映画「フューリー」に対する憤激(フューリー)

 アカデミー賞の有力候補という宣伝文句につられて、つい劇場に足を運びました。映画としては、決して悪い出来ではありません。戦闘シーンも迫力があります。占領した町で、米兵が普通の家庭に入り込み、食事を強要(あるいは性行為も)する場面もあり、従来にない広い視野で戦争を描こうとする意欲も見受けられます。とはいうものの、やはり、ハリウッドの、アメリカの映画であり、最後は愛国主義的ヒロイズムで終わります。しかし、私が覚えた憤激(フューリー)はそのようなことではなく、戦争犯罪を許す製作者側の姿勢にあります。
 この映画の主人公(ブラッド・ピット)は、ナチス・ドイツに強い憎しみを抱く古参兵です。おそらくドイツ系のアメリカ人なのでしょう。彼は、二度、降参したドイツ兵を射殺します。とくに最初のケースは、新米の兵士に拳銃を握らせ、二人で引金をひきいて弾丸を発射します。当然、軍事裁判にかけられても仕方のない行為ですが、訴えようとする者は誰も居ません。周囲は皆、見て見らぬ振りです。そして、この兵士は、最後にヒーローとして死にます。この兵士の行為を肯定したも同然の終り方です。
 日本でも、不時着した米兵を殺したという事件が数件ありました。その中の一番ひどい例が、九大における人体実験です。責任者は戦争犯罪者として処刑されました。死刑は、A級戦犯だけではありません。戦後、B,C級戦犯として、処刑された兵士の罪名の多くは、捕虜殺害、虐待でした。映画「私は貝になりたい」(橋本忍監督)にも、その一例が描かれました。
 戦犯の中には、東條や土肥原、武藤のような当然死刑にされても仕方のない人々もいましたが、広田のようにどう考えてもおかしな判決もありました。ただ第一次世界大戦までは、戦争当事者を戦犯として裁いた例はありません。第二次世界大戦は、ナチによるユダヤ人虐殺が、あまりにもひどすぎたため、戦争犯罪という考え方が生まれました。ただ、ホロコーストを別にすれば、ポーランド分割など、ドイツとソヴィエト・ロシアは同罪です。ソヴィエト・ロシアは、カチンの森で、ポーランド将校を大量に虐殺しました。しかし、それは犯罪としては裁かれたことはありません。
 私がこの映画で覚えた憤激(フューリー)は、このようなアメリカが、よくもまあ日本やドイツの戦犯を裁けたな、という不条理に対する怒りです。そして、戦争犯罪に関しては、戦勝国も戦敗国も同罪だという条理が成立しないことへの憤激(フューリー)です。
 映画の出来がまあまあでも、このような不正を正義といいくるめるような製作姿勢には、心の底から怒りがこみ上げてきます。

2015.01.21.記


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