夢のかけら

 昨日、奇跡が起きた。

 最後の日だったはずが、最初の日となった。嬉しくてたまらない……はずだけど、正直言ってまだ実感が湧かない。ふわふわと宙に浮いたような気分だ。
 携帯電話に登録したばかりのあの人の番号が奇跡の証。名前も堂々と入っている。何度も登録しようとしては止めてきたから、用もないのに電話帳から呼び出して夢じゃないのを確認する。

 そして、もう一つ。
 私の手に残っていた奇跡の証は夢のかけらでもあった。

 あれは本当に夢じゃなかった……。

* * * * *

 何の肩書きもない春休み。とにかく何かをして忘れたいと思ってた私はアルバイトや自動車学校、卒業旅行……と思い付くままに予定を詰め込んでいた。それを聞いたあの人が自分よりも忙しいなと苦笑するほどで、こんなことになるのならだらだらと過ごすことにしておけばよかったとどれだけ後悔したことか。
 という訳で合格発表までは毎日アルバイトである。こんなに気が重いのはあの人に会えないからだけではなくて……。

 からからん……。

 遠慮がちにドアベルが鳴り、来客を示す。いつもなら反射的に言葉が出るのに、うろたえてしまった。三年近くアルバイトしていると常連の人は入ってくるだけで大体わかるようになる。常連中の常連のこの人は言うまでもない。そして、昨日からずっとこの人のことが頭から離れないでいたのだから。

「……いらっしゃいませ。葉月くん」
 慌てて営業スマイルを引きずり出し、指定席に目をやる。
「いつもの席空いてるよ。いつものでいい?」
「おまえ……」
「ん?」
 葉月君は何かを言いたそうだったが、軽く首を振り、
「いや……何でもない。ツナサンドも付けてくれ」
とすたすた奥の席へ歩いていった。

 カウンターに入って作業していても、どうしても葉月君をちらちら見てしまう。昨日も会ってたのにずいぶんと雰囲気が変わったような気がする。ただでさえ気安く話しかけられる状況にないのに、これは……まずい。
 無かったことにしておきたいけれど、合格していれば四月から同じ大学の同じ学部になる。高校の時のようにはいかないだろうけど、付き合いがなくなることはない。それどころか、自分で誘ったことではあるが自動車学校に一緒に通うことにもなっていた。

 言うしかない……。
 意を決した私はちょうど出来上がった注文の品をトレイに載せ、葉月君の許へ向かう。
「お……お待たせしました」
 声をかけると眠っていた葉月君はゆっくりと背を起こした。彼の空けたスペースにモカとツナサンドを置くと、
「サンキュ……」
と微笑を向けてくれた。この顔はいつもと変わらない。
 私はほっとしていつものように話しかけることができた。
「ねえ、今日の撮影何時まで?」
「朝早かったから、六時で終わる予定だけど……何だ?」
「よかった……私も六時上がりなんだ。話したいことがあるんだけど、空いてるかな?」
「話……? 別に……構わない。でも早く帰らなくていいのか?」
「え? どうして?」
「どうしてって……」
 葉月君は視線を一瞬逸らしたが、溜め息混じりにこう言った。
「氷室先生……」
「え〜っ!!」
 その名が出た瞬間、心臓が軋んだ。思わず大きな声を上げてしまい、慌ててボリュームを下げる。
「何で知ってるの?」
「知らないやつの方が少ないと……思う」
 彼は同情的な視線を私に向けた。青ざめているのが自分でもわかる。ふわふわと浮かんでいた昨日の奇跡がいきなり私の肩にのしかかってきたような気がする。
「そっか……」
 これからのことを思うと考え込まずにはいられないけど、今はそんな場合じゃない。
「話ってそのことと全然関係なくはないんだけど……」
「……。じゃあ、どこで話す?」
「寒いかもしれないけど、森林公園でいいかな?」
「わかった。俺……少し遅れるかもしれないから、遅目に出ろよ」
「うん、ありがとう。休憩時間なのに邪魔してごめんね。じゃあ、ごゆっくり」

 ああ……私は本当に馬鹿だ。

* * * * *

 店はあまり忙しくなかったから、午後六時にきっかりと上がることができた。ゆっくりしていていいと言われたけど、着替えるとすっかり手持ち無沙汰で仕方なくて待ち合わせ場所に向かうことにした。歩いていると気が紛れると思ったからだ。

「寒……」
 店を出ると冷気が身に凍みた。天気予報通りなのだが、日中の天気の良さに防寒を怠ってしまった。代わりにはならないだろうけど、しっかりと大判の封筒を抱える。
「おい」
 歩き出したところで、後ろから声をかけられて封筒を落としそうになった。
「葉月くん……」
「冷えるな……」
「うん……。やっぱり違うとこで話した方がいいかなあ……」
 すぐにはいい場所が思い浮かばず、途方に暮れて空を見上げる。わずかに赤みの残る空には雲は見当たらない。天気が崩れることはなさそうだけど……。
「おまえが大丈夫だったら、俺は別に構わない」
「う〜ん……。そんなに時間はかからないと思うし、やっぱり森林公園で話そうか」
「じゃあ缶コーヒー……おまえの奢りな」
「もちろん!」
 私が頷くと、葉月君は先に歩き出した。すれ違った瞬間、指先が私の手に当たった。
 その温度は逆に私を暖め、そしてどうしようもなく悲しくさせる。

 森林公園に着くまで私達はずっと無言だった。
 人通りの絶えた公園に入ると聞こえるのは足音だけになった。人が少ない方がいいと思ってたけど、これほどとは。でも、おかげであまり奥に行かなくてもすむ。どこで話そうかと見渡すとこうこうと光る自動販売機が私達を誘う。
「葉月くんはこれでよかったよね……?」
「ああ……よく覚えてたな。サンキュ」
 葉月君は缶コーヒーを受け取ると、そのまま近くのベンチに座った。私も同じ物を買って後に続いた。
「あったかい……」
 しばらくは手で転がしたり、頬に当てたりして懐炉代わりにしてから、タブを上げてそっと口を付ける。
「やっぱり猫舌だな……おまえ」
「うん。こういう時は早く飲んであったまりたいけどね」
 冷めかけたコーヒーのわずかな温もりが今の私には心地よかった。

「捨ててくる」
「あ……ありがとう」
 立ち上がった葉月君は私の手から缶を奪うと自動販売機の横のゴミ箱に捨ててくれた。
 私はその間に傍らの封筒を持ち上げ、中の本を取り出す。罪悪感であの後は封筒に入れたきりだったので、もう一度目を通しておけばよかったと後悔したけど、もう遅い。
「それ……」
 戻って来た彼が私の膝の上の本に気付いた。その表情はとても複雑だった。
「これ……葉月くんの……だよね?」
「……。ああ……」
 しばらく黙り込んだ後、葉月君はそれだけ言うとベンチに座った。
「ごめんなさい……」
 入れ替わるかのように私は立ち上がり、彼に向かって頭を下げた。
「どうして謝る……? 謝ることじゃないだろう」
「だって……覚えてなかったんだよ? 葉月くんはすぐわかったんでしょ……?」
「ああ……。でも、十年も前のことだ。それに俺も変わったし……」
「ううん!! 変わってない……変わってないよ。けいくんは……」
 思わずあの頃の呼び方で彼を呼んでしまった。葉月君は驚いたように目を見開いた。
「あ……ごめん……」
「とにかく座れよ」
 葉月君は私の手を取り、ベンチに座るよう促した。
「うん……ごめんね」
「おまえ……さっきから謝ってばっかりだ」
「ごめんなさい……あ」
「ははは……」
 珍しく声を出して笑う彼を見ていると、どんどん記憶が湧き上がってくる。

「何度も夢に見るくらい大切な思い出だったの」
「え……?」
 ぽつりと呟くと、葉月君は真面目な顔に戻って私を見た。
「そのおかげであの時のこと夢だと思うようになっただなんて、ほんと……馬鹿だよね」
「……」
「何度も引っ越して、友達になれたって頃に別れて……また新しいところで馴染もうとしてるうちに前の友達とは疎遠になって……。ずっと文通しようって約束してもいつの間にか途絶えたり……ね。そんなことを繰り返してるとその時の人間関係さえ上手くいけばいいやって思うようになってたわ」
「それ……わかる……。俺は逆に人間関係が煩わしくて……逃げた」
 葉月君が同意してくれたのに驚いたが、それで彼の他人に対する態度がようやく理解できた。私達は正反対のものを切り捨てたけど、切り捨てた理由は同じだったのだ。
「わたしね……すごい人見知りなの。信じられる?」
「さっきの話を聞くとそうなんだろうな……って思う」
「なのに『けいくん』とは……すぐに友達になれたんだ」
「ああ……」
「だから……絶対に忘れちゃいけなかったのに……」
 涙が込み上げてきて、それ以上何も言えなくなった。でも、涙は零さぬように膝の上で組み合わせた手をぎゅっと握る。
「普通は……覚えてないもんなんだろ。深刻に考えるな」
 労るような葉月君の声で、堰を切ったように溢れる涙。言葉とは裏腹にどれだけ彼が思い出を大切にしていたのかが伝わってきて、私は感情を抑えることができなくなった。
「初めての……友達だったの」
 やっとのことでそれだけ口にすると、一瞬の間を置いて葉月君は大きく頷き、そして付け加えた。
「……俺も」
 その時の彼の表情はもう決して忘れることはできない。

* * * * *

 私が落ち着いたのは相当時間が経ってからであった。理解してくれることに甘え、感情に任せて親にも言えなかったことを吐き出しては泣き、思い出しては泣いていた。
 葉月君は何も言わず、時折頷くだけだったが、聞いてもらっているうちに癒されていくのを感じていた。

「ごめんなさい……」
 自分でも驚くほどすっきりしたと同時に、とんだ迷惑をかけてしまったと我に返る。
「おまえ……本当に謝り過ぎ」
 葉月君は呆れたように笑った。立ち上がると軽く伸びをしながら近くの時計に目をやる。
「そろそろ帰らないと風邪引くぞ」
「あ……ごめ……」
「もう……それなし……な」
 彼に手を取られ、引き寄せられる。膝から絵本が滑り落ち、がさりと音を立てた。
「あ……!」
 私は慌ててそれを拾うと、土を払った。汚れが残らなかったことにほっとしつつ、葉月君に差し出した。
「これ、返すの遅くなっちゃった」
 彼はしばらく目の前の絵本を見つめていたが、受け取ろうとはしなかった。
「おまえ……持っていてくれないか? よかったら……だけど」
「いいの!? ……あ」
 即座にその申し出に飛びついてしまって、その厚かましさが自分でも恥ずかしい。やっぱり受け取る訳には行かないと悩んでいると葉月君は可笑しげにふっと笑いを零して、
「ああ、持っていてほしい」
と私が差し出したままの絵本を手に取り、改めてこちらに向けてくれた。
「ありがとう……」
 彼の笑顔が本当に優しく、そして昔のままだったので、自然に絵本へと手が伸びた。葉月君の手が離れた瞬間、それまで感じなかった重みが伝わってくる。
「どうした……?」
「……。……読めないよ、ドイツ語……」
 とっさに話題をすり替えるとよほど私の声が情けなかったのか、彼は吹き出した。
「もう、葉月くん……」
 口を尖らせると、葉月君は笑いをこらえながら、
「悪い……そう……だったな……」
と詫びてきた。でも、今にもまた笑い出しそうな顔をしているので、釈然とはしないのだが、こっちが不利なので下手から出る。
「続きっていうか最初から読んでくれると嬉しいんだけど……」
「ん? ああ……いや。おまえ、自分で読め。簡単だから辞書引いたら読めるだろ……多分」
「えーっっ! 春休みの宿題みたい……」
「おまえ……面白すぎ」
 また彼の笑いのつぼにはまったのか、今度は容赦なしに笑い続ける。そして、私の頭をぽんと叩き、
「宿題……頑張れ」
と言うと、出口の方へ数歩進んだ。
 私も彼に続こうと歩き出した時、葉月君は振り返って付け加えた。

「ハッピーエンド、自分で探した方が面白い……だろ?」

Fin

あとがき
葉月君(尽や花椿氏も)以外の男性EDの場合、気になるのは絵本の行方です。絵本についていたCDで主人公が持っていたので(別に入手した可能性もありますが)、ちゃんと葉月君と話をつけたんじゃないか(笑)と思ってこの話を書きました。あ、絵本の朗読CDですが、葉月君に加え先生も朗読したのはドイツ語が読めたから……なんて妄想しております。
ちなみに、主人公の転校が多かったという設定とそれに伴う性格は私の捏造です。自分は中学時代のこととか聞いてる割に全然過去のことが出てこないので(ゲームだから当然なのですが)、いつの間にか私の頭の中でそういうイメージができてしまいました。
それとこれは主人公視点の一人称の話なのですが、台詞と地の文の呼び方を変えてみました。って漢字か平仮名かってだけですが(汗)。地の文が完全な話口調ではないのであえてそうしてみましたが、読みにくいでしょうか……?

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