不夜城


 つまり、マンガなのである。これは決してマンガを卑下しているのではない。現実の風景に、虚構の風景を重ねてみる、その視線こそマンガなのである。 
 馳星周は言う。「歌舞伎町って怖いとこなんですね、って読者から言われるけれど、あれは小説だから」。別に彼は、歌舞伎町が怖い場所であること(あるいは、かつてそうだったこと)を否定しているわけではない、ただ、小説と現実は等号では結ばれないということを述べているだけなのだ。

 と、ここまで語れば映画「不夜城」の重要な場所、揚偉民の薬屋がなぜ緻密なセットで描かれなければならなかったかは、自明のことである。原作が現実の歌舞伎町の風景にフィクションを張り付けたのこと同じ事を、この映画はやっただけのことである。
 シナリオは複雑な原作をわかりやすく整理し、中華系移民の旧正月の風習までも見事にに取り込んでいる。改稿した李志凱監督の手柄だろう。そう、これは新宿が舞台であっても、李監督の手による香港映画なのである。香港の娯楽映画が日本のマンガと通じているのは、あらゆるものを娯楽へと奉仕させる割り切りのよさだ。それ故に、この映画はマジックリアリズムならぬマンガリアリズムによる映画として、見事に完成している。ラスト、劉の車内に舞う、いささかセンチメンタルに過ぎる、雪の演出を見ればそれは明白だ。

 結果としてできあがった作品は、娯楽作としては完成度は今ひとつなのだが(中盤でサスペンスが薄れる、金城武の日本語ナレーションが時折乱れる等)、そうした欠点を超えて、この映画はありきたりなリアルから自由である楽しさには満ちている。(98/7/7)


映画印象派 RN/HP