1997年10月下旬


<10月21日>
 ◇ アニメ映画「PERFECT BLUE」(今敏監督)を偶然見る機会に恵まれた。ううーん。努力賞かなあ。以下、ネタバレしないように感想を書きます。結構厳しいことを書くのでなんだが、先に書いておくが、「見る価値は十分ある映画」ではありました。

 初監督というだけあって、力の入れどころが分からず苦労したような印象。結果、サスペンス(この映画はサイコ・ホラー、か)の難しさというのが浮き彫りになった。アニメってもともとそんなに怖くないメディアだから、余計に演出の腕前は問われるのだ。そして、残念ながら今回はその水準が「傑作」と呼べるところまでいかなかった、という感じかな。でも、いい場所もたくさんあるので、2度目に見ればもうちょっと点数が上がるだろう。
 B級ならB級の語り口が、A級ならA級のスタイルがある。例えば、単なるサスペンス映画以上を目指をすのであれば、アイドルを素材にした以上、「見る」「見られる」あるいはそれに「男」「女」を組み合わせた映像的なモチーフがかなり提示されるのだが、それがグルーヴしない。
 逆にB級であるなら、監督が物語に足をすくわれることなく、これでもかと観客を怖がらせるため(喜ばせるため)の小細工を弄さねば物足りなく感じるはずだ。
 だが残念ながら、この映画はどちらでもないのだった……。どちらにしてもいいところまではいっているのだが。

 ○ 厳しいことばかり書いたけれど、アニメ的ガジェットを排してドラマを語ろうという姿勢は評価できるし、その点では演出もちゃんと機能していた。(時折入る俯瞰アングルは僕の好みではないが……)。何より冒頭のアイドルのライブシーンは萌えるゾ。「アニメーションで再現された動きは、見る人にまざまざざとその動きの印象与える力がある」。という言葉の通り(一種の異化効果だろうなあ)、振り付け付きでアイドルが歌い踊る様が、丁寧な作画で再現された瞬間、それは生身のライブシーンでは生まれないある種の生々しさ(あるいはエロチシズム)が生まれるのだ。
 セル画の質感が気にならなくて、そう、戦闘シーンに会わせてアイドルが歌い踊る映画に狂喜した世代なら、あのシーンだけでも見る価値は十分あり末世。
 それから、アニメでいわゆるオタク的存在(映画に登場するのはアイドリアン?だろう。秋葉系も入っていたけど)が描かれたのは初めてかなあ? オタクのビデオ以外で。

 △  昨晩はサブ監督の映画「弾丸ランナー」。面白い。人が死んだりするけれど、それを突き抜けた明るさがある。これは2作目の「ポストマン・ブルース」にもしっかり受け継がれていたことが分かる。ラストは賛否両論あるだろうけれど、映画とは「広い意味でのアクション」こそ重要であるということが再確認できた。「BERLiN」とかより好きかもしれない。

 □ めずらしく早く帰宅した。が、これは嵐の前の静けさに違いない。

<10月22日>
 ◇ 昨晩からカート・ボネガットの「タイタンの妖女」を読み始めた。会社の先輩に薦められたのだ。いまのところ読んだ部分はまだ100ページにも満たないが、十分面白い物語である。ただ一呼吸して考える。これがハヤカワ文庫SFに入っているというのはどういう意味であろうか。考えれば考えるほどSFというジャンルがよくわからなくなるっス。思考実験の要素のある小説とでも呼べばいいのだろうか。
 とりあえず、そんな定義、分野はさておき、文章を読む楽しさはある小説ではある。

 △ 会社で同僚から夏エヴァのサントラをもらう。くれた同僚は赤いケースの初版を持っているそうだ。やれやれ。うーん。鷺巣氏の音楽の旋律はいいとおもうのだが、BGMの編成が好みじゃないんだよなあ。わざとやってるのかなあ。オケに普通のドラムとかを入れるとググっとダサくなるのにそれを普通にやってたりするからなあ。←あくまで、俺的好みであるが。夏エヴァではそれでもそういう曲が少ないから、比較的聴けるのだった。
 まあ、日本映画音楽を代表する作曲家となった久石氏が「銀河疾風サスライガー」で全くやる気のないBGMを作曲していたこともあるし、あまり部分でそのひとの能力全体ははかれない、ということだろうか。J9シリーズの中でも完成度は高い方だと思ってるけどね。(まあ、私の住んでいたところでは最終回を見ることはできなかったのでなんとも言いようがない。もう八〇年代の話は遠い過去の物語だ)

 ○ 某所で愛知県は尾張出身の知人と飲む。まあ、実家では中日新聞と中日スポーツをとっているという筋金入りのドラキチで、なおかつ「ミスター・ベースボール」のエキストラ(球場を埋め尽くす観客)もやったことがあるという人物である。愛知グルメでもある彼と話すと、東京にも「「みそカツ」はある」とか「噂の(?)「あんかけスパ」もあるらしい。日経に掲載されていた」と、いう極秘情報の提供がメーンになる。まあ、週刊アスキーには通称「山」こと「マウンテン」(大盛り料理と、抹茶小倉スパで有名)は掲載されていたという記憶があるが、記憶違いかも。しかし、藤田屋のあんまき(←すでにローカルネタすぎ)のテンプラ(厳密には揚げ春巻きのようなものらしいが)が存在するなんて俺は知らなかったなあ。
 あんまきのテンプラが欲しい人は土日に名鉄名古屋駅あたりに出店がでるそうなので、そちらがお求めやすいか、と思います。

<10月23日>
 ◇ 楽な仕事などを終えて、会社へ戻ってくるとテレビの前に黒山の人だかり。ちらと覗くと、安室奈美恵の結婚記者会見(でいいのか?)をみんなで見ているのだった。若い身空でなんでまた、と思うのはすでに「じじい」の証拠か? いや幸せになるのに異論はないのだが、先日試写を見た映画の「痛さ」と比べると、なんだか今テレビの中で行われていることのほうがドラマのように思えてくる。

 ○ 以前、ネットサーフィンで男の自炊のページを見つけたことがある。何気なく覗いたら、そのページは奥さんが植物状態だか半身不随になって日常的な活動ができなくなったために、夫が介護をしながら料理を覚えていくといった日記じたての内容だったと記憶している。そのページを書かれた夫をエライ!と聖人君子のように奉るのも問題だとは思うが、彼の行動には結果、心を動かされる何かがあった。それはおそらく「終わりのない日常の反復」という重圧に押しつぶされなかったという点かもしれない。理念ではなく、実践から生まれる感動は否定できないものだろう。←ひとりごと。

 △ これまた、以前偶然見つけた(どなたかの日記のから辿った記憶もある)ページで紹介されていた「チビクロさんぽ」が出版されたようである。これは「ちびくろサンボ」の絵本上の問題点がどこにあるかを学術的にフォローし、新たに黒犬が主人公の絵本として再現したものだ。ある親子の「貴重な」ご意見(笑い)により世間的に抹殺されてしまった「ちびくろサンボ」の本来的な(厳密に言うと岩波版の、というべきか?)おもしろさやリズムは、この新しい絵本で見事に再生している。
 が、残念なことに私はあの絵はあまり好きではない。

 □ 映画関係のMLに入っている知人が、「また面白い論戦があるよ」とその論戦をダイジェストでメールを送ってきた。今回はある映画について、ありきたりな作家論的視点に立脚した意見がしばらく投稿されたことが原因。そのML参加者の中でも知識もありアクティブなメンバーであった人が「あんたらの発言はつまらない。作家論的視点からばかり論じてもわかったふりにしかならない」(と言っているようにとれる)発言をしたことから論戦がスタート。
 やっぱりこういう時のいろんな人のリアクションはオモシロイは。知人も「台風がくる時みたいにワクワクする」と言っていたし。しかし、「分かる/分からない」なんて、ムズカシイ話をふったなあ(笑い)
 「分かったふりにしかならない」状態の人は「分かった、と自覚しているはず」という視点をもちこめば、誰が分かって誰が分かっていないという、論理は無意味になるとは思うのだけれどね。ご意見した方はどうやら「映画は感じるものだ」というご意見のようだが、それは同時に見た人の数だけ映画があるということになるからねえ。いくらみんなを啓蒙しようという意図だって、「あんたら」という言葉は誤解されてもしょうがないよなあ。まあ血圧高い人の書き込みは俺好きだけどね(笑い)

<10月24日>
 ◇ 来週は嵐のような一週間になりそうな予感。おまけに金がマジで足りないけど、どーすりゃいいのかなあ。水道代は引き落としで払っているから止められることはないけれど、人は水のみにいきるのではあらず、というのもまた真実だ。今月はやけに金回りがいいと思って、「ザンボット3」のLDボックス買ったりしたのが響いているわけではないが(一応、サイフは別のはずである)、結局最悪の事態になってしまった(笑い)。というわけで、あとの1週間はカスミでも食べて暮らそうかなあ。

 追伸 ザンボットの中古がありますとメール下さった方、メールを消去してしまい、御返事できませんでした。メールをいただくのと前後して購入しましたので、遅くなりましたがここでご連絡させてきただきます。あそこで中古を購入していればいくばくかの現金が今手元にぃぃ……とは思わないが(←やせ我慢。やせているのに我慢するのではなく、やせるためにする我慢のこと←蛇足)

 □ プロレスファンの人が、プロレス雑誌の投書欄を読んで笑っていた。なんでも、その投書は某週刊誌で行った某団体のレスラーのインタビューをやたらと深読みして、「そのインタビュー内容から判断するに、その週刊誌を出している出版社は社として某団体を応援している」と、書いていたとかいないとか。真偽はともかく、一般誌どころか、興行に関係ない一般の会社が某団体にそこまで入れあげることは普通考えにくいよなあ。ここまでくると、これは立派な「陰謀史観」といえるだろう。熱心なファンはわずかなデータから全体を読みとろうとしてしまうから、「ノイズ」をそのまま「シグナル」として関知してしまうんだろうなあ。
 こうして一歩間違うと、ブライアン某(メディア・レイプの人ね)が誕生するわけだ。(すみませーん、読んでないのに批判してまーす)

 ○ 最近のカラオケの採点システムには、全国の採点情報を管理することで「カラオケ偏差値」を出すことができるものがあるという。これって、スターファイターみたいな設定だよなあ。あれって、片田舎に住んでいた主人公が、ゲームでハイスコアを出して全米一位になったことから、人類代表パイロットに選ばれるというノー転機(この変換もなかなか味がある)な設定だったはず。あれはゲーム台が全部つながっているということなんだよなあ。きっと、カラオケ偏差値でも、驚異的な高さをマークすればきっと、宇宙とはいわないけれど、エイベックスあたりからはお声がかかるかもね。 

<10月25日>
 ◇ 徹夜明けで帰宅。自分の仕事の段取りの悪さ、見通しのなさをちょっと反省する。空腹だったので豆スープと牛乳とレトルトお粥を流し込んで睡眠。午前9時半から午後2時半まで寝る。起床して、部屋を片づけつつネットサーフィンなど。本当は在宅勤務の予定なので仕事をしなくてはいけないのだが……。BGMは「ことばあそびうた」「ことばあそびうたU」「季節へのまなざし」と合唱方面。

 □ 仕事もしないんで、なんで日記なんぞ書いているのかといえば、ネットサーヒンで読んだ掲示板などの意見に少々思うことがあったのだ。掲示板は議論が流れているので、参加しつつ自分の意見をいうというのは難しいので、思ったことを少々日記に書き留めておこうと思ったのだ。

 テーマは「やおい」。僕はいわゆる「やおい本」というわれるものがどんなものかを、ジャンルの外側にいる立場から概ね把握しているにすぎないので、やおいファンの人からみれば「ちと、ちがう」という意見もあるかも知れない。


 △ なぜ「やおい」を好きになる人がいるのか。これについては、これまでにも少女漫画論の中で語られてきたように、「自分(女性)が存在しないで、性を語ることが可能なジャンルだから」というのが一番一般的に理解しやすい回答だろう。実はこの指摘は「やおい」を含め性を扱ったマンガ(性行為を描かないやおいも読者の多くが女性であることを考えると、一種の性の問題を含んでいる)を考えるのに有効である。つまり、物語とその物語を消費する存在(読者)との距離感が、「物語」を「物語」たらしめるファンタジーの部分を支えることになるのだ。こうした全体像なしに、「やおい」や「成年コミック」を論ずるのは難しいのではないだろうか。

 @ まず一般的な構図で論じる。思春期以降の女性と男性の差は何か、といえば、「自分が性の対象になるかどうか」についてである。ストレートの男性がホモセクシュアルについて、冗談めかしてしか語れないのは、自分が他者から性の対象として見られることに不慣れなのである。公共施設で同性愛者団体と行動をすることになった時に、同宿の男性客が彼らをからかうような言動を見せたのも、「自分が性の対象にみられたらどうしよう」という不安にかられてのことだったのだろう。
 一方、 女性はつねに自分が性の対象として語られる状況にさらされている。それは、自分に関してだけではなく、「広告に女性タレントが登場する」ということだけで既に「性の対象として注がれる目線の存在」を思い起こさせられるのだ。
 彼女はその視線の源である自分の身体に対して、自分の自由にならない「窮屈さ」を感じ、持て余しているが、現実でそれから脱することはできない。「私に肉体はない」という種類の割り切りをして、例えば勉強だけに意識を注ぐという少女もいるだろうが、多くの少女はそこまでは割り切れない。

 「やおい」というジャンルが発生した時に、この物語を支えていたファンタジーというのはつまり、「女という性を持たない登場人物を男にすることで、自分によせられる視線から一時自分を解放する」というものだったのである。
 これは一般的に否定的なニュアンスで語られる「やおい少女」の姿とあまり違わないように見えるかもしれない。いわく「男にもてないから(恋愛経験が乏しいから)、そういったファンタジーに逃げるのである」。しかし、僕がここで言いたいのは、彼氏の有無ではないのである。彼氏がいても自分の身体に対して窮屈感を持っているのであれば、それは「やおい」という物語をを求める形で発露する、ということがいいたいのである。少なくとも「やおい少女は現実の恋をすればいい」と語る能天気な男性とつきあったのでは(そんなことはないだろうが)、やおい少女自身の内面は変化することはない、と言える。最初に書いたように、自分が性の対象たりえるという自覚がない男性の基本的なスタンスと、やおい少女の持つ「肉体の窮屈さ」とは相容れないのだ。

 ここまでが基本的なスタンスである。ただ、これほどにいわゆる「やおい」という文化が増えていくと、出版を中心とする市場が大きく形成され、「習慣で読む読者」も存在するようになるのは事実だ。もちろんそれによって本人が自らの身体の置かれた位置に気づく読者もいるだろうが、読者すべてを上に書いた「ファンタジー」の中に括るのは間違いであるのはいうまでもない。

 A では男の身体とそこから発生する「ファンタジー」はどこにあるのか。
 かつて、男にはコドモとオトナしかなかった。オトナとはセックスできる男であり、コドモはセックスできない男であるという単純な分類である。オトナの男は「セックスする」ということがアイデンティティの一つにすでに含まれているのである。男にとってのファンタジーの一つ典型である「俺の空」で、主人公が童貞を失うという「オトナである」という宣言からスタートしていることはこの分類の分かりやすい例であろう。だから、男は性と肉体について悩まずにすんだのである。それは、個人的なことというより社会的な約束事。この時点ではやおいほどの

 むしろ、社会境遇はコドモだが身体はオトナという状況が生まれて、はじめて男のファンタジーが成立するようになる。それはラブコメという形をとり、裏側で当初は成年マンガという姿になるわけだ。
しかし、そこには大人になることを保証された安穏とした雰囲気がある。あくまでモラトリアムである。

こちらも「やおい少女」と同様のニュアンスで、彼女がいないからこそそういうメディアにのめり込むのだ(これは鶏と卵の関係だが)、と語られる場合が多いが、それは既婚者でもエロ本を購入する人が多いことを見落としている。彼らが好み支えるファンタジーがそこにあることが大切なのだ。
・・・・・・ (未完)
 
 ○ ハっ、おれは今日は仕事をするつもりだったのに……。まあいいや酒飲んで寝ちゃお。カレーと紹興酒とPG。なんだか久しぶりである。

<10月26日>
 ◇ あ、もう起きなきゃと思ったら、昼でした。今日は在宅勤務の日にして頑張らないと、資料の整理をしないと「決定的な事態」がおこるのだった。例えるなら、さっんざんぱら格下相手に苦戦しておいて、天王山となった試合で帳尻を合わせなければならないような、そんな「日本代表的事態」である。早め早めに安全策をとらないとなあ。
 とりあえず、在宅勤務とはいえ昨日うまくいかなかった仕事の帳尻を合わせるために、山手線に飛び乗って会社へ。気持ちは焦っても、電車の中ではどうしようもないので「タイタンの妖女」を読み継ぐ。さささーと用事を済ませて、再び巣鴨へ。

 ○ 今回は在宅勤務に合わせてコビトさんをスカウト。鳥坂先輩((c)究極超人あ〜る)が言っていたように、こちらが眠くても計算をしてくれるし(計算を間違うことが多いが)便利便利。コビトさんを使うには、魔法の言葉が必要なのだが、それは秘密である。めったに口にする言葉ではないからな。あと、競馬の番組も必要かもしれない。コビトは天皇賞に強い関心を示した。

 △ 午後一杯は資料と格闘。そして夜になったのでUAE戦を見る。あああ、じれったい。といっているうちに終わってしまった。世の中には「絶対」ということがあるからなあ。
 絶対という壁はノックしただけでそれと分かる。その壁はまるで書き割りのように薄っぺらな姿をしている。色はハゲかかった灰色で、ところどころに土がついたような汚れが見えたりもする。手で触ってみると熱くもなく冷たくもない。ほぼ自分の体温と同じに感じる。叩いてみると、ベニア板を叩いたようにしまりのない音がするが、耳をすますとその音はずっと低く鳴り続けて、消えることはないことが分かる。その音はずっとまえの音と干渉しあい、ウウウンウウウウンとわずかなうねりを産んでいる。
 そして、その壁は押しても引いても絶対動かないのだ。 すぐ倒れそうな、壊れそうな壁なのに。
 これが「絶対」のある風景。 

 ○ 一杯飲んで食べてから、また仕事。ミュージックフェアは、米良美一氏と由紀さおり&安田祥子姉妹。それぞれ歌い方が違うのが味わい深い。しかし、米良氏の存在が「もののけ」だというのはあたらずとも遠からず、か。俺もアレぐらい気持ちよく歌えるようになりたいものである。そういえばPG。

<10月27日>
 ◇ 仕事です。今日もどうせ資料をまとめなきゃならないのなら、自宅で、と思ってさっさと帰宅。昨日から格闘している資料とにらめっこ。とはいうもののわずかに光明が見えてきたかも。明日、明後日と頑張ればなんとかなるだろう。

 ○ そんなわけで午後9時半から午前4時まで資料と戯れる。あと一息で予定より速いペースになるのでここががんばりどころ。と、思ったところでネットサーフィンなどしつつ日記を更新。BGMは「アカペラ100パーセント 聖なる祈りの歌声」。アルファ波が出そうなCDです。ええ、今はその程度しか頭がまわっていませんので、これにて。

<10月28日>
 ◇ 仕事が大詰めです。今までは「部品作り」に勢をだしていたのだが、明日以降は「組立作業」に突入する。ていうわけで、ちょっとミーハーな関心から様子を覗こうと思っていた「デジタルエンジン」の設立会見は、見送りせっせと仕事をすすめる。こういうときに本当に自分が単機能にしかできていないことを痛感する。もっと気分の切り替えが早くて、睡眠時間が少なくても大丈夫な人間だったら、もっといろいろできるのになあ、と今更ながら自らの基本仕様を呪ってみたりして。

 □ とはいうものの、今日は比較的順調に展開したりした。帰宅して深夜番組「マガ不思議」を見たり、アニメ「ベルセルク」を見たり。ベルセルクは評価に違わぬ完成度の高さであるが、アニメ・パンクラス派としては、どうしても効果的なミドルショットや登場人物の全身がうつるショットを増やしてほしくなる。テレビアニメでそれは無い物ねだりではあるというのは十分承知なのだが、細かい芝居の時もアクションの時もいわゆるアニメ的なカットを積み上げる手法ばっかりだと、「ああ、アニメだなあ」と思ってしまうのである。俺はアニメが好きなのは変わらないのだが、アニメを見られなくなっているのかもしれない。末期症状だな。

 ○ ついでに「演出」について。演出ってのは「作品世界をデフォルメする法則」を司る神様だ。だから、まずその法則が決まっていることが肝心。その法則を実現するために、演出技法が用いられるわけである。
 で、メディアとか読者層によってそのデフォルメできる限度は狭まったり広がったりする。例えば、映画というか「モーション・ピクチャー」(動画、とでも言えばいいのだろうか)のジャンルでは、「被写体が動いている」ということによって、「マンガ」よりある意味で狭められているのだ。
 例を挙げよう。マンガはシリアスなマンガでコミカルなシーンを入れるときには、セリフを写植にしないとか、コマを小さくするという演出上の技法を駆使することで全体の法則に抵触しないようにしている。これをそのままアニメ化の際に行って、テンポが悪くなったアニメがどれだけあったことか。これはひいては、マンガの時間と動画の時間の差の問題に通じるのだが。
 さらに映画一つとっても法則はさまざまであることはいうまでもない。「大砲の弾が当たってもイテー」というだけで済むコミカルな世界と、弾があたれば死ぬという前提はあるがヒーローには弾はあたらない作品では当然ながらその法則は違う。
 ちなみに、ジャンルムービーは、こうした法則の主体が演出家というよりは、すでに「ジャンル」にあるものだ。しかもこのジャンルの認定は、受け取る側が恣意的にしている場合も多いのである。つまり、監督はジャンルムービーではなくそこを突き抜けた作品を作り上げようとした場合、視聴者は「ジャンルムービー」のなりそこないとしか把握しない場合がある。監督作ではないが「総理と呼ばないで」が不人気だった一因はそこにあるといえるだろう。(あの場合は、脚本家の意図を演出が自らの法則に取り込まなかったことが根元的な問題だったのだが)

 △ さて、話題をアニメに戻すと、アニメの作品で「写実的な作品」をやろうとする時に、人物をどのように動かすかという部分での法則が問題になる。日本のアニメは動いていなくても動いているような印象を与えるさまざまな演出技術を産んできたから、登場人物に肉体感がなくなるのである。この部分をきっちり埋めて作品を作っている人は少ないのではないのだろうか。
 余談ではあるが、キャラクターの肉体感のなさを埋めているのが声優の存在であろう。例えば音を消して見るにたえるアニメがどれだけあるかという視点も面白いかも知れない。

<10月29日>
 ◇ 学生時代の友人が結婚するそうで、このほど引っ越しをした。だいぶ本を整理したそうだ。で、奥さんも当然ながら本を持ってくるのだが、そこには「風と木の詩」が!。友人は学生時代に竹宮恵子全集を突然購入していた割にはこの作品だけは、敬遠していたのだが「単行本の解説に寺山修司が書いてるんだなあ」と妙な感心をしていた。
 小学校時代からの友人も昨年結婚した。今年の正月にお邪魔したときに、本棚をチラリと拝見。奥さんの好みであるらしい「虚無への供物」なんてのもありましたが、ええやっぱりありました。「風と木の詩」。こちらは小学館漫画文庫版だったと思うけど。
 つまり、最近は「風と木の詩」をもってお嫁にいくのがトレンド(死語)なわけだ。旦那が喜ぶかどうかわからないけど。でも、内田春菊のマンガを持ってくるよりは、夫婦関係に波風たたないとおもうけどな(笑い)。

<10月30日>
 ◇ 犬はほえるがキャラバンは進む。日記を書かないが時間は進む。仕事は進まないがタイムリミットは迫る。代表は勝てないが試合は終わる。
 ええ。なんとか怒濤の1週間を思ったより致命的な事態にいたらずに過ごすことができそうです。あとは明日の徹夜の作業がサクサクと進むことを祈るだけ。

 ○ 昨晩今更ながらジャンプを読む。鳥山明目当てである。ちまたの評価は知らないが俺はいいと思った。「COWA」。鳥山明はもしかすると最後に現れた児童マンガの書き手かもしれないのだ。そういう意味で、藤子・F・不二雄氏なき今、「COWA」の安定した人気を望まずにはいられない。しかし、これが人気を集めないという土壌もまた氏の「ドラゴンボール」で培われた可能性もあるのが人生の皮肉か。

 △ 昨日・今日と未明に帰宅すると地上波で面白い番組がないため、衛星にチャンネルを合わせる。すると、教育テレビの番組をOAしているのだ。小学生向け理科番組で、お姉さんの小学生程度のボケぶり(あたりまえ)を楽しんだり、道徳番組でコドモと現実の距離感をいろいろ考えさせられたりしているうちに夜が明ける。ヲイヲイ、さっさと寝ろよ。

<10月31日>
 ◇ 徹夜で組立の日。悪戦苦闘はしたものの無事軟着陸。もう少し見通しをもって仕事をせねばならないなあと、11月1日に書くわけだ。
 ○ 「偽書百選」(垣芝折多、文芸春秋 476円)が文庫になっていたので購入。いつ読んでもいい本なので、もしかすると買っただけでおわるかも。それとBクラブのサンライズ特集。


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