渇望

 あの時の表情を忘れない。
 私に向けられた初めての満面の笑顔。光輝く瞳。
 でも、それは一瞬のこと。やがて闇に覆い尽くされる…。
 もう私に触れなくてもいい。…義務から解放されたのだから。
 求めるものはすでに花を咲かせつつある。
 他人事なのに…悪趣味だわ。
 解放されたのは私も同じ。
 …私はどうなんだろう?どうなるのだろう…。

 私が妊娠したということは城内はもとよりノディオン国内、アグストリア中に瞬く間に知れ渡った。ノディオンの場合は一諸公の問題ではないからだ。ヘズルの血を引く者。それがどんな意味を持つのか…レンスター以上に繊細な問題をはらんでいる。とはいえ、私が妊娠したことを驚く向きが多いのに苦笑せざるを得ない。
 罪のない期待と好奇心。私もこの立場でなかったら同じように思うだろう。でも、見えないものに押しつぶされそうになる。この子を世に出すことだけ考えていればいいものを。
 そのせいか食べ物を受け付けなくなり、横になっていることが多くなった。それが悪阻なのだと知るまでは、昔の病が再発したのかと目の前が真っ暗になった。そういえば匂いに敏感になっている。いい匂いのものでも他と混じれば悪臭でしかない。

* * * * *

 何をするにも億劫になって数日。
 昼でも構わず眠っていたため、ふと目を覚ましたのは夜更けだった。まだいくらでも眠れるけど、たまには外の空気を吸ってからと中庭に下りた。
 照明はわずかだったが、月明かりが明るく庭の花々を照らす。月を見ようと見上げたら明かりのついた部屋がふと目に入った。
「あれは…」
 彼の執務室。そういえば最近会っていない。当たり前といえば当たり前のこと。会う必要などないのだから。でも、こんな時間まで…。
「王妃様」
振り向くと侍従長が心配そうに立っていた。
「歩いていらっしゃるのをお見かけいたしましたので…。おかげんはいかがですか?」
「少し楽になりました。ところで…エルトシャン様はお忙しいのですか?」
「そういうわけではないのですが…」
 侍従長はいっそう表情を曇らせた。
「御懐妊で張り切られているのだとは思いますが…。このところずっと夜明け近くまで政務に打ち込まれておいでで…」
「まあ…お身体が心配ですわね」
「ええ…」
「ラケシス様もご心配されているでしょうに」
「はい…ですが、陛下はラケシス様もお部屋にお入れにならないほどでして…」
「まあ…」
 何ということだろう。本当に真面目な人…。呆れると同時に納得もした。
 彼はこういう人間なのだ。
「申し訳ありませんが、お酒を用意していただけませんか?私がお持ちしてみますから」
「かしこまりました。直ちに用意いたします」
侍従長はほっとしたような表情を浮かべて中に入った。

 私は執務室の前で一呼吸吐くと思いきって扉を叩いた。
「グラーニェです」
「…どうぞ」
困惑した声が私を迎える。中に入った私はトレイを机に置いてから側にあった書類を片付けていった。
「お…おい!」
 彼の抗議には耳を貸さず、次はカーテンを開けて窓を開け放った。
「月が綺麗ですわ。たまには愛でるのも一興かと」
「月…?」
彼は椅子を回転させた。目の前の大きな月にさすがに目を奪われたようだ。そして枷が外れ、無理矢理封じていた闇が沸き上がる。私は月を隠すように彼の真正面に立った。
「グラーニェ?」
「…どうか…そのままで…」
私はそれ以上は言えずに膝をついた。

* * * * *

 胃が逆流しそうになるのを必死で抑え、何ごともなかったかのように立ち上がった。机に置いたトレイの酒をグラスに注ぐ。
「今日はこれを飲んでお休みなさいませ」
「あ…ああ…」
 呆然としながらも返事だけはしてくれた彼に安堵しながら私はトレイを持って部屋を出た。扉を閉めた瞬間、ほっとしたせいか気分が急に悪くなる。よろよろと廊下を歩く。
「王妃様」
 階段まで出ると侍従長が不安そうな顔で私を待っていた。
「エルトシャン様はもうすぐ休まれますわ。私ももう休みます」
「そうですか…ありがとうございました。それではお休みなさいませ」
深々と一礼した侍従長にトレイを手渡して私はやっとのことで部屋に戻った。
 部屋に入るなりこらえていたものを吐き出す。胃に入っているものなどほとんどないのに…自分でも呆れるほどだ。内臓まで吐き出したらスッキリするだろうかなどと詮無いことを考えて気を紛らわせる。少し落ち着いた頃を見計らって床についた。

 あんなに欲しいのだ…。でも、何故求めないのだろう?
 生まれてくるまで気は抜けないから…?
 本当に欲しいものではないから…?
 本当に欲しいものは…何?

 私の欲しいものは…な…に…?

* * * * *

 気分が悪いのは夕べのせいではない。いつものこと。でも…今日は起きなければ…。睡魔を追い払えたのは一瞬だけだった。それでもベッドに腰かけて抵抗を続ける。容赦なく襲う眠気は私から全ての気力を奪っていく。夕べが奇跡だったのだ。月の魔力が私に力を与えたとしか思えない。
 もう諦めようかと意識を手放そうとした時、扉を叩く音がした。私は誰何することさえ忘れ、惰性で返事をした。扉を開けた人物を見た瞬間、睡魔が嘲笑を浴びせて退散した。
「エルトシャン様…」
私は激しく後悔した。さすがに今の姿を見せるのは気が引けた。せめてもう少し身繕いしていたら…。
「…すまん…」
 やはり誤解したようだ。本当に辛そうに謝罪を繰り返す。彼のせいではないのに。私は慌てて居ずまいを正した。
「申し訳ありません。ここしばらくこの調子で…。見苦しいものをお見せしてしまいました」
「本当か…?」
「少し悪阻がひどいと言われました」
刹那ほっとしたようだが、彼はすぐに先刻以上に深刻な表情に変わった。
「すまん…全然気にしてやれなかった…」
「もったいないお言葉…ありがとうございます。私の方こそ申し訳ありません。全く気がつきませんでした…。すぐに手配いたしますから」
「いや、いい」
「ですが…」
「信じないかもしれないが…俺は…」
「私でよろしいのですか?」
「お前で…いや…お前がいい」
そう言って私を見る目は…深い闇とともに優しさに溢れていた。
「エルトシャン様…」
「グラーニェ…」
 行為の前戯ではなく、それが目的で口付けを交わしたのはその時が初めてだった。

* * * * *

 この闇は…私だけのもの…。
 誰にも見せたくない闇を私達は共有している。
 たとえ…愛してやまない存在にも…愛しているからこそ見せられない。
 それは何故?
 愛を手に入れても本当に欲しいものではなかったら…それを自覚するのが怖いのだ。
 本当に欲しいものかもしれないのに。

 ほんの少し勇気があれば…。
 確かめたい…確かめたくない…。

 この闇が温かいのに気付いたから。
 同じ想いを抱えて生きてきたから。

 あなたに勇気が湧いたならそっと背中を押しましょう。
 罪なき罪に苛まれるあなたに罪を―。
 罪に塗れている私の許に堕としたいだけなのか。
 叶わぬ私の夢を託したいのか…。

 私の渇きを潤すのはあなただけ…。

Fin

後書き
また訳のわからない話ですね(^^;)
大人度がどんどん増していってるような気もしないではありませんが(冷汗)。
個人的にはかなり気に入ってる作品なので多分…次もあります。

別荘入口  地下室入口  連絡先