静夜思君不見

連理枝(れんりのえだ)



町中にある運河をを船で下ってゆく。
小さな船に艶やかな装いをした女達が旅人に一夜の春をひさぐため、唄を歌い呼びかけていた。

あなたのお住まいはどこ?(君家住何処―――君が家は何処にか住む)
あたしはあの山の向こうよ。(妾住在横唐―――妾は住んで横唐に在り)
ねえ、船を停めてちょっと話を聞いてよ。(停船暫借問―――船を停めて暫く借問す)
もしかしたら、お兄さん、同郷じゃない?(或恐是同郷―――或いは恐らく是れ同郷ならんかと)
―― そうだったら、なつかしいわ。
(「長干行」崔顯)

その唄を聞き流しながら美幻は思い出す。
梨華との出逢いも、同郷のよしみ、といったものであったな。
と。
彼女は聖地を去った後やはりこの惑星に足を踏み入れたであろうか?
おそらく……いや、間違いなく、この惑星を訪れたであろう。
そして、亡き父の墓陵を訪ねたに違いない。

ぼんやりとしているうちに、美幻は遊女達に腕を引っ張られている。
―― ねえ、どうせそんなに急がない旅なんでしょう?
―― 何処か、遠くの場所の話を聞かせてよ
―― おにいさんくらい、いい男だったら、商売ぬきでもいいんだけどな。
甘やかな声で話し掛けてくる。
それなりに悪い気はしないのだが、美幻は掴まれた腕をすいっと抜くと、
「悪いが、行かねばならぬ場所をたった今、思い出してな。そなたたちの唄のおかげぞ」
そう言って、女の指にくちづけ、にっこりと微笑んだ。
ぽーう、となっている女達を後にして、彼は船を下りると、 袖を翻しかつて瞬王朝の都のあった土地へ向かうことを決める。

おそらく梨華がたどったであろう道を歩くために。

その先で、彼女の墓標を見つけることになるかもしれない。
その時、自分がどう思うのか。それを知りたいような気がした。
そうでなければ、この先の自分が存在しないような、そんな思いが、彼の心を満たしていた。



かつてきらびやかな都であったであろうその場所は、いまは静かな草原に覆われていた。
そこには寂しく風が吹き、行く旅人も見当たらない。
ひとり佇み空を見上げる。
風は寥々と吹いている。

心が、静かに落ち着いてくるのがわかる。
風はこんなにも寒いのに、なにか大きな暖かなものに ―― いだかれている。
そう、美幻は思った。

遠くで馬のいななく声が聞こえた。
草は笙々とゆれている。
ただ、静かにゆれている。
馬の嘶きが、もう一度聞こえた ――。

白草原頭望京師―――白草原頭(はくそうげんとう)京師を望めば
黄河水流無盡時―――黄河 水流れて尽くる時無し
秋天荒野行人絶―――秋天 荒野 行く人絶ゆ
馬首東来知是誰―――馬首 東へ来るは知らぬ 是れ誰ぞや

白き草原に立って遠き都を望めば
黄河は望む彼方へ流去り尽きることを知らない
秋の空の下 広がる荒れ野に旅ゆく人影も絶えた
―― けれどひとり。
馬を駆って此方へ向かってくるあれは。
あれは、誰ぞ?

「!」
美幻は目を見開く。

高らかに馬のひずめを駆る音が、秋の澄んだ空に響いた。
そして、その馬上にいるのは。
美しい黒髪をなびかせて、 こちらへ向かってくるのは。

―― 梨華!?

何も考えることなどなかった。
美幻は走り出す。
もしこれが、かつて聖地で見た儚い夢の続きだったとしても。
駆け寄ったその先に、儚く消えてしまう幻だったとしても。
いま、彼は駆け寄らずにはいられなかった。

ふたりの距離は見る見る間に縮まり、その馬上の美しい人のあでやかな笑顔がはっきりとみえた。
聖地を去った、あの時と寸分に違わぬその姿。
やはり、これは幻だ、そう美幻が思った瞬間

「わらわを、受け止めて!」

天女が天を舞う如く、その姿がふわりと馬上から舞う。
そして、広げた美幻の腕の中に。

ふたりして、草の上に転がり、それでもしっかりと互いを抱き締めあった。
そして、その腕の中にある、確かな、現実の温もり。
言葉よりも前に、ふたりは幾度も、幾度もくちづける。
その感触も、温もりも、たとえ夢であったとしても、現実にかえるほどの激しさで。

「夢、などではないのだな?……梨華」
美幻が囁く。
腕の中でその美しい人は微笑んだ。
「あたりまえぞ。だいいち、わらわはつい先刻長い夢から覚めたばかりぞ」

「は?」

美幻の反応に梨華は嬉しそうに、ほほほ、と笑った。
「『餞別』だそうな。そなたの、弟御達からな。実は、わらわはずっと眠っておったのじゃ。
聖地を去った後から、そなたが聖地を去るこの時まで」
闇の力で永き眠りに就き、そして光の力で目覚めた。
本来、可能なことではないはずである。が、類を見ない彼女の女王としての資質と、 奇跡的な光と闇の両守護聖の協力活動の賜物であった。

美幻は
あやつら、やってくれおる。そうつぶやいた。
聖地最後の夜に、彼らしからぬ、クラヴィスの問い。
彼の梨華に対する気持ちの確認の問い。
それは、この為だったのか、そう気付く。

「そなたに、渡した、(うた)があったろう?」
梨華が悪戯っぽく微笑む。
「あれは、間違いぞ」
怪訝な顔をする美幻。
詩には、
―― 死ぬまで貴方を想う気持ちはかわらない
そうあった。
梨華は囁く。

死してなお、わらわの心はそなたのもの ――

もういちど、ふたりの唇がゆっくり重なる。
暮れかけた草原に馬の嘶きが、もういちどたからかに響いた。


在天願作比翼鳥―――天に在って願わくば比翼の鳥
在地願為連理枝―――地に在って願わくば連理の枝
天長地久有時尽―――天は永く地は久しきも 時有ってか尽きん
此恨綿綿無尽期―――此の恨みは綿綿として尽くる期(とき)無からん
(「長恨歌」抜粋・白居易)

天にあっては翼を並べた鳥になりたい
地上にあっては、一つに合わさる枝となりたい
天は永遠、地は悠久。でも、いつかは尽きる時が来る
だけど、私達のこの恋は、連綿として尽きること無く、いつまでも、どこまでも。



静夜思君不見(しずかなるよるきみおもえどもみえず)―――終劇(おわり)


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