第一章:最初の一歩

 家を出たイシスは、いつものように道具屋へ向かった。村唯一の店である。村というより隠れ里といった方が正しい。そのため道具屋は数少ない外界との接触の場である。
「おじさん、おはよう。これからリーベナスに行くんだけど用はない?」
「やあ、イシス。ちょうどよかった。これを王家に納めといてくれないか」
差し出されたものは二冊の魔道書だった。イシスはそれを見て苦笑した。
「何だ。結局おばばの使いじゃない」
 魔道書はルーグラの手によるもので、最高位の治癒魔法が封じられていた。名前だけは知っていたが、実物を見るのは初めてであった。イシスは魔道書を受け取ると不思議そうに首を傾けた。
「こんな魔法…何に使うのかしら?」
「さあ…。でもまあ、イズムールも覇者の支配下に入ったという話だしなあ」
「覇者か…アースナも狙っているのかな」
 覇者は三年前に突如として表舞台に現れ、あっという間に世界の大半を我がものにした。隣の大陸イズムールも征服された現在、独立を保っているのはイシスの住むアースナ大陸のみとなっていた。魔物を手足として使っている以外は謎のベールに包まれている。魔物が現れ始めてから闇の力が増大したのか、知性のない生物などは狂暴化し、さらには魔物化しつつあるものもいる。アースナでさえそうなのだから、他の地域はそれ以上にひどい状況なのだろう。
「この辺りも物騒になってきたからなあ…イシス、気を付けてな。あ、これ、今回のバイト料。それから誕生祝い…と」
 道具屋の店主はコインを4、5枚カウンターに置いた。
「こんなにいいの?ラッキー!じゃあ、行ってくるね!」
イシスはコインを財布に入れると店を出た。

 イシスは魔道書を抱えて村の外れまで来た。小さい村は石垣に囲まれていて、三ケ所の出入口しかない。しかし、二ケ所は封鎖されており、実際出入りできるのは一ケ所だけだった。その出入口を塞ぐように一人の大柄な青年が足を投げ出して座っていた。イシスはそれを見ると不機嫌な表情を浮かべ、青年を軽く蹴った。
「ロッド、邪魔よ。どきなさいよ」
ロッドと呼ばれた青年は動じた風もなく、顔をイシスの方に向けた。
「やあ、おはよう、イシス。リーベナスに行くんだろ?」
「…もしかしてついてくる気?」
「もちろん」
 ロッドはにっこり微笑み、ゆっくりと立ち上がった。手にしていた大剣を佩いた。
「あれ…その剣…?」
ロッドの剣がいつもの剣と違うことに気付いたイシスは何故か胸騒ぎを覚えた。それに対してロッドは自慢げに剣を掲げて、イシスに見せびらかした。立派な装飾を施されたその剣にイシスは見覚えがあった。
「親父がくれたんだ。もう一人前だって」
「だってそれって…」
 ロッドの父親はかつて大陸一の剣士と称されていた。ロッドの持っている剣は彼が一番大切にしていた名剣『ラ・サーメ』である。それを息子であっても手放すことなどイシスには信じられなかった。今では剣士を引退して鍛冶屋を営んでいるが、ロッドだけでなく、イシスにとっても剣と武道の師匠である。未だに二人は彼から一本も取ったことがない。それなのに。
「いつかは代替わりが来るもんだって親父は言ってたけど…」
「それはそうだけど…あんた、気にならないの?」
「…何が?」
「………もういいわよ。来るなっていっても来るんでしょ?行くわよ!」
 イシスは苛立ち、ロッドを押し退けるように村を出た。取り残されたロッドは肩をすくめて後を追った。そして剣と同時に受け取った父の言葉を思い起こしていた。
『今日からお前が王女の近衛の騎士だ』

 村を出たイシスは違和感を覚え、立ち止まった。
「風がない…」
村内はルーグラの破邪の呪文によって守られているため、敏感な者なら違和感を感じるのは当然なことである。しかし、風がない―それがイシスを不安にさせた。高い山々に囲まれたこの村では風の凪ぐ時間は限られている。それもいつもの清涼な空気ではなく、よどんでいる。風見の能力のあるイシスにもその源が掴めない。
「おかしいな…」
 鈍感で風見の知識のないロッドも首をかしげている。そののんびりとした口調と今朝からの不安材料の積み重ねがイシスをイライラさせる。
「さっさと歩きなさいよ!」
(朝から何だっていうの…?誕生日だっていうのに全然楽しくないわ)
何も考えたくない…その思いがイシスの歩みを速めていた。

 道中で最も高い地点に到着した時、今度はロッドが異変を感じた。
「イシス…焦げ臭い」
「え?何?」
「何か焼けてる…北だ」
イシスも意識して嗅覚を働かせ、わずかな異臭を拾った。そしてロッドの指差す方向に目をやった。遥か彼方に糸のように立ち上る煙りが数本。
「あれってエルフの里じゃない!行くわよ、ロッド!」
駆け出そうとするイシスの腕をロッドは掴んだ。
「何するのよ!」
 ロッドの手を振り払おうとするが全く歯が立たない。苛立った声を投げ付けた。ロッドは意に介さず、のんびりと答える。
「リーベナスの方が近いだろ」
「…そっか、あれだけ燃えてるんだから軍が出てない訳ないわね」
「そういうこと」
相も変わらぬ緊張感のない口調に呆れながらも、初めてイシスは一歳年下の幼馴染みを頼もしいと感じた。

続く

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