YAMAHA DT250 4型
ピンぼけは勘弁してください。カメラが安物なんです。
一生懸命写真探したんだけどこれ1枚しかない。このころカメラがなかったせいだ。


これは原型となったYZ250です。基本的にこれと同じデザインをまとっていました。(Rサスが2本サスだけどね)というか、これ、田宮のプラモに自分のバイクのカラーリング施したんだけどね。
17才の時、前述のホンダMT250に乗りたいがため、ふたたび学校をさぼって免許をとりに行きました。
このころはまだ大型免許は存在せず、スズキのGT380に乗り合格すると大型まで乗れました。
しかし私は、生涯後悔する羽目になる、おおぼけをかましてしまったのでした。
実はこの年の10月に免許制度が変わったのですが、それまで半年あったため安心したのがまずかった。
試験の有効期限は6カ月あるのですが、そのあいだに合格できなかったのです。
あらたに試験を申込み、結局合格したのは大型、中型が分かれてたった1週間しかたたない日。
これからずっとこのことを後悔することになりました。もっともずっと、400CCで十分と言い続けてきましたけどね。
で、免許をとってスズキのTS400を購入したのですが、あまりにも燃費が悪く250CCに代えることを決意。(実はTS400の15KM/Lというのは2スト400としては好燃費だったんですが、MT250が30KM/L以上走るバイクだったため悪いと思いこんでいたのです。)
TS400を5万円で下取りし買ったのが、当時、一番かっこ良かったDT250の4型です。(この写真が唯一の写真です。当時はカメラを持っているやつはほとんどいなかったものだから。)
このDTシリーズ、あの有名な5ポートピストンバルブのDT−1に始まり、掃気ポートを2個追加、リードバルブを追加した7ポートトルクインダクションエンジンを積んだDT−2(これはAT125と同じデザインで兄貴分としてRT360が追加された。)、外装を丸っこいものとし、それまで右側を通っていたマフラーを車体センターに通したDT−3、そして、タンクデザインをかえ、エンジンヘッドを放射状のラジアルフィンにし、リアサスペンションに放熱フィンをつけたDT−4(この型で、兄貴分のRT360がDT400となった。)とモデルチェンジを繰り返します。
このDT−4が私の愛車となりました。
このあと、DT250は2本サスに別れを告げ、国産初の1本サス、モノクロスサスペンションを身にまといDT250Mとなり、これを最後にヤマハは2スト250CCをつくるのをやめます。
結局RZ250の誕生まで、ヤマハは後発の4ストメーカーとして生きることになったのです。
さて、DT250ですが、当初の目的である好燃費はクリアできませんでした。なんとリッター13KMしか走らないのです。
これはいままで乗ってきたバイクの中で、ワースト2の記録です。
ちなみにワースト1の不名誉な記録を持つのはRG250ガンマ。10KM/Lでした。
以下ワーストをあげていくと、
ワースト3がBMWR100とイントルーダー1400の13KM/L、
ワースト4がヤマハTDR250の14KM/L、
ワースト5がZ400GPの15KM/L、TS400の15KM/L。
以外や以外、上記以外のリッターバイク達はたいてい20KM前後走りました。
MHR900が18KM/L。
GSXR1100が24KM/L。
ZX10が20KM/L。
MHR1000ですら17KMです。
でもこの燃費以外は特に不満点はなく、その後約1年の間に10000KM走行しました。
ただ、ツーリングの記憶があまりありません。
一つだけ覚えているのが、卒業論文用の写真を撮りに行った一泊二日の超貧乏ツーリング。
卒論のテーマは「民家の造形」。
古い日本家屋の調査です。(これが原因で20年後、民家を買ってしまうことになろうとはねえ。)
ターゲットは長野県の御岳の付近に残っている、屋根に置き石をした、板葺きの民家。
以前TL125で走ったときちらっと見かけたという、曖昧な記憶を頼りにDTにビニールのごみ袋にくるんだ毛布(シュラフなんてもん持ってなかったんすよ。当時は。)とカメラ(110フィルムを使うポケットカメラと親父からかりたヤシカエレクトロ35)だけを積んで出発。で、問題なのは季節。卒論だからふ・ゆ・・・。
しかも行き先はスキー場すらある御岳。
今みたいに防寒服なんてものも持っていない。(ほんとに貧乏だったんす。)
ウベックスのジェットヘルにコンペシールドをつけ、上着は1000円の黄色いヤッケ。
下は親父に借りたももひきにGパン。
980円の雨がっぱ。
唯一の冬装備としてベンジン燃料の白金カイロ。
シュラフも買えないんだから当然テントも無し。
予算が2日間ですべてを含んで5000円。
400KM走るとして燃料代が3000円かかるから、残り2000円で食事と宿泊をまかなうわけです。
結局、野宿しか考えられません。
こんな無謀なツーリング、今じゃ絶対できないよ。
朝の5時に出発し豊田から瀬戸、多治見とぬけ国道19号線に入り、北へ北へ。
今と違ってバイパスもない狭い道だったよなあ。中津川市内なんか、むちゃくちゃ狭かったし。でも交通量は全然なかったし、気持ちよく走れました。
食事は3食ともあんぱんと牛乳。これをちいさな雑貨屋さんで買います。コンビニなんてこの時代、まだありません。(セブンイレブンが長野に進出するまでそれから2年ぐらい待たねばなりませんでした。)
フィルムに金を使ったため一食に使えるのが300円。つまり1日1000円弱で食っていかないといけないわけ。
木曽福島から左折し高山方面へ。
何軒か写真を撮っているうちにもう夕方。
御岳がきれいに見える地蔵峠近辺で今夜のねぐらをさがしました。
この辺のバス停は冬のために扉がある待合い室になっていて、何とか寒さをしのげそう。
パンをかじり、冷たい牛乳を飲むと、後は寝るだけ。
ここで、右足のふとももの感覚がおかしいのに気づきました。Gパンを脱ぐとまっかになってます。低温やけどです。ポケットにカイロをいれていたのをすっかり忘れていました。(ちなみにまだ使い捨てカイロは発明されていない。ホッカイロが世にでたのは2年後です。使い捨てカメラも同時期ごろの発売でした。)
毛布1枚で寝るにはきびしい寒さだったけど、カイロを消しました。
でも若さってのはすごいねー。気がついたら、始発のバスがくる時間だったもの。
朝日に輝く御岳を眺めながら朝食のパンをかじる。
あれから、数え切れないほどツーリングを繰り返してきたけど、あんなきれいな景色を見ることはできませんでした。
若いときには、何でもできる。若いときしか感じることができないものもある。
食費を削ってガソリン代にかえた無茶なツーリング。
あの頃のことを思い出すたび、オートバイに乗り続けてきてほんとによかったとおもいます。
このDTはシリーズ中いちばん美しいデザインをまとっていました。
オレンジ色のタンクにななめに走る白いラインと250のグラフィック。
モトクロッサーと同じデザインのラジアルフィンを持つ黒いエンジン。
そういえば、この型以降、DTはモトクロッサーとちがうデザインになったんだよね。
次のモデルはモノサスを搭載し、性能はあがったけど、おもっくるしいデザインが気に入らず、買い替えるに至りませんでした。
結局、ヤマハが2ストに見切りをつけた翌年、このDTを下取りにして、私ははじめて4ストのロードマシンを新車で買うことになったのです。
それがヤマハSR400です。

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