必見の映画 亀も空を飛ぶ(2005.10.22)、 「ランド・オブ・プレンティ」(2005.11.30)

亀も空を飛ぶ(2005.10.22)
 この映画を作ったバフマン・ゴバディ監督は、クルド系イラン人である。
 彼は、前作酔っぱらった馬の時間で、悲惨なクルドの現状を描いた。密輸の一行が、峻険な峠を越えるため馬に酒を飲ませるという設定そのものが非常にシンボリックだが、何も説明がなければ、一見中世かと見まがう映像に衝撃を受けた。
 亀も空を飛ぶでは、時間設定をアメリカのイラク侵攻直前に置くことで、その環境の苛酷さを一層際立たせる。本来、絶望感というものは、物心がついてからしのび寄ってくるものだろう。この映画に登場する少女は、最後まで笑顔を見せることはない。耐えるだけ耐えて、ついに耐えきれなくなる瞬間が描かれる。目をそむけたくなるような場面が連続するが、観客は、ユーモアを忘れないゴバディ監督に救われる。
 クルド難民を描くことで、アメリカの侵攻が希望にすら見えるが、それが現実となったときの難民たちの反応に奇妙にリアリティを感じる。多分、これが現実なのだろう。
 国を持たない最大の民族クルドの悲劇は、植民地時代のテリトリー・ゲームに端を発するが、中東諸国自体にも責任がないとは言えない。中東諸国の国境は、誰が引いたのか? そのサバイバル・ゲームで勝ち残った部族は、クルドを見捨てただけでなく邪魔者扱いしたようでもある。
 映画の中でも、監督の抱く希望は大人たちにはない。サテライトという仇名の少年や、地雷で両腕を失った少年の上にある。両腕のない少年には予知能力があり、サテライトという仇名には、目を世界にという監督の願望がこもる。前作以上に、設定はシンボリックである。
 そしておそらく、アフリカのエチオピアやスーダンでは、映画にすら撮られない言語に絶する悲惨な状況が展開されていることだろう。なぜこのように、人々は果てしなく争い続けるのだろうか。

 

ランド・オブ・プレンティ(2005.11.30))
 監督ヴィム・ヴェンダースはドイツ人である。アメリカが大好きなドイツの旅人である。彼は、2001年9月11日WTCビル崩壊後、急激に保守化したアメリカの人々に対して、何らかのメッセージを送りたいと考えたに違いない。この難しいテーマを、よく映画に昇華させたと思う。
 主要な登場人物は二人、少女ラナは10年ぶりにアメリカに帰ってきた。宣教師の父と共にアフリカ、イスラエルで過ごした過去を持つ。両親が亡くなり、母国の宣教団体のもとで働くことになった。亡くなった母から、叔父宛のの手紙を託されている。
 もう一人はラナの叔父。ベトナム帰還兵で、そのトラウマに苦しみ、テロリストたちの襲撃からアメリカを守るべく独り監視活動を続けている。
 この設定は少なからず作り事めくが、「ノー・マンズ・ランド」同様、この種の映画の持つ宿命で、ある程度やむを得ない。少女の背景にはアフリカ、イスラエルが必要であり、恐怖に自縄自縛されているネオコンやフォックス・ニュースしか見ないような人々を象徴化するには叔父のような人物設定が必要だったのだろう。いまのアメリカなら、こういう人物がいるかもしれない、そう思わせるほど保守化は進んでいる。
 ヴェンダースがこの映画にこめたメッセージは、驚くほど平和主義的で、ナイーブなほど寛容で、生命の賛歌に満ちている。我々は、分かりあえる、分かりあえる筈だ、と語りかける。だが、アメリカの政策が誘引したとはいえ、グラウンド・ゼロは現実であり、テロが蔓延している事実は否定できない。殆どのテロリストがイスラム教徒である事実も。
 ラナが働く伝道所はホームレスのシェルターでもある。そこに掲げられたメッセージ…
 The pains of peace are better than the agonies of war.
 めげてはいけないのだ。確かに、戦争より平和がいいに決まっている。確かに、めげてはいけないのだ。
 この映画は、根っからのアメリカ好きのヴェンダースが贈る、半分病気になりかかったアメリカの人々への心からの慰めの言葉である。

もとに戻ります。