鼻と靴底と手袋と(最終話)

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【最終話】鼻ペチャの効能


思いっきり泣いて落ち着くと、猛烈に恥ずかしくなった。
ごまかすために、眠くなったと言って横になる。それでもなんだか気まずくて、いい年をした男がまるで子供みたいに情けなかったな、と、ぼそぼそと言い訳してみた。

呟きに応じるように、優しい声が聞こえてきた。
彼女が、私の頭をなぜながら、話をしているのだ。

子供と大人の違いって何やろな?
大人になったら、知らんことみんなわかる、思っとった。
理不尽な色んなこと、解決できると思っとった。
せやけど、そないなことなかったわ。
理不尽なことは相変わらず理不尽やし、全てがうまくいく方法なん、見つけられへんかった。
十二の頃よりはあきらめが良うなったり、そういうものやって割り切るの、上手うなったけどな。
なんや、世知辛う聞こえるやろか。でも悪う思わんといて。
小っちゃな頃は、将来はなんでもアリやったやん?
まあ、家業継がなあかんとか、夢を叶えるんにはそもそも適性がないやろ、とかそういう制約あったりはするけど、そんでも。
何千何万の可能性を抱えて、たいした根拠もあらへんのに、その全部が叶うんやー思っとって。
だから、訳もなく大人ってすごいんや思っとって。
せやけど、ちゃうやろ。叶うんは、ひとつだけ。
叶う可能性は秘めてんのやで?でも、選べる道は、一つだけやろ。
せやから思うんよ、大人になるってな。 ぎょうさんある可能性の中から、ひとつひとつ選んでいくだけのこと。色んなこと知って、全部は抱えていけへんって、気付いていくだけのこと。
そりゃ私かて、はまだまだ若造の序の口で、このさき十年、二十年と生きとるうち、感慨も違うてくるもんかもしれへんけど。
まあ、とにかくな、そんな感じでな、この歳になっても根っこの部分は、あんまり変わってへん気がするんよ。
実際、たいして変わらへんよ。私も、あんたも。
どろんこになって遊んだあのがきんちょの頃と、変わらへん。
だからこそ、な。
大人も子供も、人として知らなあかん本当に大切なこと、ある程度決まってるんやないのか、って思うんよ。
マコやん、さっき『僕のために、憎んでしまうのはだめだ』言うたやろ。
だからマコやん、きっとな。
きっと、あんたはとうの昔から、一番大切なことを知っている人なはずや。
せやから、あんたはそのままで、ええんやで。


額に、暖かく柔らかな感触が落ちた。
花の香りをかいだように思う。
まとわりつくような甘い匂いではなく、爽やかで独特の野性味を帯びた、真珠(マルガリーテス)という意味の名を持つ花の香だった。

◇◆◇◆◇

照れ隠しのために寝るふりをしていたのに、どうやら私は本気で寝付いてしまったらしい。目が覚めると、彼女は部屋にいなかった。外はまだ暗い。時計を見れば、二時間と経っていないようだった。
ちょっとした寂しさと、彼女がいたところでどんな顔をしていいかわからない気まずさゆえの安堵が同時にやってきた。ふと横を見ると、サイドボードに手袋がきとんと揃えて置かれていた。気を遣ってくれたのだろう。
この時、さっきまではまったく耳に入っていなかった潮騒に気がついた。
外に出たい。
説明のつかぬ衝動のまま、私は起きあがる。
いつもの癖でサイドボードの手袋をはめようとして、私は首を振った。私はあの海の水に、直接触れてみたいのだ。
結局そのまま起き出して、私は靴さえ履かずに部屋を出た。

木製の露台から続くやはり木製の階段(きざはし)を降り、砂を踏む。
月が出ていた。
青い月光が、海を一層青く染めている。
白い砂浜を踏み渡り歩いてゆくと、ふっと砂の感触が変わり、濡れた砂が心地よく足に触れたのがわかった。
立ち止まりしばらく待つと、寄せてきた波が私の足に回り込み、周囲の砂を連れて去っていく。追うように、一歩、前へ出る。もう、一歩。
月影を透かす美しい水に、たまらず手を差し入れて掬ってみる。
ひんやりと、心地よい。
不思議だった。
ずっと心の中でくすぶっていた黒い熱が、涼やかに浄化されてゆくような気持ちがした。
私は佇み、長いこと波に濡れるに任せていた。
すると
「マコやん」
潮騒の合間、私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、マギーが少しだけ心配そうな表情で立っていた。私は彼女を安心させるため、大丈夫だという意味を込めて、頷いて見せた。
そばに歩んできて彼女が言う。
「眠っている間ずっと、横にいようかと思ってたのだけど、どうしても気になって」
なんと、白亜宮までひとっ走りして白蓮峰の女王に面会を申し込んだらしい。彼女の言葉を借りるなら「ヤクザな植物垂れ流ししよってからに、管理責任どないなっとるん?」と。
「本当か?」
「ひとっ走りはただの比喩」
いや、そこではなくて、と思いながらも、そうか、と流すと、彼女が眉をあげる。
「そこ、ツッコミ入れるところやで」
「え、え?」
彼女がくすくすと笑う。
やられた。
少々憮然としながらも、話を先に進める。
「会えたのか」
「ウォンの名前を出したら、わりと、あっさり」
そういう、ものなのだろうかと思ったが、あとは彼女の語るに任せた。
曰わく、白蓮峰特産の件の花は、白蓮峰の惑星内であっても、特殊な石を土に埋め込んだ状態でなければ習慣性を持つ成分を含んでは育たない植物であったこと。
曰わく、前年の内乱で、既にその石は失われたこと。
曰わく、それ故に同じ種の植物は育っても、今度二度と、あの甘い香りは放たないということ。
沈黙が落ちて、潮騒が、ふたたび耳に入るようになる。
だからどう、とも言わずに、事実だけを伝える手段をとるのが、とても彼女らしいと思った。先ほどバナナを半分食べて見せたときと同じように。彼女は理論を以て、私を安心させようとしているのだろう。
「でもね、失われた、っていう言い方が中途半端だから、ちょっと強く追求してみたの。少しの沈黙の後、こういう返事がきたわ。『石は、行くべきところへ行った』って。そして、私の顔を見て、笑うのよ」
何故だろう。この時、何かが。

―― あんな、色々問題あったけど、もうヘンなこと起きひん、クリーンな国やで。
   国継いだ姫さんも別嬪やし。

「ねえ、さっき、兄貴には話してないって言ったけど」
彼女は、そこで口を噤んだ。
きっと、同じ事を考えている。彼は、知っていたのかもしれない、と。
ふと、別れ際交わした言葉を思い出す。
―― あんときのこと、かんにんな。マコやん
それは十二歳の果たせなかった約束についての謝罪だと、ずっと思っていたが、まさか。
だが、冷静に考えればチャールズが謝る必要はないのだから、考えすぎかもしれなかった。
今となっては確かめる手立てもない。
どちらでもいい。どちらでも、自分たちの絆は、きっと変わらない。もっともこんな事を言えば、きっと彼は嫌がって喚くに違いないが。
一人苦笑してから、変わらずにいてくれるもう一人の幼馴染みを見た。
「正直、少年との冒険で色々と吹っ切れたと思っていたよ。だから、油断した」
油断して、彼女の前で、ずいぶんな醜態をさらした。
けれどもマギーは優しく微笑んでくれる。
「昔から、いじっぱりだったけど、年下には優しかったわ。あなた、あの子の前でちょっぴり頑張っちゃったのよ。覚えてない?よくバカ兄貴にウチの弟の面倒押しつけられてたじゃない。"ひどいよ、チャールズ"とか言いながら、結局弟の面倒はきちんと見てくれてた。その頃と、同じね。あなたの心が、十二歳の少年だったのか、二十五の男だったのかわからないけれど、どちらにしろ七歳の子供よりは年上だわ」
寄せてくる波をつま先で軽く蹴り上げながら、でもね、と彼女は続ける。
「でも私は、あなたと同い年の幼馴染みよ。気張る必要も、気遣う必要もない。弱みを見せても、嫌いになったりなんかしないから、安心して」
彼女の気持ちが、泣きたくなるほど嬉しかった。ところが。
「これ以上嫌いになることはない、の間違いではないのか?」
条件反射で返した私に、彼女は片方の眉をぴくりと上げる。
ああ、まただ。
また私は、彼女を怒らせるような事を言ってしまったらしい。この期に及んで。
正直、困り果てて、私はこの時ずいぶんと情けない顔をしていたと思う。
すると、彼女はぷっと吹き出した。
「あなたの"そういうところ"嫌いって言ったのはね」
彼女が側に寄って、くいっと顔を近づけてくる。裸足の私と、少し踵のあるリゾートサンダルを履いた彼女では、身長差がほとんどない。彼女のヘイゼルの瞳は目の前だ。
「本当は寂しがりやの小心者の癖に意地っ張りで、実際に思ったこととは反対のこと口に出してしまうバカなところ」
反論、できない。
マギーはふいっと私から離れ、またつま先で波を蹴っている。
「兄貴が向うへ行ってしまうとき、あなたメールしたんだって?『去り行く君に、僕は泣いたりしない。健闘を祈ったりもしない。ましてや十年ぶりに自分の部屋を出て、会いに行きたいなんて思いもしないね』」
確かに。あれは、私の精一杯の強がりだった。
「バカねえ。本当は泣きたかったんでしょ。ほんと、バカねぇ」
彼女もちょっとだけ泣きそうな顔をしながら、バカねぇ、と繰り返す。
散々バカといわれながらも、うわべでない自分の愚かな部分を、彼女が知っていてくれたことが、嬉しくもあった。
「でもそのバカなところが ―― 放っておけないと思うてしまうんよね。私もアホやわ」
―― 女の人の"嫌い"はアテにならないって
なるほど、本当のようだ。勉強になった。
彼女が思い出したようにふふふ、と笑う。
「バカ兄貴が、行ってしまう前にね、こんなこと言ったのよ。"マコやんに貰ってもらい"って。小さい頃なら、"そんなん、いややー"言うたけど」
「…… けど?」
冷静を装いながらも、すさまじい勢いで心臓が脈打っている。十二歳の時に、どう解答して良いかわからなかった、永遠の命題。私は今回はきちんと答えることができるだろうか?
だが、彼女はその先は言わず、ただ微笑んでいる。
潮騒が聞こえる。足許を、幾度も波が行き来する。
夜の海の上にかかる月はまるで真珠のようだ。 けれども私は、これよりも美しい真珠(マルガリーテス)を知っている。
目の前に立ち微笑むその人がどうしようもなく愛おしいと思ったとき。
知らず、その頬に、触れていた。
青い海に濡れた、そのままの掌で。
顔の輪郭をなぞり包み込むように、耳に触れ、髪に触れて、そのまま引き寄せて、唇を重ねる。
潮騒の合間、何度も確認するように触れるだけのくちづけを交わしながら、なにも言わないという解が大人の世界には存在していることを、私は知った。

幾度ものくちづけと、長い抱擁のあと、彼女がいたずらっぽく言う。
「私、大人になって身長差は15cmもいらないって気付いたわ」
「それは?」
「だって、キスがしやすいもの」
再び唇を近づけて、さっきよりも深くくちづけを交わしながら。
鼻もあまり高くないほうがキスがしやすいと言いそうになったが、足を踏まれると困るので、黙っておくことにした。

そして。
もう言葉はいらないことを十分に知りつつも、私は次の命題をうっかり見つけてしまっている。
いつか”君の作った朝食が食べたい”という台詞を言うことができたなら、彼女は喜んでくれるだろうか、という。
非常な難問である。


―― 終

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2009/03/23 佳月 Image byLa Moon