいました。
ペイントショップ?イラストレーター?ペインター?
いえいえ、そんな有名なソフトじゃありません。
置いてある所がなく、ずいぶん探したぐらいです。
なんとコミックスタジオGXという漫画作成ソフトなのです。
きっかけはイラスト描こうと思って買った、ワコムのタブレット。インテュオス2という上級のペンタブレットでした。
これに期間限定でコミックスタジオのライト版がついていたのです。
使ってみると文句なし。
下書きからトーン貼りまでこれ一本で完璧にできるのでした。
私が漫画を描くのをやめたのは、道具の管理ができなくなったから。
紙に始まり、インク、ペン先、鉛筆、消しゴム、トーンなどの大量の道具を買うお金も、置く場所もなくなってしまったからでした。
ところがこいつはすべての機能がこの中に入っています。
ネーム、下書き、ペンいれ、消しゴムかけ、トーン貼り、とどめに集中線や、背景のキットつき。
必要なのはコンピューターとペンタブレットだけ。
6万円という価格は紙やペン、インクなどの道具だいと考えると高くはないと判断しました。
・・・・・・・・しかし、こんなソフトも私に描く暇までは与えてくれません。あいかわらず続く睡眠4時間の生活。
まだ一回も使ってない6万円のソフトが元を取るのはいつの日か・・・・。


2002年4月13日
今年こそ、2500km弱と新車同然の走行距離なのに、腐敗が進んでいく88’GSXR1100を乗り回そうと、思い切ってタイヤを交換することにした。
88年に新車装着以来の交換である。
当然山は9.5部ぐらい残っているのでかなりの英断だった。
まずバイク屋にタイヤを注文したのだが、この年式のバイクの場合、タイヤが無い。
F:110/80−ZR18。まずこれがない。
そもそもFタイヤに18インチのラジアルを使っているバイクが無いのだ。
(現行の18インチ車はSR400をはじめとしてほとんどバイアスタイヤである。)
しかも240km以上保証のZR規格ときた。
結局安いダンロップでサイズが見つからず、ミシュランのマカダムに決定。
必然的に後輪もミシュランの160/60−ZR18となった。
前後で50000円の手痛い出費だった。
しかし、しかし。
このタイヤ交換は、出費に見合うだけの最高の時間を生みだした。
いままで、寝かしても曲がっていかなかったのが、ちょっと寝かしただけで狙いどおりのラインに吸いつく。
GSXR1100は軽量バイクらしく、落ち着きのないコーナーリングをすると思いこんでいたのだが、すべて誤解だったのだ。
「タイヤは命を乗せて走っている」というコマーシャルのフレーズをふと思い出した。
さあ走るぞっ!
翌日からずっと雨が続いている。・・・・とほほ。


2002年4月13日
今日は久しぶりに晴れたので、バイクたちを虫干ししてみました。
左上から
83’XLX250R
79’XL500S
77’DT250
年式不明 TLR200
82’VT250F
年式不明 GL400カスタム
82’CX400ユーロ
ガレージ内のその他の面々
(GSXR250R、VT250FE、VT250FC、XL250R、XLR250R、TY250、XL250S、バラ)
みんな元気そうでなによりです。

2002年4月28日
タイヤ交換をしてから、乗りやすくなったのはよかったが、そのせいでエンジンの不調がはっきり目立つようになってしまった’88GSXR1100。
アイドリングからタコメーターの目盛りが始まる3000回転まで、3気筒なのだ。
今日やっと連休に入ったので、腰をすえてキャブをばらすことにした。
実は購入時に店で、その後自分でそれぞれ1回ずつばらしてOHしたのだが、結局直らなかったのである。
バイク屋は「乗ってないからでしょうねー」とのたまっておったが、3000回転からはちゃんと回る以上、ほかに原因があるはず。
で、本日3回目のオーバーホールと相成ったのである。
詳しくはGSXR1100のコーナーに書くが、ちゃんとした原因が見つかった。
苦労して(このバイクはキャブをはずすのに一大決心が必要だ)キャブをはずし、最近買ったエアコンプレッサーとキャブクリーナーを駆使して再組み立て。
これでだめだったらキャブ交換しかないなー・・・と思いながら、デジカメで写真を撮っていたら・・。
こりゃだめだ・・・。なんと見ただけで原因がわかってしまった。どうして今まで気づかなかったのだろう。
キャブを分解するまでもなかったのである。
さて、その原因とは。
88GSXR1100のページへ続く。


2002年6月1日
久しぶりに、昔勤めていたホームセンターの同僚達とあった。
この連中とは実は、職場をやめてからの付き合いである。
しかもバイクがらみの。
年に一度、それぞれ違ってしまった職場の休みをあわせてツーリングをしていた仲間達だったが、ここ10年ぐらいまったく交流が途絶えていたのだ。
1ヶ月ほど前ふとしたきっかけで一度集まろうということになった。
デニーズに集合した彼らはまったく変わっていなかった。バイクを降りたということを除けばだが。
昨日も会っていたかのような盛り上がりのなかで、時間の感覚がおかしいのに気づいた。
「あいつはどうしてる?」
「そういやこの前会ったよ」
「いつ?」
「うーん、3年前かな」
年取ると、昨日も3年前も同じなのである。


2002年6月11日
今年もやってきました。ほっかいどーへのアクセス確保。
そう、フェリーの予約。今年は8月11日からお休みだ。
朝九時からの電話合戦に参加するため会社を休み、2台の電話に別のフェリー会社の電話番号を記憶させ、8時59分にスタート。
・・・・・10時になってもつながらない。
さらに30分。やっとつながった新日本海フェリーは「もうありません」の一言。
そして、太平洋フェリーにつながった。
「8月11日。A寝台、1名、1000ccのオートバイですね。しばらくおまちください。折り返し電話入れます。」
そして5分後。
「とれました。よかったですねー。これが最後でしたよ。」とうれしそうな声。あんたが行くんじゃないだろ。
というわけで、8月11日のフェリーが取れた。
A寝台にしたのは、B寝台よりも2000円高いため、あいている確率が高いと踏んだのだ。
電話を置いてから帰りのフェリーを予約するのを忘れたことに気づいた。
しばらくしてから、再度つながった電話で往復を頼みたかったと告げたところ、「さっき言ってもらえばあったんですがねー。もう一度16日に予約とってください」という冷たいお言葉をいただいた。
で、16日の日曜日また合戦に参加しなくてはならなくなった。
ひょっとしたら帰れないかも。でもそれはそれでうれしかったりして。
そして、翌日会社に行ったわたしは、休みが書いてある壁にかかったカレンダーの年度を見て凍り付いてしまった。
わたしが夏休みの日にちを確認したカレンダーには2001年の文字が。
2002年の今年の夏休みは8月10日からだったのである。
一日無駄にしたーー!。


2002年6月22日
先週に引き続きヤマハGTS1000にキャリアをつけるべく、職場へ向かった。
じつは、先週手に入れた台湾製と思しきトップケースをつけるキャリアはできていたのだが、そのトップケースをオークションで落とす前に入札していたイタリア製の本家本元、GIVIのトップケースがわたしの手に落ちてしまったため
急遽台湾製をサイドボックスに、GIVIをトップケースにという事態になってしまったのだ。
GTSに格安トップケースをセット。家を後にする。箱の中にはGIVIのトップケース用のベース板が入っている。
いくつかのカーブを曲がったとたん後ろでがっちゃーん。
振り向くとボックスが路上に寝ている。うーん、アスファルトが焼けていて、暑そうだ。っといってる場合ではない。
ロックするのを忘れていたのだった。
あわてて拾ったが、ケースは肝心のロック部分が見事に、無残に割れていた。
せっかく格安で手に入れたのに、結局もう一個買う羽目になったため、トータルでは高い買い物になってしまった。
北海道行きの軍資金がまた減ったのである。
うに丼が、いくら丼が、寿司がーーーーーー。


2002年8月4日
こんな山間部でも30度を越す晴天の日。
ヤマハGTS1000(またかなんていわないで。今度の北海道行きの成否はこのポンコツが握ってるんです)に、邪道といわれるGPSナビをつけた。先日安売りで出ていたサンヨーNV350、通称ゴリラである。なんと、49800円で売っていた。
実は私は初代ゴリラも所有し、散々期待を裏切られてきたのにまたも誘惑に負けてしまったのだ。
BMWR100GSで行った3回目の北海道行きで、このGPSを信用し、地図も持たなかったのだが。
天気が悪いと衛星を拾わず(曇っているとだめ)、熱に負けて電源が落ち、最後には電源すら入らなくなった。
その後継機である。本来ならば買わない。しかし・・・4万・・・・。
ええい、この値段だったら動かなくても腹も立つまい。
実はこのGPS、必要に迫られて買ったのだ。
今回の北海道だが、行きのフェリーしか取れなかった。
帰りは1500KM、東北、関東と走ってこなくてはいけないのだ。
で、私は北海道みたいなところならいいのだが、本州では右も左もわからない方向音痴なのである。


2002年8月8日
で、続きだが、よく見たらこの距離を走るだけの残り溝がFタイヤにない。
泣く泣く4部山ぐらいのタイヤも交換することとなった。超重量車GTSはタイヤの減りが早いのだ。
帰りもフェリーだったら交換しなくてもよかったのに。
ついでにオイルとフィルター交換もやってもらったら、なんと6500円も取られた。横着するんじゃなかった。
結局出発寸前にGTSは25000円を飲み込んだのであった。
これで、連日のうに丼まみれは夢と消え去ったのである。
今の私には、フェリー代ぐらいしか残っていない。とほほ。


というわけで10日から20日まで北海道に行ってきます。
メールのご返事はその間できませんのでよろしくお願いいたします。
もし北海道を同じころ走っている方がいたら、携帯にメールをください。
アドレスはこの10日間だけ限定でsoejimakazuya@docomo.ne.jpです。


2002年11月11日
仕事が忙しく、午前様(通常遊んで遅くなるのをこういうようだが、私のは飯抜き、睡眠抜きの正真正銘仕事のみである)の毎日。
たまり続ける疲労とストレス。
休みも日曜のみ。(それも危ういが)
で、ストレス解消からオークションにはまっている。
必要もないのに、とにかく買いまくる。
最近のターゲットはガチャポン(カプセルトーイ)だ。
今まで、絶対手を出さずにおこうと誓っていたフィギュアの世界である。(はまるのはわかっていたから)
最初何の気なしに買ったハイジのあまりのできのよさに心がぐらぐらして、見かけるたびにありったけの100円を注ぎ込み、気が付いたらすでに手持ちは数百個にも及んでいた。
でも飾るところがないのでカプセルのまま衣装箱に詰めこんでいたのだが。
最近会社が引越しして、どでかいガラスケースがごみとして出された。
「これもらっていい?」
今、玄関のたたきには、カプセルから出て組み立てられたフィギュアたちが、ガラスケースの中にぎっしり詰まっている。世界名作劇場から始まって、最新のガンダムヒロインまで・・・。
夜遅く帰ってきて、ガラスケースの前でぼーっとしているわたしって・・・・。
あぶねーーーっ!


2002年11月30日
久々に全快したGSX−R1100を嬉々として試乗した。
夕方になってしまい気温が下がっていたが、最近毎週このバイクの治療、リハビリに勤めていた甲斐あって、寒いのが気にならない。
調子に乗って6000回転までまわす。
峠のコーナーでシフトダウンしてブレーキング。
前後輪ともロックしてスリップした。
景色がスローモーションで動き出す。
ああ、こけるんだ、しゃーねーか、路面温度低いからなー・・・などと悠長な思いが頭の中を駆け巡る。
体の力を抜きマグロになった。
でも、GSX−Rは踏ん張った。
右コーナーで80km/hから50km/hぐらいまで滑りながら減速、それでもこけなかったのである。
GTS1000だったら間違いなく吹っ飛んでいた。
軽量って効くのねー。タイヤも新品だし。(GSX−R1100は199kg、GTS1000は250kg)
と、グリップが戻ってきて、ほっとしたのは一瞬だけでまた6000回転まで回しコーナーへ。
馬鹿は死ななきゃ直らない。
(よい子はまねしちゃだめだよ)


2003年2月15日
今日は深夜0時から250q先の大阪に行く。
オークションで買った自転車をとりにいくのだ。
最近急に自転車に乗りたくなり、乗鞍岳を登るヒルクライムレースにでるための軽量なロードレーサーを作ろうと、オークションをあさっていた。
もうすぐ10sを切った自転車が出来上がるところまできている。
しかーし、今回とりに行くやつは、それには全然関係ない。
検索中たまたま引っかかった写真を見て、もう一目ぼれして入札してしまったやつだ。
そこに写っていたのはさびだらけ、ほこりまみれで、見るも無残な姿をさらしたキャンピング。
そう、前後左右に布製のバッグをくくりつけ、亀のようにゆっくりツーリングする、頑丈な自転車である。
出展者は、スクラップとして出品する旨を強調し、納得の上で引き取ってくれる人にゆずりたいとかいてあった。
しかし私の目にはどう見てもスクラップには見えなかった。(わたしだからか)
推定21インチのフレームはコンチネンタルカットラグで構成され、キャンピングの定番、クロスドシートステイ、マファックのカンティ、直付けされた12MMパイプのサイドキャリアが20年以上前の高級品であることを主張していた。
しかも、フレームがおかしい。シートチューブとアンダーチューブを同径のパイプが結んでいる。こんなの市販車にはない。
さらにサイドキャリアが前後ともループしてつながってるよこれ。
「こりゃ・・・・オーダー車じゃん。」
しかも。新車のまま保管してあったそうだ。
もうだめ。

できるだけ値段を上げてほしくない出品者の意向を無視し、2万円を入れた。
ライバルは4人。
そして、落札。
恐る恐る上がっているはずの値段を見た。
6550円。
え?ええっ!そんなんでいいのか。ライバルたち!どこ見てんだ!なんか悔しいぞ。
5時間のドライブの後手にした自転車は思ったとおりフルオーダーだった。
25年ほど前、世界一周を想定してビルダーさんと組上げたそうだ。
クロモリプレーンフルセットのフレームは徹底的に補強され、キャリアは10MMと12MMのパイプをがっちり組み付けられて自転車を囲むようにループ。
当事最新の変速機だったクレーン、TAのトリプル、マファックのカンティ、等々。
私が中学のころあこがれたキャンピング車が目の前にある。
ただし当然タイヤは溶け落ち、ワイヤーは固着、キャリアはさびまみれ、普通の目で見たら即スクラップだろう。
出品者の方も、落札されなかったら粗大ごみに出すつもりだったそうだ。よかったあああ。
すでにヒルクライム用の最新のロードは目の前にあるにもかかわらず、彼の姿は私の眼中にはない。
まっててね。
レストアして北海道へ行こうね。
わあああ、私の自我が!中学校時代にいいい!
ヒルクライムはどうすんじゃあ!


2003年3月1日
前回のキャンピングの舌の根も乾かないうちに、またロードレーサーを落札してしまった。
これもとんでもない安値で出品してあったのだ。(代理出品だった)
写真を見たとたん、「げ、ズノウじゃん」
現在の価格1万円?
知らない人のために説明すると、ズノウというのは30年ぐらい前にもあった、オーダー自転車のビルダーで、私のランドナーも学生時代にズノウのフレームを使って作ったものである。
写真で見る限り前輪のタイヤが無いだけですぐにも走れそうな状態だった。
しかも極めつけは旧型ではあるがシマノデュラエースのフルセット。
で、そのときの私が出せる最高額で入札したら・・・落札してしまった。
引き取り先は静岡県静岡市の丸子。
あの「丁子屋」のすぐそばだ。
(東海道53次にあるとろろ屋さんだ)
近くにあの安倍川もち屋さんもある。
雨ではあったがいいドライブだった。
言い訳ではないが、この自転車はレストアして売ろうと思って落札した。
でも弟はこういったのである。
「どうせ自分で乗るくせに」
今、私の目の前には宮田のスプライン5500ロード、作ったばかりのヒルクライム用の26インチロード、20年前のノートンロードレーサー、そしてこのズノウと4台のロードレーサー、そして山王のロードフレームがある。
母が言った一言。
「体はひとつしかないのにねえ」



2003年3月2日 日曜日 朝の6時。
母の叫ぶような声で目が覚めた。
「ちゃちゃが、おかしい!」
飛び起きて横に眠っていたはずの体を抱きあげると、痙攣が全身に広がっていく。
呼吸があらい。
胸に手をやると心臓はもう仕事をしていなかった。
唇の色が失われて、真っ白になっていく。
そして最後に息を吐くと、もう呼吸をすることはなかった。
痙攣して硬直していた全身から徐々に力が失われていくのがわかる。
「逝っちゃった・・・・・」
おきてきた弟と、母と3人で無言のまま、体をきれいにしてやった。
「さっき水と、流動食飲んだのに・・・。」
もう一人の弟に電話をしたが、私の口からは嗚咽しか出なかった。
でもそれだけでわかったみたい。
「わかった、今から行く」
みんなが揃える日曜日を選んだのは偶然じゃないよな。
昨日の大雨がうそのように晴れ渡った今日を選んだのも。
1986年の11月にうちに拾われてきた雑種犬「茶々」。
16年と3ヶ月間ありがとう。
お前のおかげで乗り切れたこともいろいろあったよ。家族の絆も深くなった。
煙になっていく茶々をながめ、母と2人の弟と弟の嫁さんと、誰ともなしにつぶやいた。
「幸せだったよね」
返事はないけど。
「幸せだったよな」

2003年3月23日
バイクのページに期待してきた人には大変申し訳ないが、今現在バイクには乗っていない。
毎週晴れるのを心待ちにして、自転車で坂を上っている。
腐った体に鞭打って、まず国道を豊田まで下る。10分足らずで標高0Mである。
交差点にある信号にタッチして、ストップウォッチと距離計をスタート。
小学校を過ぎて本格的なヒルクライム開始。
標高差350M、距離8KM。
バイクだと10分しかかからないのぼりを、1時間45分かかってクリアし、峠に立つ。
もちろん死にそうに苦しいのだが、途中あまりの疲労感に道端で寝込んだりもしたが、「何でこんなことしてんだ!馬鹿じゃないのか」と何度も何度も叫んだりしたが、それでもバイクじゃこの達成感はない。
疲れて寝転んでいると、風の音が聞こえ、雲の動きに感動する。
とりあえずの目標は1時間。
誰か挑戦しませんか。
スタートは国道301号線、愛知県豊田市九久平の信号。
ゴールは8KM先、標高350Mの値引峠先の信号(下山村最初の信号)
途中200Mほどの平地があるだけで上りっぱなし。
健脚の人は30分で上がってしまうだろうなー。


2003年3月30日
先週に引き続き自転車でのヒルクライムだが、今度はスタートはここ。標高350Mの下山村の自宅。
目的地は標高700Mの三河高原牧場。標高差は先週と同じだが距離は15KMある。つまり、傾斜は半分だ。
ただ先週の国道と違い、今度の道は山間部の過疎の村の常で、交通量はほぼ0。
だらだらした坂を、めまいがするほど暴れる心臓をなだめながら2時間かかって上り詰めると、そこは冷たい風が吹く高原の牧場。
バイクできたら気づかない三州峠の看板の前で休み、くだりへ。
どっちからきても家の前がこんなに上っているのを初めて知った。
今度は標高0Mからここまで挑戦しようっと。
自分の中にまだこんな気持ちが残っていたことに感謝しつつ。

2003年5月24日
本日も自転車でこの前挑戦した三河高原牧場へ。
今回はコースを変え、最近できた広域農道を登ることにした。
この道どこが農道?というぐらい田んぼがない。あるのはてっぺんにあるゴルフ場だけ。
ただ、こんな田舎に珍しくフルに2車線ある上、コーナーがラグナセカのサーキットのようにひねりこむようなコークスクリューとなっており、GSX−R1100でも十分楽しめる。
最近やっと体力を取り戻しつつあるが、それでもきついのぼりを終え、三河高原牧場へ到着。
牛と戯れ、なんとかいっしょに写真を撮ろうとしていたら、ゴルフに乗った家族連れに声をかけられた。(いや正確にはだんなに、だ)
「写真撮ったげようか」
話をしたら、自転車乗車中の交通事故で入院中なんだけど、退屈のあまり家族を連れてきたんだと。
イタリア製チネリの7,80万する自転車だったので相手の保険会社ともめてるらしい。
そんなこんなで話し込んでいたら、背筋に冷たいものが。
車のほうからお嫁さんの「いい加減に話を切り上げろ!」との意味を含んだ冷たい視線。
どうやらだんなの自転車趣味に理解がない様子。(なにせチネリクラスが数台あるらしい。そりゃおこるわな)
わたしが46歳ということを知ったとき、40歳のだんなが嫁さんに向かって「そら、自転車に乗っているとこんなに若さを保てるんだぞ」とおっしゃったのだが、私にはお嫁さんの堪忍袋がはじけそうなのが目に見えてしまった。
で、「そいじゃ、病人なんだから無理しちゃだめですよ!」とだんなに言ってさっさと自転車にまたがって逃げるようにスタートした。
ああ、こわかった!

15万kmを越し、快調なライトエースと今回のために作った26インチレーサー。田舎に住んでいないとこのディーゼルターボライトエースは今年で強制廃車となる。道の駅なぐらの駐車場にて。 写真を撮って愕然。ここまで太ってしまったのか。
ジャージがはちきれてるぞっ!
2003年6月7日
いよいよ6月29日に迫ってきた2003年度ツールド美ヶ原。(自転車のヒルクライムレース)
しかし、相変わらず忙しい毎日でトレーニングができない。
先週は雨で、予定していたヒルクライムができなかった。
で、本日やっと実行にうつした。
行き先は愛知県最高峰の茶臼山。
ここにある茶臼山高原道路は文字通り高原を駆け抜けるすばらしい道だ。ただしバイクで来れば・・・・・だ。
全長14km、標高差800m。アプローチを含めれば20km上りっぱなし。条件がレースコースに近い。(美ヶ原は標高差が1200mもあるが距離はほぼ一緒である。)
さすがに家から自転車で行くには遠すぎるため、ライトエースに自転車をつみ、茶臼山高原道路の入り口にできた道の駅「なぐら」を目指す。
信号のほとんどない道を50km走り1時間で到着。この辺は山に住んでいる恩恵だ。
前に住んでいた岡崎からだと2時間以上かかっていたもんな。
車の中ですっぽんぽんになり、サイクルパンツとジャージを身に着ける。(自転車は下着をつけないのだ)
デジカメ、財布、雨具、ドリンク、サプリメントを詰め込んだジャックウルフスキンのMTB用ナップザックを背負いスタート。
気温28度。夏日だ。下山は20度弱で土砂降りだったのに。
道の駅の信号を渡るといきなりのぼりである。プロトレックの高度計によると、スタート地点の標高は630mを示している。
・・・・・500mでダウンした。暴れる心臓。猛烈な吐き気。(74歳の母の言葉を思い出す。「あんたもう若くないんだよ」)
10分ほど道端に座り込み再スタート。
1kmごとに休憩し2時間後。やっと標高1100mにある面の木峠料金所にたどり着いた。
なんと、レースの予定時間2時間で、さ、三分の一の7kmしか上れなかったのである。
ゴールまであと12kmも残ってるのだ。
だめじゃん。

2003年6月28日(土曜日)

いよいよ本日、ツールド美ヶ原のエントリー受付である。
朝7時に弟のハイエースキャンパーで雨の中、出発した。
本当は一人で行くつもりだったのだが、弟の嫁さんが私の体力を心配して、弟を引きずり出したのである。
国道153号線を北上し、受付開始の1時半にスタート場所の長野県松本市営球場にぴったし到着。
雨は上がった。
すでにかなりの数の自転車が走っている。すげー。
車を球場内にいれ自転車を下ろし受付へ。
ゼッケンを入力したゴール計測用のセンサーを前輪につけ、仮設のゲートを抜け、動作チェックする。
Tシャツほかいろんな記念品をくれた。
昔バイクのエンデュロにちょこちょこ出ていたが、二度とは同じレースには出なかった。
1万円以上のエントリー費に対し、しょぼいレース運営、2,3人のプロのみがトップを取る展開、罵声を浴びせ他人を蹴散らしてまで前に出ようとするライダーたちにうんざりしたのである。
しかしこのレースは違うようだ。
今回のエントリーは2400人にも及んでいたが、受付はまったくスムーズに進み、大変気持ちよい。
役員は地元のお年寄りたちだ。「がんばってね」と何人にも声をかけられる。
弟もこの雰囲気に完全に飲まれてしまった。
「いいじゃん。いいじゃん。すげー雰囲気いい!。」
用事が済み、時間があるため、美ヶ原へ行ってみようということになった。
ビーナスラインの終点美ヶ原高原美術館は、思っていたものとは違いすばらしいところだった。
風が強く、寒い。気温は20度。ストーブが炊いてある。
土産を買い込み、上がってきた道と、明日のレースコースのどっちへ降りるかを検討する。
結局怖いもの見たさでレースコースへ。
2時間後、ため息をつきながら松本市内に戻った。見なきゃよかった。はああ。
勢いをつけるため100円寿司で腹いっぱい食べ、球場に戻り10時に就寝。

受付を済ますとこれだけくれた。
ゼッケン1300から1400は45歳から50歳までだ。
一番下のは松本城などの無料チケットの束である。
5000円のエントリー費は決して高くなかった。
地元の小学生が書いてくれた応援しおり。
一人1枚で当然世界に一枚。
宝物になりそうだ。
2003年6月29日
朝5時半に起床。
すでに周りでは練習が始まっていた。
ローラー台を出している人、球場の周りを周回している人、さまざまである。
前の車では小学生がローラー台で走っていた。今年からジュニアクラスができたので初エントリーだ。(この子が優勝した)
7時にトップカテゴリーのチャンピオンクラスがスタートする。
そして5分ごとに次々と年齢別の各クラスがスタートしてゆく。
これが見事だった。2400人がきっちり時間通りにスタートしていく。混乱はまったくない。
時間通り45歳クラスは8時5分にスタートした。
今回のためにフロントギアを48x38に落としリアは26Tにしてある。
しかし、このレースは甘くなかったのである。
スタート直後、温泉街を抜けたとたんあらわれた壁のような13%の急坂。これが1km続く。
速度は4kmをきってしまった。歩いたほうが早いのだ。
途中で止まってしまったので再スタートしようとしたら前輪が浮いてしまい走り出せない。
しょうがないので歩いてのぼり、ある程度傾斜が落ち着いたところでやっと乗車し再スタートした。
死にそうな体と気持ちを激励し、やっとこ第一チェックポイントに到着。ここは湖の周遊路なので平坦だ。
ここでギア比の低いMTBをすべて追い抜いた。
が、再び上り始めたとたん全車に抜かれた。「へっ、みじけー夢だったなー(ナウシカより)」
もうそこからはひたすら地面を見つめたまま登るのみ。面白くもなんともないから中略。
第2チェックポイントで水をもらおうとしたら「すいません、あと一人分しかないんですう」。
ボトル2本持っていってよかった。(ちなみにチャンピオンクラスはボトルを持たない人が多い)
10時。2時間走って、まだまんなかまで到達していない。
コース役員が何か叫んでいる。
「10時40分までに第3チェックポイントまでにつけないと失格でーす。あと40分、7km。いける!いける!」
まだ、な、7kmも。40分じゃむりだあ。
それでも前へ、上へ。それ以外の選択肢はない。
直後チャンピオンクラスが下ってきた。団体なのですれ違ったときの風きり音がすごい。
「がんばれー」次々と声をかけられる。
すげーわ。隣とべちゃべちゃしゃべりながら、とんでもないスピードで下っているんだもんなあ。
10時30分。前を走っていたMTBがよろけた。なんと左クランクが抜けている。ボルトの締め忘れだねー。
などといっている場合ではない。
あと10分で失格である。がその直前に私のレースは終わった。
肉離れを起こしてしまったのである。それも両足いっぺんに。とうとう限界を超えたらしい。
そこへちょうど失格者ピックアップ用のトラックがあがってきたので乗車。
こうして、今年は車でゴールラインを超えることとなってしまった。
22km中17km。3時間。
標高1980m中1800m(スタート地点750m)。
これが私の今年の初挑戦の結果である。
ゴールである美ヶ原高原はそれはそれは美しかった。(きのうの美術館とは山がひとつ違う)
昨日と違い気温が26度もあるので非常用の長袖は脱いでしまった。
足の痛みが治まったので、自転車を下ろしてもらい、標高差1400mのダウンヒルに向かう。
すげー。人間の力だけでこの高さまで上がれるなんて。標高約2000mだもんな。
それから40分、降りても降りても温泉街につかない。よく登ったもんである。
12時30分、やっと球場に到着。
弟の嫁さんは「この根性なし!」が口癖だ。それを聞くのが怖くてがんばった。
でもリタイヤである。
覚悟して弟たちに結果報告したら、「すげーよ、昨日のあのコースをよく走ったなあ」とほめられてしまった。
来年こそは完走したい。
翌日から来年のために走り出した。弟も巻き込んで。
彼は来年のエントリーのため自転車を買うそうである。
*なんとチャンピオンクラスは1時間で22km、標高差1400mを走りきる。平均速度はスクーターよりはやい。
というか、スクーターはオーバーヒートして登れないと思う。
そして、驚くことに1位は44歳のおっさんだ。(この人はほとんどのヒルクライムでトップを取っている)
40すぎのみんな、がんばろうぜ!
ちなみに帰宅後すぐにリアを30Tにした。ポジションものぼりを考慮して前よりにしないと。まだやることはいっぱいあるぞ。
なによりエンジンの重量を削らないとだめだ。パワーがないくせに重いからねー。
目標1年後15kg減。平均速度をいまの7km/hから15km/hにしねーと。

2003年8月3日(日曜日)
本日はCS放送(ch180)で鈴鹿8時間耐久レースを生放送で楽しむことにした。(有料2000円)
驚いたのは地元のZIP−FM放送のチームがポールポジションを取ったこと。
もちろんライダーはあの伊藤真一、辻村猛のコンビだが。
タイムは2分7秒552。マシンはホンダファイヤーブレード。
詳しくは以下のホームページで。
スカイパーフェクトTV 鈴鹿8時間耐久スペシャル
今現在のトップを1時間ごとに書き込みます。
【鈴鹿8耐スペシャルステージ公式結果】

ゼッケン クラス バイク 第一ライダー 第2ライダー タイム チーム
778 XX-F HONDA/CBR954RR 辻村 猛 伊藤 真一 2'07.552 F.C.C.TSR ZIP- FM RACING TEAM
12 JSB SUZUKI/GSX-R1000 渡辺 篤 加賀山 就臣 2'07.655 ヨシムラスズキGP1DAXIM
JSB SUZUKI/GSX-R1000 北川 圭一 藤原 克昭 2'07.754 ケンツJ トラストMOJO スズキ

11:30スタート
今年もホンダが勝ち7連覇をするのか?それともプライベーターが叩き落すのか!
11:35
オーバーレーシングのばらまいたオイルで第一コーナー大波乱。
なんと2周目でゼッケン74,11,12がオイルに巻き込まれて同時にクラッシュ。
吉村ゼッケン12が炎上して消えた!
3台がレッカーに無理やり載せられてピットへ。これがあとで大問題となる。
吉村は配線が焼け爛れている。結局ピットは閉じられた。
ホンダワークス、74岡田、11ニッキーヘイデンは修復なるか!
ただ、赤旗でレース中断、再スタートになるかと思ったがなぜかペースカーのみ。
オフィシャルの判断に疑問。
レースへの期待が半減してしまった。
11:51
ペースカーがコースアウトして再スタート。
このアクシデントで期待されていた220周の夢は消えた。
モリワキがスリップダウンしたが再スタート。ピットには入らない。
仮面ライダー555がコースアウト。ピットイン後再スタート。
12:00
ゼッケン7宇川がトップ。
12:05
ゼッケン48がヘアピンで転倒。意識不明。
再びセーフティカーがモリワキの前にはいる。
12:10
伊藤真一がピットイン。
タンクを交換。(コックの不良?)高回転が伸びない。
12:12
ペースカーアウト。再スタート。
12:13
2台転倒。イエローフラッグ。
まだ1時間たってないんだぞー。
12:30

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
7 SB HONDA/VTR1000SPW 宇川 徹 井筒 仁康 セブンスター ホンダ(ワークス)
JSB SUZUKI/GSX-R1000 北川 圭一 藤原 克昭 ケンツJ トラストMOJO スズキ

12:33
ゼッケン11モリワキがピットイン。ステップ交換。マフラー曲がり修正。鶴田竜二とチェンジ。
12:38
28周でトップのゼッケン7宇川が1回目のピットイン。13秒で井筒がピットアウト。
12:45
クラッシュしたゼッケン11がバイクを車に乗せて引き上げてきたため、修復したのに再出走を認められず、オフィシャルに抗議
12:55
ゼッケン55がハイサイド。
ゼッケン11の再出走が認めらないままスタートするも1周でピットイン。
その後も数周ごとにピットインを繰り返す。
13:00
ゼッケン899が白煙を吐いてピットイン。リタイヤ。
13:09
トップを走る井筒の前を走っていたゼッケン69が転倒。数少ない貴重なカワサキ車が・・・。
13:12
ゼッケン11モリワキがピットイン。マフラーをステーごと交換。奥野にチェンジ
ゼッケン34が転倒
ゼッケン133 BMWが転倒
13:16
トップのゼッケン7が転倒してピットイン。ハンドルをASSY交換。トップから脱落。ケンツがトップへ。うをーいったい何が起こったんだあ。
13:21
トップのケンツをゼッケン44 青木冶親が抜いた。抜かれたとたんケンツの藤原がペースアップして追走。
この時点でまだゼッケン7は再スタートできないため3周遅れに。
ゼッケン44はホンダ学園の生徒がピットクルーをしている。トップのプレッシャーはメカにはきついよなあ。
13:25
吉村不二雄のインタビュー。
1周目赤旗じゃないのは納得いかない。ライダーが走る意思があったのに無理やりレッカーに載せといて失格というのは納得できない。抗議している。
13:30
ゼッケン44がピットイン。再びケンツがトップに。

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
JSB SUZUKI/GSX-R1000 北川 圭一 藤原 克昭 ケンツJ トラストMOJO スズキ

1:34
ゼッケン8ケンツがピットイン。ゼッケン71がトップに。
1:47
ゼッケン7がピットに。リタイヤ。カワサキからホンダワークスに移籍した井筒の夢破れる。
1:48
ゼッケン14転倒
1:52
トップのゼッケン71がピットイン。ケンツがトップに。北川が9秒台。
2:30

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
71 SB ホンダ-VTR1000SPW 生見友希雄 鎌田学 チームサクライホンダ
JSB SUZUKI/GSX-R1000 北川 圭一 藤原 克昭 ケンツJ トラストMOJO スズキ

3:00
スプーンコーナーで小雨の情報。
岡田のインタビュー。
オイル旗が見えない位置で振られていた。
3:03
ゼッケン71ピットイン(鎌田にチェンジ)。ゼッケン8がトップに。(藤原)
ゼッケン44 青木治親が2位に。ウィダーホンダ学園DD BOYSという学生ピットマンたちのチームだ
3:24
ゼッケン44 ピットイン。タイヤ交換に手間取りせっかくとった2位から脱落。リヤブレーキキャリパーに異常か。リアタイヤをはずしたまま立ち往生。
3:30やっとこさピットアウト。出口に交代。いらついているのがわかる。学生たちにはトップグループのプレッシャーはきつかったのか。
3:30

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
1 JSB SUZUKI/GSX-R1000 北川 圭一 藤原 克昭 ケンツJ トラストMOJO スズキ
2 71 SB ホンダ-VTR1000SPW 生見友希雄 鎌田学 チームサクライホンダ

3:43
ゼッケン11のホンダワークスチームから鈴鹿サーキット側へ抗議。
トップグループ3台が転んだ時点でなぜ赤旗にならなかったのか。ライダーの安全をまったく考慮していない。
無理やりレッカーに載せといて失格というのは納得できない。
4:00
順位に変動なし。
ポールポジションのZIP−FMチームは現在5位。なんとラップタイムはトップを行く北川とほぼ同じ。
その北川だが風邪をひいて40度の熱を押しての出場。すごいとしか言いようがない。
4:10
2位のゼッケン71がピットイン。生見友希雄と交代し14秒でピットアウト。
4:15
ライダースクラブ編集長 根元健。50歳。来年から50歳以上の出場が禁止されるため急遽出場。最後の8時間を楽しんでます。
もう一人、スズキワークスだった水谷勝。この人も最後です。
4:32
トップを行くゼッケン8がピットイン。北川から藤原へ交代。
13秒1でピットアウト。2位の71番とは1分以上のマージンがあったため、順位はそのまま。
一時は2位を走っていたゼッケン44青木はトップに匹敵する2分10秒台でラップ。24位まであがっている。
5:00
ゼッケン778 ZIP-FMチーム辻村が4位に浮上。ラップタイムは2分11秒。
1位ゼッケン8とゼッケン71との差は26秒。
5:18
2位のゼッケン71チームサクライホンダピットイン。蒲田に交代。ホンダ最後の1台はどうなる?7連覇は?
4位を行くゼッケン778 ZIP-FMチーム。伊藤真一に交代。
5:26
12位走行のゼッケン31に20秒のピットストップ命令。
5:30
5位のゼッケン778伊藤が2分10秒332でラップ。
ゼッケン8トップの藤原がピットイン。同時に2位のホンダ71が予定外のピットイン。リアアクスルシャフトが緩んでいたよう。
藤原から北川にチェンジし19秒でピットアウト。1位は変わらず。

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
JSB SUZUKI/GSX-R1000 北川 圭一 藤原 克昭 ケンツJ トラストMOJO スズキ
71 SB ホンダ-VTR1000SPW 生見友希雄 鎌田学 チームサクライホンダ
21 JSB YAMAHA/YZF-R1 中冨 伸一 吉川 和多留 YSP&PRESTO レーシング
39 JSB YAMAHA/YZF-R1 藤原 儀彦 嘉陽 哲久 TEAM 茶LLENGER
778 XX-F HONDA/CBR954RR 辻村 猛 伊藤 真一 F.C.C.TSR ZIP- FM RACING TEAM

5:38
モリワキがガス欠でピットロードを惰性で帰ってきた。
ここでレギュレーションの変更をふたつ紹介。
タイヤは全日程で10セットしか使えない。
ガソリン補給は必ず最後に行う。
5:52
トップの8番に20秒のピットストップの命令!(ピットレーンのスピード違反)
ここで1分4秒のビハインドがあったがこれでまたわからなくなってきた!
6:00
北川がピットストップ後復帰。1位と2位の差は30秒に収まった。
残りピット回数はそれぞれ1回のみ。
6:03
ゼッケン778がピットイン。
50秒かかってピットアウト。前輪交換したが、再び脱着。
北川が2分10秒144でラップ。すげー。
6:08
ライトオンのサイン。今年は30分ぐらい早い。
6:18
ゼッケン778がピットイン。伊藤から辻村にタッチ。交代のみでピットアウト。
トップ8番北川が飛ばしに飛ばし、2位71番を毎周2秒ずつ引き離していく。
6:27
2位ゼッケン71がピットイン。鎌田から生見に最後のチェンジ。
ゼッケン44、青木冶親最後のピットイン。
6:33
トップを行くゼッケン8が最後のピットイン。藤原に交代。
しかし!エンジンがかからない!この間にゼッケン71がメインストレートを駆け抜けていく。
最後の最後に大波乱が待っていたあ。
6:49
ゼッケン778が最後のピットイン。辻村から伊藤にタッチ。
ゼッケン8はいまだにエンジンがかからない。
7:00

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
71 SB ホンダ-VTR1000SPW 生見友希雄 鎌田学 チームサクライホンダ
21 JSB YAMAHA/YZF-R1 中冨 伸一 吉川 和多留 YSP&PRESTO レーシング
778 XX-F HONDA/CBR954RR 辻村 猛 伊藤 真一 F.C.C.TSR ZIP- FM RACING TEAM
39 JSB YAMAHA/YZF-R1 藤原 儀彦 嘉陽 哲久 TEAM 茶LLENGER

7:04
4位のゼッケン39転倒!まだ何か起こるのかあ!
7:07
ゼッケン8がピットに押し込まれていく。プライベーターの最後の望みケンツ、リタイヤか!。
7:28
ゼッケン8がエンジン復活。
リタイヤしていなかったんだ。



7:30ゴール順位
3位以降は突然の上位脱落で情報不足のためゼッケンしかわかりません。

ゼッケン クラス バイク 第1ライダー 第2ライダー チーム
71 SB ホンダ-VTR1000SPW 生見友希雄 鎌田学 チームサクライホンダ
21 JSB YAMAHA/YZF-R1 中冨 伸一 吉川 和多留 YSP&PRESTO レーシング
778 XX-F HONDA/CBR954RR 辻村 猛 伊藤 真一 F.C.C.TSR ZIP- FM RACING TEAM
22

今回は序盤ワークス勢が消え、スズキ、ヤマハのプライベートが快調に飛ばしていたが、結局(プライベートだが)ホンダが7連覇する結果となった。
疲れた・・。
*青木治親がこのレースで引退。サラリーマンになるそうな。
ライダーが食っていけないのはおかしいよなあ。野球選手なんて役立たずでも給料出るのに。


これが何か一目でわかる人は相当なひこーきマニアだと思う。
三菱F−1ジェット戦闘機の脚だ。
ミニスカートから伸びる女性の脚も素敵だが、私の目はこっちに行ってしまう。筋金入りの変態だ。
こんな華奢なあんよを滑走路にたたきつけて着陸するんだよ。沈むオレオ。踏ん張るダンパー。
その瞬間を想像すると。
*#$%&
というわけで浜松にある航空自衛隊浜松広報館へ行ってきました。
無料で、滑走路を眺めながらお茶ができ、歴代の飛行機を眺めることのできる、大変すばらしい施設です。(政治的な難しいことは抜きにして)
詳しくは浜松基地のホームページで。

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