第壱回、「華原朋美の栄光と没落」その3(1999.9.26)
「Hate tell a lie」のミリオンセールスで勢いづいた華原陣営は、1997年7月に7thシングル「 LOVE IS ALL MUSIC」 を発売す
る。なんともキリのいい数字であった。
5th「Hate tell a lie」からタイムラグの少ないリリースであったと言う点と、銀座ジェリーマキとのタイアップでそこそこの売上をた
たき出すものの、予定外の数字であった事は否めなかった筈である。
明らかな曲調の変化は世間に悪影響をもたらした。そしてその悪い傾向は7th「たのしく たのしく やさしくね」以降へと引き継が
れる事となったのである。
メディア露出が以前にも増して激しくなった華原。イメージ作りは万全であり、20代の働く女性のカリスマ的存在となった彼女の
8thシングル「たのしく たのしく やさしくね」は、華原自身が作詞を手がけたとして話題を集め、同年9月に発売された。
イメージ通りの明るい曲調で、チャート順位も初登場1位と順調に見えたのであるが、この時のライバルといえば人気絶頂のSH
AZNA、先に発売されたGLAYのみであった。つまり一位は当然の結果というわけである。
予想以上に数字が奮わない。そう、世間は、華原のキャラクターのみに注目し、肝心のアーチスト性には興味を失っていってい
たである。
そんな中、同年12月に2ndアルバム「storytelling」が発売される。頻繁なTVCF、華原自身が出演するTV番組でのコマーシャ
ルと仮にもミリオンヒット2曲を含むアルバムであるという事でアルバム「storytelling」は意外にも好評であった。
このままであったならば、まだ今のような状況になる筈はなかったのである。
この後、華原を取り巻く環境は急転して行く。
年末から某オーディション番組でヴォーカリストのオーディションが開催された。そして合格者発表後にそのプロデューサー名が
告げられた。そう、プロデューサーは小室哲也、そしてオーディション合格者はあの鈴木あみである。
本物であるかどうかはこの際置いておいて、小室にその才能を見出された鈴木あみはデビューする時期に対し非常に貪欲であ
った。
Ringのプロデュースに追われていた小室自身もあみは早くデビューさせるべきだと考え、自らがマネジャーとなり着々と準備を
開始した。
しかしこの間は華原は放り出されてははいなかった。1998年2月には9th「I WANNA GO」を、同年4月には10th「YOU DON’
T GIVE UP」を発表。ところが小室のプロデューサーとしての情熱はそこには無かった。
小室哲也ほどの才能をもってしても同時に何人ものプロデュースを行うのは不可能であったのだ。鈴木あみが順調なデビュー
準備をしていた中、華原の9th、10thの合計売上は10万枚強。
今まででは全く考えられない数字である。
それでも小室は華原に11th「tumblin’dice」、12th「here we are」、13th「daily news」と出がらしのような楽曲を提供し続けた。今や小室にとってのメインは完全に鈴木あみとなっていたのだ。
同年11月に華原は3rdアルバム「nine cubes」を発売するも、世間の注目を失った歌手のアルバムが売れる筈もなく、合計売
上は26万枚であった。気が付けば彼女の仕事は桃の天然水のCMしかなくなっていた。
明けて1999年春、桃の天然水のCMを浜崎あゆみに奪われる形となった華原は謎の病気で突然倒れ緊急入院する事となる。
レコード会社移籍第一弾シングルの発売一ヶ月前の事であった。
入院理由は一説に、小室との男女関係のもつれによるストレスだとか薬物依存だとか色々と言われたのだが真実は不明である。
しかしそんな事はどうだってよく、ただ我々がそこに見たものは「トップアーティストの没落」以外の何物でもなかった。
「朋ちゃんには普通の女の子を歌い続けて欲しい」1999年正月の特番で小室哲也はそう語っていた。あれは何だったのか?
退院した華原は無事14th「as A person」を発売した。結果は、発売前の色々な話題性もあってまるで同情票が集まったかの
ごとく予想以上の売上であった。しかしそれは最悪の作品であった。
小室哲也の手を離れた華原朋美が、再び最高のスポットライトを浴びステージに立つ事はもはや無いだろう。
まさに「シンデレラガール」であった華原朋美。今も華やかな舞台に立つ女の子にも同じ事が言えると言う事を、しっかりと認識
すべきなのではないのだろうか?
彼女たち(自分)は使い捨てなのであると言う事を・・・・・・
第壱回「華原朋美の栄光と没落」完