百万回のくちづけを


◇◆◇◆◇

それは聖地のとある休日のこと。
恋人であるクラヴィスの館に遊びに来ていた補佐官、アンジェリーク・リモージュはふとその庭に咲いている淡い紫の花に気付く。
優しい風に吹かれて、微笑むようにゆれているその花に彼女は見覚えがあった。
それはかつて女王候補だった時に彼女が育てた大陸で咲いた花である。
その色が、密かに想いを寄せていたこの闇の守護聖の瞳の色をあまりに思い起こさせて。
大陸の植物を勝手に持ち帰るのはいけないと知りつつも、結局花束にして彼に差し出した、想い出の花だ。
そして、それにまつわる想い出はそれだけではない。

彼女は今でもはっきりと脳裏に描くことができる。
花束を持っていきなり姿を見せた自分に、微かな痛みを感じたようなクラヴィスの表情を。
そして、その表情に来てはいけなかったろうかと考えた自分を前に、どこか諦めたかのような態度で一旦天を仰いでから。
そう、天を仰いでから己に向けられた ―― その笑顔を。
時折垣間見せる優しげな表情や、口の端を上げただけの笑みならばそれまでにも幾度か見たことはあった。
だけれども、その時の彼の笑顔は、今まで見たどんな彼の表情よりもアンジェリークの心を揺さぶった。
その時まで恋心や思慕、そんな言葉で表現した方が似合っていたクラヴィスへの想いが。
別なものへと変化したのもその時だったように思う。

愛しいと。

ひどくこの人が愛おしいと、彼女は感じたのだ。
どこか見上げるような憧憬ではなく、目の前にいる一人の男性をともすれば抱きしめたいと思ってしまうような、そんな心持ちがした。
だから、やさしく頬に触れられて。
これからも共に自分とあって欲しいと、そう望まれて。
喜びで震えるような心を抱えて、涙さえ零しそうになりながら、長身のその人を見上げて精一杯微笑んだ。
そして。

―― 喜んで。

そう言ったつもりであったけれど、その言葉は優しくも熱いくちづけにかき消されてしまった。

その時の想い出の花が、いまそこにゆれている。
大陸から取り寄せて庭へ植えたのは、許可を取ってのものなのか、はたまた勝手にしたものか。
どちらにしろ、あまり彼らしくないその仕業に、嬉しいやらくすぐったいやらで、アンジェリークは思わず笑みを零す。
何を一人で笑っているのか、と。
恋人にそう問われて彼女は問い返した。

「ねえ、はじめてキスしたときのことを覚えてる?」

クラヴィスはわずかに片方の眉をあげてから、今まで彼女が見ていた庭を見やる。
そして花に目を止めてから、口の端をわずかに上げるいつもの笑みでこう言った。

「さて、な」

そっけない返答にアンジェリークは少し不機嫌になる。
このあまり愛想はないけれど実はとっても情熱的な恋人が、あの時のくちづけを忘れてしまったと思っているわけではない。
ましてや、彼はあの花を庭に植え、そして今、見やったのであれば尚更だ。
けれども彼はまるっきり興味がないとばかりの態度で、そればかりか大切なその記憶に、思わずくすぐったく甘い気持ちになっていたアンジェリークをからかっているようですらあり。
ちょっと悔しくなって彼女は軽くクラヴィスをねめつけた。
クラヴィスはといえば、感情の面に出やすいアンジェリークをみやってくつくつと笑っている。
彼の返答に彼女がどんな反応をするかなどお見通とばかりの態度だ。
さらにはむくれたままの彼女を、クラヴィスになかば強引に引き寄せる。
その耳元に囁かれる声。

「…… 覚えておく必要など …… ない」

何故、と反論しようとして面を上げたアンジェリークのくちびるを彼は塞ぐ。
あまく、やさしく。
くちびるでその柔らかなくちびるをなぞり、時についばむように、時に舌で味わうように。
くちづけのあいま、零れる吐息のなかで、さらにこう囁く。

―― おまえの唇の感触を、覚えておく必要などない。思い起こしたいと望んだその時は、こうして

そこまで言って、クラヴィスはアンジェリークのくちびるを深く吸った。
「こうして、いつでも …… おまえ自身で確かめる」

うっとりと、アンジェリークは彼の胸にもたれかかり、それでも少し反論する。
「でもきっと、私は覚えてるわ」
くつくつと、笑う声が聞こえた。
そして髪飾りを外されて、以前よりだいぶ伸びた金色の髪が、己の頬にさらりとかかったのを感じる。
「確かにはじめの一度ならば、覚えておくこともできようが …… 」
言いながら、彼の指は髪を撫ぜ、首筋を這い、服の上から彼女の体をなぞる。
アンジェリークの体の反応を楽しむように、ふたたび彼女の顎に手をかけて上を向かせると幾度もくちづけた。

「こののち、幾千と重なるそのたびに、覚えておくことはおまえとてできまい」

降参、とでも言うように、彼女はクラヴィスの頭を抱き寄せて、己からもくちづけを返す。
「そうね、思い出すよりも実際に感じたほうが確かに素敵だわ」
同意を得られて嬉しかったのであろうか。
ならば、と、 微かに笑んでクラヴィスは彼女の服を脱がしにかかる。
「ちょ、ちょっと、まだ明るい ―― 」
慌てたアンジェリークをクラヴィスはそれがどうした、とばかりにソファーへ押し倒す。

「幾千と重なるは …… 唇だけではあるまい?」

―― ああ、もう、敵わないんだから。
諦め半分、呆れ半分アンジェリークは呟いてからそのひとの額にかかる黒髪を愛おしそうにかきやった。

幾千もの夜をともにして、百万回のくちづけを交わすから。
その一つ一つを覚えておくことはできない。
でもだからこそ、望めばいつだってこの愛しい人は傍らにいる。
でもやっぱり。

与えられる愛撫に恍惚となりながらもアンジェリークはぼんやりと考えた。

はじめてのくちづけは、きっと忘れないだろうな。

と。


―― 終




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どうだ、甘かろう!!!ってくらい甘いです。頑張ってみました。
でも、ほんのり夜風味のつもりが、昼風味になってしまいました。<なんか、意味違うし。
この物語を、若葉さんに捧げますv

ところでこのお話、実はシリーズになるなあ、と思ってます。
「はじめてキスしたときのことを覚えてる?」
っていう質問に、それぞれがどう答えるか、というお題。
題して「はじめてのちゅーシリーズ」<アホ
ネタとしては、ティムカと、船長さん、あとルヴァ様かジュリ様で使えそうなストックが(笑)

2005.02.16 佳月拝