沙羅双樹の花の色


白亜の常夏の風が、庭の白い花を揺らしてから開放的な造りの宮殿の部屋の中をとおりすぎ、僕の傍らをかけてゆきました。
そのさわやかな風も、残念ながら心にある暗鬱とした迷いをかき消してなどはくれない。
己の心情とは裏腹な、朗らかに清む蒼天を窓越しに見やって、心に沈む重い塊を少しでも吐き出すかのごとく息をついたとき僕は来客を告げられました。
神妙な面持ちで僕を呼びに来たサーリアの顔を見れば、その客が何処から来て、目的がなんなのか聞かずともわかります。

「すぐに行きます。ご無礼のないように、お待ちいただいて」
「―― 御意」

言いたいことは沢山あったろうに多くを語らぬまま一礼をしたサーリアを見送ってから、僕はもう一度窓越しに白亜の空を見上げました。
宮殿の白にと庭の碧、そこにこれ以上なく映える深い青。
いつまでも返答を引き延ばすわけにはいかないのは承知していました。
ましてや今、聖獣の宇宙で彼女がひとり命を削って苦しんでいるという。本当ならば、なに迷うことなく全てを捨ててそのもとに駆けつけたい。

―― けれど。

そんな私情で応じてはいけないのだと、心の中でもうひとりの自分が戒めます。
いや、私情であろうとなかろうと、応じさえすれば聖地の意図としてはどうでもいいことなのでしょう。
そかしそれはこの国の王として、決して許されることではない。
かつて全てを捨ててでも彼女と共にありたいと、あのひとにそう言ったことがありました。
そんなことができるわけもないと、自分とてわかっていたし、彼女もまた、わかっていたはずなのです。だからこそ、彼女は目に涙を浮かべてただ黙って首を振った。
あの時の彼女のことを想えば想うほど、招致に応じることはその心を裏切るような気さえするのです。

聖獣の宇宙と、この白亜の星と。
背負うものは違っても、その覚悟や大切に思う想いは同じ。
それは愛するたった一人のひとと、どちらがどうと比べられるものではありえない。
だからこそ断腸の想いで、自分はこの国で王であることを決心したというのに。
そしてそうあることが、遠い場所で女王として孤高にある彼女への、愛情の証とも。
そう、思っていたのに。
何故、今更。

深い物思いに沈みかけていた思考を振り切るように軽く頭を振って、僕は聖地からの使者が待つ間へと向いました。

◇◆◇◆◇


そのとき僕は、聖地からの使者というのがあの風変わりな石版の神器を連れたおさげ髪の少女だと、信じて疑っていませんでした。
だから部屋に足を踏み入れた僕に気づき、にっこりと屈託のない笑顔を向けたその方に、思わず声をあげてしまったのです。

「へ、陛下!」

金の髪の、新鳥の宇宙の女王陛下。
何故この方がここに。
あんぐりと口をあけて二の句を継げずにいる僕に、その方はふわふわとした金色の髪を揺らして小首をかしげながら、久しぶりね、と仰いました。
それから、少しだけ眉の根を寄せて、こう言います。

「あ、『陛下』はやめてね。ここはあなたの国の、あなたの宮殿。ここで陛下と呼ばれていいのは、唯一あなただけのはずよ」
「そう、仰られても」
「いいの、いいの」

唖然とする僕をよそに手をひらひらと上下に振って、彼女は続けました。
「今日はただのアンジェリークとしてここに来たんだもの。
まあ、アンジェリークって呼んでね、って言ってもあなたにはいろんな意味で抵抗あるだろうから、様付けくらいは許してあげよっかな」

『いろんな意味で』

その言葉を言ったときの、この方の悪戯な表情と言ったら。
僕の気持ちなんて、きっとお見通しだったのでしょう。
それでも冷静を装って僕は言います。
「まさか、お一人で?」
「そのつもりだったのだけど、流石に許してもらえなかったわ。隣室で控えてもらってる」
僕は、ほっと胸をなでおろしましました。隣室の客人にも失礼のないようにと臣下に伝えて女王陛下に椅子を勧めます。
驚かせてしまってごめんなさいね、と微笑んだあと彼女は真剣な面持ちでこちらを見ました。

「用件は、言わなくてもきっとわかっているのよね」

苦笑だけ返した僕に、彼女は続けます。

「じゃ、単刀直入。あなたが聖獣の宇宙の守護聖になるのは決められた運命だから逃れられない。なんて、言われてたのかな。今まで」

僕は慌てて首を振りました。
「それは ―― 少なくとも、エトワールはそんなことは」
わかってる、と言う風情で女王陛下は頷きました。
「うん、エンジュはね。あの子は、そういうこと、言わないでしょう。だって、あの子もこの使命については苦しんでいたもの。けれど、太古の精霊である石版の神器の方がね。悪く想わないであげて。あの精霊は精霊できっと守りたいものがあるの。そして長い時間を生きているだけに、良くも悪くも大きな宇宙の流れの中では、一人一人の人間の想いが本当に小さくて些細であることを知ってしまっているの。だから、運命とか、さだめとか、そういう言葉が言えてしまうのよ。それはきっと、間違ってはいないのだと、そう思う。私自身こうして宇宙を導く立場になってしまえば ―― この宇宙に生きる民一人一人の想いの全てを汲めるかと言ったら、それは無理な話だもの」

彼女は手付かずになっていた冷たい飲み物の、硝子の器に浮かんだ水滴を指でいじってからふと我に返り、元品位の教官さんの前で行儀悪いことしちゃった、と呟いて器を口に運びこくりと一口飲みました。

「ティムカ、あなただってそれはわかるでしょう。王として国の民の一人一人の想いの全てを汲めるかと言ったら」
「―― 無理、ですね」

苦々しく言った僕に慌てて、アンジェリーク様は
「ああ、こんなこと言いにきたわけじゃないのになぁ。難しい、ものね。誰が悪いわけでも無いのに、苦しんだり、傷ついたり。でも逆にひとつの苦しみもない人生って、いったいどんなものかしら。私には、想像つかない」
言葉を選ぶかのように首をかしげながら、彼女は飲み物の硝子の器を手の中でゆっくりとゆらしています。
からからと、氷の涼しい音が室内に響きました。

「あなたが守護聖となることを『運命』といった太古の精霊を責める気はないの。でもね、ひとりの感情ある人間として私は運命とか定めとか。そんな言葉本当は嫌い。
生きている人がね、いる限り、それぞれがそれぞれの苦しみを抱えているの。
その苦しみをそんな言葉で簡単に片付けてしまうのは嫌」
「アンジェリーク様……」
「けれど逆らえないものがあるのも事実。だからきっと、人は夢を追って生きるのね。
ねえ、この天と地のはざまで、どれだけの人間が望んだように生きることができるのかしら。
生まれてすぐに天に召される子供もいるわ。
恋人を残して死んでいった戦場の青年もいるわ。
―― 望む生き方が出来ないのは、何も自分に限ったことではないのよ」

頭を殴られたような衝撃でした。
少なくとも僕は、この国の王太子として、王として、何一つ不自由ない暮らしをしてきた。
何の選択肢も与えられぬままに、運命という名の理不尽のために命を奪われるようなことは起こりえなかったのです。
いかに苦しもうと悩もうと、それは己の恵まれた立場の上に成り立つ苦しみであるのだと、その事実を突きつけられた気がしました。
更には、言いかえるなら苦しいのはお前だけではないのだから諦めろ、と。そういう意図にも受けとれて、僕はただ黙って俯きました。
皮肉な方向に受け取った僕の胸中を見透かすように、アンジェリーク様は微笑み、そして僕の解釈を否定する言葉を続けました。

「そう。でもね、そこで『こういうものなんだ』って諦めてしまうのも癪じゃない?
もう一度言うわ。
人はそれぞれがそれぞれの苦しみを抱えているの。だからといってその苦しみを『誰もが同じ』というふうにおきかえてしまいたくない。ましてや、運命だなんて。 私はそんなんで、諦めたりなんかしたくないし、して欲しくない。そりゃあ、限界はあるかもしれないわよ?自分では変えようのないものだってあるもの。例えば子供が親を選んで生まれてくることができないみたいに。
ただね、そんな出来うる可能性の範囲でどれだけ幸せになれるか、どう幸せになっていくか。
そういったことで人生の価値って変わっていくような気がして」

彼女は相変わらず、手の中で硝子の器を弄んでいました。
飲み物の中の氷はすっかり溶けて小さくなり既に涼しげな音も消えています。
控えていた者がそれに気づき、新しい飲み物を持ってやってきました。
ほとんど口をつけぬまま取り替えられ、運ばれていく飲み物を彼女は複雑な表情で見送って、さっさと飲んじゃえばよかった、と残念そうに呟きながら新しい硝子の器を爪の先ではじきます。
その指先から凛と、清んだ音があたりに広がりました。

「でもあなたはね、もう知っているはずなの。定められた可能性の範囲で、どれだけ幸せになれるか努力する、ということを」

彼女の意図をつかめずに、僕は眉をひそめて首を傾げました。
難しく考えないで、と彼女は言います。

「あなたはこの国の王。その『定め』を、重く感じなかったことなんてないのでしょう?
そのために犠牲にしてきたものだって、きっと沢山あるはずなの。
なのにあなたは微笑んで、国を愛しているって、民の幸せを望んでいるって、そういい切ることができる。
それって、あなたが運命だとかさだめだとかに負けないしなやかさを持っているからだと思う。
だから仮にあなたが聖獣の宇宙へ行ったとしても、そのしなやかさは、きっと変わらないと、そう思っているの」

この方とのやりとりが核心に近づくにつれ、僕は正直この場所から走って逃げ出したい衝動に駆られます。
かろうじて己を押しとどめて、でもアンジェリーク様をまっすぐ見据えることも適わず、ただ少し落とした視線の先、再び硝子の水滴を弄んでいる彼女の指先をぼんやりと眺めるばかりでした。
きっと、この方とて、こうして僕を諭すことに必ずしも乗り気ではない。指先の落ち着きのない動きが、それを雄弁に語っていました。
申し訳ないという想いと、かといっておいそれと応じるわけには行かぬ心。
そのせめぎあいの果てに浮かぶ言葉はなく、やはり相変わらず僕は黙ったまま彼女の話を聞くことしかできませんでした。

「無理に、説得しようと思ってるわけじゃないの。ただね、どうしても放っておけなかったし伝えたいことがあったのよ。
ね、あなたは、聖獣の宇宙へ行ったら確かに多くのものを捨てなければいけなくなる。
でもその代わりにとても大切なものを。もしかしたら、あなたが一番欲しているものを得られるのじゃない?
それはきっと、かつてあなたが王という立場ゆえに諦めなければいけなかったものだわ」

そのことを。
今そのことを持ち出すのは卑怯だとそう感じた瞬間、何かが僕の中ではじけとんで僕はその方に向かって叫んでいました。

「やめてください!」

こんなふうに声を荒げたことなど、これまでの僕の人生の中できっとなかった。
でも硝子の器の中で溶けた氷が均衡を崩してからりと音を立てるのにも似て、己の中にあった均衡を保っていた何かが崩れてはじめているかのように、僕は自分を止められなかったのです。
無礼を承知で強く見据えたその先に、やはりその方の緑柱石の瞳が強くこちらを見据えていました。
先ほどの躊躇いがちな様子とは打って変わって、まっすぐ突き刺さるような、視線。

「やめないわ。何のためにわざわざ私が来たとおもってるのよ、別に神鳥の女王としてここに来たわけじゃない、ただあなたたちには ――」

全てを言わせる前に、己の言葉を畳み掛けました。

「それとこれとは別問題です。今、そのことを持ち出すのは卑怯だ。あなたは、僕に私情でこの国を捨てよと仰るのですか?僕にそんな我侭は許されない」

思わず口に出た言葉ですが、我侭というが一番相応しい表現なのでしょう。
白状してしまえば、守護聖として聖獣の宇宙へ赴きあの方の傍に在れたならどんなに幸せだろうかと思った自分がいたのです。
それはひどく魅惑的なことでした。
何もかも捨てて、彼女の元へ駆けつける大義名分(・・・・)を、自分は手に入れたのだと。
そう考えてしまったあとに襲ってきた激しい後悔。一瞬でも浅ましい想いに囚われた自分を、王である自分が許せなかったのです。
こんな自分をきっと民も許してはくれない。
そして誰よりも。
それぞれに背負うものは違っても、共に王として大切なものを守ってゆこうと誓ったあのひとに申し訳が立たないと、そう思った。
矛盾しているようでいて、それは僕にとって事実であり真実だったのです。

頑なな態度を崩さない僕に、彼女は諦めない様子でした。

「我侭になっちゃいけないなんて法はないわ、いったい誰が決めたって言うのよ」
「では聞きます、あなたは自分の我侭のために、この宇宙を捨てることができるとでも?」

僕の無礼千万な言葉に、今度は彼女が語気を荒げる番でした。

「できないわよ、できるわけないでしょ!」

彼女の手が、ばん、と激しく卓上を叩き、その衝撃でお茶が少しだけ零れました。
きつく結ばれた唇。瞳には、僅かに涙すら滲んでいる様子でした。

「そうよ、できないわよ。だから ―― あなたにせめて、同じように捨てることのできないあの子の側にいて欲しいんじゃない。
あなたが行かなければいけないのが、太古の精霊の言葉をかりて運命というものなのなら、なにもこの国を去らなければいけないことに罪悪感を感じたりしないで欲しい。
哀しみとか、心残りとか、そういうのは、山ほど抱えたって仕方ないとは思うし、その心に折り合いをつけるために悩んで時間がかかるのは仕方がないと思う。
けれども今のあなたの言葉からは、それよりも先に罪悪感がみえるのよ。反論できる?でもそんなの、おかしくない?あなたがこの国を愛している限り、あなたの心はこの国を裏切るわけじゃないはずだもの。そうでしょう!?」

そこまで言い切ってから、先ほど零れた飲み物を慌てて拭きに入った侍女に気づいたようでした。
しゅん、となってごめんなさいと侍女に謝ったあとに、今の騒ぎで隣室の同行者に不審に思われなかったかを彼女は伺っている様子です。

その間、
―― この国を裏切るわけじゃない。
この言葉が幾度も頭の中を響いていました。
言われてみればそのとおりなのです。この国を去ることの悲しさや心残りはあっても、罪悪感は本来僕の立場の感情として相応しくない。けれどもこの迷いの最たるものが、間違いなく罪悪感であることを今指摘されて気づいてしまったのです。
何よりも心が彼女の元へ行くことを求めている。己が守護聖であろうとなかろうと。けれども王である自分がそれを許せないからこそ、この想いは国へ対する罪悪感へと変貌し、そしてその罪悪感を補いたいがために己はこの国に執着する。
根底がそこにある限り、いかに国を捨てられないと言い募ったところでそれは言い訳にしか過ぎず、結局は国に対する不実であり己の浅ましさに差はなかったのです。
そのことに気づいたとき心の枷がひとつ外れた気がしました。

―― この国を愛している限り

僕はこのときようやく、起点へとまっさらの状態で立つことができたのかもしれません。
あまりに多くのことが入り混じりすぎて何かを見失いそうになっていた自分。
ひとつ深呼吸をして陛下に向き直りました。

「何故、そこまで」

不思議に思ったのです。
何故この方が、こうまでして僕に何かを伝えようとするのか。
その答えは、もしかしたら先ほど彼女が『女王としてきたわけじゃない』と言った言葉に、隠されている気がしました。
それを裏付ける言葉が、静かに語られました。

「それこそ私の我侭なのよ。私の感傷をあなたに、いえあなたたちに押し付けてるだけだわ。我侭になりなさい、なんて言い方いけなかったのかもしれないけれど、 でもどうしてもあなた達が一番欲しているものを諦めて欲しくなかったの。
―― 昔の私みたいには」

彼女の言葉に、引っ掛かりを感じながらも、僕は別のことに気をとられていました。
僕が一番欲しているもの。
立場とか、定めとか、運命とか。そういったものをすべて捨ててありのままの僕が何よりも欲しているもの。
それは考えるまでもないことです。
けれど結局、僕には『立場』という概念を捨て去ることなどできません。
仮にこの方の言うとおり『我侭』でもなんでも向うの宇宙に赴いたとしても、僕は僕が欲しているものを本当の意味で手に入れることができるわけではない。
今はまだ、遠く別たれているからこそ逆に許されているこの想いが、 守護聖となった身には禁忌にすらなりはしないのでしょうか?

「けれど、彼女は既に」
―― 女王で。

呟いた僕の言葉の欠片で全てを察したようにアンジェリーク様はあっさりと言い放ちました。

「関係ないでしょ、そんなのは」
「あ、アンジェリーク様!」

あまりにあっけらかんと言われて慌てる僕をよそに、言葉を続ける彼女に先ほどまでの感情的な様子はもうありませんでした。

「関係ないのよ、本当に。あのね、耳の穴かっぽじってよーく聞いてよね?あちらの世界はね生まれたばかりなの。定めや理はこれから作られていくのよ。
そんな女王は恋人がいちゃいけないなんていうアホみたいなルール、こっちから継承する必要なんてないんだから。
みてらっしゃい、こっちだっていつかそんなルールなくしてやるわ」

そう言ったひとの強く優しいまなざしの先は隣室でした。
そのとき僕はようやく『昔の私みたいには』という言葉の意味と、僕たちを放っておけないと言った理由を理解したのです。
彼女自身、適わぬかもしれない想いを抱きながら宇宙を導く立場にあるからこそ。
けれどけっしてそこで諦めずにいつかは定めすら変えて見せるとまで言い切って。
なんて破天荒な人なんでしょうか。
でもこのひとのその無茶なところが羨ましくもあり、だからこそ、この人は宇宙を導く女王たりえるのだとそう思いました。
沈黙が訪れて、手持ち無沙汰だったのでしょう、またもや彼女は飲み物の器を掌中でゆらし始めます。
硝子の中の氷は再び溶けて消えそうになっていました。再度かわりの飲み物を用意するようにと言いかけた僕を、彼女は制し。
「そんな、何度ももったいないわよう」
慌てて二口ほど飲んでから、美味しい、と微笑みました。

何かが、僕の中で動き始めていました。
ずっと頑なに固まっていた何かが、少しずつ溶けていくさまは、まるで彼女の掌中で溶けていった硝子の中の氷と同じ。
長い間己を作り上げていた支えや価値観が消えうせてひどく不安定な心持ちであるのと同時に、これまではのばすことのできなかったあらゆる方向へと自分自身を広げられるような ―― まさに、形のない水の如く。
そして、そう感じたとき僕もこの破天荒なひとと同じように少しばかり無茶なことをしてみたくなったのです。
生まれて、初めて。

僕はゆっくりと立ち上がり、庭に向かい開け放たれている扉の前へと立ちました。

「賭けを、しませんか。僕と。ここに赤い花と白い花が咲いていますそのどちらが先に散るかをあなたが当てたら、僕は聖獣の宇宙へ行きます」
なんて唐突で無謀な賭けなのだろうと自分でも呆れました。
賭けに勝っても聖獣の宇宙へ行かずにいれる方法などないであろうし、負けてこの国を離れる決心がすぐにつくわけもないのですから。
けれども。
「―― わかったわ」
僕のとんでもない申し出に、何も問うことはせず彼女は微笑んで応じてくれました。
「けれど、条件があるの。賭けに使う花は私に選ばせて。そして、先に選ぶのはあなた」
悪戯っぽく彼女は笑って立ち上がり庭へと歩み出ました。

ハイビスカス、ブーゲンビリア、鳳仙花に沙羅双樹。
そしてサンダルウッド。

歌うように言いながら彼女は花の中を歩いてゆきました。

「きめた。そう、赤い花はこれ。そして白い花は ―― そこに咲いているそれね」

指し示したのはサンダルウッドと、僕の傍らに咲く娑羅双樹の白い花でした。
それから少し迷った様子を見せてから、僕にこう言います。
「フェアじゃないから言っておく。あなたが守護聖にならないでいる方法も、ないわけではないと、私はそう思うの」
「え?」
そんな方法があるとは思っていなかっただけに、思わず聞き返していました。
「それは、いったい」
「さっき大きな宇宙の流れの中では一人一人の人間の想いは小さくて些細だって話したでしょう?それはね、極論を言ってしまえば宇宙に守護聖は必要でもそれはあなたという人格をもったひとりの人間が必要とされているわけではない、っていうことなの」
「必要なのは、サクリア。そういうことですね?」
苦笑した僕に悪く思わないでね、と彼女は言いました。
「女王だって同じよ。実験するつもりはないけれど私が在位中に ―― 命を落としたとするでしょう?そうしたら、この宇宙のどこかで、私のかわりの女王のサクリアを持った少女が生まれ、新たな女王になる。それだけのこと。宇宙の廻りとは、そのようにできてるのよ」
僕は黙ったまま、彼女の言葉を促しました。
「あなたが応じなかったら命を奪って新たな水の守護聖の誕生を促すとか、そういう物騒な話をしているわけではないの。ただ、待つ事はできるかもしれないって思って。外界での100年は、聖地ではさほど長い時間じゃないわ。今まではそんなことありえなかったけれど今は私の守護聖達がいるから、あなたひとりくらいはどうにかなるかもしれない。もちろん、これから現れるであろう聖獣の守護聖達の集まり具合にもよるだろうけれど。あんまり楽しい話じゃないわね。ごめんなさい」
確かに楽しい内容の話では在りませんでしたが、フェアじゃないという理由で手の内を曝してくれたひとに僕は心からの感謝を込めて一礼しました。

「宇宙とはひどく壮大であり、そしてひどく薄情なものなのですね」
「ええ、そしてとても優しい」

僕はこの時、ひとつの事実に気づいていました。この国の王もまた、僕という人格をもったひとりの人間である必要などないのだという事実。
国さえ穏やかであったなら、玉座にあるのは誰だっていいはずなのです。
目の前で微笑む宇宙を統べる女王陛下は、そのことを知っていてあえて何も言わないのかもしれません。

「宇宙にとって個という存在が無意味であるのなら、何故我々はここに存在するのでしょう」
答えを期待したわけでなく口にした言葉には、予想外に明確な回答が返ってきました。

「宇宙にとって無意味かどうかなんて関係ないでしょう。あなたはあなたの家族や友人や、そして恋人の ―― かけがえのない存在なのだもの。違う?」

胸を突かれたような想いで僕は素直にその方に謝罪しました。
「愚問、でした。すみません」
「私にとっての守護聖たちもそうよ。必要としているのはサクリアだけじゃないの。ひとりひとりが、かけがえのない存在。そういう意味で、宇宙にとってはあなたでなくても良い水の守護聖だけれど、聖獣の女王にとってはどうかしら。って、この発言はフェアじゃないか。削除、削除」

削除、という意味のジェスチャーのつもりなのか彼女はぱたぱたと手を振って、さあ賭けをはじめましょ、と僕を促しました。
頷いて、そして考えます。

何故、彼女は僕に、先に花を選ぶように言ったのか。
そして、何故、彼女は自分で賭けに使う花を決めたのか。

この国を愛し、この国の自然を、人々を愛してきた僕にとって、これらの花がどちらが先に散るかなど考えずともわかるのです。
彼女はきっとそうと知っていながら、あえて蕊を散らさずに枯れる花と、蕊を散らす花を選びその上で僕に先に決めよと言っているのです。
先に彼女が白い娑羅双樹を選んだなら、彼女はいとも簡単に賭けに勝つことができるのに。
この方は結局、自身で己の道を決めよと、そう言っているのだと感じました。

―― この国を愛している限り、あなたの心はこの国を裏切るわけじゃない
―― 諦めて欲しくなかったの。昔の私みたいには

そして。

―― かけがえのない存在

敬意と共に幾つかの言葉を心の中で反芻し、そして僕は覚悟を決めます。

「では、赤い花を」

彼女は真剣なまなざしで僕を見たあとふわりと微笑んで。

「では、私は白い花を」

言ったその時、吹いた暖かな風に娑羅双樹が静かにそのはなびらを散らしました。

◇◆◇◆◇

遥か数千年の昔、この国に大いなる教えをもたらした賢人はこの娑羅双樹の木の下で生涯を閉じたと伝えられています。
それならば私もまた、この沙羅双樹の木の下でこれまでの自分と決別し、新たな自分に生まれ変われたのかもしれません。
目を閉じて。
しばし息を整えていた私に、陛下は仰いました。

「あのね、勝者にもう一つ、ご褒美もらえないかな」
「なんでしょうか。今の私に、できることでしたら」
「このサンダルウッドの赤い花を一枝頂戴。隣室で待ちくたびれて、きっと眉間にシワをよせている人に、おみやげ。優雅な香りが好きだと言うけど、気に入ると思う?」
小首をかしげて、私の様子をうかがっている姿を見て、この方も自分とあまり歳のかわらぬ十七歳の少女なのだということに今更ながら気づきました。
そして、はるけき遠く、聖獣の宇宙にいるあのひとも、きっとそれは同じ。
アルカディアで、弱音を吐いてもいいかと、そう呟いたあのひとの姿を、抱きしめた感触と共に思い出します。
守護聖拝命を決心した今。
すくなくとも自分は彼女を守ることができる。
それは確かに、すべてを捨て去ってでも得る価値のあることのように思えました。

それにしても、この方は気付いていないのでしょうか。
確かに優雅な香りでもあるのですが、サンダルウッド ―― 白檀をお好きなのは、今隣室にいるあの方ではなくて。
それとも、陛下はそうと承知でこの花をご所望なのでしょうか。
まあ、そうだとしたら神鳥の聖地の人間関係改善に役に立つかもしれませんし、今後の私にも、無関係なことではないでしょうと考えて私は言いました。


「よろしければ、苗も差し上げましょう。残念ながら花に、香りはないのです。苗ならば
―― 双葉より芳しと言われるだけあって、とても優雅な香りがしますよ」


―― 終


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この話は初期段階で当たり前の如くクラリモの予定でした。
ただ、ストーリとしては、本当はジュリの方が似合うことに気づきまして。
そして、クラだと2連続女王に振られちゃうわけだし(泣)ジュリなら、女王と守護聖っていう「立場」故にっていうところで、ティムカとなんか一致するものがあるかなって。
というわけで賭けの花に白檀が使われてるのは、クラリモだったときの名残なのです。

ちなみに、沙羅双樹は日本でのナツツバキ=シャラの木のつもりです。
実際の涅槃の沙羅双樹は別の木なんです。ちなみに悟りを開いた菩提樹も、日本でいわれる菩提樹とは別物。

2005.09.20 佳月拝

【2008年9月再録にあたり】
この話の最終的なオチ(?)がレオロザの「眠り姫」になります。