It's like rain 〜あなたが欲しい〜


It's like rain  外は雨のようね。
雨垂れが軒をつたって音楽を奏でているこんな日は、ピアノを弾くに限る、と私は思う。
外に出られなくて鬱陶しい雨も、こうすれば素敵な伴奏に変わってくれるから。
どんな曲がいいだろう。
ショパンの「雨垂れの前奏曲」にバッハの「G線上のアリア」そしてヘンデルの「なつかしき木陰よ」
あとは、そうだな、サティの「ジムノペディ」も似合うかな。
そういえば、ピアノの発表会はいつも雨だった。

雨が、伴奏をしてくれたのかも、しれない。

◇◆◇◆◇

「つぎは、何を弾こうかなっと」

宮殿の一階の一画には、ピアノのおいてある部屋があった。
裏庭に面したそこはちょっとしたサンルームのようになっていて、南側はガラス張りの大きな入り口があり庭から出入りができる。
外にある木製のテラスが雨にぬれてしっとりとした色合いをみせており、雨垂れの伝うガラス越しに木々の緑やそれら建物の色彩がにじんでまるで抽象画のようである。
アンジェリークは許可をもらって時々ここでピアを弾かせてもらっていた。
―― あんまり上手じゃないから、皆さんにはお聞かせできないけどね。
それでも、彼女はピアノを弾くのが大好きなのだ。ただ、ちょっとだけ残念に思いながら自分の手を見る。
「もうちょっと、手が大きかったらな」
難しい曲も少しは楽になるかもしれないのに。そう思い、ため息をついたその時。
「よう、お嬢ちゃん。ほう?お嬢ちゃんはピアノを弾くのか。ぜひ、一曲お聞かせねがいたいものだな。お嬢ちゃんのそのかわいい指で奏でられる曲はさぞかし愛らしいだろう」
振り向いて、確かめる必要も無い。声の主は明らかすぎるぐらい、明らかだ。
「……オスカー様」
大好きなひとの、突然の登場にすこしドキドキしながらアンジェリークは庭に面した入り口の方に振り返った。
雨に濡れた、燃え立つような紅の髪をぴしゃりとかきあげるそのしぐさに、つい、みとれてしまう。
それに気付いてだろうか
「水のしたたるいい男だろう?」
と言って、彼は軽くウィンクした。
「少しくらいの雨なら遠乗りに行こうと思っていたんだがな、この通りだ。 あきらめて帰ってきたんだが、ガラス越しに見えたピアノを弾いているお嬢ちゃんの姿があんまり麗しかったんでな。つい、華に誘われる蝶のようにここへきてしまったというわけだ。この雨に感謝したいくらいだな」
いつもの社交辞令に、それでもドキッとしてしまう自分がちょっと悔しい。
そして、悔しいと思いつつも、視線は彼の一挙手一投足を見つめてしまっている。
―― 雨に感謝したいのは、私も同じ。
体についた雨の滴を払い落とし、彼は部屋に上がり込む。濡れたマントは側にあった椅子にかけるとオスカーはつかつかと歩み寄ってきて、アンジェリークの隣に立った。
「一曲、弾いてくれないかな?俺のために」
この声で、こんな眼差しで。こんなふうに言われて、いいえ、と言える女性がいるなら教えて欲しい。
しかし、はい、とうなずいたはいいが、あることに思い至り、アンジェリークはおずおずと口をひらく。
「あの、あんまり、上手じゃないですよ……?というより、むしろへたっぴい……」
―― もっと、練習しておけばよかったな
せっかく、大好きな人のためだけに、大好きなピアノを弾く機会が与えられた。彼のことだ、ここできっとどんな演奏を聞かせたって誉めてくれるのはわかっている。
けれど、それがわかっているからこそ、彼女としては本気で誉めてもらいたいのである。
その辺のオトメゴコロを知ってか知らずか。兎も角、オスカーはふっと笑うと、
「お嬢ちゃんが俺ひとりのために弾いてくれる曲は、どんな有名なピアニストよりも俺にとって一番だ」
そんなことを臆面もなく言う。アイスブルーの瞳にまっすぐ見つめられて、アンジェリークはほほが赤くなるのを感じて、ばれないように鍵盤をみつめた。
その鍵盤にのっている自分の、小さい手。
そして、やはりピアノに置かれているオスカーの大きな手。
その手をみくらべて、このくらい大きかったら、1オクターブ半くらい、楽勝だろうなあ。
と考える。
―― そう、この手くらい……え?この手?

「なかなか、大胆だな、お嬢ちゃん」

苦笑まじりの声に彼女は我に返えった。
そう、アンジェリークはオスカーの手をとって、指にまじまじと触れていたのである。
―― きやあああ〜っ!
心の中で、ひとしきり叫んでから、彼女は慌てて弁解をはじめた。
「ごっ、ごめんなさい! あ、あのっ、このくらい大きな手だったら、もう少し、ピアノがひきやすいかなって、思っちゃって、 そうしたら、無意識にふれちゃって、あの、あの、その……」
ぱっと、離した手を万歳のかたちに挙て慌てているアンジェリークに、彼にしては珍しく大笑いをしながら応える。
「俺としては、触れたかったから、触れた、という理由の方が嬉しいんだがな」
アンジェリークは沈没していて返答がない。
「それに、お嬢ちゃんのかわいい手が、野郎のようになってしまう、なんて恐ろしい話しはナシだぜ?」
と続けて、またウインクした。
その言葉にくすりと笑って、沈没から復活を果たしたアンジェリークは気を取り直して言う。

「じゃ、一番得意な曲、弾きますね」

軽やかなワルツが流れ出し、部屋に満ちあふれる。
明るく、陽気なようでいて、どこか甘やかな旋律。
外の雨垂れの音はいつしか掻き消されただ静寂にも似た優しいピアノの音だけが小さな手の指の間から生まれてくる。
そして、最後のフレーズが静かに終わった。
しばしの余韻をのこしてからオスカーが手をたたいて賞賛する。
「どうして、なかなか、へたっぴい、というのは謙遜もいいところだ。このオスカー、心から感動したぜ。ところでこの曲名は?」
心からであろう誉め言葉にアンジェリークはうれしくてしかたがない。
やっぱりこの曲を選んでよかったと思いつつ満面の笑みをうかべてオスカーをみつめて、問われた曲名を思い起こす。
曲名はサティの「Je te veux」。
―― 主星語で言うと……え?……あ。
それに思い当たってはっとする。
深い意味はない。無論、ない。なかったのだが。

「あっ……『あなたが……欲しい』……です」

耳まであかくなりながら答えた曲名。つい、どもってしまった。
―― わ、私ったら、なにどもってるのよ、よけいにはずかしいじゃない!
彼女の頭の中はパニック状態である。
頬が熱くなって、たまらず俯いてしまう。そんな自分を、彼はどんな表情で見ているだろうかと思うだけでも、さらに身の縮む思いである。
からかうような、笑みを浮かべているだろうか。それとも、自分の秘めた気持ちにまで感づいて、困ったような表情をしているだろうか。
俯いたまま、黙ってぐるぐると色々なことを考えていると、低いトーンの声が落ちてきた。

「やっぱり、今日のお嬢ちゃんは大胆だな、だがそういう台詞は」

そこまで聞いて彼女は更に、うなだれる。
―― ああ、はしたないって、おもわれちゃった、かな
顔も上げられずに鍵盤をみつめていると、今度はくつっと、笑い声が聞こえ、ふいに自分の手が、彼の手によって持ち上げられる。つられて顔を上げると、さきほどの笑い声など無かったような、真剣な眼差しがこちらを見ていた。
手が、そのまま引き寄せられて、彼の唇が彼女の指先に触れた。

「俺に言わせて欲しかったな。アンジェリーク……」

雨に滲む窓硝子。重なる影。
ピアノは静かに沈黙して、ただ、雨音がきこえるだけ。

◇◆◇◆◇


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古い作品ゆえのイロイロは、なにとぞ大目にみてやってください。
んでもって、あのあとオスカー様がナニやらかすかは
もう、おすきなよ〜に想像しちゃってください。
2004.08.04 再録に際して