約束の地


 ごめんなさい。一つだけあなたとの約束を破るわ。
 自分の目で見ておきたかった。
 私の故郷となるこの地を。
 何があってもここに帰って来れるように…。

 小高い丘の上に一本だけ生えている大きな木。それを愛おしそうに見つめている一人の女性がいた。傍らには白馬が大人しく草を食んでいる。木の上の方を見て少し笑みを零した彼女は、視線を木から周囲の風景へと移した。手入れの行き届いた田園が広がっている。田舎とはいえ、今まで見てきた土地とあまりにも異なることに溜め息を吐いた。
「まだ、こんなところがあるなんて…」
儚い夢だとわかっていながら、この光景が永遠に続くことを祈らずにはいられなかった。
 この景色を心に焼きつけようと再び周囲を眺めた女性の目は、ここよりもさらに高い丘に建つこじんまりとした館に釘付けになった。
「きっと、あれね」
その館を目指し、馬を駆った。

 その館は遠目にはみすぼらしかったが、近付いてみると想像以上に手入れが行き届いていた。無人のはずなのに荒れた様子はない。少し躊躇ったが中に入ってみることにした。門をくぐるとやはりこじんまりとした庭があり、色とりどりの花が咲き乱れている。その光景に既視感を覚えた。
(どんな時でも私に花をくれた人…)
もっと花を眺めていたかったが、もうすぐ日が暮れる。女性は名残惜しそうに建物の方へと向かった。
「誰だ。何をしている」
 後ろからかけられた声に心臓が止まりそうな思いをしながら、何と説明をしたらいいのかと困った表情で振り向いた。声をかけた相手は侵入者が女性であることとその気品に驚いたようだった。髪を下ろしてはいたが男物の騎士の衣装を身にまとっていたからだ。しばらくして立ち直ったらしい男性は再び質問してきた。
「ここは無断で入っていいような場所ではない」
「ごめんなさい…。こちらは領主様のお屋敷ですよね?」
 女性の柔らかな声に男性も警戒心を緩めたようだ。
「そうです。この時勢ですからお住まいにはなっていませんが、いつでもお帰りいただけるように手入れだけは欠かしておりません」
「…ありがとう。あなたのお心配りにあの人も喜んでいると思います」
「あの人?…まさか…あなたはラケシス様では?」
「どうして私の名を?」
不思議に思いながら頷いたラケシスに、男は平伏して無礼を詫びた。
「ご無礼を心からお詫びいたします。せっかく奥方様がいらして下さったのに、本当に申し訳ありません」
 放っておけば何度でも謝りそうな勢いにラケシスは苦笑しながら制止した。
「名乗らなかった私の方が悪いのです。もう頭を上げて下さい」
ようやく頭を上げた男の目にうっすら涙が浮かんでいた。
「まさか奥方様に来ていただけるとは思っていませんでしたが…本当にようこそいらっしゃいました。ぜひ館の中もご覧下さい。お館様がいらした頃のままにしてありますから」
と先頭に立って建物へとラケシスを案内した。

 建物の中も庭と同じように手入れされていた。質素だが作りのよい調度品。見るもの全てが持ち主を彷佛とさせる。それは喜びと共にわずかな苦痛を伴った。ラケシスの歩みが止まったことに気付いた男性が声をかけてきた。
「奥方様。上にお館様のお部屋があります。階段を上った突き当たりですので、行かれてみてはいかがですか」
「ありがとう」
ラケシスは笑顔で階段を駆け上っていった。
 一目散に目的の部屋へと進む。ドアを開けた瞬間、
「フィンの匂いがする…」
いつの間にかラケシスの頬を涙が伝っていた。涙でぼやけた視界に初めて出会った頃のフィンの姿が浮かび上がる。一瞬自分もその頃に戻った気がして慌てて涙を拭う。しかし当然ラケシスしかいない。自嘲気味の笑顔を浮かべ、改めて部屋の中を見回す。
 小さい机を見つけ椅子に腰かける。
「あの頃のサイズなのね…」
本立てに並んでいる本を適当に見つくろい、手に取った。表紙には拙いながらも丁寧な筆跡が残っている。
「フィンの字だわ…」
手紙をやり取りするようになった頃の筆跡はもっと滑らかだったが、今も残っているわずかな癖がこの時から見られるのが可笑しくて、ラケシスはその本を笑顔で抱き締めた。その時には顔から自嘲の色は消えていた。
 しばらくして、遠慮がちなノックの音と共にドアが開いた。
「奥方様、もう日が暮れます。むさ苦しいところではありますが、今晩は私の家にお泊まり下さいませ」
男の言葉でラケシスは時間の経過を知った。
「だけど…ご迷惑ではないの?」
「とんでもありません!奥方様のような方がお泊まりになるような家ではないのですが、宿屋がある街は少し離れておりますから…」
「そうでしたね。では…お世話になります…あら、お名前を聞いていませんでしたわ」
「あっ。申し訳ありません。私は村長のグラハムと申します」
「グラハムさん!あなたがグラハムさんなのね!…フィンから聞いています。一番の親友だったと。ここへ来る前、丘の木の上の秘密基地も見てきました」
 グラハムは表情を輝かせた。
「ご覧になられましたか。今も子供達が使っているので残っているのです」
「この村は…まだ子供達が元気に遊んでいられるのね…土地も荒れていないし…。ここは天国じゃないかって思ったくらい」
ラケシスにつられてグラハムも表情が曇った。
「ここはかなり辺ぴなところですので…。いずれは帝国も入り込んでくるでしょう。でも力の限り守り続けたいと思っています。レンスターが復興するその時まで。…日が暮れてしまいますね。参りましょうか」

 案内されたグラハムの家でラケシスは大歓迎を受けた。特にグラハムの母マイアと会えたことはラケシスには喜びだった。産まれてすぐ母を亡くしたフィンの乳母であり、母であった。
「こんなにお美しい方が奥方様になって下さるとは…フィン様も幸せですわ」
「皆さんがお元気だと知れば、フィンも喜びます。あの…グラハムさん、どうして私がラケシスだとわかったんですか?」
 歓迎の嵐が落ち着いたラケシスは先程から疑問に思っていたことを質問した。グラハムは真面目な顔でこう答えた。
「ラケシス王女のお美しさはこんな田舎でも知れ渡っておりますし、お館にご用のある方は自ずと限られますから」
「では、噂も…」
 フィンの前では気にしていない風を装っていたし、仕方のないことだと言い聞かせていたが、やはり夫の故郷まで噂が広がっているのはいたたまれない思いがする。ラケシスの表情は曇った。それに気付いたグラハムはラケシスを励ますように言葉をかけた。
「ここではあんな噂信じている者はおりません。ここに来て下さったのが何よりの証拠でしょう。それに、フィン…様…お館様がレンスターに戻って来られた時、お手紙をいただきました。ラケシス王女と結婚したと。文面からも喜んでおられる様子が目に見えるようでした。とても美しい方で自分にはもったいない方だとそう書いてありました。今は離ればなれになっているが、いつかここへ一緒に戻りたいと…」
「フィン…」
「奥方様…お話になりたくなければよいのですが…」
「…ここへ一人で来た理由ですね。お話しますわ」
 ラケシスから旅の事情を聞いたグラハムは深い溜め息を吐いた。
「危険を覚悟で行かれるのですね…」
「ええ。フィンの妻として失格です…。幼い娘を置いてきてしまいました」
「いいえ。奥方様はノディオンの王女としての責任を果たそうとなさっておられます」
「そう言っていただけると…助かります」
「難しいお話はその辺にしておいて、料理が冷めてしまいますわ」
とマイアは湯気の立った皿をテーブルの上にどんと置いた。
「これはフィン様がお好きだったんですが…お口に合いますでしょうか?」
 出された料理は全てフィンの得意料理でもあった。口に入れるとフィンの作るものと全く同じ味付けで、ラケシスは思わず目頭が熱くなった。
「フィンはマイアさんからお料理を習ったんですね」
「お父上のご指導もあってフィン様は何でもご自分でしてみたがるお方でしたわ」
「それに負けず嫌いでいらしたから、マスターされるまで諦めようとなさらないですし」
「いつお嫁に行っても可笑しくないくらいだったねえ」
 苦笑を浮かべるマイアとグラハム。ラケシスは声を立てて笑った。
「ふふふ…。そういうところありますわね。顔にはあまり出さないけれど。でもここで身に付けたことがフィンの力になっています。そのおかげで私達随分救われてきましたわ」
「もったいないお言葉です…。ラケシス様、今夜はフィン様のお話して下さいますか?」
「ええ。もちろん。私も幼い頃のフィンの話が聞きたいです」
 その夜、ラケシスはグラハムの家族と共に心暖まる時間を過ごした。それは彼女にとって過酷な旅を続ける力となった。

 翌朝、ラケシスはグラハムに連れられて牧場まで足を運んだ。レンスターで有数の軍馬を生産する牧場は、細々と数頭の馬を飼育しているだけだった。もちろんそれは帝国の目を誤魔化すためである。残っている馬は表向きは農耕馬だが、どの馬も素晴らしい体躯を誇っていた。
「奥方様、砂漠を越えるにはその馬では荷が重いようです。お選びいただける程おりませんが、お気に召した馬をお連れ下さい」
 ラケシスは永年苦労を共にした馬と離れることには抵抗があったが、最近ずっと無理をさせていたため、足を少し痛めていたのは事実だった。そして、ここは愛馬の故郷である。いつか手放すことになるのなら…。
「お願いがあります。白雪に子供を残したいのですが…」
と愛馬を招き寄せた。グラハムは笑顔でそれを請け負った。
「白雪と呼んで下さっているのですね。…いい馬です。この血統は必ずお守りいたします」
 安心したラケシスは悩むことなく栗毛の若い馬を旅の伴侶に選んだ。グラハムはその選択を殊の外喜んだ。
「その馬は…お館様のお気に入りの血統です」
「まあ…」
ラケシスは本当に嬉しかった。フィンはどんな馬も簡単に乗りこなすため、良馬は他の者へ譲ることが多かった。そして二流三流と評価された馬に平然と跨がっていた。だからラケシスはフィンの好みの馬は知らなかったのだ。
「足腰も丈夫ですから、きっと旅のお役に立つことでしょう」
 白雪の装備を栗毛の方へ移し、ラケシスは白雪の首を撫でて労った。
「今まで本当にありがとう…」
そして、指はたてがみに結わえ付けてある小石に触れた。
「これはどうしようかしら」
「どうなさいました?」
グラハムにたてがみをかき分けてそれを見せた。彼は頷いてラケシスに説明した。
「これは落馬しないようにというレンスターのお守りです。旅の安全にもご利益がありますから奥方様がお持ちになった方がよろしいかと」
「そうだったの…。確かにすごい効力だったわ」
 ラケシスは苦笑を浮かべた。いつのことだったか、落馬したことがないとフィンに自慢したことがあったが、フィンはそれをどう聞いていたのか…。
 少し顔を赤らめながら、そっと白雪のたてがみからお守りをはずした。一度それを抱き締めてから新しい愛馬に結び付けた。
「これから大変だけど…よろしくね」

 白雪に別れを告げて、ラケシスは出発することにした。グラハムの家へ戻ったラケシスは多くの村人が集まっていたことに驚いた。
「皆奥方様に一目お会いしたいと集まりましたの。お騒がせして申し訳ありません」
「私もお会いできて嬉しいですわ」
マイアから荷物を受け取りながら、ラケシスは村人達に笑顔を振りまいた。
(こんなに領民に慕われているなんて…)
夫と夫の先祖を誇らしく思う。
「レンスターを帝国から取り戻すまで皆さんにはご苦労をかけることになります。フィンは決して諦めてはいません。ですから皆さんも絶対に諦めないで…」
「私共もお館様や奥方様、お子様方のお帰りを首を長くしてお待ちしております。奥方様、くれぐれもご無理なさらないよう」
グラハムはそう言葉をかけると自分の子供達を呼んだ。子供達は手に小さな花束を持っている。
「ラケシスさま!」
恥ずかしそうに差し出した花束をラケシスは満面の笑顔で受け取った。
「みんな、ありがとう!…そしてお元気で!」
 馬に跨がり腹を軽く蹴った。そして何度も何度も振り返る。最初に来た丘のところで一度だけ立ち止まった後は振り返ることなく全速力で駆け抜けた。

 ここは…故郷。
 私のもう一つの故郷。
 絶対に忘れないわ。
 絶対に帰ってくる。

 次は大切な…あなたと一緒に…。

Fin

後書き
ラケシスの話が書いてみたかったんですが…。ラケシスの性格が今一つ掴めていないかも。オリジナルキャラ続出です(^^;)
ラケシスの今後もいずれは書いてみたいと思っています。

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