以下は、昭和56(1981)年6月、社内報に寄稿したものです。
平成10年10月12日、佐多稲子さんの訃報に接し、かって彼女について書いたことを思い出しました。プロレタリア文学から出発し、共産主義の終焉を見届けて亡くなった彼女に、祈りをこめて収録しました。


女流三様

 写真集「ヌバ」をみた。ヌバというのは、中央アフリカの原住民で、回教徒ではあるが文明とは縁のない暮らしを送っている。
 身体じゅうに塗った油、泥絵具で仮面のようになった顔、そのまま、アブストラクトの芸術品だ。
 愛のダンス、血まみれの闘技・・・生命そのものを正面から凝視したような写真集である。
 感動と同時に嫌悪感もある。
 これを撮ったのは、レニ・リーフエンシユタールというおばあさんだ。
 第二次大戦前のベルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典・美の祭典」、ニュルンベルグのナチス党大会の記録映画「意志の勝利」を監督した女性とのことだが、戦後の映画フアンである私は、ダイジエスト版をテレビで見たにすぎない。
 戦後、彼女は、これらの映画を作ったことで、戦犯として裁かれる。一応、無罪とはなったものの陰に陽に迫害を受け、その後の映画製作は不可能だったという。(写真は、1934年頃ヒトラーと・・・)
 ナチスは嫌いだし、その宣伝に映像で協力した彼女には、どこかひっかかるものがある。それは、レコードを買いにいって、カラヤンを敬遠する気持(彼がナチス党員だったという、ただそれだけの理由で)に似ている。
 しかし、ナポレオンの戴冠式を描いたダヴイツドと、ヒトラーを撮った彼女との評価の差は、不当すぎるほど大きいとも思う。単純な比較をした場合、ナポレオンとヒトラーがどれほど違うのか、書き替えた征服版図も大差なし、陽性と陰性の違いこそあれ、一方が英雄で、一方が卑劣漢といいきれるものでもあるまい。
 ヒトラーの死後もなお、その亡霊をひきずって生きてきたレニ、歴史の不幸な節目を踏んだために抹殺されかけて、それでもなお生き抜いてきた彼女、この写真集の一頁一頁にその執念が凝縮されていて、見る人の心を揺さぶらずにはおかない。心のどこかで反発しながら、無理やり感動もさせられるのである。

 「ジユリア」という映画をみて、もう三年位たっている。昨秋テレビでも放映されたので、ご覧になった方も多いと思う。
 劇作家リリアン・ヘルマンが、ナチスに虐殺された幼な友達ジユリアを回想する・・・という内容だが、ジユリアが社会主義者だったことから、戦後三十五年という年月の重みを、ついつい感じてしまったものだ。
 つまり、当時は、ナチスという巨大な悪の前にあって、自由主義国も社会主義国も、ともに善であったということ。いや、いまでも主義としては善なのかもしれないが、集団となった場合も(特に国家という形態)善であるかどうか。
 少なくとも、「人間の顔をした社会主義」を目指したチエコを押しつぶし、アフガニスタンに侵攻した国を、とても善とは呼べないだろう。しかし、それでもなお・・・と思うことがある。
 この映画の原作を書いたリリアンは、年譜によると、マツカシーの時代に、下院の非米活動委員会に召喚され証言を求められたことがあるという。これは、一種の踏絵で、証言しなければ共産主義者とみなされる時代背景だった。
 リリアンは、この圧力の前に、個人の尊厳を武器に立ち向かう、自分自身のことであればどのような質問にもお答えする、しかし友人たちについての証言は拒否する・・・という八方破れの理屈である。
 そして、「私の良心を今年の流行にあわせて裁つわけにはまいりません」と締めくくった。
 数多くの証人たちが、職を失うことを恐れて、委員会に迎合的な証言をしていた頃よくもまあ、このような勇気ある発言ができたものだと感心する。
 これもまた、感動的な女性の生き方である。

 佐田稲子という作家がいる。(写真は1971年67歳当時のもの)
 明治三十七年の生まれで、いまは殆ど作品を発表していないし、もう過去の作家である。大衆小説も書いているが、「樹影」「時に佇つ」などはいい作品だと思う。
 戦前は、小林多喜二、宮本顕治らと、共産党非合法活動に奔走、男まさりの活躍ぶりだったらしいが、戦時中、戦地慰問に参加したことが転向とみなされ、戦後再建された共産党への入党がなかなか認められなかったという。
 この経験が、彼女の人生観を、より深く、苦いものにする。
 再入党をゆるされ、純粋に運動に打ち込んでいた彼女が、昭和二十六年に除名される。三十年に無条件復帰、そして三十九年に再度除名と年譜にある。
 ソ連が鉄のカーテン、中国が竹のカーテンというのは言いふるされた譬えだが、日本の共産党も紙のカーテンをおろしているようで、外部の者には内情がなかなか分かりにくい。専門家に聞けばはっきりするのだろうが、最初の除名は朝鮮戦争の際の極左冒険主義を批判したため、二度めは、中ソ仲間割れのとき、野間宏らと、中国寄りの党方針に反対したためらしい。
 一本、筋の通った生き方をしながら、このような苦い経験をしたことが、作品の奥行きを深いものにしている。
 もう随分前のことで、たしか西日本新聞の連続ものの随筆「遠く近く」を書いていた頃ではないかと思うが、インタビユワーの、現在の共産党の指導者たちをどう思うかという質問に対し、ただひとこと「きらい」と答えてほほえんだ・・・という記事が、なぜか印象深く記憶に残っている。
 彼女にしてみれば、いろいろと言いたいこともあっただろうに、それを女性らしく「きらい」とひとことだけですませたところが、いかにもさわやかに思えたのであろうか。

 この三人三様の女性が、現在でも一服の清涼剤のように思えるのは、良くも悪くも自分の納得した生き方をした・・・考え方を貫いたところにあるのだろう。
 ナチスもはじめは社会主義を標榜していたし、そのことを思えば、この三人の女性は、人間性の希薄な社会主義の波にもてあそばれたとも言える。
 いまの社会主義国は、権力者たちの地位保全と、その世界に仲間入りできるかどうかのゲームに終始している。
 自由主義国の中にあって、思想信条の自由を叫ぶ人たちが、実は最も保守的で、ほかの自由な考え方を認めない、という事実も悲しいことだと思う。
 現在のポーランドのスト騒ぎも、社会主義国では、ストはおろか労働組合の結成すら認められていないという事実を、門外漢である我々にまで知らせてくれた。
 これは、主義の善し悪しというより、それ以前の人間性を考慮に入れるかどうかの問題だろう。
 所詮、競争原理を捨て、神に近い人間を看板に掲げた主義では、建前と本音の乖離がいちじるしくひろがって行くだけなのだ。

 写真集「ヌバ」をみたことから、とりとめもない雑念がひろがったが、このタフな女性たちが、あるときは愛を語り、子を育ててきていることに、ほっとさせられるものがある。
 彼女たちも人間だったという安堵感だろう。
 そして、自分自身に思いをもどすと、どんな生き方も容認するような寛容さを持っているつもりで、その実、頑固になってきていることに気づく。そういう年齢に達してきたのだと、自覚し始めている。

(その後の感想)
 これを書いた当時から見ると、リリアン・ヘルマンは、いささか評判を落としました。彼女の書いたもの、言ったことに嘘が多いというのです。もしそうだとしても、下院での証言は紛れもない事実ですし、ハメットの死を見取ったことだけでも彼女を許してしまいます。(1998.10.13)


もとに戻ります。