月やあらぬ

1.銀の雫


月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして

月光に照らされて、白銀の髪の娘が呟いていた。
聖なる泉で禊をしながら。
セレン ―― セレンフィア。
相変わらず不思議な娘だ。

私は空を見上げ、晧々とした月 ―― 月は在った ―― を見、そして再び彼女を見た。

腰まで届く濡れた髪を彼女がかきあげると、露になった肩や背に痛々しい幾つもの傷跡が見える。
息を呑んだ気配を感じ取ったのか彼女がゆっくり振り向いた。
その体を隠しもせずに。
銀灰色の瞳。
額にある、虹色を帯びた月長石のような天眼に水の揺らめきが反射していた。
目をそらした瞬間、それでも捕らえてしまったしなやかに均整の取れた体。
水上にある上半身だけを見るならば、知らないものは彼女を男だと思うだろう。
いや、違うか。

性別を凌駕した神の如き美しい存在がそこに在る。

白龍族の女の特徴なのだと聞いた。
幼体の間は、少年のような体つきのまま成長するという。
既に成体への変化を自分の意志で遂げられる彼女が、このままの姿で過ごすのはひとえにその方が任務をこなしやすいからだと、以前当人は話していた。
惑星監査官。
軍部のほぼ頂点に位置し、しばしば危険な地へ赴くその仕事を思えば、確かに女性の姿よりそのほうがいいのだろう。

「目をそらす必要などないのに。上は男とたいして変わらないのだから」

彼女は言って笑んだ。
そうも、いくまい。
「…… 邪魔をした」
私はその場を去ろうとしたが、「別に邪魔でもなんでもない」彼女は意に解さず泉から上がった。
衣擦れの音がした。
軍服に身を包み、真っ直ぐな髪を一つに結わえると彼女は少年にも、少女にも見えた。
「聖地も大変だったようだな。女王試験お疲れさま」
その言葉に。
痛みを感じなかったわけではないが、少なくとも彼女に他意がないのはわかっている。
私は言った。
「外は」
―― あの女王が導く宇宙は。

「外の世界も安定しているよ。女王交代時期にしては破格だろうね」

しかし、そう言った彼女の右腕に、新しい傷がある。
その視線に気付いたのだろう、
「まあ、まったく何も無しと言うわけには行かない。炎、水、二つの守護聖交代も重なったから」

長い間、姿を見なかった。
その間聖地の外で過ごしたということは、彼女はいったいどれだけの時間を実感してきたのか。
女王や守護聖、女王補佐官と同じ長い時間を生きる特性を持ちながら。
聖地の外で、人と違う時を生きる過酷な責務ゆえに、役職はあってもほとんど実在しなかった惑星監査官。
この若さで ―― 少なくとも外見は ―― 自ら志願した彼女の過去に、おそらくは多くを語りたくはない何かがあるだろうことは想像に難くない。
ただ、彼女自身を見ているかぎりでは、それを感じさせない。
ほんの時折見せる表情を除いては。

「私はそろそろ寮に戻る。クラヴィス、少しは眠れよ。あなたはそうやって夜更かしするから、朝が遅いんだ」

言われた言葉に私は苦笑するしかなかった。
「気が向けば」
それを聞いて呆れたように、秀麗な眉を動かし、彼女はその場を去った。
銀色の髪から零れる雫が、月の光の粒のように見えた。

◇◆◇◆◇

私を女と知っていて、あそこまで動じないのも珍しい。
そう思ったら、声を出して笑ってしまった。
もっとも、表に出ないだけで多少は動じていたのか。
彼の無表情な仮面の奥の、心中を考えるのは不謹慎かもしれないが少し楽しい。
相変わらず面白い人。
いや、『相変わらず』は相応しくないか。
以前、会ったときとずいぶん雰囲気が変わったようだ。
私はため息をついた。

―― 今回は、彼、か。

長い宇宙のめぐりからすれば、それは些細なことなのかもしれない。
けれど。
まるで次々と贄を求める残忍な神のように。
人を恋う心を食らって、この宇宙はつつがなく廻るのか。
―― つつがなく?
幾つもの星の滅びるをこの目で見てきた。
まだ足りないのか。
何が足りないのか。
この問いに、答えるものはない。
振り仰いだ空に、月は晧々として。
それはいつも無表情。
いや、そもそも月は微笑んだりなどしない。
ただそれは、見るものの心を映すのみだ。

月の光をすくいたくて。
腕を挙げる。
そして、早くもふさがり始めた傷に気付いて、私は。
私は、安らぎの慈悲がこの身に訪れるのはいつだろうかと思った。

◇◆◇◆◇

その日は、雨が、降っていた。
馬車で正殿から私邸に戻る途中。
道を歩くセレンとすれ違いそうになった。
以前あったときから、また幾分かの時が過ぎていたように思う。
雨に濡れたまま、歩く娘。
おそらくは聖なる泉から戻る途中。
しかし、ここから正殿脇の寮へはあまりに遠い。
馬車を止めた私に、彼女は言った。

「気を使わなくてもいい」

とある惑星で起きた乱のことを聞いていた。
おそらくは、それで。
彼女の腕をつかみ無理やり馬車に載せた。
「席が濡れるぞ。馬鹿だな」
席が濡れるのを気にして、手を差し伸べないほうが馬鹿だ。
思ったがそれが言葉になることはなかった。
なのに。
それが聞こえたかのように娘は声をだしてくつくつと笑った。

「あなたは相変わらず面白い」

その言い分はかなり不満ではあったが、私は黙っていた。
窓の外をながれる風景を見ていたと思うと、唐突に彼女が聞いてくる。
「なあ、クラヴィス。月は微笑むものだろうか」
言葉の意味はまったくわからない。
そうだよな、わからないよな。またもや私の考えを読むかのごとく彼女は呟いた。
私は言った。
「…… 月をみて微笑む者はあろう」
闇だけを見つめて微笑む者がいるように。
「なかなか、いい答え。気に入った」
「そうか」
「誉めたんだから、もう少し嬉しそうな顔しろって」
無茶を言う。
「何が無茶なものか」
「…… 何故」
考えていることがわかるのか。この娘は。
「秘密」
「…………」
ため息をついて私は目を閉じる。
雨音だけが闇の中に響いた。
そのなかに、セレンの声が聞こえた。

「ありがとう」

その声に、目を開けると彼女は窓の外を見ながら、静かに涙を零していた。
髪から滴る、雫だったのかもしれない。
だが、その銀の雫を。
私は美しいと思った。


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