草原の風

(四)―――風末〜かぜのすえ〜


蒼穹の空は深く何処までも高かった。
白金の日輪は冴えて輝き
冷たい水の流れるせせらぎは煌いて野を渡っていた。
そして
萌葱の色を乗せた風は光っている。

懐かしい草原は、今も変らずその緑の葉を風に靡かせていた。

草原を渡るあの蒼い風は何処へゆきつくのだろう。
野に立つ(ほむら)より生まれ、遥かなる旅を続ける風。
人々の祈りをのせ、想いを運び、そしていつか辿りついた、その先は。 その先は、力を無くし、消えゆく運命なのだろうか。
いつか、燃え盛る炎が消え逝くように。

ならば人の心もいつかは想いを忘れるのだろうか。
この押えようの無い愛おしさも、恋しさも、痛みさえ。
それらすべてを忘れられるのだろうか ――

誰もいない、草原。
あるのはただ、通り過ぎる風だけ。
ふたりはただ、みつめあいそして言葉も無く貪り合うようにくちづけた。 緑の褥に愛しい少女を横たえ、しばし髪を、頬を、唇を、指でゆっくりとなぜる。
閉じられた瞳に、微かに震える長いまつげ。
それでも遠慮がちに首へまわされた細く白い腕。
緊張をほぐすような、やさしいくちづけの後、囁くように尋ねた。
「後悔はしないか?」
ふたりは解かっているのだ。別れが訪れるということを。
だから、ここで結ばれたとして、それは逆に一層残酷な想い出にしかならないのではないか?
この熱病のごときたぎる思いをそのまま彼女にぶつけてしまって、それで、いいのだろうかと、彼はそう考えている。
辛い思いをさせるだけなら……

アンジェリークがオスカーの瞳を真っ直ぐにみつめ返す。
「何故?今私が知りたいのは、遠い惑星に吹く風の色でも、宇宙のすべてでもなく、ただ……
ただ、―― あなただけ。」

はっきりと言い切ったそれは、彼女の強さなのだろう。
オスカーはその時そう思った。
もう、運命は変えられないのだと、彼女は既に悟っていた。
なのにそれでもなお、自分の心に正直であろうとするそれは、この宇宙さえもが愛した、彼女の強さだ。

はじかれたように、熱いくちつけが襲った。
少女も、それに応えるよう、舌を絡める。
はじめて、身を任せることへの戸惑いは、もう消えているようだ。
互いに、ただ、求るままに求め合う。

まるで、この僅かな恋人同士の時間を、温もりを、思いを、ずっと、ずっと、
体にも、心にも、刻み付けるかのように。


あなたのことを知りたい。
私のすべてで、ひとりの人間としてのあなたのすべてを。
おしえて。
愛するということ。
愛されるということ。
あなたが、おしえて。
今だけは
すべてのしがらみを忘れて、ただ。
この草原の風と、あなたの腕だけに抱かれていたいから。

愛しい少女の囁きが、ただ風と一緒に心の奥に染み込んでゆく。

愛することを再び教えてくれたのは君だ。
そして愛されることも。
ただ、誰でもなくひとりの人間として。
君自身を知りたいと思った。
だから今は、この草原の風の中で。
ただ、君だけを感じていたい ――

◆◇◆◇◆



頬をなぜる風に目を覚ましたのであろう少女が、逞しい胸に抱かれながら眠っていた自分に気付き、少し頬をそめている。
愛しいひとを起こさぬようにそっと、身を起こすと、穏やかに眠っているひとの頬にくちづけた。
同時に、ぽつりとあたたかな涙もそのひとの頬を濡らした。
少女は小さく囁く
「私、この草原に、生まれたかった。そして、あなたと一緒に……ずっと……」

私をさらって、と愛しい人の胸に飛び込んだ時、彼女は既に女王となる決心をしていた。
そしてその人に抱かれることは一時期の逃げなどではなかった。
悲しみも、痛みも、すべてを抱えて女王になろうとそう決めていたのだ。
何も偽るまい。自分が自分であるために。
この人を愛したことが過ちであるはずが無いのだから。
そう思いながらも溢れ出る涙を留める術が彼女には無かった。

その時、眠っていると思ったひとの腕が、彼女の体にきつくまわされる。
広い胸に顔を埋めて、彼女は自分の口から零れ出る言葉を止めることができない。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
何度も、何度もそう呟く。
愛しいと思えばこそ。
愛されていると感じるからこそ。
自らが選んだ残酷な運命に痛みを感じるのは自分だけではないと知っている。
「アンジェリーク、何時か、俺が謝った時、君は言ったな。愛していてくれるなら、謝ったりするな、と」
その言葉は、深く、切なく少女の心に響く。
そして、その瞬間、彼は自分が抱いている人の中で新たに生まれた何かに気づいた。
彼女は囁く。その声は気高くさえあった。
「いつか話してくれましたね。風は草原の炎から生れて、そして何処へいきつくか分からない旅を続けると。
それなら、私達も風のように旅をしましょう。
この恋の炎から生れた想いが、いったい何処へゆきつくのか見届けるために。
残酷ですね。でも、今私が抱えている痛みと同じ痛みをあなたが感じていてくれるなら。
……幸せだとさえ、思っているんです。私は ――」
消えることのない恋の炎。
何処へ行きつくかわからないけれど、きっと、この恋をしたことを悲しむ必要なんてない。
その想いに彼は、自分がこの先、彼女を失うわけではないことを理解した。
すべては自らの中にあって、自分達はは共に宇宙を見守って生きてゆく。
この草原がかつて愛したひとの想いによって守られたように、この宇宙も、愛しいひとによって守られていく。
そして、今度こそそれを傍で守っていくのは自分なのだと。

いつまでも変わらぬ想いがあるように、風もいつまでも旅をする。
たとえ、その風末(かぜのすえ)―― 風のゆきつく処が何処なのか、誰も知らなかったとしても。

ふたりは再び、草原のさなかに立ち、そして風を見送る。
この地を去るのはこれで二度目になる。
けれど、今度こそ自分はそれを後悔などしないだろう。
己が信ずるままに、たとえ痛みを抱えていようとも行くべき道を辿るのだと、彼はそう心の中に静かな決心が生れているのを感じていた。

「さようなら」
傍らに立つ少女が何にとも無くそう言った。
それはこの草原の惑星に対してであり、
今傍らを通り過ぎた風に対してであり、
たった今迄の自分自身に対してでもあったのかもしれない。
オスカーはアンジェリークの肩を抱き、風を見つめ言った。
「愛している。たとえ、どんなことがあっても。この先、ふたりが共にあることができなくても」
少女は静かに微笑み頷いた。
「この草原を、共に守っていきましょう……。ずっと、ずっと」

この、いのちがあるかぎり。

少女の頬を伝う涙を、風がやさしく拭い去っていった。

◆◇◆◇◆


256代目にして新しき宇宙の初代女王アンジェリークの御世は、まるで燃え盛る炎の如きの彩やかさで栄え、長く、長く語り継がれることとなる。
しかし、その気高きひとに永遠の忠誠を誓った、紅の髪の青年の、けして表にはでる事はなかった切ない思いは、歴史にはのこらぬ小さな、物語のひとつである。
そして、
その炎の守護聖が256代女王の在位中に聖地を去り、その後、どんな人生を送ったかは人々の知る所ではない。
ただ、寥々と旅する風だけが知っているのだろう。
ひとつの時代を駆け抜けた恋人たちのことを。


――fin.
そしてこの恋の結末を知りたい人は。
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