Last Valentine's Day

「アタシってほんとバカ……」
 奈津実は手にしていた包みをポケットに無理矢理しまいこむと、踵を返して階段を駆け上った。
「おおきに! 自分から貰えるんが一番嬉しいわ。大事に食べさせてもらうで」
 奈津実の背後から聞こえてきた声。特徴的な関西弁だからでも、いつも以上にハイテンションだからでもなく、彼の声だけは拾ってしまう。
 すでに両手に余るほどのチョコレートを貰いながらも、それを放り出してしまいそうな勢いで親友に飛びつく――という光景が目にするまでもなく脳裏に浮かび、奈津実は耳を塞ぐとわざと大きな足音を立てて勢いよく階段を上っていった。

 もうどうにもならないということは思い知ったから、自分から絶交を言い渡した親友に敗北宣言という形で詫びを入れた。諦めたはずなのに……諦めたからこそ義理チョコを渡そうと思った。
 それなのに、親友に向ける彼の笑顔は自分には決して向けられないことを改めて思い知る。彼の腕の中にたくさんあるチョコレートの一つでもいいと思っていたけれど、それは彼にとってはどうでもいいものなのだ。

「そんなの……わかってたじゃない……」
 ぽつりと呟くと速度を緩めた。一段一段進むのが遅くなり、やがて足が止まる。鼻の奥がつんとし始めたのを自覚すると、奈津実は思いきり頭を振り再び駆け出した。
 階段の踊り場を曲がった瞬間、奈津実は衝撃を感じてバランスを崩した。
「痛っ……」
 受け身を取れず、階段から落ちるしかないはずなのに、いつまで経ってもそんな気配はない。恐る恐る固く閉じたまぶたを開くと、目の前には……天敵がいた。
「げっ……ヒムロッチ……!!」
 咄嗟に逃げようともがいたおかげで氷室もバランスを崩しそうになる。そして、奈津実の身体が再び揺れる。
「きゃあ!!」
 今度こそ落ちると覚悟した時、宙を彷徨っていた手は氷室の手によって再びがっしりと掴まれ、奈津実は踊り場に持ち上げられた。咄嗟に氷室から離れると、その瞬間手首にじわりと痛みが走る。
「全く……君は……」
 溜め息混じりに奈津実を見下ろす氷室の目を、奈津実は息を切らせながら睨みつける。
「……な、何よ……。さ……最初っからちゃんと引っ張り上げてよ!」
「君が暴れなければそうしていたが」
 いつもならこの後説教が始まるところだが、今回は様子が違っていた。
「今、下りたくなければついて来なさい」
「何で……!」
 抗議しようとした奈津実の耳に再び聞こえる彼の声。
「せっかくやし、屋上で食べてもええかな?」
「わたし味見してないからちょっと怖いかも」
「せやったら一緒に食べよ」
 近付いてくる足音二つ。奈津実は階下を覗き込み、まだ姿が見えないことに安堵しつつも、自分の居場所を失ったことを悟った。どうしたものかとそっと氷室の顔色を窺うと、ほんのわずかに眉を顰めただけで、何も言わずに踵を返した。
「ちょっと待ってよ! アタシも行く」
 すでに氷室は五階の廊下を曲がろうとしていた。奈津実の声はとても届くとは思えないほど小さいものだったが、規則正しい足音は数拍休止した。しばらく留まった背中が消えると同時に奈津実は駆け上る。

* * * * *

 音楽室の扉を後ろ手で閉めると、奈津実はその場にへたり込んだ。防音設備の整ったこの部屋でも奈津実の頭の中で響く雑音は消えることがなかった。
「廊下は右側通行だ」
「……へ?」
「以後気を付けるように……以上だ」
 呆気にとられていた奈津実はその言葉でやっと氷室の意図を理解した。
(同情……?)
 沸き上がってきた反発は瞬く間に霧散した。表情の乏しい氷室の感情の解析は学園一だと自負している奈津実だが、現在の表情からは同情も憐憫も感じ取らなかった。
 氷室に対する違和感が生まれると同時に別の感情が奈津実を戸惑わせる。いつものように茶化してしまえば、望む通りに解放されないことはわかっていたが、そうすることをその感情は許さなかった。
「まだ帰りたくありません」
 氷室はわずかに眉を上げると、
「……下校時間までには帰宅しなさい」
とだけ答え、持っていた書類を教卓に置く。そして窓際のグランドピアノの前に座った。

(あ……これ聞いたことある……)
 部活だけは熱心だった奈津実は下校時間間際にピアノの音色を聞くことが何度かあった。それが氷室によるものだとものだと語った親友の表情は今は別の男に向けられている。
 消えかかっていた雑音が再び奈津実に降りかかる。それを振り払うように立ち上がると、一番近くの椅子に腰を下ろした。そして、肘をついて何も書かれていない黒板を睨みつける。
 何も考えたくないのに気を抜くと幻が浮かんできそうで、奈津実は目を閉じることができなかった。しかし、先程まで頭の中で響いていた雑音はピアノの音に取って代わっていた。いつの間にか穏やかな曲調が激しくなっていたが、奈津実にはそれが別の曲なのかどうかはわからない。ただその激しい音に驚いて思わずピアノの方に視線を向ける。
 無表情で旋律を奏でる様は機械的でまさにアンドロイドそのものなのに、生み出される音は荒々しく、その落差に呆然とするばかりであった。
 奈津実はしばらく息を呑んで見つめていたが、小さく息を吐き出すと同時に再び曲調が代わる。打って変わって静かな音が音楽室を包み込んだ。その優しい音色を聞き漏らしたくなくてそっと目を閉じた。

(そっか……ヒムロッチだからか)
 不意に奈津実は納得した。
 理由が知りたかったのは氷室を自分と同じ境遇にしたかったからだ。反発はしても同情であってほしかった。そうすれば奈津実は一人ではない――そんな自己中心的な考えも同時に自覚し、いたたまれなくなって思わず立ち上がる。
「せんせーさよーなら」
 棒読みでそう言うと、奈津実は氷室の方を見ないようにそそくさと退室した。
 一目散に自分の教室に戻って、鞄を引っ掴む。そして、そのまま昇降口へと向かおうとした。ふと気が付くと、かすかにピアノの音が聴こえてきた。奈津実はしばらく立ち止まって聴き入っていたが、急に方向を変えて再び廊下を駆け出した。その時の奈津実の表情から悲愴感は消えていた。

* * * * *

 下校時間を過ぎた頃、職員室に戻った氷室は同僚から数個のチョコレートを受け取った。来客用やお茶請けに回せないチョコレートも多く、それは教員の頭割りで持ち帰ることになっていたのだ。その際、誰が誰に宛てたのかは一切考慮されない――はずだった。
「これは……」
 その中に一つだけメモの付いたものがあった。『ヒムロッチへ』とだけ書かれている。贈り主は即座にわかった。そして、それがなぜ氷室に渡されたのかも。
「何が入ってるんでしょうね? 後で教えて下さいよ」
 チョコレートを渡した同僚は面白そうに笑いながら話しかける。
「申し訳ないですが、こればかりはどの先生方も受け取り拒否されてますので。処理は氷室先生に一任ということで理事長も同意なさってます」
「……」
 ずいぶん根回しのいいことだと軽く睨みつけると、同僚は首をすくめた。
「少し安心してるんですよ。このところ……あまり元気がなかったようですから」
「そうですね……」
 他のチョコレートと一緒に少し形崩れした小さな箱を鞄に入れようと手に取った氷室は、包装に違和感を感じた。
「ん……?」
 色々と角度を変えてみると包装紙に同色のペンで小さな文字が書かれているようである。
「仕掛け、何かわかったんですか?」
 期待に満ちた同僚の声に呆れつつ返事ははぐらかして職員室を後にする。

『ありがと』

 箱の小ささも包装紙の皺もまるで彼女の心のようだと氷室は思った。
「羨ましいと言ったら怒るだろうが……」
 ふとピアノを弾く前のやり取りを思い出して息を呑む。
「……藤井だからな」
 そう納得できる自分自身に驚くと同時に口許が微かに緩む。助手席の鞄を一瞥し、氷室は車を自宅へのルートから外した。 

Fin

あとがき
氷室先生が弾いていた曲についてはノーコメントです(汗)。……それだけではなんなので、この二人について少々。黒板落としのスチルを見た時からいいコンビだなあと思ってました。在学中の対決エピソードもっと見たかったです。まさか自分の中で恋愛にまで発展するとは思いもしませんでしたが、なっちんがマスターに次いで氷室先生のこと理解してるんじゃないかと思ったら、もう妄想が広がるばかり……(笑)。

ひとことどうぞ。

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