ご注意:十六夜記の知盛EDではありません。
また、望美が暴言を吐いたり、知盛が動揺(?)したりしていますので、お気を付け下さい。

誘惑

 何度も目にした光景。
 変えられるものと変えられないもの、変えてきたものと変えずにきたもの、選んだものと捨てたもの――これはどちらなんだろう。

 これから先どうなるか、私は知っている。
 今まではただ見ていただけなのに、それが嫌なら他の可能性を試す方法だって私は持っているのに……。いつもなら一瞬で頭を通り過ぎてしまうはずの誘惑が今回は私を捕らえて放さない。

 説得する振りをしてゆっくり彼との距離を縮め、剣を手からそっと滑らせるように落とした。彼の科白をどこか遠くで聞きながら、周囲が凍り付いた隙に私は駆け出し、彼が姿を消した地点から勢いよく飛び出す。
「お前……!」
 彼の瞳は大きく見開いたままだ。それだけで勝ち誇ったような気分になる。だけど、まだ足りない。早くしないと逃げられるし、捕まってしまう。

 幸運だったのか、こんな時にすら願いを叶えてくれようとするのか――着水する寸前に私は彼を捕まえることができた。思いも付かない展開に抵抗できないうちに彼の首に腕を回し、大きく息を吸い込むと私は水中に身を隠した。
 これでもう彼の鎧の重さで沈んでいくだろう。まだまだ底には遠いけれど、これだけ深かったら合戦中だし見つからないはず。視線を上に移すと慌ただしく走り回る幾つもの船底が水面に降り注ぐ光を遮っている。

 後は私がどれだけ保つか……。ずっとしがみついていられるとは思っていないけど、少しでも長く……と回した腕に最後の力を込める。
「……!……」
 それに応えるかのように私の背中が軽く悲鳴を上げた。痛みに思わず顔を上げると、彼の顔がそこにあった。

 ――誘惑したのは……どっち?

*****

「夢……?」
 気が付くと、一面セピア色だった。何度も見た夢とどこか似ているのに、他には何も見えない。遠くから微かに潮騒が聞こえるだけだ。
 夢にしてはあまりにも味気ない。もしかしたら……。
 どこかでほっとしている自分に愕然とした。
「これじゃあ、邪魔した意味がないじゃない」
「邪魔したつもり……だったのか? てっきり……付き合ってくれるものだと思ったのだがな」
 声と同時に視界に影が差した。
 見る見るうちに影は姿を成し、遠くで聞こえていた潮騒は耳元でざわめき、足元では私を浚おうとする波が機会を窺っていた。
「…………」
 天地が開けるってこんな感じかもしれない。忘れていた感覚が一気に私に襲いかかってきた。
 今でも水にまとわりつかれているように身体中が冷たくて重い。全身を鈍い痛みが駆け巡っている。身動き一つできない私の上を時折波が寄せては返す。見えるものは暮れ始めた空と……彼だけ。
 でも、それでいいと私は思った。

「おい、まだ寝ぼけているのか?」
 彼の顔が少し近付く。
 ああ……目が熱い。
「……。おい!」
 視界が大きく揺れた。
「えっ……!」
 抱え起こされてやっと空と彼以外のものが視界に入った。夕暮れの穏やかな海は故郷を思い起こさせる。この海が戦場と繋がっている……なんて感傷に浸る間もなく、重心が変わったせいか少しふらふらする。腕で支えることもできず、崩れそうになったところを抱き止められた。
「ん……?」
 違和感を覚えて、辛うじて動く頭をわずかにずらす。彼のトレードマークと言っていいあれがない。それだけじゃない。重りになりそうなもの一切がなかった。無理矢理外したみたいでところどころ傷痕が残っている。
 傷で思い出して彼の脇腹に目をやった。致命傷を与えたつもりはなかったけど、それなりの傷だったはずがもう塞がっている。やっぱり……。
「……これで付き合えだなんてよく言えるわね」
 安堵と自嘲の溜め息を吐きながら手を少しずつ彼の左腕に沿わせて上げていく。頭上でくっと喉が鳴った。
「もしかして……本当は逃げおおせるところを邪魔しちゃったのかしら?」
 決してあり得ないと判っていることをわざとらしく口にすると、彼は私の顎に手をかけて上を向かせた。
 しばらく睨み合ったままだったが、彼はにやりと口許を緩めた。
「さあ……どうだろうな?」
「まあ、どっちにしても……」

 心の中で掛け声を出して、彼の腕にかけていた手に力を込めて体勢を立て直す。寄りかかっていては虚勢も張れない。
「こっちとしては邪魔できたからもういいわ。好きにしたら?」
「何……?」
「あんなに晴れ晴れとした顔されちゃ、悔しいじゃない。それも……何度も何度も……」
「何度も……?」
 余計なことまで言いかけたのをはぐらかすために、身体が言うことを聞きだしたのを幸いに私は勢いよく立ち上がった。まだ足が覚束無くて、よろめきそうになるのを誤魔化すように数歩波打ち際に近付く。 
「あなたの剣は絶望そのものだわ。あなたは剣で私に絶望を打ち付けるだけ打ち付けて……私に絶望を押し付けて……」
 私は後ろを向くと、彼を見据えた。辺りは薄暗くなっていて、こちらからは彼の表情は窺えない。だけど、私の言葉を遮る剣は彼の手にはもう無い。言いたかったことをぶちまけることにした。
「将臣くんに平家を押し付けた……!」
「まさおみ? 有川……か? お前、奴を知っているのか?」
 出した名前に驚いたみたいで、彼は立ち上がると近付いてきた。その表情は私が身を投げた時以上に驚きに満ちていた。
「知ってたわ……あなたたちよりずっと……」
 無意識のうちに過去形にしてしまった言葉が刃のように私に突き刺さる。込み上げてきたものを隠したくて、私はさらに海に近付こうとした。
「待てよ……」
 突然、手首を掴まれて引き摺られた。それは強引ではなく、引き寄せられたといった方が正しいのかもしれない。ただ、足が付いていかなかっただけで、彼の腕の中に柔らかく包まれた。
「奴に惚れてるのか……?」
 頭上から囁きに近い声が降ってくる。
「さあ……?」
 その答えが気に入らなかったのだろう、彼は片手で私の顎を上げると視線を強引に合わせてきた。その瞳から逃れられなくはなかったが、それは肯定を意味するだろう。だから思いきり睨み付ける。
「おっ、おい……」
 彼の狼狽の混じった声で自分の目から涙が溢れてしまったのに気付いた。慌てて拭おうとする手を彼の手が制する。代わりに彼の指が涙の痕を遡っていく。
「へえ……結構優しかったりするんだ」
 わざと茶化して彼の腕から抜け出した。でも、それ以上は離れずに彼の前に立ち、今度は彼の顔を覗き込んだ。憮然とした表情に少しだけ気をよくした私は大きく息を吐くと、再び海の方を向いた。
「……『今は』本当によく解らない。ただ、あなたたち平家に取られちゃったのだけは『今も』すごく悔しい」
「……?」
「自分勝手な独占欲ってところかな……。まあ、そういう人だから仕方ないんだけどね。わかるでしょ?」
「……そうだな。奴はそういう奴だ」
 苦笑混じりの彼の声に私は思わず振り向いた。その表情は海の中で見たものとよく似ていて、思わず意地を引っ込めてしまう。
「だから八つ当たりだね……ごめんなさい。でも一度は文句言いたかった」
「……八つ当たりでもないさ。生きてるのに怨霊扱いした挙げ句、年下なのに兄と呼んで――全てをおっ被せたのは……事実だからな」
 みるみる彼の顔が自嘲に歪んでいく。

「だから絶望したの? それとも絶望したからそうしたの?」
 追い討ちを掛けるようで少し気が引けたけど、次に話す機会があるとは限らない。
「…………」
 彼は瞠目したまましばらく無言だった。私はただ彼の瞳をじっと見つめて彼の応えを待つ。質問の答えじゃなくて拒否でも構わなかった。
「俺は……」
 絞り出すようにそれだけ呟くと、力なく砂の上に膝を付いた。宙を彷徨う彼の視線を妨げたくなくて、私は彼の隣に腰を下ろし、ぼんやりと沈もうとする夕日を眺めていた。彼にも見えているのだろうか? 空まで血に染まってしまったかのような鮮やかな夕焼けを……。それは昼間の激戦によるものなのか、それとも……。
 ぞくりと悪寒が走った。この後に起きることを私は知らない――正確には。でも、すっかり過去となってしまった色々な場面が脳裏を過る。この時空には……残っている――両方とも。
「あ……、ねえ」
「……!」
 彼は座り込むと心底ほっとした表情を私に向けた。それは彼の絶望の深さを物語っている。その深淵を覗き込もうとするなんて愚の骨頂もいいところだ。それでも私は足を踏み入れたいという誘惑を断ち切れずにいた。
「おい、どうした……?」
 労るような彼の声音で、私は紡ごうとした言葉を思い出した。
「ねえ、清盛は……? やっぱり厳島?」
「お前……一体何者だ?」
 彼の瞳は大きく見開き、私を睨み付ける。
「私は……白龍の神子」

 ――彼は鎧を脱ぎ捨てたのに、私は神子の殻を脱ぎ捨てられない……。

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