「少女ケニア」(かわかみじゅんこ、宝島社 857円)


 かわかみじゅんこはたとえ話が上手い。たとえ話がうまい、というのはつまり、お話のなかで小道具やちょっとしたエピソードを非常に効果的に本筋に絡めて使っているということ.で、さらにいうと何だか同義反復みたいだけれど、それはつまり短編が上手くて面白いということなのだ。切れ味があるというべきか。
 本書は「エルティーン・コミック」などに発表された作品などを集めた短編集。どれも意外なところから物語ははじまりるな、と思っていると、それがちゃんとダシとしてきっちりお話の中で効いてくる。絵がストレートで、どこかでデザイン的な格好いい絵でないのも、そういうテクニカルなお話を自然に見せるような効果があって、引き立てあっていると思う。
 欠点というと言い過ぎだけれど、あえていうなら、そういう隠し味が目立ちすぎること。エンジンの回転数が実際の推進力になる際のロスを感じさせる。上手い人は、もっと効率よく短編をまとめるだろうな、そんな印象がつきまとうのだ。逆に言えば、同じモチーフでもうちょっと長い話もいけそうな感じがつきまとうぐらい書く作品が濃いわけだが。
 結局、今挙げたようなことというのはつまり、今読むのが一番スリリングな作家なということなのだと思う。半年後には全然別の作家にバケている可能性もある人だとおもうから、やはりこの単行本は今こそが買いでしょう。


「伊藤潤二恐怖マンガコレクション15 死びとの恋わずらい」(伊藤潤二、朝日ソノラマ 552円)


 いまさらあれやこれやいうことも不要な、恐怖マンガの第一人者の全集。
 伊藤潤二はその古風ともいえる絵でまず普遍性を獲得している。恐怖マンガというのは、どこか絵に異形性がある作家が多い。梅図かずおキャラの「ひいいいい」という絵がパロディに使われるほど特徴に満ちているのはいうに及ばず、犬木加奈子にしても、あるいは水木しげるにしてもそうだ。
 ところが、伊藤潤二の絵は風俗的にやや古風といえるかもしれないが、基本的に普通の「リアルな絵」なのだ。こうした絵というのは絵だけである種の論理性というか、理性の強さを読者に与える。のに、お話は決してそうではない。しかもそれは、わざとというより、作者が作品のモチーフ(例えば本作なら辻占)をころがしているうちにたどり着いてしまったという、ある意味では成り行き任せの結果に見えるのである。
 こうした作品の この絵のもつ論理性と非合理性のアンバランスが、まるで「リアルな夢」(これこそ矛盾している形容だ)のような作品を形づくっているのだ。


「タイムスリップ」(山岸涼子、文藝春秋 619円)


 恐怖マンガといえば、この人も忘れるわけにはいかない。山岸涼子も、伊藤潤二とは似て非なるものの、絵の持っている普遍性と、ストーリー展開の不条理さのアンバランスで読者を翻弄する。この単行本に収められている作品でも、救いのないラストのなんと多いことか。論理的にお話を収めようとすれば、ある程度の救済やある程度の破壊の末の結末というのは避けられないはずなのに、山岸涼子はあのクールな線で、狂気、現実からの無自覚な逸脱をズバリと書いて終わりにしてしまうのである。
 上に書いた伊藤潤二との差で語るなら、背景の白さ、ということはいえるであろう。緻密に書かれた伊藤マンガの背景が、その画風の論理性のバックボーンであるとするなら、山岸マンガの背景の白さとは、主人公達が墜ちていく正気ではない世界を現す奈落の白さなのではないかと思う。
 現実の世界ではなにもないことは「暗い・黒い」ことであらわせるのだが、マンガの世界では黒とはつまりベタがあることである。なにもない本当の無とはマンガの世界では白でしかありえないのだ。
 つまり、類似した要素はあるものの、山岸マンガと伊藤マンガは黒と白ほど違うのである。


「道玄坂探偵事務所 竜胆」(花村萬月・市東亮子、秋田書店 524円)


 最近、花村萬月を読んだばかりのせいか、花村的小道具が非常に印象に残った。
 そもそも主人公が男女どちらか不明と言うところからして非常に花村的である。それが市東亮子の絵になると極めて自然に、そのとおりであると見えてしまう。この違和感のなさが、このマンガのひと味足りなさと直結しているように思う。あらすじを追う以上のなにがしかが、残念ながらマンガのなかに欠けてしまっているのだ。もちろん2人の作者のファンだったらそれなりに楽しめるとは思う。でも、それを超えて自己主張する要素がこの作品にあるかというと……なのだった。


「クルドの星」(安彦良和


 トルコそしてクルディスタンという土地のエキゾチズム、アララト山という大道具の神秘性、それにSFテイストを少しまぶしてできあがったのがこの作品。少年の母探しから始まるこの物語は、典型的な安彦作品の仕掛けがあちこちに見られて興味深い。初めて読む人にも、典型的少年マンガとしてはけっこうおもしろいほうだと思う。ボクは以前に読んでいたが、文庫化を機に購入した。
 しかし、こうして旧作を読むと安彦氏は徹底して同じ物語しか書いていないことがよくわかる。
 こんなふうに共通点をくくれるかな。基本的には自分探しをする少年の話で、そのイノセントさは非常に大切なものであり、それに対抗するのは世間知にたけた年長(といっても大人ではない)の人物である。あと、主人公は何もしない、というのもあるか。
 当然例外もあるのだけれど、少なくとも「アリオン」と「クルドの星」はその出自の関係以上に、よく似ている作品で、この系譜の最終形態は、「虹色のトロツキー」になるとオレはにらんでいるのだが、それについてはこちらを呼んでみて下さい。 
 そうそう、少年のイノセントとそれをじたぶる現実という構図は、極めてショタ的でもあると思う。