あの蜃気楼の向こう


【はじめに】
・2008年春に発行されたルヴァ様プチアンソロ「L4」に投稿した作品です。


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私には弟がいた。

『いた』と、無意識に過去形で言い切ってしまえることに淡い寂しさを覚えつつ、外界とは時の流れの違う聖地へ召されてから経った時間を思えば、やはりここは『いた』が正しい事実を言い表しているのだろうと、そう思っている。

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神鳥の陛下によって、アルカディアと名付けられた不思議な大陸と小宇宙。
隔離されたこの小宇宙の謎が解けるまで、あとは時が満ちるのを待つばかりとなった良く晴れたこの日、私は偶然日向の丘にいた。
そこから望む風景は、少々緊迫した私たちの状況とは対照的に、ひどく穏やかだ。
海かと思うほどに広く青い水を湛えた湖面には、きらきらとした太陽光が注ぎ、湖の向こう『荒野』と名づけられた地でさえ、既にそう呼んでしまうには相応しくないほどの美しい山並みを見せている。
だからこの光景を見たところで、私が唐突に故郷や弟のことを思い出す理由になどはならないはずだった。
ただひとつ、湖の対岸の手前、陽光に揺らめくあの蜃気楼を見つけてしまうまでは。

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私の故郷は砂漠に覆われた星で、過去の遺跡が砂の(うち)より思い出したように顔をだしては、古い物語を聞かせてくれる土地だった。
集落の外の砂漠は、よく父と連れ立って行くことこそあったが、普段子供が一人で出かけようとすれば咎められる場所でもある。
ただその日だけが、少し特別だった。
母が産褥にあり、家の中は朝からそわそわと落ち着きのない状態だったのだ。
中でも父などは落ち着こうと努力してのことか、意味もなく分厚い本を手にしてに読もうとするのだが、結局はその本を抱えたまま家の中をうろうろと歩き回るような有様で、手伝いに来てくれた近所のご婦人方からは、昔からお産に男が役に立たないのは決まりきっているのだからせめて邪魔にならないようしてくれと、あきれ半分に苦笑されていた。
父にとっては二度目であるはずであろうに、ならば自分が生まれた時はどんなにか落ち着かない様子だったのだろうかと、子供心にも父のことが心配になったものだ。
朝からそんな状態であったから、父をはじめとした他の大人たちも、普段聞き分けのいい少年だった私へ注意を向ける余裕など持ち合わせてはいなかった。
忙しそうにしている大人たちの目を盗み、私はその日にはじめて、一人で集落の外の砂漠の遺跡へと向かったのだ。
自分が唐突にそんな行動に出た理由は、正直今でも良くわからない。
しかし今思うに、結局は父と同様じっとなどしていられなかった、ただそれだけのことかもしれない。

熱く焼けた砂を踏み、高くなった日の(もと)で私は遠い地平を望む。
何を見ようとしたわけでもなく、何を探そうとしたわけでもなかった。
むしろそこに見慣れた地平線が広がっていれば、常とは違うざわついた空気を、少しでも落ち着かせることができるだろうかと期待した程度だった。
ところが。私は、遙か遠くまで連なる砂の丘の向こうに、今まで存在を知らなかった大きな都市の遺跡のようなものが、陽炎(かげろう)の中に揺らめいていることに気がついた。
その姿は荘厳で、美しく、遠くにありながらあまりに巨大だった。
今まで気がつかなかったことを不思議に思いながらも、考古学者である父に知らせなければと、駆け戻った家で。
私は弟の産声を聞いた。
誕生の喜びと安堵の中で、流石に普段の落ち着きを取り戻しつつあった父が、息せき切って事情を説明する私に蜃気楼という名と現象を教えてくれた。
生まれたばかりの弟の頬を、褥から愛おしそうに撫ぜながら母が言った。
あの場所は、行くことのできない理想郷なのだと。
理想郷という言葉は、その頃の私にはしっくりと来る言葉ではなかったから、おぼろげに、物語に聞く聖地という場所と印象を重ね合わせる。
そして以前、母のおなかの中の赤ちゃんがどこから来たのかと聞いたとき、両親はどこか面映そうに、神様のいるところから、と。そう答えたことを思い出す。
だから、私はこう言って一人で納得をした。
「赤ちゃんは、そこからやってきたのかな」
両親は顔を見合わせて、ただ黙って微笑んだ。
この時の彼らの内心の気恥ずかしさを、さすがに今ならば理解することができる。
こみ上げる、くすぐったさと共に。

この時から、良く晴れた日になると大人たちの目を盗み、こっそりと集落の外へ向かう習慣が私にできた。
風に晒され朽ちかけた、古い石造りの遺跡の上に登り、私は蜃気楼という名の遠い楼閣を望み見る。
日によって姿を変える、幻の都市。
いつ見てもその姿は美しく、いつか行ってみたいという欲求を強く沸かせるに十分な存在だった。
どれほどに歩いても、歩いても、決してたどり着けないことを父は教えてくれていたし、私もその父の言葉を疑っていたわけではない。
けれども今、間違いなく目に見えているあの場所に、どうにかすればたどり着ける方法があるのではないかと、あの頃の私は漠としながらも夢想していたのだ。

◇◆◇◆◇

今ならば、蜃気楼が温度の異なる空気の屈折率の違いから起こる現象である事を知っている。
蜃気楼の起きている場所へたどり着けたところでそこには何もなく、外から見れば、自分自身が蜃気楼の一部となって見えるであろうことも。
ひとり、立っていたはずの日向の丘。
足音に気づき振り向けば、二人の友人が怪訝そうにこちらを見ている。
珍しい組み合わせなのは、単に彼らもそのあたりで偶然顔を合わせただけなのだろう。
「はーい、ルヴァ。なに見てんのさ」
「端から見ると呆けてるように見えるぜ。ボケるには、まだ早えぇだろ、おっさん」
それぞれの挨拶に、私は笑顔で挨拶を返し、そして
「蜃気楼をね、見ていたんですよ」
と、湖の対岸のあたりを指差した。
二人は首を伸ばすような仕草で、私の指先を追う。
「へぇ、あれが蜃気楼」
「はじめて見たぜ、って、あれだぞ、ルヴァ。蜃気楼現象が起きる条件とか、ここで延々と語らなくていいからな!」
ゼフェルに釘をさされ、まさに語りかけていた言葉を封じられてしまう。しかしせっかく開いた口をそのまま黙って閉じるのも勿体無く思えて、聞き知っていた伝承を語ってみる。
(はまぐり)という貝が吐く夢だ、という伝承を持つ星もあるみたいですねー」
「貝? 嘘臭せー」
「私はけっこう、そういう話好きだな」
ふたりの反応にうんうん、と頷いて、「私の故郷では―― 」と、私は思わず言いかける。
そして言いかけておいて、続きの言葉を語ることを躊躇った。
けれども、むしろ躊躇った事をこの二人に悟られるのを私は恐れ、できるだけ何事もなかったように続けてみせる。
「行くことのできない理想郷なのだと、母が教えてくれました。あの頃の私は、物語の中だけで聞く聖地とイメージを重ねていましたが、理想郷と呼ぶならば、この地の方が相応しいのかもしれませんね」

◇◆◇◆◇

行くことのできない場所。
その代名詞であったはずの聖地へ私が召されたのは、十五歳の時だった。
出発の日に、母は静かにこう言った。
「たどり着けぬはずの、蜃気楼の都に住まう者として、あなたは選ばれたのね」
父がその後を引き継いで言う。
「只人にはしえぬことができる機会を得られたのだと考えなさい。多くのものを見、知り、学びなさい。いずれそれがお前の生き方を豊かにする糧となるだろうから」
私の心を揺らさぬよう、穏やかに、祝福に似た言葉を与えた彼らの、本当の心の内。
それは、家族の中でただ一人、泣いて行っては嫌だと駄々をこねた弟を叱ることはせず、切なそうに頭を撫でていた行為に垣間見ることができる程度には、私は十分に――幸か不幸か――大人だった。
そして大人であったが故に、別れの覚悟を決めた両親を前に、弟のように泣いて別れを惜しむようなこともできなかった。
こんな未来を知っていたなら、私は蜃気楼の向こうへ、いつか行ってみたいなどという望みは持たなかったと、今にも溢れてきそうな叫びを口にすることも、ついになかった。
私はひざを折り曲げ、幼い弟に言う。
昔、蜃気楼の向こうからやって来た、私の弟に。
「私は、あの蜃気楼の向こうに行くようなものです。会いたくなったら、遺跡の上から眺めてみてください。きっと私も、あなたを見守っているから」
涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになった顔で、弟がこっくりと頷く。
喉の奥から込上げるような何かを飲み込んで、私も頷く。
蜃気楼を望み見たところで、何もありはしない。そう知っていながら吐いた言い繕いの小さな嘘は、幼い弟にとって果たして救いだったろうか。
喉に残る魚の小骨のように、今でもひっかかる記憶である。

◇◆◇◆◇

もちろん、これらの追憶すべてを話したわけではない。
幼い頃母に聞いた話、父に聞いた話、遺跡の上から見た蜃気楼。
そのことをかいつまんで語っただけだ。
けれども、それだけでも、淡い後悔に駆られてしまう私がいた。
何故、家族のことなど話してしまったのだろう。彼らとて、良きにしろ、悪きにしろ、故郷に対しての口には出さぬ思いがあるだろう。ましてや、この二人ならなおさらだ。
私の逡巡を知ってか知らずか、
「あんたが小さい時見た蜃気楼が『理想郷』につながっているのなら、あんたが今見ている蜃気楼は、砂の遺跡につながっているのかもね」
オリヴィエが穏やかな表情でそう言ってから、一転して茶化すように肩をすくめる。
「なーんてね。夢の守護聖らしく夢のあること言ってみたり」
隣にいる少年が、てっきりあきれた表情でくだらねぇだの、なんだのと、悪態をつくとだろうと、その時私は想像していた。もちろん、その悪態が照れ隠しであることを承知の上でではあるが。
ところが彼は、遠くを見ながら
「エアバイでおもいっきり飛ばしたら、たどり着けそうだな」
と、ぽつりと言ってからちょっと照れたように鼻の頭を掻いた。
彼らのそれぞれの反応は、似合わず感傷的になっている私への気遣いだったのだろうと思う。その中に、幾ばくかの、彼ら自身の感傷が含まれていたとしても。
だから、私はこう答えた。
「もしもたどり着けたら、その時の報告をまとめて是非提出してみてください」
「おいおい、ジュリアスの出す罰則みたいじゃねえか、それじゃ!」
顔をしかめる少年の様子を見て、オリヴィエが笑う、私も笑う。そして、ゼフェルもつられて笑っている。
遠くにきらきらと揺れている蜃気楼は、いつのまにか、少しずつ薄れてきているようだった。 その姿を眺めやりながら、遠く離れた故郷と、これからも共にある仲間たちのことを想う。
あの日弟についた小さな嘘が、これまでの小骨のひっかかりとは全く異なる、生き生きとした鼓動を持って私の心に在るように感じていた。
―― 今見ている蜃気楼は、砂の遺跡につながっている
ああ、そうか。
私は思わず頷いた。過去形で語る必要など、なかったのだ。
何故なら私には、弟達がいる。
あの蜃気楼の向こうに広がる砂の町、そして今、傍らに。


―― 終

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この作品は、ギンパチさんの描かれた「砂漠の少年」という作品を元に、許可を頂いた上で書きあげました。
インスピレーションを与えてくださったギンパチさんに感謝をこめて。
2008/02/21 執筆 2009/3/4 掲載