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―― Saide-A.

こんなことなら悪戯心などださなければよかったと、アンジェリーク・リモージュは手にした若葉色の封筒を見つめていた。
きっかけは至極些細なこと。彼の幼い頃はどんなだったのだろうと言った彼女に、クラヴィスの館の執事が悪戯めいた表情をして教えてくれたたのだ。
「お写真なら確か書架の部屋にございましたよ。多くは、ありませんが」
それは、休日に行き違いになってしまった恋人の帰りを待つ彼女にとって、抗い難い誘惑だ。迷いもせず足を踏み入れたその場所で、彼女は問題の封筒を見つけたのだ。
手紙の宛て先と差出人を見たその時は、実はさして気にも留めなかった。ただ少しだけ自分の記憶を掘り起こしながら、かつて彼にこんな色の封筒の恋文を出したろうかと甘い気持ちにすらなっていたのだ。
けれどもいくら思い出しても見つからない心当たりに、そんな甘やかな考えは次第に消え去ってゆく。
彼女はもう一度、宛て先を確認した。

『アンジェリーク』

もしかしたらこれは自分の名であるが、自分の名ではないのかもしれない。
そうひらめいて、注意深く見た筆跡に彼女はやはり心当たりがあった。
自分と同じ名の、先代の女王。自分に女王の座を受け渡し、この地を去った金色の髪の、美しいひと。

―― 何故。

思わず呟いてから、何故も何もない、と彼女は苦笑する。
これまでも幾度か、そうかもしれないという予感を抱いたことがあったのだ。今更彼の、実らなかった過去の想いの証拠を見つけたところで何がどうなるわけでもないではないか。
今、彼がアンジェリークと呼んだとき、それが指し示すのは自分なのだから。
そう考えながらも、胸の奥がちりちりとした痛みを発しているのも感じている。
こんなことなら悪戯心などださなければよかった。彼女は封筒を手にしながら思ったが、後悔先に立たずという言葉を実証したに過ぎなかった。
見なかったことにしよう。たとえ彼女がそう思ったとしても、記憶を消せるわけでもなく、鮮やかな封筒の色は既に心に染み付いている。まるで、その存在を強く主張するかのように。
封筒の封は空いている。
彼女は、その中を確認したい誘惑に駆られる。中を、見たい。読みたい。しかし ―― 。
強く、首を振り、結局は封筒を元の位置へと戻す。
読んだところで、きっとまた、後悔が増すだけに違いないのだから。
理性で決めた行動に、感情がついてゆかず、 恨めしい思いで本棚をみやっていると、部屋の扉がひらいた。
そこには、いつの間にか戻ってきていた、恋人の姿。
瞬間、彼女は何も考えられなくなり、その広い胸に顔をうずめていた。
何故か、心に湧く苦い感情。
過去がどうであれ、今こうして彼の腕に抱かれることができるのはほかならぬ自分自身。ならば、この感情は、優越感であり、罪悪感であるのか。
そう考えたものの、やはり違う気がした。
あの手紙を突きつけて。
そして、『だが今愛しているのはお前だ』と。言わせてしまうのはおそらく簡単なことだ。けれども、過去に於いて、自分は彼女に永遠に敵うわけもないではないか。
その時、ふと気づいた。
あの手紙をあの場所に隠したのは、彼ではなく彼女ではないのか(・・・・・・・・)
彼女もまた、痛いほどに感じていたのか。
この地を去る未来に於いて、己が金の巻き毛の少女に敵わないということを。
不思議な感情が、心を満たした。それは先ほど思っていた、優越感や罪悪感などではありえなかった。
その気持ちのまま、彼女は思いっきり背伸びをして、何か問いたげな彼の唇をそっと塞いだ。
たぶん、今後自分はあの手紙について彼に問うこともなければ、封筒の中を読むこともしないだろう。それでいい。そのために、あの封筒はそこにある。

「どうか、幸せに」

恋人に聞こえぬよう、小さく、けれども真摯に呟いた。
かつてこの恋敵(ライバル)の目の前で、彼女とは同じようでいて違う道を ―― 見せ付けるかのごとく ―― 選択した自分。 その自分がこう言うのは傲慢だろうかと思わないでもなかったが、心からの思いでもあった。
しばしの抱擁のあと、彼は彼女の顔を覗き込んだ。
「待たせた、な」
そして、この部屋には探しものかと問う。
彼女はいいえ、と首を振る。
「謝ったりしないで。いきなり来た私が悪いんだもの。それに、もう用は済んでしまったの」
言って部屋を後にする彼女を追いながら、彼は少し怪訝そうな顔をする。
アンジェリークは屈託なく笑い、肩越しに振り向くともう一度言った。

「もう、用事はすんだのよ」

◇◆◇◆◇


Another,saide-A.


便箋を丁寧に折りたたみ、若葉色の封筒へ入れる。
封はしない。封筒の表書きはかつて愛した人の名を、そして裏には己の名を。
たった一言。

『アンジェリーク』

この手紙を彼が見つけたならどうするだろう。驚くだろうか、それとも相変わらずの無表情で口の端だけあげて笑うか、あるいは不機嫌そうに眉の根を寄せるか。
そもそも、これを彼が見つける確証などないというのに想像して、なぜか笑みが漏れた。でもその笑みはどこか投げやりだ。
見つけようと、見つけまいと。或いは笑おうと、怒ろうと。どちらであろうと関係もなければ、どうでもよかった。何故なら、自分はその結末を見ることは無いのだから。
封筒を本棚の奥へ隠そうとして伸ばした手をいったん止める。確認することなど無いはずなのに心がざわざわと落ち着かなく、彼女はもう一回封筒から便箋を取り出し折り目を開いた。 そこには墨の染みひとつない、うつろな空間が広がるばかりだ。
手紙には何も書かれていないのである。
はじめから狙っていたわけではない。いざ便箋を前に筆を握ると何一つ言葉が浮かんでこなかっただけのだ。いや、正しくは思わせぶりにもならず嫌味にもならず、ただ純粋に単純に、今の己の気持ちを表現する方法が見つからなかったと言ったほうがいいのか。
結局何も書かぬまま封筒を手にして彼女はここにいる。
伝える言葉がないのであれば、ここにこうしている意味も無いと、彼女とて思わなかったわけではない。けれども中の文面そのものよりも、自分から彼に宛てた手紙を忍ばせる行為にこそ意味があるような気もしていた。
先ほどはあえて彼が見つけるさまを想像していたが、心の奥で、これを見つけるのはあの娘にちがいない。そう、半ば確信している。

これは悪意なのだろうか。

アンジェリークは自問する。おそらく是であり、否である。
ふたりを憎んだわけではない。ただこのまま忘れ去られるのが辛いような気がしていた。だから、これは時を経て動き始める棘の罠。己と、そして己の恋敵(ライバル)に対して仕組んだ棘なのだ。
自分自身も苦い思いをするとわかっていながら、仕組まずにはいられなかった諸刃の剣。棘のある蔓で罠を仕掛けようとすれば、罠を仕掛けた者自身も無傷ではいられない。今こうして、ちりちりとした胸の痛みと明らかな躊躇いを感じていることこそがその証だ。

その反面、もしかしたら信じているのかもしれなかった。
女王としての責務も自分の恋も決して手放しはしない、と言い切った己と同じ名の娘。
彼らの絆は、たかだか女王と守護聖という立場によって失われてしまったかつての自分のそれよりも、もっと強いはずであるということを。
だから、思わせぶりな封筒ひとつで、何変わるものでもないだろうということを。

ようやく意を決して棚の手前の本に手を掛た。しかし意外な重さに取り落とし、慌ててかがんだその時に。彼女が見つけてしまったものがある。落ちた衝撃で本の合間から滑り出た、青い菫の押し花でつくられた栞だった。
ひと目で気づいた。それはかつて女王候補だった自分が彼にあげたことのある思い出の花なのだ。

―― 何故。

悲しみとも感嘆ともつかぬ声を上げてから、それ以上は喉を詰まらせる。まっさらな便箋を前にしたとき同様、言葉が見つからなかった。忘れられたわけではないからこそ、密かにここに置かれていたのか。それとも、忘れ去られたからこそ、ここにあったのか。
答えはわからない。わからないがが、今までとは違った感情が胸の奥に湧いてくるのを彼女は感じた。
このまま何もせず去るべきか。彼女は一旦考えたが、すぐに思い直すと当初の予定通り本棚の奥に封筒を隠した。いったん瞳を閉じて、そしてゆっくりと開く。 この手紙が呪いとなるか祝福となるか。
それは時を越えて現れた花の栞と同じように、きっと見つけた人の心次第なのだ。その結末を彼女には知りようもないが、二度とまみえることもなければこそ信じていればそれが彼女にとっての真実となる。

「どうか、幸せに」

そして、どうか貴女の想いの強さを私に見せて欲しい。
元通り何事も無かったかのような本棚を前にして彼女が小さく呟いたとき、扉を叩く音がした。
「お待たせして申し訳ありません。お茶が入りましたのでどうぞ、居間でお待ちください」
珍しく外出したまま戻らない館の主に代わって、執事が申し訳なさそうに頭を下げた。
アンジェリークは首を振りながら、こっそりと栞を懐に忍ばせた。
「謝ったりしないで。いきなり来た私が悪いんだもの。それに、もう用は済んでしまったの」
もうよろしいのですか、と慌てる執事の横をすり抜け、彼女は玄関へと向かう。一旦足をとめて、肩越しに振り向くと晴れやかに笑って言った。

「もう、用事はすんだのよ」


―― 終


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2006年に開催されたアンジェ阿弥陀に出品した作品です。って過去形で書いてますけど、出品と同時に掲載しちゃうつもりなんですが。
お題は「二人はライバル」でした。そのお題からは当初下品ギャグしか浮かばなくってさー。
たとえばトイレで。偶然一緒になってさ。
互いのサイズが気になって仕方がないレオとフラとか。
もうね、しょーもないのばっかだったのよ。で、はじめの目標どおりシリアスでまとめてみました。
いつものように…一般ウケするかどうかはともかく、私らしい作品に仕上がったと思います。

2006.04.09