桜闇奇譚 ―― 第四夜

嫦娥



雲母屏風燭影深 ―― 雲母の屏風(へいふう) 、燭影深く
長河漸落暁星沈 ―― 長河ようやく落ちて暁星沈む
嫦娥応悔偸霊薬 ―― 嫦娥はまさに悔ゆるべし霊薬を偸みしを
碧海青天夜夜心 ―― 碧海青天 夜夜の心

消えた蝋燭 寒々とした影
見上げる空 星は廻り傾き地平へ消えた
ただ皓々とある嫦娥の青い影
貴女もまたひとり悲しみのうちにこの夜をすごしているのか
(李商隱・嫦娥)



◇◆◇◆◇


時、今まさに春爛漫、嫦娥は朧。淡く滲む蒼い花影、月影。
音ひとつ無い光景は、まるで絵の中、あるいは時の流れから忘れ去られた特別な空間であるかの如くだ。 ただその中を、はらはらと。風も無いのに落ちる花びらだけが時が止まったわけではないことをかかろうじて証明していた。
かさりと草を踏む音もすぐに空に融ける闇の中、男が一人現れる。遠くから見えた花明かりに引き寄せられるようにその場を訪れたのであろうか。しかし彼の表情は、繚乱と咲く桜と朧な月の美しさとは対照的にひどく浮かない。男はひとつ息を吐くいた。それは、花を賞賛する感嘆の溜息ではなく、明らかに失望を含むものである。
ふいに、少し強い、けれどもあたたかな春の風が傍らをとおりすぎた。と、同時に背後に気配を感じ男は思わず振り返る。

長い黒髪、いつか見覚えのある民族衣装。
彼は思わずその名を呼びかけた。
だが。

「残念であったの。其方(そち) の望む娘ではのうて」

妖艶なまでの紅い唇を古拙にあげて、残念どころか楽しそうに女は言った。
彼とても言われる前に、気づいていた。そこに佇む女は彼女ではない(・・・・・・)
はなから承知していたこととばかり、彼はさして失望をしたふうもなく女に向かい丁寧に一礼した。
「しつれいを …… いたしました、レディ。女性の名を違えるなどと …… 紳士としてありうべからざる失態でした。けれども、もしもお許しいただけるなら、貴女の名を」
彼はいったん、言葉を切り、ゆっくりと目の前の女を見据え続けた。
「貴女の名を、教えていただけますか」
冷静な彼の様子に、女はふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らし、扇をぱちりと閉じた。
はらはらと、風も無いのに花びらが落ちる。
「聖地に在る者ともなれば、人でありながら妖魔、怪魔の域に達するようよの。驚きもせぬとは面白くもない」
「人ではあらぬものになら、いつかも会ったことがあるのです。それにしても、それでは貴女はご自分が妖魔、怪魔の類とでも …… 仰るのですか?」
「なんと」
返されて己を妖魔と言われるのは意外だったのだろうか彼女は更に不満げな顔をしたが、その後あきらめたのかくつくつと笑う。
「花の精とゆうてくれた者もあったものを、随分と非礼よの。まあ、よい。名は佐保、と」
男は、ひとつ頷く。
「名を教えた代わりに、こちらからもひとつ尋ねたい」
「何、でしょう」
「何を望んでこの樹の元へと来やったか」
「聞いてどうするのです」
「サテ、其方の大切なものとでも引き換えに、叶てやらぬでもなし」
「…… いいえ。望みなど、なにひとつ」
「嘘をつきやるか、であれば聞かねばなるまい。この姿、誰と間違うたのかを」
男は目を見開き、女を見た。そしてふと目を逸らし(まこと) 花の精ならば、とつぶやいた。

―― あなたが花の精だというのなら。
―― ご存知ありませんか、白い芳しい花を咲かせる大樹と
―― そのねもとで茶を点てる翁。
―― そして、美しい月の娘を。

言ったのち、男は己の言葉を後悔したのか俯いた。しかし佐保姫はここぞとばかりに楽しげである。
「知っている、と言うたなら、何とする」
「本当ですか ……!」
はじかれたように面をあげた男を面白そうにみやり、女は我が意を得たりと口の端をあげた。
やはり風も無いのに、花びらがただはらはらと散っている。
あたりの空気は湿り気をおび、彼はこころなしか息苦しさを感じた。まるで闇が。
闇が、まとわりつくかのようだ。

「まことじゃとも。其方(そち)の願い、聞いてやらぬでもない」

飛びつくような男を焦らしたいのか、女はあらぬ方を向き、扇で口元を覆った。
「魔が願いを聞き届けるとき、その代償は魂か命と決まっておる。其方とてただとは、思うておらぬのであろ? 」
「魂と引き換えに、とでも言うつもりですか」
女はゆっくりと闇を掻くようにふわふわと扇を舞わせると、ぱちりと閉じて男の足元を指し示す。
「そうよのう。些細な試練とでもいうておくか ―― 足元を見てみやれ」
いやな、予感がした。
いつもなら、森や草原になど足を踏み入れなかったではないか。彼はその理由を今更ながらに思い出す。
そう、森にはいるかもしれないのだ。あれが。
そして否応無く感じ始める、指し示された足元の明らかな気配。
あたたかで、やわらかく。彼は、耐え切れず震えつつ足元を見た。そこにはやはり、白い。

―― うさ。

凍りついたまま、彼はその獣から目が離せない。いつもならここで意識を手放すところがそうもならず、ただ硬直のうちに白い兎を見つめている。
兎が寂しげに小首を傾げた。
こちらをみめる黒い瞳。
花が、はらはらと音も無く落ち、その獣の体に積もる。

そして彼は気づいた。

―― ああ。
―― みつけた。

その呟きを聞き、女がしたりと微笑んだ。

◇◆◇◆◇


男からは先ほどまでの恐怖が消えうせ、変わりに喜びがあふれている。

「また、逢えましたね。白波(はくは)

そして、その瞬間、兎は娘へと姿をかえる。
言葉もなくただ、ふたりはまろびあい、娘は彼の胸に顔をうずめて喜びの涙をはらはらと流した。

―― 邪魔者は退散しようかのぅ

満足そうな面持ちで消えようとする女を、佐保様、と娘があわてて呼び止める。佐保姫は優しく笑い、心配めさるな、と言った。
「そちの母御 ―― 嫦娥王とも、泰山翁とも長い付き合い、事情は伝えておく故。人となっても幸せにの」
そして去ろうとしかけ、ああそうじゃ、と振り返る。
「泣かされたらいつでも戻るが良いぞ」
「泣かせたりなど、しませんよ。少なくとも哀しみの涙は」
むきになって言い募るフランシスに向かい、嬉しそうにくつくつと笑う。

「ほほ、言いよる言いよる。心せよ、嫦娥と泰山の力無くして人となれしは惹かれあう想いゆえ。失えば ―― 言わずともわかるな?」

手をとり身を寄せ合ったままふたりは互いを見合い、頷き、もう一度佐保姫の方を向いて力強く頷いた。
それを見て安心したのか。紅い唇を古拙にあげた笑みを残し、女は姿を消した。
飄と吹いた風に桜が舞い、祝福するかのようにふたりを包む。

―― 良き(かな) 、良き(かな) 。嫦娥の姫よ、言祝(ことほ) ぎを。

姿無き声に微笑んで。
恋人たちは美しい春の夜に、互いのぬくもりを身に刻んだ。


―― 終

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久々に書き上げました。リハビリ的な意味もあって短いです。
…… 話としてあんまり面白いもんでもないと自覚してますが、まあ、それもリハビリということでお許しください。
白波はこの後聖地でどういう扱いになったんでしょうかね?けっこうすんなり受け入れてもらえそうです(笑)で、フランシーと喧嘩すると兎の姿にもどっちゃうんですよ。きっと。
戯言はさておき。
この話しを書くことで、「怪」シリーズのなかの、桜闇と嫦娥の世界がひとつの流れにまとまりました。
実は、もう1作書く予定があって、それは第五夜・桜雪(仮)となります。カップリングはまだナイショですが、題名から察しがついたなら是非当ててみてください(笑)
そだ、今更ですが「嫦娥」ってのは月の異名であり、月に住む女神の名でもあります。
説明すると長いし、色々な説があって話しきれないのでキーワードだけ。
「月」・「嫦娥」・「兎」・「薬」・「不老不死」
嫦娥伝説について詳しいことをお知りになりたい人は上記キーワードあたりで調べてみてください。

2006.04.04