Graduation

 それは氷室にとって毎年行われる行事の一つ――大きな節目となる重要なものではあるが――にしかすぎないはずだった。巣立って行く生徒たちの前途を祈り、一抹の寂しさを味わったりするのだから、彼にしては珍しく感傷を覚える行事ではあるが、それすら日常であった。
 だが、今回は違っていた。受験生を受け持った年度だからという訳でもない。今まで味わったことのない喪失感を氷室は持て余していた。
(往生際が悪いな……俺も)
 卒業生席の一角からどうしても視線を外せずにいる自分を振り払うように立ち上がると、マイクの前に進み出た。そして教え子の名を一人一人呼ぶ。あくまでも教師として。

 それで吹っ切ったはずだった。

 だが、氷室は校内でありながら滅多に足を踏み入れない場所で佇んでいた。それは時折学園の伝説や怪談の舞台として取り上げられることはあったが、普段は訪れる人もほとんどなくひっそりと扉を閉ざしていた。
 その扉が開き、新たな伝説が付け加えられたことは少なからず校内を騒がせた。氷室が訪れた時には生徒たちは下校し、いつも通りの静寂が辺りを包んでいたが、決して開かぬという扉がわずかに開いていたことだけが、その場所が今までとは全く違うものとなったことを示していた。
 無論、氷室はその場所に関する噂が荒唐無稽であることを知っていた。それでも、その扉から中に入るのにしばらく逡巡した。どれくらい扉の前に立っていただろうか。自分が戸締まりをするという理由を付けてきたことをようやく思い出し、その本末転倒ぶりに動揺を自覚せざるを得なかった。

 扉を大きく開くと、光を柔らかく通すステンドグラスが心に突き刺さった。今日ここで起きた出来事はこの場所から容易に連想できる言葉と相まって氷室の心を大きく波立たせる。
「全く……」
 一人だという安心感からか、呟いたつもりが声は予想以上に響いた。前方の座席で影が動くまで、またしても用件を忘れていた自分に愕然とする。
「ヒムロッチ……」
「藤井……」
 溜め息を自分に向けられたものだと勘違いした奈津実はよろよろと立ち上がると、氷室に近付いてきた。
「へえ……やっぱりここが製造工場だったんだ。地下への入口ってどこですか?」
 その声には以前の勢いが全くない。そして目が赤く腫れていることに気付くが、氷室はそれには触れず、
「秘密だ」
とだけ返した。
「ケチ……」
 奈津実の顔に張り付いていたぎこちない笑顔が少しだけ柔らかくなったので、氷室はさらに続けた。
「そんなに名残惜しいのならもう一年通うか?」
「げっ……もう十分で〜す」
 自分の前を駆けていった奈津実を見送った氷室は、最初からそのためだけに来たかのように早足で教会内を一周するとその扉を施錠した。

* * * * *

 教会を飛び出した奈津実は帰宅しようと自分の教室に鞄を取りに戻った。その勢いで通り過ぎようとしたが、氷室のクラスの前で足を止める。
「まだある……」
 自分のクラスでもないのに黒板を占拠して書いたのは親友と想い人への祝福のメッセージ。奈津実が書いた時よりも増えていて、二人の人柄がよく表れていた。
「ホント……アタシってなにやってんだろ」
 書いた時とは全く別人のような暗く沈んだ表情で、奈津実は黒板を見つめた。
 あの時の自分と今の自分――心から祝福していたはずだった。吹っ切ったはずだった。なのに今、心に渦巻いているどす黒いものは何なのか――本人だからこそ、その落差を受け入れることができずにいた。
 奈津実はすたすたと黒板の前に近付くと、その手に黒板消しを取って振りかざす。

「それは残った方の仕事なのだが」
 背後からの声に心臓が大きく跳ねる。思わず黒板消しを取り落とした。
「君が後始末をするなど珍しいこともあるものだ」
 その声が誰のものかわかっているから振り返ることもできずに、奈津実はただ足音が近付くのを聞くだけだった。黒板消しが落ちた方向で少し速度の落ちた足音は奈津実の背後を通り過ぎ、左端の絵の前で止まった。
「ヒ……氷室先生にそっくりでしょ? アタシ、絵の才能あるかも……」
 わざと声を張り上げて、奈津実は無理矢理顔を左側に向けた。そして彼の表情に息を呑む。
 咄嗟に視線を逸らした。見ていられなかったのか、見たくなかったのか奈津実にはわからないが、とにかくこの状況から逃れたい。どうしようと視線を宙に彷徨わせていると、
「……そうかもな」
 それほど時間は経っていないはずなのに、その声を奈津実は待ち侘びていた。吸い寄せられるように声の主に視線を向けると、若干上擦った声で、
「ね……ねえ、卒業記念ってことで写真撮ろうよ。こっち来て立って」
とすたすたと氷室に近付くと、彼の腕を取り引っ張る。
「全く……」
 頭上で呆れたような溜め息が聞こえてくるが、奈津実は意に介さず黒板に書いた彼の似顔絵の前に立たせる。厳格な教師ではあるが、時折手綱を緩めることがあるのを奈津実は知っていた。それには親友が大きく関与していたことが脳裏を掠めて、一瞬心がざわめいたが、とにかく『藤井奈津実』という役を演じることに集中することにした。
「う〜ん、やっぱりアタシって天才」
 黒板の前に立つ氷室の渋面も『彼らしく』て、奈津実は鞄からカメラを取り出しシャッターを押した。
「これは売らないから安心してよ」
 自然に調子に乗ると、黒板から離れようとしていた氷室の口角が上がった。後悔しても後の祭りである。
「ほう、噂には聞いていたがやはり君だったか」
「いや……それは……アハハ……あ、一緒に撮ってもいい?」
 誤魔化すつもりで言ったのだが、氷室は黒板の前に留まった。
「卒業……ということで不問にするが、わかっているな?」
「も、勿論もう売りませんってば」
 教室の中央辺りの机にカメラを置いて、ファインダーを覗く。中央の絵が問答無用とばかりに目に入るが、奈津実はそのままセルフモードにして黒板に駆け寄った。

* * * * *

「アタシが消していい?」
 返答を待たずに奈津実は黒板消しを持ち、乱暴に上下させた。チョークの粉が舞う。
「藤井……!」
 チョークの粉は氷室を阻むように黒板――というより、奈津実――の周囲に漂っている。最初からそのつもりであったので、氷室は少し離れて見守っていた。
(それなら声をかけずにいればよかったのか……?)
 自問するが、答えは決まっている。教師としてもそうでなくても適任者は他にいるのだろうが、張り詰めた背中を目の当たりにして見なかったことにはできない。
(教師でなくとも……は失敗だったがな)
 奈津実の驚いた表情で自分がどんな顔をしていたのかを悟った。咄嗟に何事もないように取り繕ったが、溢れかけた感情は氷室を愕然とさせた。

「ケホ……ゴホッ」
 奈津実の勢いが衰え、やがて動きが止まった。黒板消しを構えたまま咳き込みながら俯いている。氷室は窓を開けると黒板に近付いた。
「後は私が……」
 別の黒板消しを取ろうと手を伸ばした瞬間、奈津実の右手が黒板を叩いた。
「藤井!!」
 チョークの粉は容赦なく氷室と奈津実に降り掛かる。再び振り上げた奈津実の腕を掴むと、奈津実の手から黒板消しは滑り落ち、さらに激しく粉は舞う。
「なんで……なんで……」
 顔を上げた奈津実の頬を堪えきれなかった涙が一筋伝う。
「藤井……」

 慌てて顔を拭う奈津実を後目に、氷室は別の黒板消しを手に奈津実が黒板消しで描いたもう一つの絵を丁寧に消していった。元の絵を破壊し、かき混ぜたそれはまさに氷室と藤井の感情そのものであった。
 奈津実が涙と引き換えに飲み込んだ言葉もおそらく氷室の言葉でもあったのだろう。発せられると双方を確実に切り裂く言葉。奈津実にとっては氷室に涙を見せることほど屈辱はないだろう。それでも口にはしなかった。
 だから氷室はひたすら黒板消しを動かす。
 心もそうであればいいと願いながら。
 やがて黒板消しが意味を為さなくなった頃、もう一つの黒板消しが現れて黒板を撫で始めた。先ほど同じ人物とは思えないほど丁寧かつ確実に黒板を綺麗にしていく。

* * * * *

「終わった……!」
 満足げな表情で黒板を見つめる奈津実に水を差すように、氷室の声が現実に引き戻す。
「まだだ。床に粉が残っている」
「え〜、……あ、それは残された者の仕事ってことで」
 その言葉に虚をつかれた氷室をにやにやと見遣りながら奈津実はさりげなく鞄を取りに向かう。
「それはそうと……君はそんな格好で帰るつもりか?」
「もう最後だしさ、こっちはいいけど、ヒムロッチはどうすんの?」
 奈津実の言葉に自分の服を見た氷室が予想以上の惨状に絶句していると、
「じゃあまたね!」
 その隙に鞄を小脇に抱えた奈津実が教室を飛び出そうとしていた。
「顔は洗って帰りなさい」
 走り去る背中に声をかけると、
「げ、忘れてた」という声と同時に足音が乱れた。

「全く……」
 その表情は声ほど苦々しいものではなかった。氷室は上着を脱ぎ、箒を手に床を掃き清める。ふと視線を窓に向けると奈津実が駆けていくのが見えた。その勢いに安堵しつつ見えなくなるまで見送ると、溜め息交じりに再び箒を動かす。
「またね……か。卒業したとは思え……」
 氷室は口を噤んだ。そして再び喪失感に襲われるだろうと身構える。しかし、湧き出した感情があまりにも穏やかなのに氷室自身が驚いた。

 開け放っていた窓を閉め、上着を片手に教室を出る。扉を閉めるとただの教室になってしまう気がして、もう一度覗き込む。
「……ありがとう」
 伝えられなかった言葉を残して静かに扉を閉めた。

FIN

あとがき
 主人公がEDを迎えている裏でどうしているだろうと妄想して書きました。黒板のメッセージがなっちん作だと知ってから温めていたネタですが、形にするのに何年かかったのやら(汗)。これからは失恋を引きずりつつ、少しずつ前進していく様子を書きたいなあと。

ひとことどうぞ。

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