旅順訪問〔2018年1月13日(土)晴れ〕
  
旅順軍港→旅順駅→白玉塔→関東軍司令部→旅順博物館→203高地→東鶏冠山→川島芳子旧居

  9時ホテルを出発し大連市内観光後、南西方向に約45Km、黄海に突き出ている星海大橋を渡って旅順駅に到着。途中、インフラ整備もされた大学施設が数多くあり、中国は高度成長時代を迎えて、これから発展すると思った。旅順駅はロシアの風格を持った建築物でした。裏山の頂上付近に白玉塔をみる。旧関東軍司令部をみて、旅順博物館を見学。 


星海大橋(表:西向行き 裏:東行き)

星海大橋からの景色(表:水族館)

表:旅順駅 裏:白玉塔

旧関東軍司令部

川島芳子旧居

旅順博物館

1)旅順博物館変更箇所
   
パスポートを入口で見せて入館。ガイドさんは一階が仏像関係、二階が陶器、青銅製品と展示されていると言って、見所等の案内はなかった(>_<)。パンフレットもなく何が見所かも判らず35分間で写真を撮りまくった。まず、入口右側の釣鐘にびっくり。文字が書かれていて日本のものとよく似ている。二階に上がり、まず目についたのは、中国歴史ドラマでよく見る『酒の杯』。銅製品の手洗いなど文字や模様が描かれている。やはり、日本の漢字や文化は中国より伝来したと感じた。各々説明文(宋代、清代等時代も書かれていた)が中国語で書かれていて、少しは読めて、想像は出来るが…。残念ながら日本語では説明出来ない…。画像だけで楽しもう!。 


表:右側二階入口 裏:中国の杯

表:釣鐘
裏:銅鼓 

    彩絵?
    
 
        陶壺?
 
        陶器?
  裏の筆?が素晴らしい。

表:手洗い?裏: 

表:お釈迦様? 裏:菩薩造像

 表:銅 十一面観音立像
裏:銅 釈迦牟尼佛座像

表:お釈迦様 裏:涅槃像 

表:諸佛造像 裏:祖師造像

表:四大天王 裏:?

2)203高地
  1904年11月27日、日本軍は203高地総攻撃を開始し10日間の激戦を経て12月6日に占領し重砲観測所を設け旅順港にいるロシア艦隊を撃沈したそうです。日本兵約1万人、ロシア兵約5000人が亡くなったそうですが、戦争で亡くなった若い兵士を記念して『爾霊山』と刻まれた記念碑が頂上に有りました。爾はあなた、霊は魂を表して戦争中の弾丸と薬きょうで鋳造して碑としたそうです。高さは10.3m。一部雪が残っている、ふもとの駐車場より南坂を登り、頂上まで640歩でした。途中、ざんごう跡も残っていました。
日本語の説明文もあり良く判りました。


       表:203高地入口? 裏:出口側

       表:登り口(左が南坂) 裏:塹壕跡

       表:爾霊山 裏:旅順港を望む

 表:爾霊山後 裏:観測所

203高地紹介図

   203高地説明文(表:山頂、裏:駐車場) 

    表:日本式280mm弾砲 裏:説明文
山頂の説明表示文
203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの
高地を争奪するため激し争いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名
余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦後、日本第三軍
司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の
破片で、高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て爾霊山と言う三文字…略。
 説明文抜粋
口径の異なる大砲を60台余り使用し、1万1千発
以上の砲弾を撃ったが、そのうち280mm砲弾が
2254発…あった。
当該大砲本体の重さが10.753トン、
砲弾の重さが217Kg
射程7800m…略。

3)東鶏冠山
  東鶏冠山は旅順口区東北部に位置し、山が鶏冠に似ていることより呼ばれているそうです。案内図には日本語で『1898年帝政ロシアが旅大(?)を強引に借した後、旅順を長期的に占領するため、1900年より中国労働者にこの永久的な防衛工事を築造するように強制した。これは帝政ロシアが旅順東側の陸上防衛線にある重要な工事であり、北側の開拓地の制御(?)に用いられる…略』と書いてありました。旅順攻防戦の時、この場所はロシア軍の防御線として重要な場所で、多数の弾跡と共に士官室、兵舎、食堂、弾薬庫等が当時のまま残されていました。1904年8月21日日本軍第11師団がここからロシア軍への攻撃を始め、攻め落とせず最後は、坑道爆破(23トンのダイナマイトを入れて…)と言う方法で12月18日攻略したそうです。


    表:入口史跡表示 裏:階段降りた所

裏:トンネル内部

表:トンネル側面 裏:その先

表:日本軍爆破場所 裏:宿舎増設状況

表:兵士宿舎 

          慰霊碑

     表:案内図 裏:帰り道で


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