桜が咲いたら

 私にはお母様がいる。それだけで十分。他には何にもいらない。だからお母様、お願いだからずっと私のお母様でいて…。

 あの時からお母様は私だけのものではなくなった。もともと村のみんなのお母様って感じだったから、最初はわからなかった。あの子達がお母様の特別な子になったことに。私がお母様の特別な子だと思ってた。それなのに…。私はこれからどうしたらいいの?

 あの子達は本当に綺麗で、優しくて、私なんかとは全然違う。だからお母様も大好きになったんだわ。…本当は私も大好き…。

 でもあの子達にはあんなに素敵なお父様がいるじゃない。強くって、かっこよくって、それにすごく優しい。それで十分じゃない。だからお願い。私のお母様を取らないで。お母様の子じゃなくなったら、私どこに行ったらいいの?他に行くところなんて私にはどこにもないのに。

 もうこんな気持ちでいるのは嫌。…こんな嫌な子だからお母様もあの子達の方がいいんだわ。…お母様…。

* * * * *

 その日もマリータはリーフとナンナと共にエーヴェルから剣の手ほどきを受けていた。リーフ達が来るまで一度も剣を持ったことはなかった。初めて剣を持った時、体中の血流が逆流するような感覚を覚えた。そして自然に身体が動く。美しい舞いのようでいて隙のないその動きにエーヴェルは驚愕し、ある意味納得した。それ以来リーフ達と一緒に稽古するようになったのだが、上達の早さは群を抜いていた。マリータ自身も喜んで稽古に打ち込んだ。自分ではわからない何かに突き動かされているのと、何より稽古している時だけは何も考えずにすんだからだ。
 母に誉められるのが嬉しくて稽古に夢中になった結果、一緒に稽古しているリーフとナンナがついてこれなくなった。必然的にエーヴェルの目はリーフとナンナに注がれることになる。三人から少し離れて素振りをしていたマリータは手を止めて三人の様子を眺めていた。厳しい中にも暖かい雰囲気がマリータの心を凍えさせる。いたたまれなくなって思わずその場を立ち去った。

 どのくらい走っただろう。村を抜け、海の見える小高い丘までやってきたマリータは大きな桜の木の根元に腰を下ろした。海から吹いてくる涙と同じ味の風が濡れている頬を乾かしていく。はらはらと舞い散る桜の花びらに心を奪われているうちに深い眠りに落ちていった。そして夢の世界へと誘われた。母と二人、幸せな世界。でも何かが足りない。不安が募る。悲しくて寂しくて涙が零れた。いつしか風は止み、時折桜の花びらがマリータの上に舞い落ちる。桜の絨緞を踏み締める音を遠くで聞きながらマリータは夢の世界から抜け出せないでいた。
「マリータ、こんなところで寝ていると風邪を引いてしまう。」
「…う…あ、フィン様」
その声でようやく夢から醒めたマリータは慌てて涙を拭った。
「…ごめんなさい。休憩していたら寝てしまって…」
目を伏せてうつむくマリータをフィンは辛い表情で見つめていた。
「マリータ、寂しい思いをさせてしまったな」
思わずマリータは頭を上げた。自分の気持ちを知られていたなんて。驚きと同時に自分を見ていてくれたことに喜びを感じた。しかしすぐに、
(お母様に知られていたらどうしよう…)
その恐怖と不安がマリータの心を支配する。
「!…そんなことありません。本当に…」
おびえるかのようなマリータの瞳に、フィンは彼女の心の傷が深いことを悟った。そっと微笑み、マリータの横に腰かける。
「『好き』って気持ちはいろいろあるが、順番が付けられる『好き』や一人だけに向けられる『好き』もあれば、『好き』な相手がいくら増えても一人一人への想いは減らない『好き』もある」
「え?」
「子供への想いは決して変わることはない。どんなことがあっても」
そう呟いたフィンの瞳は限り無い慈愛に満ちている。フィンの子供達に対する想いがマリータにも伝わってくる。
(こんな瞳で私を見てくれる人を私は知っている…お母様とあともう一人…)
「私も『好き』な相手がもう一人増えた…」
微笑みをたたえてマリータを見つめる。ナンナやリーフを見る瞳と同じ眼差しで。
「フィン様…」
マリータの瞳から涙が溢れて頬を伝った。
「私、私…」
後は言葉にならなかった。泣きじゃくるマリータをフィンはそっと抱き締めた。
 思いきりフィンの胸で泣いたマリータは、泣き疲れて再び眠りに落ちた。今度は本当に安らかな眠りだった。フィンはマリータを抱き上げ、歩き出した。風が大きく桜の枝を揺らした。足跡を消すように花びらが一面に舞い落ちた。

 本当はわかってた。お母様が私を嫌いになった訳じゃないって。本当に愛されてるって。
 ずっと独り占めしたいと思ってた。でもそれだけじゃないってやっとわかった。
 羨ましかった。あんな風に愛されたかった。そして思い出した。かつてそういう時があったことを。

 村に戻ったフィンは青ざめた表情のエーヴェルと出くわした。フィンがマリータを抱いているのを見てほっとした表情に変わる。
「フィン、一体…?」
マリータの顔に涙の跡を見つけたエーヴェルは、何があったのか悟った。リーフやナンナと同じようにマリータを扱っているつもりだった。マリータが寂しがっていることに気付かなかった自分を責めた。
「マリータ…ごめんなさい…」
「エーヴェル、もうマリータは大丈夫だから、気にしない方がいい」
「でも…」
「マリータは繊細な子だ。貴女が自分を責めていることに気付けばきっと傷付く。いつもの貴女がマリータにとって何より必要だろう」
「フィン…」
(でも、マリータに必要なのは私だけではなくなったみたい…ほんと…少し寂しいわ)
「もう少し寝かせてやろう」
「じゃあ、私が…」
「エーヴェル!フィン!」
 リーフとナンナが駆け寄って来た。マリータが抱きかかえられているのを心配そうに覗き込む。
「マリータ、具合が悪いのか?」
「眠っているだけですよ」
エーヴェルが笑顔で答えた。フィンが言葉を継ぐ。
「マリータに仕事を手伝ってもらっていました。声をかけてからと思いましたが、皆さん真剣に稽古されていたので声をかけそびれてしまいました。ご心配をかけてしまい申し訳ありません」
リーフとナンナは一瞬顔を見合わせたが、すぐに笑顔を見せた。
「それならいいんだ。マリータが最近元気ないってナンナが言ってたからちょっと心配だったんだ。ね、ナンナ」
「はい。でもお父様、こんなに疲れるほどマリータをこき使わないで下さいね」
口調は怒っていたが、顔は笑っていた。
 その日の晩、目覚めたマリータはフィンとエーヴェルからリーフとナンナの素性について打ち明けられた。驚きはしたものの、母がリーフ達に熱心に剣を教える訳が納得でき、何といっても大切な秘密を自分にだけは話してくれたことが嬉しかった。そして一つの目標ができた。母のようにリーフやナンナの力になりたい―

* * * * *

 三年後―ダキアの森近くの村でマリータは村に迫り来る山賊達と戦いを繰り広げていた。村を守りたいという思いと、サイアスに諭されたこともあって何とか剣を手にすることができた。しかし、魔剣の呪縛から解き放たれたばかりで、辛い体験を乗り越えようと心を奮い立たせても剣を振るう度に悪夢のような光景が脳裏に浮かぶ。どうしても山賊に母が重なってしまうのだ。必死に母のイメージを振り払い、次々山賊を倒していく。剣に冴えが戻るのと反比例して心は悲鳴を上げていた。
(もうダメ…お母様…)
 マリータの目から涙が流れ落ちた。視界が涙で遮られる。動きが鈍ったところを山賊は好機とばかりに襲いかかった。その時だった。何かが光ったと思った瞬間、山賊は倒れた。槍を持った騎士がマリータを狙う山賊達を薙ぎ払っていた。
「マリータ!」
「おじさま…」
「とりあえず、片付けるぞ。オルエン殿、村の方をお願いできますか?」
オルエンと呼ばれたマージナイトは頷いて村の方へ馬を飛ばした。
 マリータとフィンは残りの山賊をあっという間に殲滅した。もうマリータの心に脅えはなかった。脅えの消えたマリータは先程とは別人のようだった。剣舞を舞うかのような軽やかな動きと迷いのない太刀筋。フィンは思わず見とれてしまった。型に多少の違いはあるが、ある女剣士を彷佛とさせる。最後の山賊を倒したマリータがフィンの許に駆け寄って来た。
「おじさま!私…」
そう言ったきり泣きじゃくる。
「マリータ、辛い思いをさせてしまった…。本当にすまない。それからナンナを守ってくれて本当にありがとう」
「いいえ!私は何もできなかったばかりか、お母様やナンナ様に刃を向けてしまいました」
マリータは激しくかぶりを振り、涙が止めどなく溢れ落ちる。フィンは落ち着かせようとマリータの肩を抱き、涙を拭く。
「マリータ、冷たい言い方しかできないが、そのことが君を苦しめるだけならもう忘れてしまった方がいい。エーヴェルも辛いだけだ。…だがマリータ、君ならもう大丈夫。あの辛い記憶を前に進む力に変えることができるはずだ」
マリータは顔を上げ、フィンを見つめた。
「…私にできるでしょうか?」
「今、君はこうやって自分の意志で、力で立っているじゃないか。現実に立ち向かおうという決意の現われだ。それに誰かの助けを得たとしても、乗り越えるのはマリータ、君自身だ。それを忘れてはいけない…」
自分を見つめるフィンの真剣な眼差しにマリータは素直に頷いた。誰に励まされるよりも心に染みる。マリータの瞳に輝きが宿ったのを見たフィンは、言葉を続けた。
「リーフ様もエーヴェルを救うことを諦めてはいらっしゃらない。すぐにマンスターへ戻ることはできないが…マリータ、一緒に行こう」
「はい!」
 笑顔が戻ったマリータの許に強風が桜の花びらを送り届けた。風が吹いて来た方へ目をやる。雲が晴れ、月明かりが湖畔の桜の木々を浮かび上がらせた。満開の桜は静かに花びらを散らしている。
「わあ、きれい…」
「もうこんな時期か…」
顔を見合わせ微笑みあう。二人とも言葉には出さなかったが、三年前の桜を思い出していた。マリータにはフィンの暖かい瞳がある人物の瞳と重なって見えた。マンスターでマリータを救ってくれた人―常に殺気をまとっていたが、一瞬見せたその瞳。魔剣の呪縛で意識が虚ろだったがマリータは確信していた。

 あの人の瞳もおじさまと同じだった…。もう私のこと忘れてるか、怒ってると思ってた…。いつかまた会える日がくれば…きっと来るわ。その時には思いきって呼んでみよう。
 …お父様…

Fin

後書き
 トラ7した人にしかわからない話になっちゃいました。説明は極力外しましたから(^^;)まあ読んでくれる人は大体知ってますよね(?)。フィアナ村の話、特にマリータとフィンの話は前から書きたくて仕方ありませんでした。で、これをかこうと思ったのは『青色吐息』で11章〜12章飛ばしたのがきっかけです。オルエンは台詞ありませんが登場してますし(あの後マジックリングゲットする訳です^^)。
 いやはや(^^;)うちのフィンは本当に口下手。って私のせいだって(涙)。マリータのフィンの呼び方さんざん考えましたが、顰蹙買うだろうなあと思いながらあれに落ち着きました。ファンの皆さんごめんなさいm(_ _)m
 それにしてもタイトルが(号泣)。

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