A Cipher

 数時間前まで彼がいたこの部屋。彼がいないだけでこんなにがらんとするなんて。彼がいたのはほんの数日なのに、耐えられるだろうか?今夜からは私一人…。
 すっかり別世界となった部屋を彼のいた痕跡を探して見回した。こういう時だけは彼の几帳面さが恨めしい。特に忙しかった朝なのに、すっかり整えられていてシーツにも皺一つない。まるで夢から覚めたみたい…。
「あら?」
 窓際の小さなテーブルの上に皺だらけの紙が無造作に置かれていた。何かを期待した私は駆け寄り、裏返して見た。でも…。
「よ…読めない…」
 今まで見たことのない文字が数個並ぶのみ。何文字あるのかも皆目見当がつかない。でも、間違いなくこれは彼の書いたもの。それだけで愛おしくてたまらない。
 それがこの謎の文字との悪戦苦闘の始まりだった。

 本当は解読作業に掛かり切りになりたいところだけど、新米マスターナイトとしては稽古を疎かにする訳にはいかない。それも使用する武器が多いために稽古に割く時間も半端ではない。でも、その忙しさが今の私にとってはありがたいのだけど。
「疲れた〜」
 貴重な休憩時間、私は懐から例の紙を取り出した。あれから皺を伸ばして肌身離さず持っている。文字の形は目を閉じれば浮かんでくるほど頭に叩き込んだ。だけど、どうしたら意味がわかるのか、取っ掛かりすらない。
「ラケシス、何見てるの?」
 シャナンである。彼は隣に腰かけ、私の手にある物を興味津々に見つめている。
「フィンからのラブレター?」
「…なのかどうかもわからないのよ」
 私は溜め息混じりに答え、その紙をシャナンに渡した。
「今度は内緒にしててくれる?」
と付け加えると、シャナンは少しむくれて、
「ひどいなあ…。ずっと黙っていたじゃないか〜」
「でも最後にばらしちゃったじゃない。でも…感謝してるわ」 
「本当に?もしかしたら怒ってるんじゃないかって心配してたんだ。でも…これ何?」
 シャナンもこの文字を見たことがないらしい。期待外れとばかりに口を尖らせて私に紙を返した。
「わかれば苦労しないのよ…」
「ラブレターだと思って期待してたのに…。でも、どうせ『愛してる』とかそういう言葉じゃないの?」
 妙にませた口調に吹き出しそうになりながら、私も負けてはいない。
「それはたっぷり本人の口から聞きました♪」
「そ…そう…だよね〜」
 呆れつつも頷くシャナンに我慢できなくなって私は笑い転げた。
「そうやって肯定されるのも可笑しいわよね」
「だってその通りだったじゃない。僕がいてあれじゃあ、二人っきりだとどうなることやら…」
そう言いながらシャナンもつられて笑い出す。
 しばらく笑った後、
「あ!」
シャナンは弾かれたように立ち上がった。
「どうしたの?」
「あんまりよく覚えてないんだけど、イザークの古い本って今と全然違う字で書いてあるんだ。だから…」
「そうだわ!アグストリアにもちょっとだけ残ってる…。形は違ったと思うけど」
「じゃあ、レンスターの古い字なんじゃない?」
 一人ではなかなかたどり着けなかっただろう。相談できる相手がいることの幸せを改めて実感した。

 それからは稽古の合間を縫ってセイレーン城の図書室に通い詰めた。でも、今のシレジア語の読み書きもかなり怪しい私は、本の題名を読むことすら覚束ない。やっとのことで辞書の本棚を見つけ、またまた溜め息。各国の古語の辞書はあるにはあったが、当然のことながら旧シレジア語で書かれていたのだ。
「どうしろっていうのよ…」
 私は途方に暮れるしかなかった。でも、諦める訳にはいかない。彼は私が読めないことをわかっていてあの文字を使ったのだ。だから余計に気になる。それに、今度会った時に鼻を明かしてやりたい。その思いだけが私を動かしていた。
 それでもなかなか思うようには進まなかった。まず、グラン語でレンスターという字を探してそれをシレジア語へ。そしてシレジア語から旧シレジア語に訳す。
「…ない…」
 いくら探しても旧レンスター語の辞書がないのだ。違うところにあるのかもしれないと書庫を彷徨って数日。やっとその頃にはトラキア半島は一つの国だったことを思い出した。あまりの徒労感に投げ出してしまいそうになりながらも、シャナンに愚痴を零してはやる気を回復させた。それを何回繰り返しただろう。

* * * * *

 彼が去って二月になろうとしていた。
 シレジアの冬は寒い。私も一週間ほど前から風邪気味で、稽古は休んでいた。これ幸いとだるい身体を引きずって図書室に籠る。皆は心配してくれるが、シャナンが上手く言い包めてくれているらしく、あまり咎められずにすんでいる。
 すっかり勝手の知った図書室。いつもの席に座っていつもの辞書を広げる。だけど、今日はいつもと違ってどきどきしていた。もうすぐ読める…はずなのだ。震える手でページを繰る。そして一文字一文字を今のグラン文字に変換する。
「デ…ル…ムッ…ド…?」
 読めたことに感動したのは一瞬だった。彼の意図がわからず、また奈落の底に突き落とされたようだった。
「デルムッドって…」
 お義姉様から教えていただいた彼のお父様でレンスターの英雄の名前。そして…。
 何故この名前をわざわざ旧文字で書いたのか。どうして私に読ませたくなかったのか…。
 すっかり混乱した私はよろよろと図書室を出た。するとシャナンが駆け寄ってきた。
「ねえねえ、読めたの?」
もうすぐ解読できると話していたので期待に満ちた瞳で私を見つめている。
「…読めたのは読めたんだけど…」
「だけど…?あれ?ラケシス、顔色悪いよ」
「…うん…ちょっとふらふらするわ…」
 風邪が悪化してしまったのか、私はその場にへたり込んでしまった。シャナンはすっかり狼狽している。
「ラケシス、大丈夫?…どうしよう…」
「俺が部屋に連れて行くから、誰か呼んで来い」
「うん!」
シャナンは一目散に駆けて行った。
「ベオウルフ…ごめんなさい…」
 私は苦笑を浮かべて立ち上がろうとした。
「謝るくらいなら最初から無理するな!…誰が気遣ったってフィン以上にあんたを気遣える奴なんていないんだぞ」
私に手を貸しながら真剣に怒っている。
「ベオウルフ…」
「…まあ今こんなことを言っていても仕方ない。他に辛いところはないか?」
「そういえば…胃がムカムカするわ…」
「…そうか…」
 ベオウルフは一瞬目を伏せたが、すぐに私を抱えて歩き出した。

 部屋に運ばれた私はベッドに寝かされた。
「ありがとう…」
「気にすんな。元気になったら酒の一本でもおごってくれ」
照れくさそうにそう言うとベオウルフは部屋を出ようとした。その時、飛び込んできたシャナンとぶつかりそうになった。
「ラケシス、大丈夫!?」
「ええ、ありがとう」
「エーディン連れてきたよ…ってあれ?」
 扉の前は無人だった。呆然とするシャナン。数拍後、エーディンが部屋に現れた。
「ラケシス様、大丈夫ですか?」
「わざわざごめんなさい…」
「お気になさらないで」
「おい、シャナン。行くぞ」
 ベオウルフがシャナンの肩を掴んで強引に部屋から出ようとした。シャナンは抵抗して、
「心配だから見てるよ!」
「着替えも見るつもりか?」
「…そ…それは…」
抗議は実らず、真っ赤になったシャナンは引きずられて行った。それをエーディンは楽しげに見送っていた。
「ふふふ…小さな騎士様ね…。さてと、始めましょうか」

 エーディンが出て行った後、私はしばらく呆然としていたが、やがて笑いが込み上げてきた。お腹が捩るくらい笑ってベッドの上を転がり回る。
「あ…」
 我に返った私は慌ててお腹をさする。まだ実感は湧かないが、お義姉様の時のことを思い出す。あの時のお兄様の喜びようったらなかった。…そしてものすごく心配していたことも。
「そうだわ!」
 霧が晴れるように彼の気持ちが見えてきた。本当に彼らしくて…涙が出る。
 願ってはいたけれど、叶うとは限らない。駄目だったら私ががっかりするだろう。だから、言わずに行ったのだ。だけど、伝えたい…。そしてどうしても消せない不安と。
 私はもう一度あの紙を取り出した。うっすらと残る皺が彼の心の揺れを物語っていた。何度も捨てようとして…捨てられなかった彼の思い。
「フィン…」
 彼の思いが形になったその紙をぎゅっと抱き締めた。私の体温なのだけれど、彼の暖かさが伝わってくるようだった。

「ラケシス…入ってもいい?」
 ノックの後、そっと顔を出したのはシャナンだった。心配そうな表情を浮かべている。
「どうぞ。シャナン、心配かけてごめんね」
笑みを浮かべてそう答えると、シャナンは瞳を輝かせて駆け寄ってきた。
「それで、どうだったの?ただの風邪?」
「ううん。病気じゃないの」
 シャナンは私の答えに一瞬ぽかんとしていたが、すぐに訳知り顔で頷いた。だてにベビーラッシュを見ている訳ではないようだ。
「本当に!?おめでとう!」
「ありがとう。それにね、あの謎も解けたの♪」
「え?何て書いてあったの?」
「ふふふ…それは秘密」
「え〜ケチ!教えてよ!あ、やっぱり『愛してる』だったんじゃ…」
「違うわよ。でも、それと同じくらい大切なことよ」

Fin

後書き
20000Hitの記念に投票所でリクエストしていただいたお題は「ラケシスを困らせるフィン」だったんですが…。
これはどうみても「フィンに困らされるラケシス」ですね(^^;)気がついた時にはもう遅かった(TT)
おまけにいつの間にか1周年記念にもなってるし(^^;)さらにリハビリ的作品なので、どうも文章がぎこちないです。
出張ってるシャナンとおいしいところ(?)をかっさらったベオウルフの謎については今後のお楽しみということで…。
題名の「A Cipher」は暗号という意味です。素直に「A Code」にしなかったのは、「フィンは0(ゼロ)」というイメージを私が勝手に持っているからです(おい)。ついでにつまらない人(物)って意味もあったりしますが。

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