Bittersweet(バレンタイン2002)

 それはとある冬の日の朝のこと―
 夕べは残業だったフィンがいつもより遅く目覚めると、隣に寝ているはずの妻の姿がない。たとえどんなに早く寝ても起こされるまでは決して起きることのない妻が…である。
「…もしかして体調を崩したのか?それにしても全然気付かないなんて…」
 熟睡してラケシスが起きた気配に気付かなかった自分に腹を立てながら、フィンは慌てて着替えて一階に下りていった。

「あれ…?」
 キッチンから香しき匂いが…否、それを通り越してかなり焦げ臭い。
「まさか…」
 フィンは顔面蒼白となり、キッチンのドアを開けようとしたが、微動だにしない。どうやら食器棚を移動させたようだ。恐るべき力27…。
「ラケシス!?どうしたんだ?とにかく開けてくれないか」
「だめよ!できるまで絶対に開けないから!」
「何を作ってるんだい?」
「何って…匂いでわからないの?」
「………」
 真面目に答えるととんでもないことになるのは目に見えているので咄嗟に口を噤むフィン。その時服を引っ張られていることに気付いた。
「フィン…僕、お腹空いちゃった…」
「リーフ様…」
 上司から預かっているリーフと娘のナンナ、それから陰の薄い(涙)息子のデルムッドが自分を見上げている。その手があったかとフィンは再びキッチンに声をかけた。
「ラケシス、子供達が起きたから朝食を作らないと…」
「もう作ってダイニングに置いてあるわ。しばらく子供達の世話お願いね♪」
「ラケシス…」
 妻の要領のよさに感心しながらもその料理の腕はといえば…。子供達も不安げな表情に変わっている。さすがにそれはまずい。それに何といってもあのラケシスが料理を作ったということの方が重要だ。フィンは内心の動揺を隠し、平静を装って子供達の方を向いた。
「じ…じゃあ、ダイニングへ行こうか」
「母さんの料理なんて食べられる訳…」
 陰の薄い割には辛辣な台詞を吐くデルムッド。すかさずキッチンから鋭い声が飛ぶ。
「デルムッド!何か言った!?」
「…な…何でもないですっ(汗)」
 デルムッドは弾かれるようにダイニングに走っていった。
「朝ご飯だし、そんなに手の込んだもんじゃないだろうから大丈夫なんじゃない?」
「そうね。どうせパンが置いてあるくらいでしょ。早く行きましょ、リーフ♪」
 フォローにならない言葉を交わし、手をつないでダイニングに向かうリーフとナンナ。その後に大きな溜め息を吐いたフィンが続く。

 妻に気を残しつつ、ダイニングに入ったところで子供達が立ち尽くしていた。
「どうしたんだ?早く座りなさい」
 子供達を促し、テーブルの上に視線を向けたフィンは言葉を失った。すっかり焼け焦げた食パンと目玉焼きなのかオムレツなのかわからない大量の胡椒が降り積もった物体。そして乱雑にちぎられたレタス約一玉にトマト四個、マヨネーズ…。
「…父さん、これ食べられるのかなあ…っていうか食べてもいいのかなあ?」
とデルムッド。顔には不安を通り越した恐怖の色が浮かんでいる。フィンは目が合う前に表情を整えるが、さすがにすぐには声が出ない。
「………」
(予想はしていたとはいえ、まさかこれほどとは…。でもこんなに冷めて…何時に作ったんだろう?)
 自分なら我慢して…もとい喜んで食べるところだが、子供達にはさすがに食べさせるのは躊躇せざるを得ない。フィンはどうしたものかと途方にくれた。
「ラッキーなのはこの野菜達が無事だってことだよ」
「さすがリーフ♪そうよね。レタスは分けちゃって、トマトは各自で適当に…ということにしましょう」
 食い意地の張っているリーフはあくまで前向きである。ナンナも即座に同意して早速行動に移す。フィンも我に返り、
「で…では、お茶を入れようか」
と何ごともなかったかのようにお茶の準備を始めた。
「これでいいのかな…」
 取り残されたデルムッドは呆れたように独り呟いた。

「あったあった♪」
 部屋に戻っていたリーフがコンビニの袋を持ってダイニングに入ってきた。
「じゃーん!」
 誇らしげに取り出したのはスナックパン。どうやらフィンに隠れて食べているようだ。
「リーフ様…まさかいつもこのようなことを?」
「ははは…細かいことはこの際置いといて…」
「そうよ!今そんなこと言ってる場合ではないでしょ、お父様。リーフは私達のことを思って…」
 潤んだ瞳で父を見つめるナンナ。絶妙のコンビネーションである。母譲りのこの攻撃にはフィンはからきし弱い。
「たまにはリーフも役に立つんだな」
「兄さんにそんなこと言われる筋合いはないわよ!!別に食べなくてもいいんだから!」
 つい口を滑らしたばかりに妹から恐ろしい形相で睨まれたデルムッド。慌てて謝罪する。
「ご…ごめん」
「何でもいいけど、早く食べようよ」
「あ、ごめんなさい、リーフ。兄さんなんてほっといて早く食べましょ」
「ナンナ〜」
 デルムッドの存在などもうどうでもいいらしい。リーフとナンナは仲良く席についた。妹の仕打ちにがっくりと肩を落とすデルムッドだが、毎度のことなのでフィンはお構いなしに席につかせた。
「デルムッドも早く食べてしまいなさい」

* * * * *

 そんなこんなで波乱の朝食は終わり、もうすぐ正午になろうかという頃。外で遊んでいる子供達もそろそろ帰ってくる。リーフの腹時計は極めて正確なのだ。…だが、キッチンでのラケシスの籠城は続いている。フィンは深く溜め息を吐くと書斎を出た。
「ラケシス…」
 もう何度となく繰り返した攻防。またはねつけられるのを覚悟しつつ声をかけた。
「フィン…」
 返ってきた涙声にフィンは咄嗟にドアノブを握った。だがやはりドアは開かない。
「ラケシス!怪我でもしたのか!?」
「ううん…怪我はしてないわ…」
「だったら開けられるな?」
「…うん」
 ずりずりという音の後、ご開帳。床を気にする間もなく、キッチン内の惨状にフィンは絶句するしかなかった。竜巻に巻き込まれたかのように鍋やボウルは散乱し、流しには黒い物体がうずたかく積まれている。
「こ…これは…」
「…ごめんなさい…。今日はバレンタインデーだから自分で作りたかったの…」
 ラケシスはすっかりうなだれている。フィンは彼女の肩を抱いて微笑みかけた。
「本当に嬉しいよ」
「…でも…結局何もできなくて…」
 今にも泣き出しそうなラケシス。
「ほらここに…」
 フィンはラケシスの頬に口付けた。
「フィン…」
「美味しくいただきました」
「え?」
「顔見てごらん。その顔もなかなか素敵だけど、子供達にはもったいないかな」
「あーっ!!」
 近くの食器棚のガラスに映る自分の顔を見たラケシスは真っ赤になった。いつ付いたのか頬や鼻、額にはチョコレートが…。
「全部食べた方がいい?」
「フィ…フィンの馬鹿ぁ〜」
 意地悪なフィンの問いにラケシスは洗面所に一目散に飛び込んだ。フィンはそれを楽しそうに見送った後、腕まくりをして復旧作業に取りかかった。

「よかった〜。お昼もアレだと思うとちょっと憂鬱だったんだよね〜」
 デルムッドが言うととんでもないことになりそうな台詞をさらりと口にし、リーフは昼食のテーブルについた。朝食とは打って変わって充実した食卓。子供達(特にリーフ)は取り返すかのように何度もお代わりをした。…否、最もよく食べたのはラケシスであった。
「やっぱり、フィンの料理が一番だわ♪」
「それなら余計なことは…」
「デルムッド〜」
「兄さん!」
 ラケシスとナンナの同時突っ込みに慌てて食事に専念するデルムッド。
「せっかく人が気分よく食べてるのに余計なこと言わないでよね」
 ナンナの方が辛辣なはずなのに誰からもフォローされず、すっかりいじけるデルムッドであった。
「なんで僕だけ…」

* * * * *

「あれ、いい匂いがする…」
 まず気付いたのはリーフだった。
「あらほんと。何かしら?」
「チョコレートケーキと見た」
「まあ、リーフったらさすがね♪」
「単に食い意地が…な…何でもないよ(汗)」
 ナンナの目がつり上がりかけたのに気付き、慌てて口を押さえるデルムッド。
「そっ…それよりいいのか?リーフが…」
 デルムッドの指差す方向にはケーキの匂いに引き寄せられるかのようにふらふらと部屋を出ていくリーフの姿があった。
「リーフ、待って!おやつの時間にはまだ早いわ!」
「あいつに『待て』なんて無理に決まってるだろ」
 ごん。
 鈍い音がした後、ナンナはリーフを追って子供部屋を飛び出した。そして、うずくまるデルムッド…。
「いてて…ナンナも母さんみたいにすぐ手が出るんだから…」
「何ですって?」
 そっと見上げるとラケシスが鬼の形相で睨み付けていた。が、すぐに満面の笑顔に変わった。
「か…かあさん?」
「デルムッドがチョコレート貰えるようになるまで私が作ってあげるからね♪」
「げっ…。い、いえ…何でもないです…。う、嬉しいなあ〜」
母の目に怒りの炎が燃え上がろうとしているのを察したデルムッドは内心泣きながら笑顔を作った。
「そうでしょ、そうでしょ♪さ、皆待ってるわ、降りて食べましょう」
 父親似の笑顔に思わず息子に頬ずりし、そのまま引きずって階下に向かうラケシス。母のスキンシップが嬉しいやら照れくさいやら…そして怖いやらでぎこちなく固まっていた笑みは、リビングにうずたかく積まれていた黒き物体を見た瞬間凍り付いた。
「デルムッド、早くおいでよ。香ばしくて結構いけるよ、これ」
「リーフ、本当?」
 それまでデルムッドに絡めていた腕をバッと外し、ラケシスはリーフに飛びついた。すかさずナンナが間に入る。
「お母様のチョコレートはその辺にして、ケーキにしましょ。私も用意してるんだから♪」
「ほんと?ナンナのチョコもあるんならそっちがいいよ。それにラケシスがせっかく作ったのに僕が全部食べるのも悪いしね♪」
 リーフをラケシスから引き離し、後は任せたという視線を兄に送っていたが、さすがに気の毒だと思ったのか、
「兄さんも早く座って。お父様のケーキ無くなっちゃうわよ」
と、ナンナはデルムッドの手を引いて席に座らせた。
「ちょっと待ちなさい、デルムッド」
 ラケシスは息子まで取られてなるものかとデルムッドの腕を掴んだ。ちょうどその時、ケーキを切り分けたフィンが入ってきたので、手をぱっと離してすかさず抱き着く。
「フィン〜♪」
と甘い声も束の間、振り向くと笑顔は浮かべていたが目には厳しい光が宿っていた。
「デルムッド、いいわね。後で絶対食べるのよ」

 そして、その日からデルムッドはチョコレートを自分から食べることはなくなったという…。

Fin

後書き
聖戦の世界でバレンタインを書くととんでもない設定にしそうなので(笑)、現代に出張してもらいました。いろいろ突っ込みどころはありますが、やっぱりデルムッドが不憫すぎたかな(^^;)。でも、来年は…きっといいことあるさ♪

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