98年10月上旬


<10月1日・木>
◇ 浜松町の駅ビルに、1フロアの書店としては、都内で最大規模という書店がオープン。とりあえずご祝儀がわりに、懲らしめにいって、こらしめられる。「遙かな町へ 上」(谷口ジロー、小学館 840円)、「ジョジョの奇妙な冒険」(荒木飛呂彦、小学館 410円)、「超常現象をなぜ信じるのか」(菊地聡、講談社 860円)、「ファンタジーの冒険」(小谷真理、筑摩書房 660円)、「何が終わり、何が始まっているのか」(山田太一・福田和也、PHP 1143円)、「文脈病」(斎藤環、青土社 2600円)、「ヨーロッパ・二つの窓」(堀田善衛・加藤周一、朝日新聞社 540円)、「ザ・マンガ家」(宝島社、857円) 以上、2日購入分も合わせて記述。

○ 「ザ・マンガ家」は、ライターによって原稿の質(うまい、へたと方向性の両方の意味)がバラつきすぎで、読んでいてツライ。狙いはわかるし、「だいたいこういうムックはこの程度のデキ」という法則に照らし合わせれば、その法則通りなのでダメとわざわざいう気もおきない。しかし、江川達也のシャシンキャプに「山本直樹」という名前が入っているのはカッコ悪すぎ。、伊藤剛氏の、弘兼憲史評はオレ的には異論がかなりある。けれど、伊藤氏がいろんなところで突っ込まれてるんで、これ書くと、突っ込みやすそうな相手(特にメディアに名前の出ているヒト)に突っ込んでるみたいになるんで、ああだこうだいいたいけどWEB上では我慢。まあ、そうならないようにするには、自分なりの弘兼論を書けばいいだけなんだけどね。 そういえば、この伊藤氏、もちろん面識はないけれど、オレの先輩スジなんだよなあ……。

○ 「何が終わり、何が始まっているのか」は、山田太一氏の悩みがとても興味深かった。相手に合わせるのが上手い福田氏のトークは相変わらず。時間がないので余り丁寧に書けないが、簡単に読めて、現実について考えるための刺激をうけるにはてごろな本かも。


<10月2日・金>
◇ 午後1時からの試写に間に合いそうだが、ああカラテープがないということで、あわててローソンへ買い物に。しかし、なんて遅い時間に出勤なんだ?なんてことはさておいて、今日は「カレカノ」の初回だからなあ。あわてて飛び出して、銀行へ立ち寄り地下鉄で六本木へ。

△ マスコミ関係者からもらった試写状で「ダークシティ」試写会に潜入。面白いSF(笑い)映画。ジェニファー・コネリーの二の腕に油が乗っていて、往年の美少女もオトナになったものだなあ、とか思いつつプロフィールを見ると、'70年生まれだって!? ううん、レオみたいに予想以上に太りやすいタイプか?キャサリン・シリアルママ・ターナーみたいになるのも時間の問題か。キャサリン・ターナーよりも、クるのが早い気もするが。レオといえば、この映画がすごいVol2」(宝島社、886円)の水着姿のレオを見て、安心したのはオレだけではあるまい。豊満なウエストつーのはああいうことをいうのでしょう。オレもそうだけど。それはさておき。

 この「現実」が本当に現実であるか、というテーマに正面から挑んで正攻法に勝利した作品。ワルモンとイイモンがにらみ合いながら、眉間から超能力を発する(主にテレキネシス)というシーンには、懐かしさを感じた。 「ザ・クロウ」の時より、プロヤス監督の演出はより映画的になっている、と思う。ビジュアル的な見せ場も徹底的に多くて、飽きさせない。人に勧めてソンのない一本である。
 特に、’60年代後半に生まれたアニメファンは必見でしょう。ネタバレになるので、その理由は書けないが。これを見た人はかならずこう言いたくなるらしいが、やはりそうである。

○ 会社。精算と仕事。

△ 帰宅して「彼氏彼女の事情」第一話をビデオで見る。
「少女マンガ」というジャンルは、自意識との葛藤が一つの大きなテーマで、原作は「見栄っ張り」という題材からして構造的にそういうテーマを秘めている。そこを、おなじみ明朝体テロップの多様や、原作よりも主人公の2面性を強調する演出の増加、イメージカットや少女漫画的に美化された表情などで構成した庵野演出はやはり見事。主人公の主観、主人公の客観、さらに引いた演出家の視点の客観が、入れ替わり立ち替わり現れることで、自意識との葛藤というテーマが、演出手法からもちゃんと浮かび上がる。(ここで前作との共通点を安易にあげて、同じコトをやっているという批判をするのは、ちょっと木を見て森を見ず、ですな)。もちろん原作でも、そういう作業はされているが、作者が自覚的でないせいか、特に原作1話は、演出的にそれほど成功している感じはない。アニメではその要素をきれいに整理し、足りない部分を補っている。
 セリフはほとんど原作どおり。キャラ表では、ちょっと抵抗のあったデザインも、みているうちに気にならなくなった。雪野可愛いじゃん(あ、ハマってる)。声もオレ的にはオッケー。
 まあ、オレ的にはこのスタイルを確認できれば1話だけでもう十分満足なんだよね。あとは、お話が続くだけだし。アニメはあらゆる次元でデフォルメが可能だから、そのスタイルさえ見えれば、傑作か駄作かの区別は簡単につくと思う。とかいっても、来週もきっと見るけどね。だって1話を3回繰り返してみちゃったんだもん。気になるじゃん。 

しかし、ララのCMは間違っている。しかも、寒すぎ。


<10月3日・土>
◇ 日記を書きながら1日分記憶がないのでいぶかしんでいたら、単に日付を間違えていただけなので、9月30日〜10月2日の日付を訂正する。バカだねオレ。

○ なんだかあまり眠れないまま、大学時代の同期の結婚式で小田急・片瀬江の島駅まで出かける。午後3時から挙式。牧師がどことなくナニワのモーツァルトことキダ・タロー風でおかしい。披露宴は、媒酌人を立てないほうほうなので、互いの自己紹介をするところからはじまる。滅多に緊張したところをみせない新郎が、緊張しているのがはっきりわかっておもしろい。花嫁の衣装は、白ドレスから薔薇の花嫁みたいな赤いドレスにチェンジ。2人の共通の友人達は、「地球へのピクニック」と「翼」など3曲の合唱曲を披露した。
 式の後は、2次会にいくかどうか迷ったけれど、店も狭そうだったので、近くのファミレスでせっせと飲みまくる。ちょっとおしゃべりしすぎかも、と反省。睡眠不足もあって小田急線で完全に沈没し、新宿で目が覚める。山の手が動いていないので、タクで帰宅。そういえば、今朝散髪したのでサッパリあたまになった。

△ 最近本当に涙もろくなった。25歳をすぎたあたりから、徐々に涙もろくはなりつつあるのだが、ここ半年は特にひどくなっている。
 今日はなんと「ブレンパワード」で泣いてしまった。これはさすがに恥ずかしかったのだがシラー・グラスが飢えた兄弟にいう「明日になったら食べ物を盗んできてやるよ」というセリフが、心の秘めたる孔をグイっとおしてくれたのだった。
 この泣く泣かないのポイントは、自分でもよくわからないのだ。ただ、「ツラい現実を受け止めて生きている」というパターン、「赤毛のアン」の1話とか4話とか、には過剰に反応する。アンだと、アンが鏡に映った自分をケティ・モーリス(だったっけ)と読んでいるエピソードなんかも、かなりヤバめである。こんかいのブレンもこの系譜ではある。
 この路線で行くと、ウテナ最終回でアンシーのセリフで泣いたのはむしろ例外的のようだ。
 映画「フェイス/オフ」で泣いたのは、ラスト。ニコラス・ケイジ(悪人)の息子を、トラボルタが引き取ってくると、トラボルタの娘がその子の顔を、トラボルタが自分にしてくれたように、手のひらでなでてやるシーンである。いささかストレートにいうなれば、あのシーンにオレは愛情というものをかんじてしまったのだ。こうやって冷静になって考えれば、名シーンというほどでもないのだが、あの作品にあのラストがあってすごくあのとき救われたのだった。
 ちなみに、マンガで泣いたのは「自虐の歌」だけである。
 まあ、これぐらい涙もろいのは、はやり母親似だからだろうか。イヤだなあ。


<10月4日・日>
◇ 目が覚めたので「ガサラキ」のビデオをセット。午後まで、テレビのニュースをザッピングしながら過ごす。ついに捕まりましたなあ、和歌山のH夫妻。しかし、保険金詐欺と殺人未遂についてはあまりコメントする気が起きないし、マスコミ狂想曲も、まああんなもんでしょうという感じではある。よくもわるくも今日は「書きどき」のタイミングだし。(報道被害があってもいい、という意味ではなく、日記でコメントするほどの興味をそそられない、あいかわらずの構図であるという意味である。念のため)
 合間に「探偵ナイトスクープ」を見て、笑う。

○ 午後3時から会社で仕事。道中で「動画王 06」(キネマ旬報社、1429円)、「酢屋の銀次」(吉田戦車、白泉社 581円)それに「サイアス」購入。サイアスは、特集「コンピュータが言葉を解明・媒介・構築する 地球言語の時代」に惹かれたのだが、これは珍しくアタリ。

△ 帰宅して「ガサラキ」を見る。作画は丁寧。お話はどこにむかうのであろうかはまだ不明。


<10月5日・月>
◇ 知人に「すごくつまらないから見てご覧」と進められたので「アヴェンジャーズ」を見に行く。つまらなかった。ユマ・サーマン、ラルフ・ファインズ、ショーン・コネリーが楽しそうに演じるバカ映画を期待していたのだが、期待が大きすぎたようだ。
 まず、演出のテンポが冒頭から悪すぎ。全体にアングルが中途半端で、なんだかテレビ風の演出である。キッチュなカルトムービーにするのか、オープン・エンターテインメントにするのか、はっきり割り切って演出していないので、ユーモア、オシャレ、格好いい等の演出の方針が全部中途半端になっている。
 それから演出以上に、シナリオがヘン。例えば、落ちたら危ないはずのところでアクションやっていて、最後にそこから飛び降りて脱出する、という展開は明らかにおかしいでしょう。ショーン・コネリー演じる敵方にもう少し魅力的なエピソードがないとこういう話は、面白くならないし。
 ラルフ・ファインズが演技が下手に見えるぐらい表情が変わらないとか、そういう部分は、多少メタな視点に立てばもっと爆笑につながったかもしれないのに、あんまりバカな映画をつくる気がなかったのかなあ。思い返せば返すほど、残念である。

○ 夜7時からは3人でメシの会。お二人は下戸ということなので、私一人でズビズビ飲む。


<10月6日・火>
◇ 映画「イノセントワールド」を見る。うーん、ウワサに聴いたとおり原作よりつまらない。映画は原作の設定のごく一部を借りただけなので、原作のもっている(エセ)現代っぽさがバッサリとなくなり、ずいぶん古風な物語、一種のロードムービーになっているのだった。特にオリジナルで加えられた女性キャラは単なるバカにしか見えず、最低最悪なので、明かな失敗である。やっぱり、お話を動かすためだけに出したような人物はダメだね。
 シナリオは、全体を貫いているアイデアや、小道具、象徴的なセリフなどは決して悪くないのだが、それがかみ合っていないので消化不良な印象である。演出は、カメラが動き回るのがあまり効果的になっていない。やっぱり、ミュージックビデオと映画の演出は違う性質のものであることがわかる。少なくとも、斜めに傾いているアングルをあんなにつかったら、ハズかしいということには途中で気づくべきだったでしょう。キャストはまあまあ。


<10月7日・水>
◇ なんでも今日は「ミステリーの日」らしい。ところで、SFの日というのはないのだろうか?

○ SFをめぐるあれこれが、こちらなどで話題になっている。この種の話題を見ていると、いつも思い出すのが映画「アマデウス」である。 SFと「アマデウス」なんて、あまり関係ないじゃないかと思われるかもしれないが、ボクの中で「設定」と「物語」の関係を考えるときには、「アマデウス」は欠かせないアイテムなのである。なお、これから書くことは97年4月上旬の偽名日記に書いたことの焼き直しなので、昔の日記を読んだ人は読む必要がない、と思う。また、前出の方の日記の話題ととくにシンクロはしていない。

 何度かあちこちで書いているのだが、映画「アマデウス」は史実をわざと無視しているところが非常に多い。例えば、「弟子はとりません」というセリフがあって、弟子がいないように見えるけれど、実際は弟子はいたというのが正しい。だいたいレクイエムを補作するのは、弟子のジュスマイヤーなのだし、ベートーベンがモーツァルトの家に通っていたというエピソードは有名なので知っている人も多いだろう。
 もちろん、サリエリがらみになれば史実のウソはもっと多い。モーツァルトの死はコンスタンツの妹だったかな、親戚筋の人が看取ったのであって、サリエリが枕元で譜を口述筆記したなんて事実はもちろんフィクションである。
 細かに挙げていけば、きりがないのだけれど、もひとつ挙げるなら、大切なのはあれが全部英語で演じられているということだ。もちろん、フィクションの表現として言語を製作国の言葉にするというのは当然だ。ただ、アマデウスの場合、ドイツ語やイタリア語のオペラまで英語で歌っているシーンがあるのは、どうかと思う。

 と、欠点ばかりをあげてきたのだが、でもボクは「アマデウス」はやはり傑作だと断言する。サリエリのコンプレックスを軸にすすむ濃厚な物語に圧倒的な迫力があるからだ。そこには、フィクションでなければなかなか浮かび上がられることのできない、いうなれば真実というものががずばりと描かれている。この部分こそが、物語を媒介としたいくつかのメディアで一番大切なことだ。
 もちろん、設定が無意味というわけではない。まず、アマデウスでは神の存在を、みんながある程度信じている時代でないと、あのサリエリの嫉妬の深さを描けないし、それに、なんといっても誰もが納得できるような天才といえば、やはりモーツァルトをおいていない。天才に説得力がなければ、物語が動き出さないのだ。

 つまり「設定」は物語のリアリティを保証する背景と、物語自身がが動き出すポテンシャルを秘めたものなのだ(オレにとっては)。そして、そこで展開する物語が、具体的に読者の心に働きかけて広い意味での感動を誘うのだと思う。もっとも、これはいささか古典的な物語への接し方ではある。今の物語はもっと複雑化し、メタ化している、といわれればそれは正しいとしかいいようがない。

 ただ、ここまで使って何を言いたかったかというと、SF云々の話になった時に、SF的描写の矛盾を指摘して作品のダメさをいう手法があることへの基本的な違和感を語りたかったのである。もちろん、リアリティのラインを崩すような失敗作品はあるだろう。でも、いろんな話を聞いていると、SFの定義でもめると重箱の隅的視的をともなって「○○はSFではない」という意見が出てくる、そんな印象があるのは何故だろう。
 ボクはあまりSFのいい読者ではないのでいい例を思いつかないが、例えば超人ロックンの「魔女のミレニアム」のラスト。あの人工惑星は、作中の方法では太陽の軌道を脱出できないはずである(勘違いであれば申し訳ないが、そういう指摘をアニメージュで読んだ記憶がある)。だけれど、あの物語の持っているテーマにを描くという意味では問題がないと、ボクは思うのだ。

 まあ、ここで問題になるのは「想定される読者の理解度の深さ」であろう。さきほどのボクの意見に対しては、「どんなに物語がよくできていても、10階建てのビルから飛び降りて死なない、なんて荒技でクライマックスを作ったらしらけるだろ」という反論が想定されるからだ。もちろんそれは正論なのだけれど、これが万人にとって「10階から飛び降りるような荒唐無稽さ」として通じるかどうかとなると、ボクはかなり疑問に思っている。さきほどは、「アマデウス」の例をあげたのはそのためだ。あれぐらいメチャクチャに史実(SFなら物理法則か?)を曲げても、いい物語はいい物語であるはずだ。

 例えば、時代劇だってそうだ。さまざまな約束事があるし、そのいくつかが失敗していても、もっともらしささえ保証されれば関係ないはずだ。それとも時代劇にも、考証派がやっぱりいるのだろうか? なんだかいそうだなあ。まったく個人的な意見をいうなれば、SF設定にウルサイ人は、時代考証にもこだわってくれないと、フィクション読みとして、ちょっと姿勢がアンフェアではないか、という感じはもっている。もちろん逆の場合も同じである。

 まとめに入ろうか。適当に書きとばしたので、あちこちに話が散らばってしまった。
 つまり、いわゆる「これはSFである」といわれて文句の出ないような「ちゃんとしたSF」っていうのは、ものすごく読者を限定しているのではないだろうか。これはいい意味で言っている。読む人を選んでいる。で、だからこそ、きっとミステリーなんかよりはるかに、商売になりにくいジャンルなのである。既になっていないみたいだけれど、もしかするとこれは冬の時代ではなく、正常な状態なのかもしれないのだ。
 かつてSFブームがあったそうだが、それはなんでブームになったかというと、SFという概念が多くの人(SFプロパーではなく)にとって新しかったからだ。それまでもやもやしていた名前のなかったものが、SFという名前を与えられることで、はっきりと認識できるようになったから、楽しかったのである。(まあ、こういう状態ってH覚え立てのヤリまくりの時期と似ているように思うのはオレだけか)
 で、今はもうよく指摘のあるとおり、SFの名前は浸透しきって拡散の時代だから、こんなムーブメントは起きないのである。そして、多くの人は、設定あるいはジャンル以上に、完成度の高い物語を読みたいとおもっているものである。

 多少支離滅裂であるが、漠然と考えていたことはこういうことである。明らかな事実誤認などがあったら、後日の日記で訂正していくのでご指摘おねがいします。なお、これは私の考えで、この考えと違う人の存在を否定するものではない。ボクは意見はいろいろあった楽しいというのが基本である。 
  
○ こうやって何を書くか決めないで書くと、本音が見えるなあ。どうやらオレは設定にこだわりすぎるのが嫌いらしい(苦笑)。オレも設定の話は好きなんだけど、作品の評価とは別にやるから楽しい、というタイプなんだよなあ。だから、ガンダムの中の設定の矛盾話と、それをむりやりガンダム世界的にこじつけていく話は本当に好きだ。でも、「だから、ガンダムはリアルだから好き」なんて言ったりはしないということだ。 俺的SFの要ほうが素はたぶん、大風呂敷とトリッキー(後者はそれこそ俺的SOWのツボということだな)。だから、大風呂敷が得意な松本零士も、苦笑しつつSFのジャンルである(ホントに苦笑)

△ 以前書いたレインボーマンの替え歌については掲示板があるそうです。くりりんさんから教えていただきました。どうもありがとうございます。


<10月8日・木>
◇ 仕事であった人が「趣味は読書」というので(笑い)、何を読んでいるのか聞いてみたら「宮部みゆきとか乃南アサ」という答えが……。うーん、あまりにまっとうな答えで、私はかえって返事に窮してしまいましたとさ。まあ、奥菜恵の「相田みつを」よりは俺的に理解可能だ。

○ 仕事が押したために、大幅に遅刻して「日本Web日記学会」に参加する。予想よりもはるかに大勢の方が参加されていたようである。遅刻したために全員の方と会話することもできなかったのはまことに残念であった。以下は、ボクの身の回りで話題になった日記の話題です。
・日記における自己紹介論の可能性
・日記と文体(自分本来の文体とそれを変えて日記を書くこと)
・自分とタイプの似た文章を好んで読むという可能性
・会社関係者に読まれていることのプレッシャー
・Web日記は、FTPするという客観的行為を経ているところがポイントである。
(似ていて非なる考えとして、ボクは、ブラウザという客観の窓で自分の日記を読める部分に、Web日記の主観と客観の入り交じった視点があると最近思っている)
・日記レビュー(Webレビュー)が複数ある必要性はある
・PCメーカーの無思慮な販売が、批判慣れしていない人が大量参加をよぶことになったという意見がある。
・PC−VANはやっぱり怖いところらしい(これはウソ)
・プライベートライアンは劇場でみるべき(あ、これは日記とは関係ないや)
後半は日記とあまり関係ないけれど(苦笑)、こんな感じでした。

△ 1時間ほど滞在して帰社。車中で「黒い聖母と悪魔の謎」を読了。各章ごとにテーマが明確で読みやすい本であった。ガシガシと仕事をして朝帰宅。


<10月9日・金>
◇ ビデオで「まあだだよ」を見る。ご存じ黒沢明の遺作である。オレ的には、「影武者」「乱」「夢」という作品群は、監督の「自分ではまだ若いと思ってるけど、やっぱりじじいになったんだよなあ」という、混乱の産物だと思っている。それが、夢の最後の葬式のエピソードあたりで映像化したことで、スコンと抜けて、「まあだだよ」という愛すべき(そう、オレはこの映画が結構好きなのだ)小品を撮影することができたという風に位置づけている。「八月の狂詩曲」は、過渡期の作品になる。

 なんで黒沢監督の後半の作品群が世間的にツマラナイといわれているのか。それは、「トラ・トラ・トラ」の降板や「暴走機関車」以降、撮りたい映画が撮れない状況が続いたからではないだろうか。企画が通らず、作品が撮れずに年齢がすすむうち、監督の素材の料理の仕方がどんどん淡泊になっていったに違いない。若い頃の、シツコイ演出のために用意した素材も、それでは不完全燃焼になるのである。このあたりは、正確に語るならまだ分析は足りない感じもするけど、詳細はまた。

 で、ボクが「まあだだよ」を好きなのは、監督の身の丈で撮っているから。無理にお話の枠を広げることなく、80歳の年寄りの世界を丁寧に表現している。特に何も起こらない物語を、日常のアクション(役者の所作)だけで紡いで見せる部分は素晴らしいと思う。ちょっと望遠レンズの多用が気になるところはあるけれど、それをうわまわるアクションのリズムのよさは、

 極論すると、ボクはクリエイターは一生新しいことをやりつずけるべきとか、常に前作を超えるべく挑戦すべきとかは全然思わない。いつかピークを超える時がくる。一視聴者としては、ピークを超えても好きなら見続ければいいし、つまらないと思ったら離れればいい。個人的にいちばんむごい視聴の態度は、ピーク時の傑作をなんども見たいというような類の期待を持ち続け、のぞむ作品でないから否定するという態度だと思う。作家は変質するものだ。それが曲がり角を曲がったのか、あるいはそうでなはいのかを考えながら見るぐらいの努力は、視聴者にも必要なのかも知れない。(まあ、そういう必要を感じない人が多くいるのは当然のことである。その態度を変えろとまではいえない)

 ただ、天才は、やはり腐っても天才で、駄作を撮っても凡才の傑作ぐらい、「映画」になっていたりする。そういう意味では、後半の駄作群と呼ばれる作品も、宝の山である。

 ところで、マグワイアに祝電を打ったという小渕首相だが、ちゃんと黒沢明の葬式には、弔電を打ったのだろうか。実は一説には、信じられないことだが、打っていないという話である。これについては、父親と憤慨した。

◇ NHK「トップランナー」では須川展也がゲスト。楽器の街(音楽の街にあらず)浜松市出身のサキソフォン奏者である。こういう人材が増えていくことが、楽器の街から音楽の街になるにはひつようなことであろう(と、あまりに当たり前なことを書いておく)。ちなみに、大澄賢也も浜松出身だ。
 俺的には、だいぶ前にもらった彼のCDを聞いてピアソラという名前を覚えたこともあって、ずっと気になっている人なのだ。相変わらず感じのいいトークが楽しかった。中学生のころは近所の海岸のほうに行って、練習したこともあるそうである。浜松市の海岸線は、江ノ島高校(浜松にも江ノ島はあるのだよ)に通っていた、現在は女優の鈴木砂羽もよく学校をさぼって足を運んでいたそうである。以上はローカルな話題。


<10月10日・土>
◇ 今日はちょこちょこと在宅勤務の日となったので、法事のために実家へ帰還するのはあきらめる。が仕事もたいしたことはないので、久しぶりにグウグウ眠って体力温存する。「広場の孤独」読了。「日本という悪い場所」で生きていくということについての小説でした。夕方からビデオを借りてくる。

◇ まず、前から見なくてはと思っていたので、アニメージュの「王道秘伝帳」で取り上げていたのをきっかけに映画版「エースをねらえ!」を見る。正当なホメ方としてのアプローチは「王道秘伝帳」に尽きるのであまり書きようがない。出崎作品全てにいえるが、原作モノでも、ちゃんと物語の論理とそれを支える演出を追及していけば映像独自の作品世界を構築できるというのは、原作/オリジナルという区分だけがポイントになりがちなアニメの世界を見るときに忘れてはいけない部分だと思う。
 また、なんといっても、宗方役の野沢那智が上手いので作品が引き締まっている。
 しかし、竜崎麗華の家の庭に噴水があるという風景は、やはり'90年代も終わりに入ってみるとさすがにツラい。つい笑ってしまいました。

○ さらにエヴァのビデオラスト2巻を見る。やっぱり圧巻。でも、「Air」でアスカが偽りの復活をしなければならない理由はいまだに、オレ的には不明。まあ、あの大戦闘シーンは好きなので、いいんですが。さらにさらに「太陽を盗んだ男」を見始めるが、前半1時間でダウン。眠る。