トキワ荘の青春

 マンガ家の青春群像を市川準監督が映画化した。主人公は本木雅弘扮する寺田ヒロオ。若手マンガ家グループで組織する「新漫画党」の精神的中心でありながら、やがて筆を折るこの人物を主人公に据えて、青春の光と影をコントラストを明確に描いた。
 監督の主眼は時代の変化の中で失われていくものを冷静に見つめることにあるようだ。それは「東京兄妹」の時から続いているまなざしだ。「東京兄妹」では、現在が東京を舞台だったが、今回は過去の東京を舞台にした。そこで失われていくものはしかし東京の風景ではない。失われるのは寺田ヒロオに象徴される牧歌的な児童漫画の世界と、自分の可能性を信じた青春そのものだ。監督はそれを積極的に否定も肯定もせず、ただ淡々と定点観測のようにカメラに納めていく。
 寺田は最初からマンガを続けるべきかどうかで悩んでいる。そこで陰ながら重要な役割を果たすのは、寺田ヒロオの友人である。これが架空のキャラクターかどうか、僕は判断する材料を持たない。その友人は「お前(寺田)の描く漫画とは違う種類」のマンガを描きながらも、「お前の漫画のよさって優しさじゃないか」と励ます。彼女と同棲しながら時流に乗ったマンガを描くその姿は、ストイックなまでに理想的な子ども漫画を突き詰めていく寺田のネガといえるだろう。若手マンガ家に囲まれている寺田が、弱音を吐くことのできる唯一の友人という存在は、むしろ、寺田が自問自答している姿なのだろう。
 映画は寺田のこの悩みを通奏低音にしながら、藤子不二雄、石森章太郎らの駆け出し時代のエピソードを積み重ねていく。その中で売れ残っていく森安と、やっとの思いでギャグ漫画で人気者になる赤塚不二夫が対照的に描かれる。監督はここでもどちらにも比重を置かず、まるでどちらも同じ青春というように描写していく。一方、寺田はこうした時代の移り変わりを目の当たりにして、自分にできることと時代の要請は確実にズレてきていることを実感する。一人でバットの素振りをする寺田の姿は、相手のいない一人相撲のようだ、と評したらうがちすぎだろうか。
 映画は、ボールを拾った寺田が野球少年に「ありがとうございました」と礼を言われるシーンで終わる。そのお礼の言葉にはエコーがかかっていてどこか、この世の声でないようだ。少年が振り返ると背中の番号は寺田の作品と同じ「背番号ゼロ」。
 この瞬間に寺田は自分が描いてきた作品が無意味ではなかったことを知ったのだ。作品が無意味でないということは、彼の青春もまた意味があったとであろう。ラストの筆を折ることを告げるナレーションが、それまでのモノローグと違ってどこかしら爽やかに聞こえるのは、彼が決断を下したからこその明るさであるように思える。(97/02/16)


追伸:4月17日に、寺田ヒロオファンクラブの方からメールをいただきました。要点を要約すると以下の通りです。

 1.映画にでてくる寺田先生の友人は漫画家の棚下照生。トキワ荘の仲間以上に親友だった様だ。
 2.トキワ荘をでることで筆を折ったわけではなく、この後 スポーツマン金太郎 等により、昭和30年代を代表する人気漫画家に成長する。自分が理想とする児童漫画を追及しようと週刊漫画誌から後退していくのは昭和40年ごろの事。実際はほぼ10年間のずれがあり、映画製作上の脚色であのように表現されたのではないか。

 非常に、寺田氏に対して愛情あふれるメールであるとともに、僕の無知を丁寧にご指摘くださる内容でした。ここに感謝します。


映画印象派 RN/HP