2000年5月下旬


5月21日(日)

■ 仕事をしようと思っていたが、終日寝て過ごす。それでも夕方以降に少しは仕事をしたなり。

5月22日(月)

■ なんだかまだ本調子でない。渋谷で食事するうちに楽にはなってきたのだけれど。 

5月23日(火)

■ 咳がとまらず。日中は寝て過ごしながらも、少し仕事をする。帰宅して『陽だまりの樹』。このキャラクターデザインの一番の特徴は、男性キャラに喉仏があることだと思っているのはオレだけ? ただ、男性キャラの魅力に比べると女性キャラはなんともかんとも。個人的には宇田川一彦氏(だったかな)の手塚キャラが好きなのだが。

■ 夕方から『エスカフローネ』の試写へ足を運ぶ。うむむむむ。とりあえず絵がキレイでしたと言っておこう。

映画■『エスカフローネ』

 作画は美麗だし、物語だって大きく破綻しているわけじゃない。娯楽映画としては上々じゃないか。ワーナーマイカルを中心とした興業も、是非成功してもらいたい。にも関わらず、ひっかかるのだ。惜しいというべきか。
 この映画のテーマから推察してみよう。一番大事なシーンはどこか。バーンが瞳を助けようとして傷つき、瞳がそれを助けようと決意するくだりだ。人は孤独だから一人ではいきてはいけない。孤独から理解へ。その象徴たるエピソードがちゃんと映画の折り返し地点にあって、構成上はバッチリ。確かにセリフでは、瞳の心情は説明されている。でも、弱い。描写が印象に残らないのだ。 
 逆にフォルケンがディランドゥを厳しくとがめるシーン。こちらの指を折られる描写のサディステックな迫力はどうだろう? あるいは冒頭のアクションシーンでもいい。あの無惨に殺されていく兵士の描写から、バーンの決意と、満たされない思いが伝わってはこなかっただろうか。
 肝心なのはこの映画はそうした負の感情を浄化する、という方向で作品がつくられている、ということだ。ならば、友達のコトなんて考えたこともなかった瞳がバーンを思いやるくだりは、それら負の感情を感じさせるシーン以上に印象的にすべきではなかったのか? あふれ出る血。助けたいと思う気持ち。でも、何もできない自分。その葛藤と心の変化をアクションとして描いて見せてこそ、製作者の伝えたかったテーマはダイレクトに伝わるはずではなかったたのだろうか。だから後半、フォルケンに対したときのセリフが、単なる言葉にしか見えなくなってしまった。というわけで、この映画にはテーマと描写のズレがあるように思えてならないのだ。そこさえちゃんと描いてあれば−−単にテレビ版のファンへのサービスにしか見えない登場人物が多くても−−これはちゃんと映画になったはずだ。そう思えるから、とても残念だ。
 

 (僕はあまりキャラの性格描写などには文句はつけないのだが、ディランドゥの動機が個人的である、というのが最初から自明なのは少々疑問に感じた。せめて本人が建前で政治的な大義名分を言っているシーンが必要だったのではないか。そのように奥行きをつくれば彼の魅力もまた増したはずのように思うのだが、これは些末なことである)

5月24日(水)

■ 悪貨は良貨を駆逐する? バカは死ななきゃ治らない? 弱い犬ほどよく吠える? 世の中のあらゆるところで通用する?ルールらしい。苦笑。まあ、「暖かいまなざしで無視」ですな。

5月25日(木)

■ いろいろと仕事をしていたような……。

映画■『クロスファイア』

 これから書くことはまだ自分でも、完全に理解はしていない。けれど間違いなくこの映画を見て、僕がある種の直感に撃たれたことは間違いない。
 一つは効率的な語りの技術ということ。金子修介監督は、延々とフィックスを続けたり、凝ったアングルを探したり、あるいは壮大な風景を撮ったりするようなタイプではない。多少、ケナすような書き方をするなら、ビジュアル的にはちょっとダサ目と言ってもいいぐらいだ。もちろん、そのエンターテインメント性へのこだわりを含めて気になる存在ではあるのだが、映画の「絵面」の部分をどんなふうに本人が考えているか、そのあたりは判然としなかった。
 けれど、この映画を見て、そのあたりが少しわかったような気がした。思い当たれば単純な話だ。映画作家達がアメリカ映画について語り合う『ロスト・イン・アメリカ』で、語られていたことだ。雑ぱくにまとめると、ビジュアルの要素はドラマを阻害する、というようなこと。単純だけど、意外に奥の深い言葉を金子作品は実践していたと思えるのだ。
 短い尺の中でキャラをたて、さらに人間的な奥行きをたて、全体のドラマを構成していく。そこには絵的な派手さは、必要なぶんだけはいっていればいい。絵に尺をとられると、ドラマのバランスが崩れる。キャラを見せるなら、バストショットが効率的だ。クローズアップ(トラックアップ)も、観客の感情を誘導したい瞬間にわかりやすく使う。おそらくこうした戦略の上に、金子監督は自らの話法を完成させている。職人監督的と言ってしまえばそれだけかもしれないけれど、ここまでタフにその技術を鍛えてしまった人はそういないんじゃないだろうか。おそらく過去の作品から、バストショットの数や何かを見て人が驚くシーンのカット割などを比較検討していけば、金子イズムのルールを抽出できるはずだ。それは、やはり劇映画の本質を指し示しているように思う。

※映画そのものは、そういうわけで極めて見やすい上質の娯楽映画として完成している。
5月26日(金)

■ 仕事の合間にいろいろ本を読む。もちろん、それ以外にも本を買う。『愛ラブSHOCK!』(オーツカヒロキ、宝島社 686円)うーん、コネタはおもろいんですが、バタバタしすぎ?って感じ?みたいな。ピロンタン名義で「快楽天」で描いてるほうが、エロという筋があるのでまとまりがいい。ところで、あとがきに登場するコバヤシって何者? 『機巧奇傳 ヒヲウ戦記 壱』(神宮寺一・會川昇 BONS、講談社 533円)おそらく本編よりはこの序章のほうが僕的ツボにはまるであろう。こういう歴史上の人物の消化の仕方は結構好きなのだ。また、細かな資料にあたっているようで、荒唐無稽な設定だからこそ、そういう細部が作品に奥行きを与えている。何の気なしに買ったのだが、ストレートに面白かった。

コミック■『魔法使いの弟子』(井浦秀夫、小学館 505円)

 日本の近代、を正面から取り上げ、「深層意識」「メスメリズム」というアイデアで見事に消化した佳作。ここまで明治の日本人の懊悩に迫ったマンガは『坊ちゃんの時代』ぐらいだろうか。
 明治に入り、インテリ層は西欧的な個人の概念を扱いかねていた。しかし、それが必要なこともまた切実に分かっていた。国家として「普請中」だった明治の日本では、個人もまた普請中だったのだ。そこに生じた壁の裂け目のような部分から、深層心理が、過去が、そして江戸時代がにじみ出してくる。この物語ではその矛盾は、主人公である明治政府の鬼窪参議が、合理的な個人を演じようとすればするほど、その過去が妾の妙や、妖しげな心霊治療師召魔の姿をとって現れる。また、2人の心の中にも、また近代的な個人になりきれない懊悩は潜んでいる。そしてこの作品で特筆すべきは、そうした明治人の内面を、神秘(いかさま)と科学、深層心理と表層意識といっった対立で見事に物語の構造にまで落としこんだいるところだ。
 物語の結末は意外なほどあっけない。普請中のことは普請中のまま、個人はの人生は歴史の中に溶け込んでいく。それでも、ささやかな和解を用意してあるのは作者の人柄か? 確かに作者のぼくとつとした絵柄が作品に暖かみを与えている。
 ただ一方で、絵解きして説明したり、絵に矢印で注釈を加えたりという方法は、(作者の持ち味とはいえ)やや気になる部分もあった。もっと絵とコマだけで見せてもよかったように思うところはないわけではない。
 ともあれ、原作つきのAVものというイメージが強かった作者の、意外な魅力を発見した作品だった。
 
 追伸 個人的にはNHKのドラマで映像化きぼーん。

コミック■『ウエンディ』(松本次郎、太田出版 1400円)

 ピーターパンを下敷きにしたダークなテイストのファンタジー。登場人物たちは心のダークサイドたるネバーランドに激しく惹かれているが、そこからの帰還が見事に描かれているので、とても爽やかな読後感がある。
 『ピーターパン』は個人的には好きな物語なのだが、子どものままでいられる国、全ての行為ががゴッコとして反復され続ける国というのは、やはりどこか病んだような印象は拭えない。おまけにそこに現実を絡めようとすると、映画『フック』のような無惨なものにならざるを得なかったりする。この作品では、ネバーランドそのものが「ゴッコ」の産物であり、それ自体が生成と消滅を繰り返しているという設定を入れることで、ネバーランドが持つ闇を客観的にひいた距離から描くことに成功した。それをフックにして現実との関連づけをしたからこそ爽快感と説得力を持った一種の思春期ドラマとして完成できたのだ。
 
 タッチの多い肉感的な絵柄も魅力。口元の処理にオリジナリティを感じさせる部分もある。
5月27日(土)

■ ちょっと仕事をしたり、昼寝したり。夕方からは『サクラ大戦』『ゾイド』。ゾイドの演出はいつも間が悪い。少年向けの楽しい雰囲気はいっぱいあるのだから、なんとかしてほしいけど、無理だろうなぁ。

■ いろいろネットサーヒンをしていると、アニメ版『ラブひな』評判悪いなぁ。僕は決してそう思わないので、ちょっと擁護論でも書いておこうかな。

 まず、原作の位置づけについて。原作は極めて'90年代的な作品だ。もはやドラマというものは、完全に蒸発し尽くしていて、読者がコマをたどるために最低限残っているだけ。世界は奥行きがなく、平面な世界の上に、人物ではなく最近の用法でいうところの「キャラ」(役割、属性とでもいうようなもの)が浮遊しているだけなのだ。これは作品の善し悪しではない。こういう作品が好まれるのが現状なのだ。今の日本のある種のメンタリティーを代表しているという意味では、スーパーフラット展に並んでもいいぐらい、スーパーフラットな作品である(ここは冗談)。
 では、こんなスーパーフラット(くれぐれも冗談)な作品を映像化する時に、アニメのスタッフがどういう戦略を選んだか。
 それは原作のドタバタした要素を残しながら、30分の枠内でドラマや劇的空間が成立するように原作の細部を再構成してしまういう方法だ。もちろんこれ以外の方法もあるだろう。もっと単純に原作をアニメに引き移すことだって可能だったはずだ。それをあえてやめているように見える。極論するなら、劇場版『エースをねらえ!』と原作の関係に似ているとでも言えばイメージしやすいだろうか。アニメ版がアニメ版として自律(自立ではない)するために、原作の細部を奉仕させているという点において。
 例えば1話における景太郎の決断、2話のしのぶの家庭の事情。このあたりははっきりと、スーパーフラット(だから冗談)な原作に、ドラマ的奥行きをつけよう、そうしないと映像作品として成立しない、という志向がある。だからといって劇場版『パトレイバー』のように、世界の意匠そのものまで作り替えはしない。世界はあくまで『ラブひな』なのだ。
 また、劇空間の再構成で一番重要な役割を果たしているのが、ひなた温泉に向かう長い橋だ。1話ではこの橋をはっきり異世界への入り口として描いている。おまけに「夢に気をつけなされ」というもっともらしいセリフも登場。『ラブひな』の世界なぞ現実にはありはしないのだ、というスタンスを明確にした上で、ひなた壮を登場させたのは、「原作」と「アニメ」の差異として見逃せないという点だ。各カットの構図も、極めてマンガ的な画面構成の原作とは違ったアングルを積極的につくっているようだし。
 
 もちろん(わざとであれ)間違った旧字体、風呂の中のタオルというのが引っかかる人はいるだろう。それは確かに問題であることを否定できない。けれど、僕の中では、それらよりも重要なことが実行されているのであれば、そちらを多く判断したい、ということだ。残念ながら、世の多くの作品は、減点しようと思えばいくらでも減点できてしまうんだから、作り手の意志が見え(この表現ちょっと氷川竜介風@20年目のザンボット3か)、それが形になっているほうを好意的に判断したい。もちろんそれがこちらの誤解であっても。
 ちなみに個人的に今週OAの回で気になるのは、時間経過が曖昧だったこと、とか、なると景太郎を見つけた漁船が遠すぎるとか、そういうほうが問題だと思っている。そのあたりをテンポとか設定でうまく処理できてればとかは思ったりもするけれど。劇的空間(なんだか問題のゲームみたいっすね)ってのはそういうところから生まれると思うので。

■ 知人から池袋に呼び出されて、何人かでパセラでカラオケ。とても楽しかったのでした>関係者のみなさま。

5月28日(日)

■ パルコで村上隆×椹木野衣×後藤繁雄トークショー。寝不足でいったので寝てしまう。内容は、想像通りものすごくトリッキーな言葉の応酬だったような気もするが……。その後は、パルコブックセンター、ブックファーストに寄って物欲大爆発。『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国』(作品社、6500円)、『大竹伸朗日本景』(朝日新聞社 4800円)。そのほか安彦麻理絵の『メロドラマチック リミックス』(アスペクト 880円)、『おんなの子の条件』(秋田書店、870円)などなど。そのほか書ききれないので割愛。しかし、この物欲はやはり病だね。しょうがないけど。そういえば本の特集の『インターコミュニケーション』も買った。森山和道さんとか小田切博さんも執筆していた。個人的には、未来にはあまり興味がわかないこのごろなのだけれど。

■ 宮部みゆきの『鳩笛草』(光文社、590円))と『クロスファイア 上』(光文社、819円)読了。うむむむ、このお話をああ脚色するとは。一本とられた感じ。果たしてプロはどう思うのだろうか。例えば、『星界の紋章』のアニメ版(途中で見るのをやめたけど)なんかも、これぐらい大胆に脚色するオプションはなかったのかなぁ。まあ、変えればいいというわけではないけれど。
 おまけで、ガメラ3に関する金子監督のコメント(http://www.gamera.gr.jp/report93.html

5月29日(月)

■ 会社の飲み会。朝まで。やれやれと思うこともないわけじゃないけれど、楽しかったことは楽しかった。

■ 『クロスファィア 下』読了。むむーん。こう終わるか。わからんでもないけど。なんつーか、通俗性が増しているぶん、ダイナミックな映画版のストーリーを思い浮かべるとなんとも不思議な気持ち。なおかつ勢いで『∀の癒し』(富野由悠季、角川春樹事務所 1900円)までも読了。

5月30日(火)

■ 会社で精算をし、それから茗荷谷方面で打ち合わせ。ゴジラの行く先を憂えたり、伊藤英明は『夜叉』より『クロスファイア』のほうがいいとか。怖い映画のいちばんコワイ理由とか。そんな雑談もいろいろと。あと『蛇女』をみる覚悟について、とかもあったなぁ。

■ 《「Amazon.comは、本を売っているんじゃなくて、『本を売るときのサービス』を改善して売っているのだ。そうでしょ?」》というフレーズをとりあえず孫引きしてみた。本家はこちら
 このフレーズは、この間僕が書いた新古書店の問題と同じことを言っていると思うのだ。ちょっと僕的に不明な点も多いが、その言葉を読んでオンライン書店についていろいろ考えたので、後のためにメモ的に書いておく。
 簡単にいうと本の世界は、コンテンツ面(つまり本そのもの)でのサービスに比べて、はるかに流通面でのサービスの質が低いのだ。新古書店はその流通面(再販制度含む)でのサービス不足をある一面で補っている、というのがこの間の論旨。あの時は僕の頭の中には値段のことがあった。でも、値段だけではない不満だっていっぱいある。書店での不満は、値段をのぞけば、「欲しい本が置いてない」「注文に時間がかかりすぎる」が双璧のはずだ。だから、そこを改善すれば、新古書とは別のメリットが「新刊書店」にうまれるはずだ。
 そこで僕が思い出すのはシネコン。今の日本でいちばん大きいシネコンチェーンは、ワーナー・マイカルだ。先日公開された『アイアンジャイアント』は、諸般の事情でこのワーナー・マイカル・チェーンだけで公開された。映画PDの李鳳宇は、月刊誌「TITLE」の連載で「配収2億なら大成功。ズバリ3億」と予想している。僕はこれについて正確な数字を把握していないが、仄聞するところ、これに近い数字が上がってきているらしい。ワーナー・マイカルチェーンは、そこまで力をつけているのだ。
 シネコン強い理由は何か。とここまで書けばおわかりの通り。映画を売っているんじゃなくて、『映画を売るときのサービス』を改善して売っているのだ、そうでしょ? ということになる。事実、シート、音響、飲食、空間構成など、シネコンはかなり気を配っている。映画を見ることに付随するサービスを、ちゃんと今の客商売の水準にアップ・トゥ・デートしたから、これだけお客を集めることができたのだ。
 オンライン書店だってそうだ。本を探したり買ったりする手間を軽減する方向での、CSのアップというふうにとらえるべきだ。オンライン販売は、もちろん製販直結(究極はもちろんオンデマンド)の要素もある。けれど本の場合は、別に流通の中抜きが起こっているわけではなく、小売店がオンライン化しているスタイルが多いのだから、これはあまりあてはまらない。(もちろんブック・オン・デマンドへの挑戦は別のところで続いているが)。例えば、紀伊国屋のように、会員制であまり大したシステムでないようなところもそれなりに人気を集めていることを考えると、アマゾン.コム以上に日本のオンライン書店は、サービスを売るということで期待されていることがわかる。そして、そこが劇的に改善されれば、旧来の書店流通を補完するのではなく、むしろオンライン書店の流通をリアルの書店がその雰囲気や本の手触り、イベントなどで補完していく体制になるはずだ。
 果たしてそんなふうになるのか。ちなみにそうして強力なオンライン書店がいくつか登場し、それが主流になった時、取次店は果たしてどのような立場になるのか。そのあたりは専門の人の予想と意見を聞きたいと思う。おそらく−−それがいつになるかは知らないが−−そうなった時にはじめて、本の流通における中抜きが可能になるのではないかと、勝手に予想しているのだが。これを読んで、そのあたりでいろいろ教えてくれそうな方、メールを望む。  

NF■『ドキュメント・ボトムズ』(霜月たかなかほか、三一書房 1800円)

 いつごろから文字主体のアニメの本が登場するようになったんだろうか。でも、そのテの本の構成がどれも似ているように感じるのはボクだけだろうか。そしてその内容はどれもそっくりだ。監督へのロングインタビュー、関係者へのインタビュー、マニアの心をくすぐる細かなデータ、それから評論。そしてこの本も、まさにその通りにできあがっている本だ。
 もちろんこの本も悪いできじゃない。でも、このフォーマットに僕は飽き始めている。アニメの本ってのは、この作り方しかないのか? 監督のインタビューってのは、ああいう方法でいいのか? 答えはあるような、ないような。内容ではなく、形式についての疑問は今も残っている。
 

NF■『∀の癒し』(富野由悠季、角川春樹事務所 1900円)

  「創作とはパンツを降ろすこと」と言ったのは庵野秀明監督だったはず。ただ、おそらくパンツの降ろし方にも、魅力的なものと、そうでないものがあるはず。そして、この本で富野監督は、とても魅力的なパンツの降ろし方をしている。
 きっとこの本は、ゴシップ的な読まれ方をしてしまうだろう。そういう種類の話題も数多い。でも、この本の魅力は、自分の思いのたけを語ろうとする監督の、その身振り手振りそのものにあるのだ。そういう意味では、踊りが上手な人気のあるストリッパーは特ダシなどしなくても魅力がある、というのと似ているかもしれない。
5月31日(水)

■ 自由になる。

■ 帰宅するとビデオの予約を失敗したことが発覚。ごごーん。『NieA_7』はみられずじまい。そのかわりといってはなんだが、『ラブひな』のOAにはぎりぎり間に合ったので見る。あちゃー、こりゃあまた物議をかもしそうな……。
 というわけで、先日あんなにまじめに擁護論を張った僕としては、やはりこんなエピソードを見せられると黙っていられなくって、ここでひとくさり感想を書いてみる。
 一部でライバルキャラとか呼ばれているナントカ健太郎。たしかに役回りとしてはライバルなんだけれど、ポイントは明らかに、景太郎の鏡像として登場したことでしょうか。二人お揃いの頭のアンテナはその証だと思えるな。名前もね。鏡像だから、彼は景太郎の妄想にツッコむことで、『ラブひな』的世界へのイチオウの批評的視点を与える役割になってたりする。このあたりは評価が分かれるところだと思うのだけど(スタッフの批評精神みたいなものを、フィルムから感じると鬱陶しく感じる人はいるだろう)、個人的には『ラブひな』みたいなお話をイマドキなんの葛藤もなく作られても困るよなぁと思うので、ああいう距離の取り方はありなんですが。
 だから、あの二人の対立構造は金持ち頭脳明晰/貧乏浪人って図式を借りながら実は、妄想の破壊者/男の妄想であり、構造/意味っていう底にある二つの図式の方に比重が置かれている。これは『めぞん一刻』の三鷹と比べると、三鷹はすべて表面のキャラクター性によって造形されているのに対し、ナントカ健太郎は、底にある二つの図式をどうやってキャラクターとして造形するか、というときに典型的ライバルキャラのパターンを借りた、という大きな差があるといえるのではないか。
 ところで、来週以降彼はまた登場するんでしょうか? それはそれで可能性がありそうでコワイのだが。置鮎氏をキャスティングしたあたりにそういう要素を感じたり。個人的には一発キャラで済ませて欲しい気がするが。

 というようなことで、逡巡しつつ。でもやはりアニメ版『ラブひな』独特の情感は、いいじゃないのと思ったり。例えば、路面電車の使い方や、ひなた荘へあがる階段のつかいかた。だからこそ、Aパートのあのロケットはちょっとヤリすぎで、こちらは個人的に「不許可」ではある。まああれがないと、絵や物語に華やかさが欠けるってのはわかるのだが、それにしてもヤリスギ感があったのは事実。それから今回は1話と同様、ダメ人間景太郎をそれなりに「真実」のある人間として描こうという方法論もいいし、物語全体が「なるの気持ちがわかる」というネタ(フレーズ)にキレイに収斂するところは、うーん正直カタルシスを感じたんですが。こんな僕は間違ってるんでしょうか。
 なんだかんだといって、さまざまな意味のレベルでスリリングな作品なんですがねぇ、僕にとっては。
 ちなみに今回はシナリオはシリーズ構成の葉月九ロウ氏がシナリオでした。うーむ、オーソドックスというにはクセがある?