必読の書 雪(オルハン・パムク)
ノーベル賞の政治的意図

 今年のノーベル賞の選択は、とりわけ政治的である。狙いは明確に、イスラム世界の後進性に向けられている。平和賞のムハマド・ユヌス(グラミン銀行)頭取の着想と業績はすばらしい。しかし、これが西欧社会だったら、果たして賞の対象となったかどうか。
 彼は、融資の対象に女性を選んだ。小ビジネスに成功し、経済的に自立し始めた女性たちは、もはや家庭内に引っ込んではいない。社会的にも発言し始める。旧弊な宗教指導者や一般男性は、当然反発する。アラーの教えに背くと主張する(アラーが本当にそう言ったかどうかは別として)。
 この現象は、西欧社会にとって望ましい方向である。許容できるイスラム教社会である。
 ノーベル文学賞に選ばれたオルハン・パムクはトルコの問題児である。彼は、トルコ政府が触れて欲しくないアルメニア人虐殺について、遠慮がちではあるが発言し、国から告発されている。
 「雪」は、フィクションの形で、トルコに蔓延しつつある復古性を描き出す。宗教学校の校長を、狂信的イスラム教徒が射殺する章がある。キチガイに刃物的恐怖が惻々と迫ってくる。
 第一次大戦に敗れたトルコは、ケマル・アタチュルク主導の下、1923年に共和国として再生する。一種の維新だった。アタチュルクと彼のスタッフは、西欧的近代国家の樹立を目指した。中東各国の後進性の根源を、宗教による社会・政治支配にあるととらえ、政教分離、カリフ制廃止、ヴェールの禁止等々を国是とした。おそらく、この革新がこのまま進めば、西欧にとって最も都合が良いイスラム国家のモデルとなったことであろう。だがそこに第二次大戦があり、イスラエル建国やイラン革命があり、西欧と中東の確執が強まった。イスラム原理主義が反西欧の空気を助長し、貧困層を中心に勢力を拡大して行った。
 トルコのEU参加は両サイドの融和をもたらす絶好の機会であるはずだが、テロに怯える西欧諸国は門戸を閉ざそうとしているし、トルコ内部では失望感も手伝って原理主義が公然と浸透し始めている。
 その情況が、この小説からよく読み取れる。EUの仲間になるには、トルコ内部に解決すべき多くの問題を抱えていることもよく分かる。
 かつて、ノーベル文学賞がソヴィエトのパステルナークやソルジェニーツィンに与えられたように、今回の選択も多分に政治的である。オルハン・パムクやムハマド・ユヌスのようなイスラム教徒だったら大歓迎だという意思表示である。
 村上春樹もノーベル賞候補の一人だそうだが、彼の小説は、いかにも幸福な国の幸福な文学である。賞に値する一人だとは思うが、世の中がもっと平和なときでなければ実現しないに違いない。個人的な意見だが、井上ひさしの方が候補にふさわしいと思う。多分彼の作品は、外国語に翻訳される機会に恵まれていないのだろう。
 それにしても、「雪」の訳文はひどい。日本語になっていない。文学的価値を損なうことおびただしい。

2006.11.26.記

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